つれづれなお話松戸行脚

金山神社と清水講-金山神社を支えた人々

金山神社本殿 松戸行脚
金山神社本殿 2021年12月撮影
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金山神社と清水講

二の参道の鳥居

二の参道の鳥居
2007年5月撮影

2008年に松戸行脚のコーナーで”金山神社と清水講-金山神社を支えた人々”を発表しました。その後、表の家のプラットフォームを変えたことから、一旦お蔵入りになり、かれこれ10年以上経ってしまいました。ただ、その後松戸史談では、”根本清水講の開講年代について”と、”清水講を伝承した商店について”の二つの投稿に分けて、小さくまとめて投稿しました。

ただ、当時は制限されたページ数で書きましたので、書きたいことが十分表現されていませんでした。そこで、2021年再度表の家の刷新を行った事から、過去の投稿を全面的に見直し、再発表する事にしました。

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金山神社を知る為に

金山神社の祭神:金山比古命

金山神社拝殿

金山神社拝殿
2008年3月撮影

松戸市根本の金山神社の祭神は松下邦夫先生の`松戸の歴史案内`、三浦家吉先生の`滅びゆく富士講と富士塚`に、金山比古命と一神のみ書かれている。他にも探しているが、細かい記述が見あたらない。ただ、日本全国一般的に金山神社と言えば、神話に出てくる金山毘古神(金山彦神又は金山比古神)や金山毘売神(又は金山姫神)の両神が祭神と言われるケースが多いように思う。

つまり、金山神社の由来を、イザナミノミコト火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生み,病にふしたときの嘔吐(おうと)物から金山毘古神(金山彦神又は金山比古神)と金山毘売神(又は金山姫神)が生まれた。金山毘古神(鉱山の男神)、金山比売神(鉱山の女神)は鉱業の神様とされ、鉱石を掘る者、剣や鏡、鋤、鍬などを製作するもの達の祖となる。

イザナギノミコト、イザナミノミコト

イザナギノミコト、イザナミノミコト
イラスト屋さんのイラスト https://www.irasutoya.com/

金山神社の総本山は岐阜の南宮大社

岐阜県の南宮山の山麓に位置する南宮大社は、全国の鉱山・金属業の総本宮となっている。創建は崇神天皇ということになっていて、崇神天皇は紀元前97-30年の間の天皇陛下なので、その間に建てられたという事になる。

南宮大社 - Wikipedia

金屋子神(かなやこのかみ)

又、鍛冶職や鉱山関係者によって祀られる神に、金屋子神(かなやこのかみ)があります。ただし、この金屋子神(かなやこのかみ)は『古事記』『日本書紀』には記述がありません。この金屋子神の由来はいくつかあるようです。

「鉄山秘書・金屋子祭文」によれば、金屋子神、金山彦神(=金山毘古神)、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の三神同一神とされています。

「金屋子縁起抄」によれば金屋子神は金山彦命(=金山毘古神)、金山媛命(=金山毘売神)を両親とする子神だとされています。

404 Error - Not Found

金屋子神はタタラ、つまり製鉄所に祀られる。これらは各地方で呼び方などが微妙に異なり、断言は難しいですが大凡何の神かという事は分かる。金山神社を`かなまら`つまり`かな`は金物`まら`は男性器と考え祀るお祭りも地方によってはある。

金山比古命(=金山毘古神)のお話から横道にそれましたが、やはり根本の金山神社は鉱山、刀、金物、鍛冶の全て或いは何れかの神様だと考えるのが妥当ではなかろうかと思っています。

松戸市根本金山神社のアプローチ

大きな画面で見たい方は、フルスクリーン表示をクリックお願いします。

金山神社へのアプローチは北西の方向から二つあります。一つ目はセブンイレブン根本店前の参道(これは言ってみれば表参道ですが、ここでは一の参道であると呼びます)、二つ目は参道の少し北側に虚空窯陶芸教室がありますが、その横の細道です(これは言ってみれば脇参道ですが、ここでは二の参道であると呼びます)。

私が子供だった頃は一の参道には無人踏切があって、行き来が出来ました。複々線化の為境内は狭くなってしまいましたが、以前はもっと広かった。二の参道ははかつて、岩瀬方面まで繋がっていた旧道で丸果市場があった頃は、出荷する人達、仲買い人などのメインの通り道になっていました。ここにも無人踏切がありましたが、複々線化の時に完全に閉鎖され行き来が出来なくなりました。

松戸市根本金山神社の鳥居

二の参道の鳥居

二の参道の鳥居
2007年5月撮影

一の参道には以前鳥居がありましたが、現在は無くなってます。境内に入り、神輿倉前辺り、北西方向から本殿に向かう階段がありますが、その上がり端に鳥居の笠木、島木の破片が残されていますので、多分それが、一の参道の旧水戸街道にあった鳥居ではないかと思います。後者の脇道側から境内に入る鳥居は残っています。

この二の参道の鳥居を見ますと、一見して明神鳥居なのですが、柱と島木との繋ぎを見ますと丸い輪があり、これは台輪鳥居の特徴です。笠木、島木の両端は襷墨(たすきずみ)があり、斜めになっている。笠木・島木の両端は反り増しがあり、反っています。柱には転びがあり斜めに立っている。台輪鳥居は別名稲荷鳥居と呼ばれ、多くの稲荷神社に置かれる典型的な鳥居と考えられます。

ただ、台輪鳥居として、異なる部分があって、通常は貫(ぬき)にくさびが打ち込まれているのですが、金山神社の鳥居にはくさびがない。ここが良くわからない部分です。又、金山様には稲荷神社は無い。稲荷の祠も無い。妙見様の祠はありますが・・・ここが疑問でありまだ仮説を立てられないでいる点です。松戸にある稲荷神社との違いをここに書きますと長くなりますので、また改めて投稿します。

金山神社の例大祭の日

神輿

金山様祭礼のお神輿
2015年撮影

不思議に感じるのは根本の金山神社の例大祭は元々10月14,15日と決まっていましたが(ただし現在は第三週の土日だったか?)、他の地方の金山神社で行われる`ふいご祭り`は旧暦の11月8日が一般的。旧暦の11月8日と言えば新暦では12月に入ってしまう。10月と12月では大きな違いだ。
元々は旧暦で行っていたのが、いつか変化していったのかどうか?というところに興味を感じる。

”かじさが”と鍛冶屋?

かじさが

かじさが
2021年12月撮影

同時に鍛冶屋の様な商売が金山神社付近でどの程度あったのか?渡辺幸三郎先生の`昭和の松戸誌`の昭和8年の水戸街道沿い絵図では竹ヶ花の踏切付近に染谷鍛冶屋があった程度で他には見当たらない。ただ、栄松寺横の風早神社方面まで登る坂を我が曾祖母は”かじさが”と称した。当時の松戸では坂の発音を”さか”ではなく、何故か”さが”と濁ったようだ。渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌でも同じ様な事が書かれていた。

何故、あの坂が”かじさが”なのか?もしかすると鍛冶屋が多いエリアだったからなのか?鍛冶屋と”かじさが”?現在はその痕跡が無いので、分からないが、この件上本郷にある時宗”本福寺”の佐藤住職と雑談した事があった。佐藤住職としては、御神木にもなるカジノキがあったのではないか・・・とのご意見だった。何か、情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご一報下さいませ。

古代の鋳鉄遺跡

松戸市役所本館

松戸市史上巻口絵より
松戸市役所本館

(上写真は松戸市史上巻口絵より:手前の台地のビルが市役所本館、左斜め前の森が削られた金山神社、右側中央が昔の保健所、上から左へ直線で走っているのは常磐線、左下から右へカーブを描いているのが新京成電鉄、上から右にカーブを描いているのが市道)

金山神社を鍛冶の神様他と見る何らかの資料は無いのか?と調べてみたら、`関東の民間信仰`(昭和48年発行、共同著書になっているが千葉県の著者は村崎勇氏)にこんな記述を見つけた。

「・・・前半略・・・現在の市役所の本庁舎が建設されるとき、その地盤の調査にあたって、露出した地層を見たら、凝塊砂鉄岩であった。さらにその中央から炭の塊と思われるものを発見した。これは古代の鋳鉄遺跡と認定したが、そのまま庁舎の建築が進んで不明になった。しかし金山神社とこの凝塊砂鉄岩とは深い関係にあるものと考えることができた」

鋳鉄

H KılıçによるPixabayからの画像

金山神社があった山で凝塊砂鉄岩、炭の塊が発見され鉱山又鋳鉄場であった証拠、事実があるらしい。松戸市役所本館を建てた当時は時代が時代だけに、市はこのような遺跡に興味を示さなかったのかもしれない(現在どうなのかは私は知るよしも無い)。それにしても、これほどの考古学的第一級資料を無残にも消し去ってしまった当時の関係者の姿勢を憂うのであります。

実際、金山神社は市役所や新京成電鉄の切り通しが出来るまでは岩山稲荷、神明神社までの一体の山に鎮座していたわけで、市役所本館の下に鋳鉄遺跡があってもおかしくない。是非今からでも遅くないので、掘れる所を掘ってみると何らかの事実が現れるかもしれない。又、市役所の本館工事の資料があればベターだが、もし無かったとしても新館や議会棟の工事の際は何らかの記録が残っているのではないだろうか?是非調べて欲しいと思う。

又、松下邦夫先生の`松戸の歴史案内`には金山神社と根本城との関係、金山稲荷の棟札について言及している部分があるがここでは割愛したい。ご興味のある方は松戸市立図書館にあるので読んでいただきたい。

金山神社の頂上から北側のエリア

腰曲輪

腰曲輪
2015年撮影

この北側のエリアは根本城があった頃の腰曲輪跡と言われている場所ですが、これについてはいずれ、書いてみたいと思います。

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富士信仰と清水講

富士山の黒ぼく石

富士山の黒ぼく石

富士山の黒ぼく石
2021年12月撮影

金山神社の西側斜面は富士山の溶岩石である黒ぼく石を積んで、覆われている。富士信仰の石碑・祠のある神社の多くはこの黒ボク石で覆われた富士塚があるか、或いは階段まわりに点景的に配置されている事が多い。松戸では、すぐ近くの岩山稲荷、松戸神社、小山浅間神社、竹ヶ花雷電神社がそれにあたる。

黒ボク石と階段

金山神社の黒ボク石と階段
2007年撮影

上の写真は二の参道にある鳥居付近にある階段である。黒ボク石でデザインされている。ただし、現在は、富士山におけるこの黒ボク石の採取は禁止されているそうです。

山笠に丸清水

山笠に丸清水

山笠に丸清水
2006年5月撮影

階段、頂上等至る所に清水講の登拝記念碑が見られる。これらの特徴はごく古い物は除き、写真の山笠印に丸清水マークが付いている。
清水講の記念碑に開講年代が書かれているが、これに関しては私の調査があり、記念碑の説明による元治2年より、さらに24年前に清水講があったという説明をしていますので、御覧ください。

金山神社で最も古い富士講関連石碑

大正元年の富士登拝記念碑

大正元年の富士登拝記念碑
2006年撮影

金山神社において、写真の登拝記記念碑が最も古く大正元年である。

金山神社の根本清水講の開講は幕末となっている様だが、登拝記念碑は開講当初から造立していなかった事が分かる。幕末や明治時代は登拝記念が一切発見できない。大正元年造立が最古の清水講の記念碑として登場する。その後数年分を一度に記念碑にしたものも含めて、大正時代は大正11年を除き、ほぼ毎年登山が行われていた事が分かる。

その後、昭和に入りぷっつりと登拝記念碑が見られなくなる。昭和5年~昭和31年までは一切記念碑が建てられていない。戦争の時代になってからなら分かるが、何故昭和の初期は記念碑が少ないのか不思議でならない。ところが`もはや戦後ではない`と言われた昭和31年から造立が再開し、殆ど毎年登山していた事が分かる。

この流れが、バブル景気の頃1986年(昭和61)を最後に後は細々となる。そして1993年(平成5)を最後に登山記念碑が一切見られなくなった。

本殿と清水講(富士信仰)の扱い

富士嶽浅間大神

富士嶽浅間大神
2008年撮影

金山神社に訪れ先ず違和感を感じるのは、本殿と富士講の扱いだと思う。本殿が山の中腹に置かれ、富士嶽浅間大神を刻んだ石碑の方が頂上に置かれ、まるで富士嶽浅間大神の為にある山の様に見える。同時に階段沿いに黒ぼく石と呼ばれる富士山の溶岩石、清水講の記念石碑、清水講の手摺柱などで覆い尽くされている。

文献によれば黒ぼく石は昭和8年、昭和31年に運び込まれて整備されたとの事。

清水講開講年代について

清水講記念碑

金山神社の清水講記念碑
2008年5月撮影

頂上の記念碑には下記のように書かれている。

「今を距る70余年当区関口了佐氏、講元と為り冨士浅間神社参拝講社を設立して清水講と名づけ金山神社の神域に其分社を祀る。大正十三年以来講元及び、先達幹事同氏の意を招き、専心講社の発展を図り僅少の講金利子の貯蓄し以て神域を荘厳にして慈に記念碑を建つ。是れ敬神の念を敦くし神威を顕揚せしむる所以にして洵(まこと)に邦家の為め、慶賀に堪へす之を勒して後昆に伝ふ。昭和9年7月1日」

昭和9年からみて70年前は1864(元治2)、又、清水講開講125年記念(1989年(平成元)7月)の記念碑から逆算すると、開講されたのは1864年(元治2)となり一致する。この記念碑だけを見ると根本清水講は1864年開講だと読めるのだが、本当にそうだろうか?明治元年の四年前である。その疑問の鍵は、竹ヶ花の雷電神社にあった。

竹ヶ花の雷電神社に天保年間の清水講の石碑があった

雷電神社の清水講関係の台座

雷電神社の清水講関係の台座
2009年5月撮影

実は、雷電神社に清水講関係の石碑が二つあった。一つは木々に埋もれた場所、もう一つは、本殿近くである。

  1. 階段で登ってくる途中にある石碑
  2. 頂上の富士塚の上の石碑

1:階段で登ってくる途中にある石碑:小御獄石尊大権現

階段途中の石碑

階段途中の石碑
2008年5月25日撮影

階段途中の石碑 2008年5月25日撮影

清水講講中
2008年5月25日撮影

階段途中の石碑 2008年5月25日撮影

天保十一子年十一月吉日
2008年5月25日撮影

  • 小御獄石尊大権現
  • 正面:清水講中
  • 右側面:天保十一子年 十一月吉日

2:頂上の富士塚の上の石碑:浅間神社

本殿近く

本殿近く
2008年撮影

  • 石碑:浅間神社 明治四十四年七月一日
  • 台座:正面-清水講中、当村、大根本、岩瀬の各講中の名前が羅列
  • 台座:左側面-大根本講中、講元、先達の名前が書かれ、天保十一年庚子年十一月吉日

本殿近くの石碑を見ると、台座正面には清水講中と書かれ名前の羅列があり、台座右側には当村寄付とあり我が先祖の名前があり、台座左には大根本講中で名前の羅列が有る中で川井という名前が出てくる。確信は無いがこれは川光物産のお先祖様ではなかろうか?

さらに二合半の先達らしき名前も書かれていて、天保11年とある。西暦では1840年という事になる。仮に天保の年数が読み違えたとしても、天保の後に弘化(5年間)、嘉永(7年間)、安政(7年間)、万延(2年間)、文久(4年間)とあり、そして元治の時代となるので、天保から見れば元治は6番目の元号になり随分後になる。

考えてみれば、清水講は静岡方面から来た竹ヶ花の藤枝さんが自らの富士信仰を元に始めた事になっている。古い清水講の石碑が雷電神社にあってもちっとも不思議ではない。この辺りが歴史を調べる面白さだと思う。やはり足で稼がないとこういう事は分からない。

この開講年代については、松戸史談2009年の「松戸根本「清水講」開講年代について」にまとめてあるので、ご興味の有る方は是非、松戸史談会に連絡して読んでいただきたい。或いは図書館にあります。

清水講の商店

松戸史談で投稿した時は、具体的な個人名や商店名は書きませんでしたが、このホームページでは、もう少し深く踏み込んだ内容にする為、一部表現します。もし、問題がございましたら、見えないように処理など行いますので、ご一報下さい。

手摺柱に描かれた商店や名前

モニターいっぱいにご覧になりたい方は、フルスクリーン表示をクリックしてください。

さて、頂上に登る階段の手すり子に寄進、奉納された面々の名前が刻まれている。これには個人名及び店名が書かれている。大きく分けると:

  1. 屋号・店名で書かれた商家、料亭、市場等
  2. 個人名で書かれた商家他
  3. 大きな商家の血筋関連
  4. 政治家がらみ

1の屋号や店名で書かれたケース:

手摺柱

手摺柱
2007年5月撮影

写真を御覧下さい。村井産院以外は古くから根本に住んでいる方であれば、良くご存じのお店ではないだろうか?東京中央青果株式会社とは金山神社の正面にあった丸果市場の事。二葉屋酒店さん、八百浪さん、八百伊さんは昔日の松戸にも簡単ではあるが登場させた。

その他、千葉保証牛乳、丸新青果市場、川幸商店、割烹山水閣、桔梗屋染物店(現在はクリーニング屋さんで健在)、田中化粧品、千葉保証牛乳株式会社、萬屋種苗店

2は個人名なので写真は割愛し、その人物が経営する店名を記す:

林家食料品店、一心塗装店、井沢ふとん店、衣袋部品屋(松戸モータースの事)、宇田川呉服店、小倉表具店、川井果物、島村俊商店、美寿可そば屋、篠田菓子店、鈴木屋酒店、鈴木建巧、鈴木燃料店、鈴木寝具店、杉山医院、杉浦葬儀店、関口薬局、東府屋(おもちゃ)、鎌倉屋商店(豆腐屋)、田中質店、竹澤屋本店(酒屋)、高城商店、椿電器、豊田商店(おばけ屋)、長野輪業、バーバーナカムラ、林屋洋品店、花沢燃料店、松橋鉄工所、百田建具店、森栄堂、金子屋種苗店、山和機工、大衆割烹吉野、吉岡青果店、川井商事等

3の大きな商家の血筋関係のケース:

川光物産、雪和パン粉等

4の政治家のケース:

山本政蔵、川井卯之助(第二代松戸市長、川光物産の子息)、川井忠好

次は特記すべき商店について記します。

長野輪業(長野平八郎さん)

長野輪業

長野輪業

長野さんは元々街道沿いの歴史的な建物で商売をされてましたが、その後、場所を変えよし寿司付近で営業され、2011年前後でしょうか、柏市に引っ越してしまいました。大正時代に開業されたそうです。金山神社正面にあった市場(東京中央青果株式会社:通称`丸果`)へ卸しに来る農家の人が多く立ち寄り、リヤカーを運ぶ為の実用自転車の需要が大きかった様です。

長野輪業では自転車にリヤカーを接続するための金物を作っていました。私も見せていただいた事があります。金山神社近くの丸果市場へ来る農家の人々は六号線沿いや五香を始め松戸或いは松戸より北の農家の方々が多く、長野輪業さんに伺うとやはり、顧客は北方面の方が多いそうです。実用車、軽快車は東京の問屋や工場から部品を仕入れ、自らファブリケーションを行い独自の自転車を販売したそうです。それが写真のNH号です。

長野のN, 平八郎のHでNH号。
実用車は山長さん(和菓子屋)がお持ちでした。

山水閣

山水閣

山水閣
2005年5月撮影

山水閣とは松戸駅東口にあった料亭で、山水閣と言えば山本政蔵氏です。山本政蔵氏は明治四十年五月二十日安房郡江見町生まれ、故川島正次郎氏を師事する。松戸市議会議員三期連続12年間、昭和29年には市議会議長。その後昭和34年に千葉県議会議員に当選以来、少なくとも4期勤めていた。
奥様のおみねさんが山水閣を経営し、川井輝吉氏とともに松戸競輪設置を進めた人。

川井輝吉氏と山本政蔵氏は、輝建設、松戸公産の経営、又、流山鉄道まで一緒に役員になっていた事がありました。山本政蔵名の手摺り子共々頂上にあるが、氏の名前の手摺には吸い殻入れ代わりの石油の一斗缶の陰に隠れていてちょっと可哀相でした。

山水閣

山水閣
昭和34年頃
母と私

おまけとして、私が子供の頃行った山水閣を背景にした写真です。左が私、右が母。

続く:手摺柱に描かれた商店や名前

清水講に関する商店などの説明は、二つのみ記述しましたが、実はバックデータはまだあります。ただ、個人情報との絡みがありますので、問題のない範囲で、様子を見ながら、かつての商店の情報は今後少しずつ増やしていくつもりです。乞うご期待!!

清水講その他

富士登山月掛集金帳

積立

富士登山月掛集金帳
2008年撮影
長野輪業様より

7月に富士登拝する為に毎月一定の金額を二年間かけて積み立てる。その時の積立帳が上の写真です。規約はこの様にかかれています。

富士登山講結規約
  • 第一条 本講は富士登山を目的とし清水講と称す
  • 第二条 本講は平成四年八月より平成六年七月まで 満二カ年を以て期限とす
  • 第三条 本講の講員は毎月積立金として満二十四ヶ月一ヶ月壱口金壱千円也宛掛金するものとす
  • 第四条 本講員の掛金は地元世話人保管し置くも差支えなし
  • 第五条 本講は毎年六月抽籤を以て登山者を定むる事
  • 第六条 本講は毎年七月二十八日を以て登山出発日と定む、但し天変地異又は凶作等の場合は協議の上延期する事
  • 第七条 本講の毎年の登山者数は全員の二分の一とす
  • 第八条 本講員にして当籤登山者と定めたるものと難も二ヶ月以上掛月滞りたる者は登山同行を御断りする事
  • 第九条 本講員にして中途脱講せんとする者と難も既に掛金したる分は講元之を保管し置き満期終了の節祈祷料として金五百円也を控除し剰余を割戻すものとす
  • 第十条 本講員にして満期に至るも登山せざる場合は第九条の祈祷料を控除し余剰金を割戻すものとす
  • 第十一条 本講員は友好親睦を旨とし月々必ず掛金する事
  • 第十二条 本講は以上記載せる規約を厳守する事
  • 第十三条 本講は二泊三日がかりとす、但し費用は掛金にて賄う予定なれど追徴金申し受ける年も有ります
富士登山清水講取結び前条の規約を堅く相守る事
平成四年八月吉祥日
松戸市清水講

まねき

まねきとは講社の標識となる幟、旗のことで、講社の名前や講紋などが記されています。神社の富士塚に吊されたり参拝者に配られたりします。金山神社では7月1日山開きの日に(多分かつて訪れた講中のまねきと思いますが)色々な講社のまねきを参道に飾ります。ご興味のある方は是非、7月1日に行ってみて下さい。

江戸川丸星富士講

江戸川丸星富士講
2012年7月1日撮影

各種まねき

各種まねき
2012年7月1日撮影

東京三河島睦講

東京三河島睦講
2012年7月1日撮影

この下のまねきが富士獄教會清水講であり、金山神社の根本清水講のまねきです。

富士獄教會清水講

富士獄教會清水講
2012年7月1日撮影

金山神社のその他、おまけです

灯籠:一の参道

金山神社の灯籠

金山神社の灯籠
2006年5月撮影

金山神社に辿る一の参道の跨線橋前に一対の灯籠がある。

写真右側の灯籠:
慶應元年 乙丑 秋 大々講中                               松戸石工 平兵衛
(ここでの大々講とは神楽を奉納する講中(つまりグループ)により寄進されたものと思われる) 森谷勘右衛門 と 田中四郎右衛門の名が書かれている。又、石工の名前に平兵衛。

写真左側の灯籠:
弘化四未丁年 十一月吉日 田中四郎右衛門
石工 平兵衛

慶應元年は西暦1865年、弘化四年は西暦1847年、両方とも殆ど幕末だが、左右の灯籠で13年の差が確認出来る。これは多分、この年に初めて灯籠が設置されたのではなく、元々あった灯籠の老朽化に伴い、取り替えたのではないか?と思っている。

石工平兵衛とは

この灯籠の両方に松戸 石工平兵衛の名前が記されている。春雨橋の先に宮口石材店があるのをご存じだろうか。この宮口石材店の元々の屋号は尾張屋 名は平兵衛である。何代目平兵衛かは分からないが、この灯籠の文字彫りは尾張屋平兵衛さんの作品であろう。

名前や年号など小さい文字は薬研彫りらしき、で彫られており、奉納という文字は丸彫りに近い形をしている。江戸時代に盛んに彫られたのは薬研堀とされているが、江戸後期、職人は薬研堀に飽き、丸彫りに技術的な価値や活路を求め始めて居たと言われている。

金山神社に行った際には是非この灯籠の奉納という文字を指でなぞってみてください。
何となく幕末の石工の思いが伝わってくるかもしれませんヨ

睦講灯籠

睦講灯籠

睦講灯籠
2021年12月撮影

睦講の灯籠について:金山神社の北側の鳥居をくぐり、御輿蔵の前に対の灯籠がある。この灯籠には睦講、奉献、明治三五年十月吉日と書かれている。睦講(むつみこう)とは言ってみれば`なかよし講`の様な名前であり、特定の講ではないので見当が付かない。松戸市立図書館で松戸や千葉県の民間信仰に関する本を色々読んでみたが、庚申塔の記述は非常に多いが睦講については無い。

睦講という用語でインターネット検索すると、羽田の穴守稲荷を参拝する睦講、月山&塩釜三山睦講、男体山登拝講社である小山睦講(栃木県小山市)、大山阿夫利神社を参拝する横浜睦講、成田山を参拝する戸田睦講等々色々ある。後者三つは講社の存在した地域性が伺えるので、多分関連は薄いかもしれない。となると穴守稲荷或いは月山塩釜三山の二つか?

探してみたが月山塩釜三山は手がかりがない。さて、穴守稲荷の社史によれば羽田一帯は羽田空港建設以前漁師町で、1818年建立祠を建て稲荷対人を祭ったとある。戦前の穴守稲荷は現在の羽田空港の中にあり、現在羽田と言えば空港をイメージするが、空港が出来る前は穴守稲荷の事をさしていた様だ。羽田の穴守稲荷への参拝講社を調べると松戸からは松戸睦講或いは松戸大宮敬信講がある。

灯籠の睦講の文字から、松戸睦講ではないか?と思い、羽田の穴守稲荷に問い合わせてみたら大変親切なお返事があった。お返事によれば、

  1. 穴守稲荷の講社記録が火災等で消失した。

  2. そもそも関東近郊で存在している講社自体が少なくなった。

  3. 松戸睦講を始めとして、松戸市からの講社は現在存在せず、金山神社の灯籠にある睦講と松戸睦講との関連は分からないとの事だった。

残念である。

或いは、まねきの所に書いたが、東京三河島睦講かもしれない。

睦講灯籠の文字

灯籠文字

灯籠文字
2005年5月撮影

さらに前項の睦講灯籠には石工の名は彫られていなかった。年代文字は薬研彫り、睦講及び奉献は丸彫りと思われる。これは前項で述べた水戸街道に面した参道灯籠(平兵衛)と共通している。

同じ`奉献`の文字に注目する。

  • 左写真:一の参道灯籠(平兵衛)の`奉献`は実に手慣れていて、癖の様なものを感じるが、どちらかというと枯れた老人の文字という印象を持つ。
  • 右写真:睦講灯籠の`奉献`はかなりどっしりとして素直な彫りになっている。若くて実直な字という感じ。

これは灯籠の参道灯籠の方が胴の括れが大きいためかもしれないが・・・
上記の様な細かい違いはあるものの、文字全体を見ると字の構図が実に似ているとは思われまいか。
同じ尾張屋平兵衛商店作で先代と次代の職人の腕の差ではないだろうか?と見ているがどうだろうか?

金山神社の庚申塔について

庚申塔

庚申塔
2005年5月撮影

先の睦講灯籠のすぐ脇には庚申塔が二基ある。

  • :青面金剛と書かれ`見ざる聞かざる言わざる`は無い。造立は1794年(寛政6)であり、江戸後期にさしかかったばかりで、先ノミの様にも見えるけれど、薬研彫りが摩耗してしまっているのかもしれない。何とも言えない。
  • :庚申塔と書かれ`見ざる聞かざる言わざる`の台座に乗っている。造立は1831(天保2)である。僅か37年程度しか違わない。

右の石に注目すると申という字の縦棒で止めを作ってあるのが分かると思う。この手法は鎌倉時代の板碑にある手法だと言われているが、その他の部分は通しになり江戸時代の彫り方とミックスされ、少し変わった文字だという印象を与える。そこで碑の横を見たら東洋澤田喆書と書かれていた。多分書道家の書かれたものかもしれないが、未明。

金山神社の植物

金山神社

金山神社
2001年11月6日撮影

スダジイを筆頭にアカガシ、ネズミモチ、モチノキを中心にした照葉樹の森を成しているが、そこにムクノキ、ケヤキ、イヌシデなどの落葉広葉樹が点在し、冬の間は光も入り込み完全な極相林にはなっていない。林床にはアオキ、アズマネザサ、フユヅタなどが生い茂り、近年の温暖化現象からか、ヤツデ、シュロも多く観察出来る。

何故か海洋性のイヌビワも何本か育っており、実のなる頃はカナブンが集まってくる。ムクノキは実のなる季節に行っても樹高が高すぎて食べられる実を採りにくく、硬くなってから歩道橋の階段に落ち黒く汚している。場所の明記は控えるがニワトコもあり金山神社は楽しめる。

スダジイは南側の斜面に多く育っているが、隣地の住宅の侵入によって、伐採を余儀なくされている。又、西側の境内に面してムクノキが多く、北の斜面にはシラカシやネズミモチの幼木が目立っている。

頂上のアカガシ

アカガシ

アカガシ
2021年12月撮影

頂上にはアカガシの木があって、ドングリがたくさん出来る。ただし、アカガシのドングリは渋くて食べられない。

本殿近くのムクノキ

ムクノキ

ムクノキ
2021年12月撮影

ムクノキは本殿すぐ近くにある。樹皮の剥け方が独特で見るとすぐ分かる。歩道橋階段に黒い粒がたくさん落ちている事があるが、あれはムクノキの実で実は食べられる。あまり硬くなる前の柔らかいときがオススメです。春雨橋の近くの坂川沿いに鬱蒼としている場所があるが、あそこにもムクノキがあり、実も取りやすい。

スダジイ

スダジイ

スダジイ 
2007年10月28日撮影

南面に多いスダジイの木。これのドングリはシイノミで、小粒で食べられる。

一本松

クロマツ

クロマツ
2021年12月撮影

照葉樹に覆われた金山神社のもっこりとした鎮守の森に一本だけ飛び出した木があるが、あれはクロマツ。

イヌビワ

イヌビワ

イヌビワ
2004年11月23日撮影

金山神社こぼれ話

眺望台

眺望台

眺望台
松井天山図
昭和12年版

松井天山の松戸鳥瞰図を見ると、金山神社頂上の眺望台が描かれている。この場所はいまでもあり、その状況が下の写真の部分です。

眺望台

眺望台
2021年12月撮影

ビルはたくさん建設され、私が子供の頃に比べるとかなり見えなくなりましたが、それでもここにくるとかなりの気分転換になりますよ。

金山神社にお神楽が来ていた頃

神輿蔵に枯木

神輿蔵に枯木
2007年撮影

元竹ヶ花在住の小倉様によりますと、杉の枯木と神輿蔵の間に舞台が設営され、お神楽が演じられたのを見たことがあるというお話をうかがいました。左に神輿蔵、右に枯木が見えますが、その間ですね!

くらやま・かいがら山の事

くらやま・かいがらやま

くらやま・かいがらやま
2007年頃撮影

くらやま

くらやま

くらやま
2007年5月撮影

この写真の場所は、跨線橋の下松戸駅方面に向かうところです。実はこの界隈は常磐線が複々線になる前はもっと広い場所だったんですが、この付近は元竹ヶ花在住の小倉様によりますと”くらやま”と言い、湧き水がこんこんと湧き出す場所でその水を飲んだことが有るとおっしゃってました。現状を見てもその様子は分かりません。

ただ、季節にその周囲を見ますと、クサギの花が咲きます。クサギは水分がたくさん好きな植物ですので、その湧き水の次代の名残があるのかもしれません。

貝殻山

貝殻山の現在

貝殻山の現在
2007年5月撮影

くらやまから階段を少し上がって進んだ所は、昭和30年代前半までは住宅もなく、元竹ヶ花在住の小倉様によりますと貝殻山(かいがらやま)と呼んだそうです。たくさんの貝殻が出土したからだと思います。今この一帯は住宅が立ち並んで、土の部分は見えません。又、常磐線が複々線になる前はこのネットフェンスの右側にも住宅が並んでいました。

新京成の変電所・松戸駅の信号所

新京成踏切

新京成踏切

元竹ヶ花在住の小倉様によりますと「貝殻山をもう少し駅方面に向かうと新京成の踏切がありますが、ここに新京成の変電所があり、また吉祥寺に抜ける踏切もありました。すぐそばに松戸駅の信号所もありました。まだポイントは電気式ではなく、梃子の動きを鉄パイプで伝えポイントを切り替えていました。貨物の入換作業はD51、動輪の動きがメカニックでこの踏切の空き地からよく見に行きました」との事です。昔のお話誠にありがとうございます。

紙芝居の話し

紙芝居

紙芝居
いらすとやさん より
https://www.irasutoya.com/

元竹ヶ花在住の小倉様によりますと二の参道側にある鳥居付近に紙芝居が来ていたそうです。紙芝居は昭和30年代の後半までありましたので、その頃だったのだと思います。ゲゲゲの女房で、金に困った音松(上條恒彦)が、水木しげるの家にくる話がありましたね。

秘密基地

金山神社

金山神社
2021年12月撮影

子供の頃の遊び場として、竹ヶ花在住であったに関わらず、何故か雷電神社よりも根本の金山神社でよく遊んだ。私の知る限り、当時竹ヶ花に住む子供の殆どは皆、根本保育園に通っていた事に起因しているかもしれない。竹ヶ花の子供にとっての遊びの縄張りの範囲だったと思う。

遠州屋薬局のご主人平野正さんのエッセイや日暮商店の三兄弟の内、イラストレーターの故日暮修一氏のお話にも子供の縄張りについて出てくるが、縄張り外の場所は見慣れないいじめっ子が待っている事があり神経質に考えていた。

金山神社の西側の段々の斜面に秘密基地(木製の洗濯機の養生箱等を利用)を造った年上の人がいて見に行った事もある。当時はまだ複々線(現在の千代田線乗り入れの常磐線各駅停車の線路一対)が出来る以前であり、金山神社の境内はもっと広く、踏切があり、今のような無味乾燥な陸橋等無かった。

金山神社の鬼

鬼

Win-Win Web素材集
http://w3s.jp/

この逸話は2008年3月に、旧ご意見箱に書いてくださったYukiさんの投稿です。金山神社に鬼が居たお話です。とても可愛いお話でしたので、掲載したいと思います。

「まだ平潟の方に住んでいたころなので多分3歳頃。近所の悪ガキの男の子と私と姉とではるばる金山神社まで来たことがあります。3歳の足で子供だけで、かなり冒険だったと思います。男の子はなかなか腕白な悪ガキだったので、ずいぶん無茶をして3人で神社の裏側まで回ってみました。今のようにきれいじゃなかったと思います。草が子供の腰くらいまで生えていたと思います。

突然姉が「あぁっ!!鬼だーっ!!!」と叫んだので3人で一目散に逃げ出しました。逃げる途中、行き先も知らないはずの母が、母親の感でしょうか、線路のあたりまで探しに来ていたところに遭遇して更にびっくり!!私自身は鬼を見ていません。姉と男の子は見たそうです。ちなみに姉はその手の話にあまり敏感ではないはずなのになぜか結構経験してるんですよね。

どちらかというと私の方が体質的に見えてもよさそうなのに…。もしかして、ただの見間違いとかだったのかもしれないけど、それにしても金山神社の鬼ですよ!?見たかったなぁ、、、残念、悔しいですっ!!!

yukiさん、この逸話使わせていだきました。ありがとうございます。

御神木(杉)

御神木

御神木
2004年11月23日撮影

その昔雷が落ちてばっさりと途中から折れたと聞いた。本当のところは分からない。幹の途中にコンクリートで封をしてある箇所があるが、以前は開いていて中は空洞だった。子どもの頃は遊んで、中に入ったこともある。ただ、真っ暗なので蛇が居るかもしれない為、子供の頃は畏れていた。ある時に(多分危険だからかもしれないが)コンクリートで塞がれてしまった。

その他の富士講について

江戸の民間信仰 「富士講の世界」

『富士講』の資料展が新宿歴史博物館で開かれていた様子がニュースで報道されたようです。

最後に

初参程度しか神社に訪れないと分からない事が結構あります。金山神社は歩いて見ると面白い発見があって、きりがありません。実はまだ書き足りない部分がたくさんあります。実は境内をマップ化して分かりやすくしてみようかとも思っています。金山神社は氏子の方々によって維持されています。ゴミは発生しないように持ち帰りましょうね。

コメント

  1. うしとら より:

    読み応えがありました。
    台座に兵右衛門さんの名前、ありましたね。
    神社となると溶岩の量が凄いなぁと思いました。
    松戸や根本の商家は庭が無い家が多いから、
    持ち帰っても神社に納めたのかもなと思いました。
    事情を知らない方は元々あった石だと思っちゃいますね。

    「かじ坂」周辺に親戚が居るので、
    名前の由来も聞いたことあると思うのですが、
    すっかり忘れてしまい、どうしても思い出せません。
    情報入手できたらお知らせします。

    あと、ご存知かもしれませんが、
    かつて、岩瀬に「鍛冶塚(かじづか)」という小字がありました。
    場所は胡録神社の南側あたりです。
    「かじさが」と良く似た呼び名の場所があるなぁと思いました。

    • はい、ありましたね!調査を始めたのは2005年の頃でしたが、兵右衛門さんの名前はあまり気にしていませんでした。うしとらさんから色々なお話を伺って驚いたという感じです。
      この投稿は2005年頃から調査を始め2008年に一旦発表しましたが、途中でお蔵入りになっていた投稿です。今回内容をかなり修正し、増やしたものの、当時随分頑張って調べていたなあ・・・というのが感想です。
      溶岩の事ですが、今日お伺いし、聞き取りをさせていただいたお家の庭にもやはり溶岩石がありました。当時、自宅の庭に置くのが流行ったのかもしれませんね。
      調べてみると溶岩石は細かい穴が開いてますので、苔むすらしく、良いらしいです。
      鍛冶塚の小字があったのは知りませんでした。非常に興味があります。かじ坂の由来もし分かりましたら教えて下さいね。

  2. ミスターT より:

    今年の正月初めて金山神社で初詣をした 松戸生活時代は近すぎて行ったことはなかった 大みそかの日に甘酒をふるまっていたのは知っていたが 自分は麹の甘酒は苦手で酒粕の甘酒しか飲めなかった 大体甘酒を出されると大概麹のもので酒粕のは出たためしがない 麹の甘酒は飲むふりをして見つからないように捨てていた
    金山神社は同級生が近くに住んでいたり 扇屋に買い物にいったりよく通ったところだ 帰り道も当然金山神社で 陸橋の下に元々あった階段があり 近道だと いつもそこの階段を登って帰っていった 初詣の帰り 陸橋をコンビニ方面にむかい階段を下りかけたとき 扇屋の地下でかき氷を食べたとき真夏でもこの階段を下りるとき北風がひんやりと身に染みたことを思い出した

    • ミスターT様、
      コメントありがとうございます。なんと麹の甘酒がお嫌いですか!となると神田明神前の天野屋の甘酒も駄目ですね!これは好みがありますから仕方ないですね!
      あの階段は確かに風に吹かれる事があるなあ・・・今は冬なので寒いでしょうね!

  3. うしとら より:

    南花島に住んでいる叔父に「かじ坂」の件を聞きましたが、坂の名前はカジサガだけど、漢字も由来も分からないよ・・、鍛冶屋があったのかな?カジって木あるけど、その木が生えてたのかな?といった調子でした。今ではK家の屋号として使うくらいで、あの坂が「かじ坂」と呼ぶのは60才以上の人だろう・・ということでした。市役所の関係者に聞いて、所内の地名に詳しい方に聞いてもらったところ、市役所でも分からないとのことでした。他のルートで新情報が入れば連絡します。

    • うしとら様、
      叔父様に聞いていただいて、ありがとうございます。また、市役所の関係者の方にまで聞いていただき、恐縮します。
      本当にありがとうございます。
      でも、もしあれば、新情報期待します。

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