かつて松戸にあったゴルフ場
松戸には日本プロゴルフ選手権などの公式の試合を行うようなゴルフ場がかつて存在した。残念なことに戦争を契機に消滅したが、そこがどんな場所であったのか、手持ちの資料と共に分かる範囲でなるべく書き記していきたい。
武蔵野カンツリー倶楽部
松戸にはかつて武蔵野カンツリー倶楽部六実コースがあった。また、同じ倶楽部経営で現在の柏市と鎌ケ谷市に跨ぐ場所だが、六実のすぐ近くに武蔵野カンツリー倶楽部藤ヶ谷コースがあった。それぞれ、下記の通り、戦争の影響を受け短い期間だったようだ。
- 武蔵野カンツリー倶楽部六実コース:1926(大正15)年-1944(昭和19)年
- 武蔵野カンツリー倶楽部藤ヶ谷コース:1931(昭和6)年-1944(昭和19)年
それぞれのコース設計者
六実コース設計者:大谷光明
Wikipediaによれば、「1922(大正11)年4月19日、英国のプリンス・オブ・ウェールズ(エドワード8世、後のウィンザー公)が来日した際、「東京ゴルフ倶楽部・駒沢コース」での親善試合では、皇太子(後の昭和天皇)とペアを組んだ」というすごい人。
藤ヶ谷コース設計者:赤星六郎
武蔵野カンツリー倶楽部の色々
武蔵野カンツリー倶楽部の沿革
JGA 日本ゴルフ協会の記述によれば、この武蔵野カンツリー倶楽部は当初東京・多摩の平山に全長2000ヤード6ホールという小さな規模で庶民的なゴルフ場として作られ、1926(大正15)年に千葉県の六実に移転、同年10月に9ホール、翌1927(昭和2)年9月に18ホールが完成。
移転当初会員が100人であったものが2年後に700人弱に増加し、六実だけでは狭いという事になり、隣接する藤ヶ谷にもう18ホールを拡張した。ところが戦争の為1944(昭和19)年陸軍用地として強制徴用を受けて、閉鎖・・・となっているが、別の資料では1942(昭和17)年陸軍により接収と書かれている。
戦後の航空写真を見るとすでに滑走路の形状が見えるので、多分1942(昭和17)年接収という方が信憑性を感じる。
武蔵野カンツリー六実コースについて
次項のuMapにおける六実コースはこのWikipediaと当時の空中写真で想定で描いています。ただ、当時の藤ヶ谷コースの形状や位置は資料が揃わず今の所不明です。分かり次第掲載します。
ゴルフ場へのアクセス
ゴルフ場の位置とアクセス
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松戸駅から武蔵野カンツリー倶楽部へのアプローチは、旧水戸街道を北上し、竹ヶ花の交差点でカジ坂を登り、県道281を走っていけば、到達する。松戸市六実高柳土地区画整理事業史によれば
「大正八年には五香六実から松戸へ通じる道が県道に指定された。しかし県道とはいっても五香六実の道路の悪さは有名で、乾燥機には砂埃が舞い上がり高浮きにはひどいぬかるみとなりました」
ただし、ゴルフ場が出来たのは、六実が大正15年、藤ヶ谷が昭和6年ですので、ホコリとぬかるみの道も相当改善されたのだろうと考えます。また、松戸市史 下巻(二)〔大正・昭和〕によれば、松戸駅からバスで県道281を利用してそれぞれのゴルフ場にアクセスしていたが、市内でもいち早くこの県道281は舗装されていたとの事
電車でのアクセスについて
松戸市六実高柳土地区画整理事業史によれば
「大正10年、船橋と柏の間に鉄道を敷設する話が持ち上がり北総鉄道株式会社(現在の北総鉄道ではなく、後の東武鉄道です)が設立されました。津田沼には鉄道第二連隊が、レール敷設演習としてこの工事を行い、大正12年12月27日にいよいよ営業を開始しました」
「当時六実駅周辺にはほとんど家がなく、乗降客も一日数人という状況でした。それが昭和の初め頃には開発が進んだせいか、乗降客数は沿線八駅の中で船橋に次いで第二位となっています。今まで交通の便が極めて悪かった風早村方面も、この鉄道開通によってかなり開けてきました。この鉄道は昭和4年に総武鉄道会社と改称、昭和19年に合併によって東武鉄道会社となりました」
タクシーでのアクセスについて
これも松戸市六実高柳土地区画整理事業史に書かれているように
「昭和に入ると、松戸市内でもタクシーが走るようになりました。昭和10年の松戸から六実までのタクシー代は、1円70銭だったそうです。昭和3年松戸から五香六実を経て藤ヶ谷ゴルフ場へ行くバスも営業を始めました」
タクシーが通ったであろう県道は次の松井天山図に表されます。
松井天山松戸鳥瞰図昭和5年版に描かれた六実ゴルフ道
松井天山図の昭和5年版では南花島から風早神社方面に向かう道を”六実ゴルフ道”と表現し、終点には“六実ゴルフコート”と表現されている。この記述に関しては、うしとら様より教えていただいた。上の挿絵もうしとら様からのものである。ありがとうございます。
又、先述しましたように、松戸市史 下巻(二)〔大正・昭和〕によれば、松戸駅からバスで県道281を利用してそれぞれのゴルフ場にアクセスしていたが、市内でもいち早くこの県道281は舗装されていたとの事
関連資料
武蔵野カンツリー倶楽部の絵葉書
エンタイヤ(封筒・請求書など)
昭和14年にこの歳末御心付3円の請求書の宛先の人は賀屋興宣(カヤオキノリ)さんで、日本の大蔵官僚、政治家。1889(明治22)年1月30日 – 1977(昭和52)年4月28日)戦争反対の立場だったが、東条内閣下で大蔵大臣を務めたが華北における資源開発や大東亜共栄圏を中心としたブロック経済を想定した予算を組んだためA級戦犯になってしまった。
1972(昭和47)年に政界を引退されるまで、同郷であった池田勇人と共に戦後の日本の復興に取り組んだ尊い人です。又、巣鴨にに収容されていた間、むしろ健康的になってしまい、喘息も完治したというエピソードもある方です。
その他の歴史
武蔵野カンツリー倶楽部での行事、出来事(JGA 日本ゴルフ協会による)
JGA日本ゴルフ協会のJGA年史によれば、武蔵野カンツリーに関連する行事として下記のような事があったようだ(抜粋)
- 1929(昭和4) 9月28日: ハワイから上院議員フランシス・ブラウンをキャプテンとするアマチュアチーム8人がJGAの招待で来日。10月17日から武蔵野カンツリー倶楽部六実コースで行われた日本アマチュア選手権に出場し、ブラウンが僚友K.ナカムラを1アップ(38ホール)で降して優勝した。一行は9月29日、東京ゴルフ倶楽部で日本代表チームと日米対抗戦を行い、10月2日、茨木カンツリー倶楽部で関西チームと対戦した。日本代表との試合は7?4で日本チームが勝ち、関西ティームの対抗戦は引き分け。日本のアマチュアにとっては外国チームとの初めての国際対抗試合になった。
- 1930(昭和5)5月20日:JGAはオーストラリアに遠征していたアメリカのウォルター・ヘーゲンとオーストラリア出身で曲打ちの名人ジョー・カークウッドの来日を要請。関東、関西で計6回のエキシビションマッチを開催した。同月の24日、茨木カンツリー倶楽部で宮本留吉、安田幸吉を相手にフォアボールマッチを行ったのを皮切りに、鳴尾、宝塚や東京、武蔵野、程ケ谷の各倶楽部を巡回して優れた技術を披露した一行は東京・新宿御苑のコースに招かれて、天皇陛下(昭和天皇)にも妙技をご覧に入れた。
- 1931(昭和6)10月26日-28日:日本プロゴルフ選手権創始。武蔵野カンツリー倶楽部藤ケ谷コースで第1回大会を挙行。浅見緑蔵が陳清水を5アンド3で破り初のチャンピオンになる。
武蔵野カンツリー倶楽部の末路
六実コースのその後
大きくは
武蔵野カンツリー倶楽部→軍の探照燈陣地→終戦→入植・田畑に→松戸市六実高柳土地区画整理組合設立による宅地化→換地処分→現在
松戸市六実高柳土地区画整理事業史によれば(抜粋)
- 当地は戦後、新たな入植者たちを迎えることになりました。昭和22年、農地法改革施行により、戦争で職を失った約六十戸の家族が、軍の探照燈陣地となっていた旧武蔵野カンツリー倶楽部跡地(約二十五町歩)に入植。農業従事者以外の人々が多かった入植者たちは、お互いに工夫と知恵を出し合い苦労を共に開拓を進め、松戸市ゴルフ場開拓農業協同組合を結成しました。この農業協同組合は昭和四十二年に開拓の目的を達成した為解散、松戸市農業協同組合へ吸収合併し、現在に至っています。
- その後、昭和四十二年五月二十九日、松戸市六実高柳土地区画整理組合設立。昭和60年8月2日に換地処分、現在に至る。
藤ヶ谷コースのその後
ウィキペディアの藤ヶ谷カントリークラブを参照すると
- 藤ヶ谷カントリークラブは、「旧武蔵野カンツリー倶楽部・藤ヶ谷コース(1929年(昭和4年)開場、設計・赤星四郎)を復活しよう」との活動が始まりである
- 1961年(昭和36年)、東京証券市場で大暴落が起き、また、京成電鉄株式会社では「大利根カントリークラブ」計画が同時進行中であった。新たなゴルフ場の建設に向けて「京成ゴルフ株式会社」が設立され、「京成藤ヶ谷パブリックゴルフ場」が着工され、1961年(昭和36年)11月25日、18ホールが完成した。
- 1964年(昭和39年)、「株式会社藤ヶ谷カントリー倶楽部」を設立、1965年(昭和40年)2月、京成パブリーツクを譲り受け、会員制ゴルフ場に移行、個人株主会員制での運営となり、メンバーシップ「藤ヶ谷カントリークラブ」がスタートした。
- 日本のプロゴルフメジャー大会の1つ、日本プロゴルフ協会主催競技でもあり、日本選手権大会に相当する、日本プロゴルフ選手権大会などの大会開催の実績がある。
読んでみたら、武蔵野カンツリー倶楽部の再生プロジェクトがあったのだ。それにしても松戸の六実コースもどこかに復活再生してほしかったものだ。
おまけ
実は松戸市には現在でも存在するゴルフ場がある。それが江戸川ラインゴルフ場松戸コース(旧松戸ゴルフ倶楽部)。このゴルフ場は1963(昭和38)年5月にオープンにした、林由郎さんが設計したゴルフ場。面積:22万m2,ホール数:18H/Par68。林由郎さんは以前テレビでゴルフの先生として随分活躍されていた。我が同級生のM君のお父さんもこの江戸川ラインゴルフ場松戸コースの会員だったよ。
40年前くらいだったか、会員権が15万円前後だったので、買おうと思ったことがあった。結局買わないで終わってしまったが、その後会員制がパブリック制になってしまったそうで、経営も二転三転したようだ。
参考にした資料、Webページ、協力していただいた人
- 松戸市史 下巻(二)〔大正・昭和〕
- 松戸市六実高柳土地区画整理事業史
- 松井天山 松戸鳥瞰図昭和5年版、昭和12年版
- 現存していない歴史の古い主なゴルフ場
- 特集:ゴルフ場の100年 関東のゴルフの大衆化に一役買った 武蔵野カンツリー倶楽部
- 公益社団法人 日本ゴルフ協会
- 武蔵野カンツリー倶楽部
- 藤ヶ谷カントリークラブ
- 大谷光明
- 赤星六郎
- アドバイスや資料の提供者:うしとら様
最後に
2018年11月に武蔵野カンツリー倶楽部として投稿したページをベースに内容をアップデートし、武蔵野カンツリー倶楽部の全体像が少しでも分かるようにしたかった。まだまだ、不十分ですが、2022年1月24日改めて、松戸にあったゴルフ場として再投稿します。もしも間違えている箇所やご意見などありましたら、よろしくアドバイスお願いいたします。
コメント
こんな立派なゴルフ場を作ったのに、潰してしまったのはもったいない話です。もし残っていれば国内でも屈指のオールドコースでしたね。
野田線も鉄道第二連隊だったんですね。話が逸れますが、リキフーヅの荒井熊吉氏が鉄道第二連隊だったとアレに書いてありました。
私の大学の体育の講師で林由郎さんが居て、一年生の教養の体育でゴルフの指導を受けました。ゴルフ好きの父に頼まれてサインを貰って帰りました。青木功、ジャンボの師匠だよと教わりました。
うしとら様、
コメントありがとうございます。
私も調べれば調べるほど勿体ないと感じました。
荒井熊吉の手記にはそれが書いてありましたか・・・忘れていました。改めて読んでみますね。
林由郎さんと直に話すことが出来たなんて羨ましいです。
Wikipediaを見ますと、林由郎さんは我孫子の貧農出身で、一家を支えるために我孫子ゴルフ倶楽部で働いていたそうなんですが、それがゴルフにのめり込むきっかけになったようですね!
私はテレビでしか見たことがなかった。話し方がユニークで面白い人だったのを覚えています。