松戸駅東口の板前
マザーグースの頃
松戸駅東口方面で板前だった故小林君の事を果たしてご存じでしょうか?あの当時、松戸駅東口に働く同業者であれば、彼を知らぬ者は居なかったのではないか。私は単なる客として、客の目から見た故小林君について記憶が薄れる前に一筆認めようと思う。
初めて板前小林君に会ったのは1987~9年頃だろうか?それは季節料理`マザーグース`で雇われていた頃だった。マザーグースは雑居ビルの二階にお店があった頃から行っていたが、1987年-89年頃であれば、二階の頃で、1990年代半ばであると隣のビルの一階になった頃だ。そこが何とも言えない。
マザーグースは2024年現在は存在しないが、良い店だった。あの当時メニュー構成が今まで通った松戸のお店の中では異色だった印象だった。お店のあるビルの外階段で裏側に出ると、そこはカップルの為のホテルがあったり、夜一人で歩くのが躊躇われた。また、ビルの表側に出ると呼び込みをしているお兄さんが居たり、初見で一人だったら先ずはいらない店だった。
上のストリートビューの2009年頃なので、すでにここにはマザーグースは無い頃だが、ビルの裏に出た時の感じは上の写真の雰囲気で、何だか照れてしまいそうな感じであった。それだけに隠れ家的な雰囲気にあふれていて、店主のカッチャンもマーチャンも若くて、歳も近いので、良い店を知ったと思ったものだ。
マザーグースを教えてくれたのはリュウチャン
私をマザーグースに初めて連れて行ってくれたのはリュウちゃんだった。リュウちゃんと初めて会ったのは松戸駅西口のゲームセンター”インベーダーハウス”だった。
ゲームセンターなんていうと孤独な人間ばかりが集まっていそうば場所のイメージがある。しかしながら、今から思うと不思議なのだが、何故か客同士の横のつながりがあり、それが面白かった。リュウちゃんは高校生だったが、女連れだったね!モテたんだろうね。
リュウチャンにはその後何度かお会いしたっけ・・・でも最後にお会いしたのは東口の金太楼だったか・・・話が横道にそれた。
板前小林君と初めて話した日
小林君はどちらかというと寡黙な人だった。カウンター越しに何かを聞いても一言二言は返事はするもののそれっきりだった。初めて話したのは多分、1993年であると思う。確かこの頃はすでにマザーグースは隣の一階に移った後で、お店でバイトをしていた着物姿の似合うヨウコちゃんのお別れ会があった。マザーグースの店主が主催で、スタッフで送り出す会であったが、何故か私も誘われた。
場所を変えて食事をした訳だけど、小林君の隣りの席に座ったのが私だった。覚えている限り、小林君としっかり話した最初ではなかったか?あの日、小林君はお酒が手伝ったのか、何故か饒舌だった。彼はあるグループの長を務めていた事があったのは知っていたが、個人的な話を色々としていたっけ・・・
好きだった彼女と別れた話もしていた。何故そういう話になったのかは不明だが、当時何か思い詰める事があったに違いない。
維新號へ
小林君の作るヤマイモの千切りを食べた時、随分繊細な人だなあ・・・と感心したのを覚えている。腕も良かったんだろう・・・しかし残念ながら、小林君は暫くしてマザーグースを辞めた。てっきり独立するのだと思っていた。独立したら是非常連になろう・・・そう思っていた。ところが独立は茨の道だったのか、結局、転職を繰り返した。
繰り返したと言っても、転職先は松戸駅東口界隈から離れなかった。最初に移った先は維新号というラーメン屋を出す居酒屋だったと思う。バス停からビルの半外部通路を通っていく場所である。維新號は元々松戸駅西口にあった。現在で言えば横浜家系壱角家ラーメンの場所だった。この維新號西口店の味噌ラーメンが好きで良く行った。ひき肉のそぼろのトッピングが何とも言えなかった。
その後、東口に維新號というお店が出来た。それが同じ経営者だったのかどうかは何とも言えない。ただ、あの当時とは味や盛り付けのニュアンスは異なっていたと思う。扉から店内に入ると左側にカウンターがあり、そのカウンターの一番手前で小林君が調理していた。この頃も何度か通った。
旬菜厨房 花まる亭へ
次は`旬菜厨房 花まる亭`という割烹。新東京病院付近ラブホテル街、郵便局前の二階。この時は確か小林君とオーナーとの食に対する考え方が違っていたんだな・・・そりが合わなくて辞めた。店を畳んだから辞めたのか、辞めたから畳んだのかは分からない。当時、私は香港赴任していたために詳しくは知らない。
韓国居酒屋かずちゃんへ
私が香港から帰った頃(2000年)小林君は何故か韓国居酒屋かずちゃんの板前になっていた。韓国居酒屋でありながら小林君は刺身など和食で出すような肴を出していた。かずちゃんのママはこれを容認し、むしろ信頼しきっている様に見えた。ところがこの当時の小林君はすっかり酒浸りになっていたんだな。
昼間会っても真っ赤な顔をしていて、私が飲みに行くとしらふを装っていたが、かなり酔っているのが分かった。心配はしていたが、顔色は悪くなかったし、それほど深刻ではないと思っていた。ところが小林君はある日倒れた。脳溢血だった。多分、飲み続けていたからだろうなあ・・・ぶっ倒れて病院に運ばれたときは殆ど助からない状態だったらしい。そして昇天。
あほうどりと小林君
他界後暫くして、焼き鳥屋あほうどりで小林君の話題になった。焼き鳥屋あほうどりのご主人はよく小林君の事を知っていて、慕っていたんだそうだ。そういえば小林君は若者の面倒見は良かったらしい。店にも良く来てくれたそうだ。
かずちゃんに通っていた頃
小林君が働いていた韓国居酒屋かずちゃんのママはその後かずちゃんをやめて、付近の雑居ビルの二階で韓国居酒屋だいこんを始めた(その後、だいこんは平成20年3月廃業)。このママが韓国居酒屋かずちゃんを始めた頃の事を回想していたのを聞いた。
ママは商売の`し`の字も分からず、お通しの出し方も、ウーロン割りの作り方も知らなかったそうだ。つまり全くのド素人同然で韓国居酒屋を始めてしまった訳で、若さが故だったんだろうな・・・開店しても暫くは客が来なかったらしい。当時は韓国居酒屋という業態自体が珍しい松戸だったのだ。
客が来ても要領を得ない、それでも借金があるのでママは必死。そんな状態の韓国居酒屋かずちゃんに比較的初期に常連になってくれたのが小林君だったそうだ。ママがあまりの素人だったので、小林君もびっくりしたに違いない。小林君は朴訥としてあまり言葉には出さないが、態度や振りで色々な事を教えてくれたんだ。
小林君の一つ一つのアドバイスのおかげで店を軌道に乗せ結局二十数年も営業する事になったんだとさ。ママはある日しみじみと語っていたヨ
最後に
あほうどりのマスター、情報提供誠にありがとうございます。大分時間はかかりましたが、再び小林君について、ページを刷新しアップロードさせました。
小林君、改めてご冥福をお祈り申し上げます。私はまだ生きているが、当時より太ってしまった。でも妻も娘もいるので、君の分も長生きするね。
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