昔日の松戸昭和の松戸を歩く

松戸のらーめん屋さんの思い出(主に昭和の頃)

ラーメン 昭和の松戸を歩く
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食文化とラーメン

日本蕎麦屋の中華そば

日本そば屋

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私が子供の頃、ラーメンという言葉を聞くと現在のラーメンの様なものではなく、どちらかというと日本蕎麦屋で中華そばというのを出していたが、そんなイメージが強かった。我が家から近かったのは、南花島と竹ヶ花の境の辺り、酒屋の先にあった日本蕎麦屋だった。今はこ線橋の降り口になってしまい、随分風景が変わった。

あのお店では何故か、店頭でコーン付きのアイスクリームを売っていて、店内でも食べられた。あれは昭和37-8年の頃だったか?当時、勿論中華料理屋はあったんだろうけれど、残念ながら当時は入ったことが無かった。

夜鳴きそば

夜鳴きそば

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私の実家のある竹ヶ花はほぼ住宅街であるにも関わらず、近くに東葛土木事務所、保健所、職業安定所、竹の湯などがあった為か、夜鳴きそばのおじさんが、毎晩チャルメラを鳴らしながら近所にやってきた。あれは実家でやきそば屋をしていた頃だったので昭和40-41年頃だったか?多分需要があったんだろう。

カーバイトの臭いが何とも言えなかった。この夜鳴きそばで提供するのもどちらかというと、日本蕎麦屋で出す中華そばの延長だった記憶がある。ただ、当時は街中に虫が多くて、我が家の庭にも誘蛾灯があった。この為か、夜になると虫が多く集まってきたので実に嫌になったが、その中でもオオミズアオという水色の大きな蛾が誘蛾灯の下で死んでいる事があった。

迂闊にもオオミズアオの鱗粉のついた手で夜鳴きそばを食べてしまい、えらく苦い味がして、それ以来夜鳴きそばが食べられなくなった。子供の頃というのはそういうちょっとした事で、食べ無くなったり、嫌いになったりするものだ。あれは苦い思い出だ。

オオミズアオ - Wikipedia

インスタントラーメン

即席めん

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夜鳴きそばと前後して、インスタントラーメンというのを食べた。日清から出していたチキンラーメンやエースコックのワンタンメンの類だったと思う。エースコックのワンタンメンを食べ過ぎたことがあった。そのためか、ジンマシンに悩まされた。かゆくてたまらず、母に連れられて浅間台の市立病院(当時は浅間台だった)で診察してもらった。

医者曰く「インスタントラーメンの食べ過ぎが原因だから、暫くやめなさい」と言われた。本当にワンタンメンの食べ過ぎが原因だったのかどうかは別にして、その時を境にワンタンメンは食べなくなった。その後、チャルメラ、長崎タンメン、などが発売された。ある時同級生のK君の家に遊びに行ったことがあった。場所は上本郷だったけれど、南花島の先の方だった。

K君のお母さんが即席ラーメンを作ってくれた。ありがたかったが、何故かK君のお母さんは即席ラーメンを茹でるときに一生懸命菜箸でかき回すものだから、麺がドロドロになってしまって、とても食べられなくなった。あれから即席めんがきらいになった。でも、サッポロ一番味噌ラーメンは、家では何故か美味しく食べられた。

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本格的ラーメンとの出会い

らーめん 太郎との出会い

多分あれは高校生の頃だったと思う。松戸駅東口に手打ちらーめん 太郎が出来た。これに母が嵌り、私を連れて行ってくれた。妹も一緒だったと思うが覚えていない。特徴としては、ミニ餃子が美味しかった事、それと味噌ラーメンがえらくコクのある味で、にんにくの香りが高く、非常に美味しく感じたものだった。

手打らーめん 太郎(松戸ライフの広告)

1974-75年頃の松戸ライフ(株式会社東葛出版発行)の小冊子の広告だ。

手打ちらーめん 太郎

五香店 五香駅前
稔台店 稔台産業道路沿い
松戸店 松戸駅東口

らーめん太郎広告

らーめん太郎広告
1974-75年頃の松戸ライフ(株式会社東葛出版発行)に掲載されていた広告

店のつくりから器にいたるまで民芸風にまとめた異色の店。ラーメンのもつ中華イメージをくつがえし、和食のなかにしかもふるさとへの郷愁を満喫させる。手打ちのもつ響きがそっくり伝わってくるから不思議だ。手打ちの考案者・石井良太郎さんのねらいとした真髄もそこにあるわけだが、いまでは都内あたりからも手打の味覚を求めてファンが食べにくるほどだ。
風味は吟味されたメンとコクのあるスープ、それに加えてボリウムと、三拍子そろっていて、ラーメン通にはこたえられない。太郎独特の調理法はやはりオリジナルな手づくりに加えてユニークな組合せから生まれる。量感も空腹に堪えられない人を基準にしてーと各店長の話だけに一杯でホントに満足という感じ。
手打ちらーめんのほかに一口ギョーザ、4月からはじまる冷し中華もまたユニークさで売る。
日本的いずまいのムードで、日本人の味覚感にピッタリのラーメン。これこそ本格派を唱うだけのことはある。
◇営業時間 午前11時半~午後9時
◇休日   木曜日(但し東口店は火曜日)

松戸ライフ(株式会社東葛出版発行)1975年より

 

昔日の松戸で書いた投稿(天王台の太郎)

2017年10月末頃、我孫子の先の天王台にらーめん太郎がある事を知り、わざわざ食べに行った。店主はかなりの年配で、多分ホールを担当していたのは奥様だと思うが、二人ともご高齢だった。この投稿はその時のものである。

昔日の松戸 

らーめん太郎 2017年11月17日記

味噌ラーメンを初めて美味しいと思って食べたのは多分”太郎”だったと思う。太麺でニンニクの香りが利いていて、なんとも食欲をそそる味だった。それに加えて一口餃子というのがあって、小さいサイズの餃子、これもまた美味しかった。高校生くらいまでは、親のすねをかじりつつ行くのでそうそうは行けるものでもなかった。

松戸市には松戸東口店以外に少なくとも北松戸店、稔台店、五香店があった。“ミシバ”さんという太郎の従業員の人が、「今度市川で店を出すから」と言った。その為、わざわざ、バイクで市川まで食べに行ったことがあった。南口駅前だったと思うけどあまりよく覚えていない。“ミシバ”さんとは旧水戸街道沿いの自転車販売修理業の長野輪業さんで知り合った。

長野輪業さんは業務終了する午後7時頃になると、近所の若い衆が集まってきて酒盛りが始まる。業務終了と言ってもお客さんが来れば店主の長野さんは対応していた。その酒盛りをしていた面子の中に”ミシバ”さんが居た。その他、テーラーキワの職人のフルちゃん、金山神社の近くに住んでいたエビちゃん。ちゃん付けして呼んでいるが私より年上の人たちばかりだ。

話は戻る。ダイエー近くで15年くらい前に”ミシバ”さんがラーメン店を経営していた。名前は太郎ではなかったが、記憶があいまいで思い出せない。その店をやめた後”ミシバ”さんの消息が途絶えた。

最近、我孫子に”手打ちらーめん太郎”という店がある事を知ったので行った。本当は同級生と一緒に行こうという事になっていた。ただ、今秋は週末雨の日が多く、我孫子どころかどこにも行けない状態が続いていたので、しびれを切らして、私は一人で行った。場所は天王台駅から手賀沼方向に歩いて20分強の場所。


閉店時間が近かったが、味噌ラーメンと一口餃子を注文した。味噌ラーメンも一口餃子も昔食べた味そのまんまだった。実に懐かしい。店内は小綺麗に手入れされていた。帰り際店主に思い切って「もしかして松戸の太郎に居ましたか?」と聞いた店主曰く、元々稔台の店を運営していたが、後に五香の店を任され暫く五香の店を運営、後年我孫子の店に移ったのだとか・・・

“ミシバ”さんの事を伺ったら短期間だけど一緒に仕事したことがあった。知っているとの事だった。ただ、残念なことに鬼籍に入られているとの事だった。詳しい事はここでは書けない。

どさん子ラーメンが流行ったけれど

松戸駅前の再開発が進み、駅も新しくなった頃だった記憶があるが、松戸駅西口の不二家の右となりの野田ビルにどさん子ラーメンのお店が出来、食べに行った。これについては、下記のページでもう少し詳細を述べたい。

松戸にゆかりのあるラーメン店-1
生まれて初めて食べた味噌ラーメンは、サッポロ一番味噌ラーメンだった。小6か中一の頃だった。それ以来味噌ラーメンにはまり、色々なラーメンを食べた。今回は松戸にゆかりのあるラーメン屋、ラーメチェーン、ラーメン寺子屋などについて書き記しておきたい

維新號(松戸駅西口)の味噌ラーメン

松戸駅西口第二日発ビルの一階に維新號はあった。2024年現在そこには横浜家系壱角家ラーメンがある場所だ。この維新號の味噌ラーメンが独特で、ラーメンに乗っている肉みそとの相性が絶品で、必ずコーンをトッピングさせて食べた記憶がある。良く行ったなあ・・・あれはバブル崩壊前後だったと思う。

覚えている方はいるだろうか?後年、松戸駅東口に同名のラーメン屋さんがあったが、同じ系列だったのかどうか分からない。東口のお店は木屋の横にバスターミナルに通じる抜け道があるが、その抜け道沿いにあった。実はこの維新號に東口の板前だった小林君が一時働いていたっけ・・・

上のストリートビュー(2009年)の木屋横にバスターミナルに繋がる抜け道があるが、この抜け道の上部に看板二つがあり、赤地に黄色の文字の看板が維新號だった。現在もこの看板はあるにはあるが、店名だけ書き換えてある。

板前の小林君
松戸駅東口で(多分)知る人は知る、知らない人は知らない元板前の小林君について、自分の思い出と共に書いてみた。マザーグースを始め、はなまる亭、維新號、韓国居酒屋かずちゃんに移動した。随分前にアップロードしたものを内容を修正、増強して再発表した。
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ラーメン・餃子・お酒の組合せ

札幌ラーメン”えぞふじ”

31-32歳の頃だったが、竹ヶ花の旧踏切付近に札幌ラーメン”えぞふじ”があり良く行った。北松戸で砂場蕎麦屋をしていた茂木青年とこの店で会った(茂木青年のお姉さんは同窓)。飲みながら食べる楽しみを知ったのも先ずはここだったかもしれない。

さて、下の文章は、以前昔日の松戸で書いたえぞふじに関する文章である。

昔日の松戸
40 札幌ラーメン「えぞふじ」-竹ヶ花踏切付近

餃子

餃子イラスト

はたして私はいつから太ったのだろうか?スリランカから帰国した直後はそれほど太ってはいなかった。スリランカでの食材事情は決して理想的ではなかった。何故なら日本食の食材確保が簡単では
なかったからだ。納豆、漬物、アジの開き…これらは日本食材店に行けばあったが、常備されていない。

店主に聞けば「今買い出しに行っているから来週入るよ」と言われる。でもいつになったら入るか何とも言えない。米はスリランカ米があったが、臭くてとても食べられない。そのため輸入したオーストラリア米やカルフォルニア米を買った。それさえ市場から欠乏した。そんな状態だったから帰国して嬉しかった。自由に何でも食べられるのがうれしかった。

松戸駅西口からの帰路、根本の松北堂書店の対面にあった札幌ラーメン屋「えぞふじ」に毎晩のように通った。餃子等を肴に焼酎を飲み最後に味噌ラーメンを食べる。この生活を毎晩繰り返した。しかも夜中の12時過ぎ。太るはずだ。札幌ラーメン屋「えぞふじ」の店主は何度か替わったらしい。私の知る当時の店主はシナリオ作家志望の三十代~四十代前半の人だった。

歳は重ねたけれど芽が出ず、でも作家になる夢を捨てきれず、思いどおりにならない人生に不安と憤りを感じつつラーメン屋業を営んでいた。そんな人だった。飲みながら店主と色々な話をした。映画についてはきわめて饒舌になった。そして、お互いどんな映画が好きかというテーマになった。

私は作家志望の人間に語るほど映画をたくさん見ていたわけではないが、私の好きな映画を一つ一つあげていった。ご主人が話を合わせてくれたのかもしれないが、好みの一致した映画は小栗康平監督の「泥の河」、フェデリコ・フェリーニ監督の「道」だった。どちらも大好きな映画で、特に「泥の河」は昭和三十年代の貧しい庶民の生活が描かれ宿船で娼婦を営んでいた親子と食堂を営んでいた親子、その子供同士の心理描写が素晴らしい。暗い映画ですが……

「道」はイタリア映画でジュリエッタ・マッシーナ及びアンソニー・クイーンが主演。 決して美人とは言えない、白痴の女性役ジュリエッタ・マッシーナの演技力がなんとも言えず、アンソニー・クインの心理変化、描写も興味を惹いた。(確か、その後ジュリエッタマッシーナは監督のフェデリコ・フェリーニと結婚した)そしてとめどもなく話は続いた。

数年後・・・正確な時期は忘れたが、店主は真剣に脚本の勉強をする決心を打ち明けた。これが最後の挑戦のつもりだと言う。その為にはやはりラーメン屋業をやめないとならない。 ラーメンを作りながら脚本の勉強とはいかないらしい。

表の家「何処行くの?」
店主「取りあえず御徒町の松坂屋の地下食料品売り場で働きながら勉強するよ」

店主の名前は聞いていなかったので、成功したのか失敗したのかさっぱり分からない。成功したと信じたい。

後に居酒屋「しぐれ」で飲んでいたら店主と「えぞふじ」の話になり「ああ、確か野田出身だと言っていた。あいつ可愛い女のお客さんが来ると店閉めて何処かのみに行っちゃうんだ。面白いやつだったなあ……」だそうで!

かつての松戸を思わせるお店

とり福

とり福

とり福

このお店は松戸駅西口区画整理前には松戸駅西口前にあったお店だけれど、区画整理後にダイエー近くの店舗に移った。中華そばの暖簾が郷愁を誘う店だが、実は初めて入ったのは2003年頃だったか、冷やし中華と餃子、ビールを飲んだ。すでに無いお店だが、とり福めんを食べていなかったのが残念だ。

『大衆中華らしい味に「中華 鳥福(とり福)」~松戸~』by へなちょこ|鳥福のクチコミ【フォートラベル】
松戸駅からちょっと歩いたところにあるお店がここ「中華 鳥福(とり福)」。ここは、よく近所にある昔ながらの中華料理屋さん&ラーメン屋さんの雰囲気で、店頭ののれんの”中華そば”という表現がその典型のようで... 鳥福(船橋・習志野)についてへな...

味華について

味華という店はアイデアマンの社長が活躍して、中華の価格破壊をした店で、にんにくの入らないジャンボ餃子など特徴があった。味華のラーメンにどっぷり嵌った訳では無かったが、近くの国際ホールで玉遊びで夢中になってしまった合間に味華で良く昼飯を食べたものだ。下記は、かつて昔日の松戸で書いた一文です。

昔日の松戸

餃子の味華-松戸駅東口

味華

味華
2003年撮影

大学を卒業し就職する際、両親がお祝いという事でネクタイを一本買ってくれた。東口の伊藤楽器の並び若しくはもう少し扇屋寄りに小さなネクタイ屋があり(確か「寿屋」)ネクタイを買ってくれた。狭い店内で、ネクタイ選びに悩んでいる母に店員がこんな事を言ったそうだ。

「最初のネクタイは地味な方が良い。最初から派手にすると、その後センスが悪くなる」

本当に派手なネクタイから始めると本当にまずいのかどうか私は分からない。

このネクタイ屋はいつしかなくなった。そして、1975(昭和50)年松戸駅東口伊藤楽器付近に「味華」が開店した。スナック「純」が入っていたビルの一階だ。社長は飯田さん。ラーメンの常識を破るような価格設定と独特のニンニク抜きのジャンボ餃子が人気。ニンニク臭くない理由から市役所の女性職員にも好まれた様だ。

母によればネクタイ屋「寿屋」でネクタイ選びのアドバイスをくれた人が、この「味華」に転職し調理人として働いていたとのことだった(「味華」が閉店する寸前までこの人は働いていた)。ネクタイ屋がうまくいかなくなって転職したのか?或いはネクタイ屋も「味華」も同系列だったのか(元々社長は味華を開店する前、アクセサリー屋を営業していた)いまとなっては分からない。

「味華」は華々しくデビューし、数年後長谷川不動産の右隣に移動し新装開店してその場所で何十年と続いた。学生ラーメン二百五十円、華ラーメン二百八十円など、とにかく安かった。妹も度々ジャンボ餃子を買ってきた。食事をするとサービス券がもらえる。これを何枚か集めるとジャンボ餃子?と交換出来た。

1996年頃、松戸駅西口ラーメン激戦区に「味華」系列のラーメン「無」が出来た。出来た当初は系列店とは知らず、餃子がジャンボ餃子だった事と、壁に貼ってあった保健所の営業許可証が「味華」と書かれていた事から気づいた。中央の調理場を囲みU字型のカウンター席になっていて二十席あった。

らーめん無

らーめん無
2003年頃撮影

店長は小泉元首相にちょい似の上野さん。洋食レストランのシェフの様な出で立ちで、背が高く、ダンディでラーメン屋の店長には見えなかった。いつもテーブルの上に置いてあった生ニンニク、ニンニクつぶし、ニラの辛子味噌和え等があって、好きなだけ入れる事が出来た。「無」のチャーシュー麺の大盛りにジャンボ餃子を注文すると、とても最後まで食べきれなかった。

「めん組」と競り合っていた頃までは混雑していたが「ラーメン二郎」や「花月嵐」の出現以降、思ったほど混雑しなくなった。店内から遠目に「ラーメン二郎」の行列を見ている店長の姿が印象的だった。ラーメン「無」のラーメンスープは、トンコツ、醤油、味噌の3種類。

うまかラーメン(博多ラーメン風味)五百五十円、うまいラーメン(醤油味)五百五十円、味噌ラーメン五百五十円、特製味噌ラーメン六百円、無ラーメン二百八十円、支那そば四百八十円といったメニュー構成だった。八年間続いたこのラーメン「無」は健康上の理由で2004(平成十六)年七月三十一日閉店した。

2009年頃だったか、松戸駅東口の味華が小火(ぼや)を出したという噂を2CHで目にした。朝通勤時味華の前を通るとシャッターが閉まったままで、何日経ってもロックアウトの状態が続いた。その後、改装が始まったかと思うと結局味華ではなく日高屋が開店する事になった。店舗改装時、鉄骨の耐火被覆が剥き出しで、果たしてどこまでアスベスト処理したのか非常に気がかりで見ていた。

飯田社長!味華どうしちゃったの?

ラーメン無@松戸

 

最近たまに行く店

Life is good

半年くらい前から時々訪れるお店。場所は、根本で20年くらい前まで朝霧というお店があった場所で、和実花と陣太鼓の間くらい。昼は担々麺、酸辣湯麺、焼き餃子、水餃子などで、夜は単品料理があり、お酒を飲みながら楽しめる。お店に関する詳しい事は、下記のページが詳しいので、そちらを参照されたい。

松戸に中華料理新店が1周年 元台湾料理店料理長の店主が担々麺、ギョーザなど提供
「餃子(ギョーザ)とお酒 ライフイズグッド」(松戸市根本、TEL 080-8081-5138)が6月2日にオープン1周年を迎える。

魔乃巣

以前、根本の松の木橋を渡って少し歩いた場所にBar魔の巣というお店があった。その店に実は非常に良く通った。店主はお酒よりも、燻製を作ったり、カレーを作ったり、お酒以外の道を模索していた。同時にバーとしての営業は店主の望みには達していなかったらしい。ある時、彼は店をたたんだ。行先は、現在のラーメン店なのだが、当初バイクで事故ったりして、皆を心配させた。

怪我も治り、ラーメン店として開店したら、なんと大当たりし、このラーメン激戦区にあって、有名店になってしまった。すごいね。

まちレポ!松戸『魔乃巣』~カレーつけ麺が超おすすめ!穴場的なラーメン屋~ | まちしるべ®
スパイシーで美味しいカレーつけ麺のお店。 夫「魔の巣に行こう。」 私「なにそれ、コワイ。」 突然何を言い出すの

コメントにあったお店

桝屋(南花島250付近)

桝屋さん

桝屋さん2008年3月9日撮影

2008年頃、付近の竹下理容さんの撮影をするために訪れた際、撮影した元桝屋さんの建物。現在は建売住宅二棟が建っている。桝屋さんはこ線橋の下付近にあったが、こ線橋が出来る前に旧水戸街道に面した所に似た名前のお店があって、その店がここに立ち退いたのかと考えていたが、どうやら違うらしい。

中華萬来軒(南花島4丁目)

上は2011年4月のストリートビューで、正面に40キロ制限の標識があるが、その先の庇看板のあるお店が中華萬来軒だと思う。多分、セブンイレブンが出来る頃なくなったのではないだろうか?

その他

その他、色々なお店があったと思うが、かなり忘れているので、主に昭和の頃の印象的な店について思い出したら加えていく予定です。いずれ、十三湯麵hideも書こう。

関連ページ

松戸にゆかりのあるラーメン店-1
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松戸にゆかりのあるラーメン店-2
松戸にゆかりのあるラーメン店を書いてきた。それはラーメンだけに特化したお店と、中華食堂としてラーメンを出している大きな二つのケースがあるが、前回の書き込みで書ききれなかったチェーン店、珍来とゆうえんについて、補足的に書いてみたいと思う。

コメント

  1. エイム より:

    ご無沙汰してました!エイムです!
    ラーメン投稿にコメントしたくなりましてw
    私が松戸に住んでいた頃も、チャルメラ(屋台)が来てました!
    当時ラッパの音が聞こえると、父親に「チャルメラ止めて来い」
    と言われ、その後ラーメンどんぶりを持って母親が買ってくれましてね。
    まだ小学校低学年の頃でした。

    その後南花島にも中華食堂ができて、たまにラーメンや餃子を
    食べに行った思い出もあります。
    店名は忘れましたが、南花島4丁目、スバルの向い辺りでしたか。
    跨線橋から6号線に通じる通りですかね!

  2. エイムさん、

    コメントありがとうございます。
    南花島四丁目で、スバルの向い付近にあった中華食堂というと中華萬来軒でしょうか?
    私は入ったことがありませんが、エイムさんが南花島にすんでいらっしゃた頃の住宅地図はありませんでしたが、1987年の住宅地図に書かれていました。やはり、南花島にも夜泣きそば(チャルメラ)来ていたんですね!
    後の阿部サダヲ少年も食べていたかもしれませんね!

    • エイム より:

      確かに萬来軒とかいう店名だったかも知れません!
      私が引越す2年位前にできたような・・・
      ソフトボールチームの打ち上げで食事した覚えがあるので阿部くんも行った可能性
      ありますね(笑)

  3. うしとら より:

    南花島四丁目の中華屋さん、名前は忘れてしまいましたが、行ったことがあります。八柱方面から松戸駅に向かうバスの停留所の前でしたね。私が行ったときは息子さんの代になっていましたが、その息子さんが亡くなって閉店することになったと聞いています。
    我が家でラーメンというと、南花島中町の跨線橋の下にあった「桝屋」さんの出前でした。私が成人しても営業していました。印象に残っているメニューは、ラーメン以外でもかつ丼とカレーが美味しかったです。跨線橋の下で目立たないからなのか、郵便配達員が店内で食事していることが多かったようです。
    ラーメン太郎は、中学生と時に北松戸駅前の塾に通っていたときに、友達と昼食に北松戸店に行くのが楽しみでした。味噌ラーメンが人気で、1980年代で確か500円だったと記憶しています。
    維新號は、1990年代に松戸駅東口のお店に行っていました。もともと西口にお店があったことは知りませんでした。文房具屋の「木屋」の隣でした。こちらも味噌ラーメンが人気だったと思います。

    • うしとら様、
      こめんとありがとうございます。南花島四丁目の中華屋さん(エイムさんが書いたお店)らしきストリートビューを張り付けておきました。こ線橋の下の竹下理容近くの桝屋さんは入ったことがありませんでしたが、これも廃業後らしき写真がありましたので、文中に入れておきました。北松戸の太郎は私も行きました。北松戸店は確かかなり後発組だった記憶があります。ちがうかな?維新號の東口のお店は木屋の横に抜け道がありますが、その抜け道途中のお店でしたね。これもストリートビューを張り付けました。私はあの店は何度か行きましたが、閉店する際は店のファンが多かったらしく、その維新號ファンの人たちとワイワイガヤガヤと食べましたっけ・・・懐かしいです。

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