つれづれなお話

コンピューターとの出会い

MS DOS つれづれなお話
PexelsによるPixabayからの画像
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コンピューターという代物

何を持ってして、コンピューターというのか少々難しいテーマになってしまいます。従って、人間はどうやって計算をしたのか?という事になると、原始的な計算機の頃、そしてソロバンや計算尺を経てコンピューターに至るまで、私が生まれる前から私の理解を超えた進歩していましたので、どこをどう切ったら良いのか良く分かりません。

ただ、私はいつの間にか珠算教室に行っていたし、建築学科に進んだ際には計算尺を習って使っていたという状態です。この大きな歴史に関しては下記のページを御覧ください。

意外と知らない? 計算機の歴史を神楽坂でたどってみた
東京都新宿区の神楽坂に、東京理科大学近代科学資料館がある。この資料館、実は、小石や算木から日本初の大型商用コンピュータまで、さまざまな年代の計算機を数多く所蔵しているのだ。意外と知らない計算機の歴史を、同資料館の展示品とともにたどっていこう...
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コンピュータの歴史関連

10分でみる コンピュータの歴史

これはAnimation Channelの動画です。Animation Channelはコンピュータ関連以外のたくさんの分かりやすい動画を作っています。

コンピュータの黎明期(NHK?)

大阪大学の城憲三先生の果たした功績は大きいのですね!

NHKコンピューターの時代「第2回限りなく速く、そして」

坂村健さんのトークが出てきて、ふむふむと聞いてしまいます。

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能力開発工学センター(JADEC)の公開動画

JADECは面白い動画を公開されていらっしゃいます。いくつかのコンピュータ関連の分かりやすいどうがをご紹介します。

能力開発工学センター

コンピュータの正体をつかまえよう

もう少し子供向きの動画で見てみましょう。

コンピュータの利用を考えよう

大学にいた頃のコンピュータ

大学にあったFACOMの事

初めて”これがコンピュータだ!”的なるものに出会ったのは大学時代でした。当時、コンピュータは山の神様的存在で、専用の部屋に鎮座しているもので近寄りがたい存在でした。そして大きかった。大学にあったのは、富士通のFACOMでした。このFACOMでFORTRAN(フォートラン)を動かしていた訳です。FORTRAN言語は建築などの計算がお得意ということらしい。

Fortran

富士通のFacom Fortran

FORTRANの授業もありましたが正直、ついていけませんでした。一行7文字などの制限があって、プログラミングをし、最終的にパンチカードに打ち込みます。プログラム一行がパンチカード一枚になり、30行であれば、30枚のパンチカード、100行であれば100枚のパンチカードが必要になります。でもこの授業は面白くなかったなあ・・・。

穿孔カード

穿孔カード

先述しましたが、コンピュータは今のパソコンと比べ物にならないくらい大きかった。将来このコンピュータというものが、小型でしかも性能がもっと良いパソコンとなって、誰の家にも置かれる時代が来るとはとてもじゃないが予想出来なかった。でも、さらにその後、そのパソコンも、スマホやパッドにとって変わり使われてきた。今後はどうなるのか?

某大学のホストコンピューターにアクセス

大学卒業後、観光関連の施設を設計する建築設計事務所に入社しました。ある日、私の一年上の先輩と共に、別の事務所で一月ほど(出向ではない)作業をする様に命じられました。それは静岡県某市の宿泊施設の事業収支予想でした。

その事務所にはコンピュータの端末のようなものがあって、音響カプラーによって日本電信電話公社経由で某大学のホストに遠隔操作して計算させていたんです。あの当時は通信自由化になる前ですから、単純にモデムでというわけにはいかなかった様です。その当時としては先進的なことをしていたのだと思います。

Coupler

ただし、実際に私自身が行なった作業はほんの下働きで、国会図書館に調べ物に行ったり、書類にデータを書き込んだりしていただけです。

チャート図で描いていた日影図はコンピューターに

ある年に、静岡の某都市にホテルを建設することになりました。私は日影図を毎日のように手書きで書いていました。単純なマッチ箱のような建物でしたら日影図などスイスイと出来てしまいます。然し、一敷地の中に建物が群れで存在していると途端に難しくなる。特に等時間日影図は気が狂わんばかりに大変でした。

敷地に細かいグリッドを書いて、その一つ一つの交点をチャート図で逆追いしながら分析していきます。今から思うと人間業とは思えません。悲しいかな毎日その作業を続けていると、建物を見ただけで次第にどういう日影図になるか凡そ分かるようになります、不思議なことです。訓練の賜物か段々早く正確な日影図が描けるようになります。

3. 日影による規制の解説1
日影規制の内容とは法的にどんなものなのか。その解説1

日影図を覚えた頃は一日一枚がやっとでしたが、慣れてくると二枚以上書けるようになるんですね。1981年頃でしょうか、ある日、ゼネコンが決まりコンピュータで日影図を描いてきました。私が描いたものとほぼ同じ曲線になっていました。上司が「??君(私の事)の日影図はコンピュータのと同じだ」と言って喜んでいました。

然しながら、私にとってはコンピュータが私と同じような線を描いたと言いたかったんですね(笑)。然しその時私ははっきりと感じました。この日影図は、もはや手作業で書くものではない。コンピュータがそれにとって代わるべきものなのだと

マイコンの時代

FM8との出会い

FM8

Sasaji homeより
http://s-sasaji.ddo.jp/

1982年、その日影図を書いたホテル増改築工事に私は常駐をしました。オーナー側の事務所には色々な方がいらっしゃいました。その中でも話しやすい方として私より数歳若いIさんが居ました。Iさんは新ホテルの経理関連システムを担当してました。Iさんは個人用ですが小さなコンピュータを持っていました。

その名も富士通のFM-8。ハードディスクは無く、モニターも一体型で、今となってはショボイ機械かもしれませんが、あの当時は画期的な機械でありました。勿論私にとって羨望の対象です。その当時はパソコンではなくマイコンと言っていました。マイコンはマイクロコンピューターの意味です。私は午後7時頃仕事が終わるとIさんの居る事務所に直行しました。

色々な話を聞いたり、FM-8に触らせていただいたりと興味津々だったんです。あの当時コンピュータ雑誌はすでに本屋にありました。ただ現在と異なるのは本を開くとプログラムばかり書いてありました。コンピュータを買う人=プログラムにいそしむ人という感じがありました。雑誌に載っているプログラムはベーシックで書かれていたものと機械語でかかれたものがありました。

基盤

nanoslavicによるPixabayからの画像

そのプログラムに興味があればコンピュータに打ち込んで実際に試してみる事も出来ました。プログラムはベーシックよりも機械語で書かれて居るほうが処理が早いという話も聞きました。ベーシックだと一度機械語に翻訳する負荷がコンピュータにかかるからだというのが理由でした。その当時、売っているソフトはあったはずです。

ただ、当時プログラムを自分で作成して自分の機械で動かす楽しみというのもあったようです。それがその当時の機械オタクだったのかも?そして自分のコンピュータを持つこと自体がオタクたる所以だったのかもしれませんね!コンピュータと人間がもっともっと近かった時代。ある意味牧歌的でとても良い時代だったのかもしれません。

コンピュータを持つ人全員に色々な可能性があったわけですから・・・また、下の二つのホームページは昔のマイコン、マック、ベーマガなどを楽しめるページです。おふたりとも好きなんだろうなあ・・・と感じます。

 

SASAJIe'S HOME

 

懐かしいパーソナルコンピュータカタログ[Historic Personal Computer Leaflets]

 

ブラインドタイプの練習

Iさんと話をし何度もFM-8を触っている内に私はコンピュータの雑誌に書かれているゲームをプレイしたいと思うようになりました。ところが実際にプログラムを打ち込み始めると、意外に大変な作業であることが分かりました。プログラムは何十行にも何ページにもわたって書かれています。もっと効率よくタイピングが出来るようになればよいのではと思うようになりました。

それならばブラインド・タイプです。急がば廻れです。FM-8には標準でしっかりしたタイピングソフトが付属していました。夕方仕事が終わった後、私は日に一時間近く練習を開始しました。二週間ほどたった時には、よちよち歩き、一ヶ月後アルファベットは見ないでもしっかりタイピング出来るようになってしまいました。

Basic Magazine

Basic Magazine
Sasaji`s Home
http://s-sasaji.ddo.jp/

ゲームでも何でもそうなんですが、自分のやりたい目標がしっかりあると、上達も早いものです。さて、ブラインドタイプが出来るようになったらゲームの打ち込み開始です。完成したときの喜びは他に代え難いものがありました。

その後、ベーシックで簡単な仕上げ表などを加工作成しました。将来、仕事にも役立てる事も考えてました。そろそろ自分専用がほしいなあと思いました。Iさんに付き添ってもらい富士通のショールームに本体購入検討にも行きました。常駐した年に、FM-7, FM11という機種が出ました。FM-7はFM-8とほぼ同機能で安く、FM11はFM8とほぼ同金額で性能は上という位置づけだったように記憶してます。

大変魅力のあったマシンでした。ただ、仮に買ったとして、自分は何に使うのかと冷静に考えたら、結局買えなくなってしまったんです。ゲームするには高い買い物ですしね!

スリランカ・コロンボで

firefighter

David MarkによるPixabayからの画像

1985年9月、スリランカのコロンボに常駐しました。某国際ホテルの建築設計監理のためです。ゼネコンはT建設で日本人スタッフだけで20人以上は来ていたと思います。ゼネコンには私と同大学で四年先輩の方が居ました。Tさんです。とても親切な方で今でも尊敬してますが、この方が機械好きで、マイコンを持っていたんです。

多分NEC98シリーズの初ハードディスク搭載の機械じゃなかったかな?と思いますがはっきりした記憶ではありません。ところがある日残念な事が発生します。現場事務所の火事です。Tさんのコンピュータは勿論の事図面も何もかも燃えて無くなってしまいました。私が常駐して二週間目くらいの頃でした。そもそも忙しいから常駐することになったわけで、毎日図面との格闘でした。

火事になる前の時期はとてもじゃないが、コンピュータといそしむ時間などありませんでした。当然ながら触れることもありませんでした。スリランカに常駐していた当時は、我々の設計監理室に秘書兼タイピストを雇ってました。だから、この当時はタイピングする必要がなく、あまりキーボードに向かう機会は無かったんです。

テレックス

テレックス

telex

テレックスはコンピューターの枠組みに入る話なのか微妙ですが、現在は通信手段としての機器のイメージが強調されているので、一応項目として入れます。さて、ゼネコンの事務所にテレックスがありました。これは国際回線で文章をやり取りする方法で1980年代-1990年代くらいまでは一般的な通信手段だったと思います。

海外の方に名刺をいただくと、良くテレックス番号が書かれている事がありました。文字数で通信代金が決まりますから、なるべく文字数が少ない方が安くなりますので、なるべく省略形を使いつつ要領よく送信する事が求められます。Pls bk a rm

英語の略語一覧|メールやSNSで今すぐ使える厳選92個
ネット社会では欠かせない英語の略語。しかし、メールやショートメッセージなど一度覚えればとても便利です。使いこなせば、まさにネイティブ英語と同じでクール!

テレックスを要領よく書くためのテキストブックを買って少し勉強した事もあります。1986年の頃、その現場事務所の女性が自社のテレックスでシンガポール支社のテレックスと国際回線で繋ぎ、ダイレクトにタイピングで通信をしていました。これは今で言うチャットみたいなものです。これは面白そうだと思いましたね。

私もいつかこういうことが出来るようになりたいと・・・思いました。

テレックス - Wikipedia

(歴史的には日本では確か通信自由化されカプラでなくモデムを使うことが出来るようになった。そしてこの年だったか翌年にはパソコン通信のPC-VANやらNIFTY-SERVEが立ち上がっていたと思った。)

台北では何故か逆行、オリベッティのタイプライター

タイプライター

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1987年4月スリランカから帰国、同年10月に台湾の仕事を担当するようになりました。東京に戻るとオフィスに共用のワープロがありました。私がスリランカに行っている間に購入したものらしい。当時のワープロは専用機でしたね!ワープロ打ちは主に事務スタッフの仕事の一つだった。現在文章を作る際は自分で打って作っていきますが、当時は誰かに文章を作らせていました。

ただ、私はワープロ専用機には興味はなかった。半年後、台湾に半常駐状態になりベッタリになりました。インテリアデザイナーはLAの人だった事もあり、英文のレターを効率良く作る道具が欲しくなりました。もし、効率を重視するとワープロ選ぶ事になるのですが、ワープロはまだ高価で結局私は英文タイプライターを買いました。

買ったのは復興南路と忠孝東路交差点付近にあったそごうデパートでした。オリベッティ製で確か1.5万円くらいだったと思う。手動式でイレイザーもついていなかったので、修正液と格闘しながら打っていました。あの当時タイピング力が復活してしまいました。この様にこの当時はコンピュータらしきものは買っていません。

パソコンの時代

イスタンブールでエバンジェリスト現る

台湾に常駐していた頃はコンピュータらしき物も買わずにあっという間に3年過ぎました。1990年帰国し、私は同年9月にイスタンブールに常駐しました。この頃現場にいた同僚がなんらかの小さなポケットコンピュータを持っていました。確か、それでゲームもできました。久しぶりにコンピュータらしきに興味が湧いた頃でした。

東京から出張者に盛んにMacを勧める人がいました。その人はSEを持っていましたが私にはクラシックを勧めました。実はその時少しその気になっていました。

インターネットとの出会いの頃

インターネット

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

1991年に帰国すると新しい部署ができていました。詳しくは書けませんが、各種研究をしていく部署でした。その部署にいた人達は殆ど毎日パソコンに向かっている人達がいました。自分の仕事が終わり、その部署に行くと色々とお話をしました。そのおかげで色々な勉強をしました。確か、皆さんはマッキントッシュを使っていらっしゃったと思います。

我々の部署にもマッキントッシュが何台か置かれていましたが、仕事に役立つ事からは少々程遠い、シムシティをしたのを覚えています。その後、1993-94年頃だったでしょうか?例の研究をしている部署でNCSA mosaic(通称モザイク)というブラウザを操作させていただきました。これは驚きでした。例えてみれば、ドラえもんのどこでもドアにだった時の様な衝撃だったのです。

これが私のインターネットとの出会いでした。今にして思えば見るようなページは多くなくて、大半が英語のページだったと思いますが、面白かったのです。

Dマートでマッキントッシュやコンパックが売られていた時期

また1993-1994年頃、松戸のDマートでパソコンが売られていた時期がありました。コンパックの初心者向きのパソコンやアップルのPerforma550があったと思います。apple製品がダイエー系列のDマートで比較的手頃な値段で売られていた時期というのはあの時期だけじゃないかな?と思います。大いに心は揺れましたが、結局あの当時も買わなかった。

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まだ、秋葉原に行くレベルに達してませんでしたね

akihabara

Judith ScharnowskiによるPixabayからの画像

1995年頃、Windows95が出るという事で、パソコンのニュースが目につくようになりました。例の部署で良く話す人は「先日、秋葉原に行ったら受け取ったカタログがこれなんですよ。某宗教団体のパソコン。安いんですけどね・・・ちょっと買う気になりません」・・・そりゃそうだなあ・・・と私も思う。

カタログももらいこれだったらいかが?って感じでアドバイスをもらいました。でもまだ、一歩が踏み出せません。そこで私は秋葉原に行こうと思ったわけです。ところが、しっかりとした知識も無くて、漠然とパソコンを見に行って「じゃあ、これ下さい!」という感じで買えるようなものでもありません。カタログ以外に勿論雑誌も見ていたのですが、それでも何が何だか分からなくなったのです。

その顛末を研究の部署のスタッフに話すと「まだ、秋葉原に行くレベルに達してませんでしたね」と皮肉交じりの事を言われてしまいました。

再びエバンジェリストがささやく・・・

そんな悩んでしまった私に囁いた人がいました。イスタンブールでクラシックを勧めた人です。名前はWさん。ある日、Wさんは私を夕飯に誘い。そこで私の顛末や希望を話したんです。Wさん曰く「希望を聞いていくと、どう考えてもアップルの商品の方が良いと思うんだよなあ・・・」それを聞いた私はふーん!という感じではありました。

でも、アップルのパソコンという目で見ていくと、初心者向けのPerfomaというシリーズが有るし、選びやすいと思ったわけです。また、翌年の1996年2月には香港に赴任が決まっていたので、早くパソコンも決めたかった。ある日、ソフマップに行き見ていったら、Performa5220にしよう!という事になってしまった訳です。

Mac5220

To be continued!

Performa5220を購入してから、インターネットに手を染めます。その後私は香港に赴任しますが、それからの事を書き始めますとえらく長くなりますので、今回はこの辺でペンを置きます。

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