はじめに
この投稿は2008年に作成し発表したものです。竹の根商店街に補足的になるものだと考え加えました。下記と併せて御覧くださいね。
戦後の竹ヶ花根本南花島一帯とヤマザキパン工場
昭和30年代とはすっかり変わってしまった竹ケ花西町を中心としたエリアについての簡単な説明です。
昭和22年の竹ケ花西町エリア(国土地理院の空中写真より)
上の空中写真は国土地理院の空中写真閲覧サービスから利用した。米軍の占領下にあった1947(昭和22)年における根本、竹ヶ花の空中写真に説明を加えたもの。時代的にヤマザキパンの工場はない。かじ坂(カジサガ:注1)方面から渡るあきら跨線橋及びイチョウ道路はない(注1:竹ヶ花に住む古老はカジサガと発音した)。分かりやすくするため、あきら跨線橋及びイチョウ道路を黄色で線引きした。
雷電神社の森は連なっていた
上の写真は同様に国土地理院、1947(昭和22)年の米軍による空中写真を拡大したものです。雷電神社の樹林をご覧下さい。現在は独立した山の様な状態になってますが、戦後当時はこのように連続した山の形状で雷電神社の山はもっと大きかった。この為、この高台から浸透した水がその裾野に湧水となって現れていた所は多かったようだ。
この雷電神社の高台南東はある人の土地だったが、売られて人手に渡り、区画整理が行われ、変貌し吉井町となった。竹ヶ花の踏切付近から市役所方面に向かう市道はまだこの当時はない。
竹ケ花から南花島の状況
竹ヶ花の島根自動車の横の道は案外古く、写真に見える。竹ヶ花交差点で南花島の入り口に吉岡材木店があり現在は十字路でしかも跨線橋が二つあり複雑な形となっているが、この当時はY字路で分かりやすい。そのY字路交差点から新坂川にかけての地域は田畑が広がって見える。これは戦後当時、多くは笹屋(石橋酒屋)さんの土地という認識だったが、実はMさんも広い土地を持っていたらしい。
吉岡材木店の付近にあった河合肉屋さんも旧笹屋(酒屋)さんの土地で借地だった。河合肉屋のご子息、ヤエちゃんは私の同級生。現在河合肉屋跡は大きなマンションになっている。ところがこの笹屋(石橋酒屋)さんもその後色々とあったようで現在はない。また、南花島中町はこの当時はまだ、田畑だったことが分かる。
北部小学校の北側は田畑が広がっていた
北部小学校の付近は殆ど田畑で、北部小の校歌に出てくる♪しらさぎの~、しらさぎの~♪という節が出てくるが、実際シラサギが餌をついばんでいる姿を私は見たことが有る。古ヶ崎浄水場の右に綺麗に並んだ住宅群があり、これは現在の竹ヶ花西町。市営分譲地だったと聞いたことがあるがはっきりと覚えていない。
この当時は西町とは言わず、同じ竹ヶ花であり、ただあまりに距離が離れた竹ヶ花だった為、町会費の徴収が大変だったらしい。その西町の住宅群の右手、いちょう通りまでの間に我らが仲間の所謂`H先生`宅やその付近には甘い物好きで、度々ありがたいお叱りやお言葉をいただくあのM夫妻もいずれ引っ越してくる事になる。
坂川東側のクネクネした用水路
その住宅群の右斜め下のクネクネと蛇行下したラインの処には用水路があった。坂川の横には相川が並行して流れて、このクネクネ用水路で、まさに水郷だった場所。その後相川は埋め立てられ産業道路となり、クネクネ用水路もほぼ暗渠化し道路となり、クネクネの北方面は完全に区画整理されて、真っ直ぐな道路になっている。
子供の頃はこのクネクネ付近で、魚もよく取れたし、畦のノビルを取っては、父のビールのおつまみにと持って帰ったものだ。
下の写真は国土地理院の1988-1990年の空中写真より、同じ場所である。現在もこの道路はその当時の名残でクネクネしていますね。このクネクネの東側も竹ケ花西町も住宅が密集したのは分かると思う。
吉岡文具店、堀江食堂付近
北部小の旧正門吉岡文具店付近にはこの当時もう何軒か家が建っている。堀江食堂付近は畑の様に見えるが、ここに牛小屋があり乾物の明治屋さんの土地と聞いた。明治屋さんは以前、竹ヶ花踏切東側に店舗があり、先述した牛小屋のあった土地に大きなビルを建て一階で`居酒屋一休`を営業されいる。高津工務店さんも見える。
高津工務店の並びにはその後、飲食店街が出来る。松戸グリーンマンションは当然ながら無いが、グリーンマンションと北部小との間には住宅らしき建物が見える。この住宅の中に私の同級生の勝間君が住んでいた!竹ヶ花踏切を根本方向へ渡り、水戸街道沿いには何軒も家があり、近所の大先輩N氏もお住まいになっている。ヤマザキパンの話しをするつもりが横道にそれてしまった!
ヤマザキパン工場-南花島
竹ヶ花から跨線橋(旧竹ヶ花の踏切)を渡り、旧水戸街道を越えるとそこは根本の地。北部小学校も根本。北部小学校の北東、ヤマザキパンの工場までは竹ヶ花西町(元々は竹ヶ花)。ヤマザキパンから先は南花島、上本郷、新作と続く。近所の大先輩N氏によれば、昭和30年代北部小学校の周りは殆ど田畑で、北東の方向は松戸競輪場があるだけで、あとは延々と田畑だったと聞いた。
上の空中写真は国土地理院による昭和22年の空中写真です。左下の方に斜めに傾いた白い長方形の場所がありますが、ここが北部小学校です。いかがですか?北松戸方面に向かって田園地帯しか見えませんよね!北松戸工業地帯もこの当時はありません。
確かに、私の小さい頃北部小学校の北東の田畑(現竹ヶ花西町)には鷺類(コサギ、ダイサギ、アオサギなど)が舞ってきてはエサを啄んでいた。給食場の付近には肥だめもあって、ここに落ちた友達もいた(いや落としてしまったか・・・)。昭和41年春、北部小学校の北東、竹ヶ花に接する南花島字五反田の土地に工場が出来た。これがヤマザキパンの松戸工場。
ヤマザキパン工場が出来て急に塀が出来たようになり、確か同時期に竹ヶ花西町の宅地造成が行われた。中学生の頃、6中の校舎の中に昼飯用パンの販売所があった。ヤマザキパン専門だったと思う。入学以来、もっぱら弁当派だったが、友人が売店で買ってくる菓子パンが実に美味しそうで、ある時から私もパンを買うことにした。
一番好きだったのが「ビックロール」。長さが35センチ以上、幅12センチ、高さ7センチくらいのロールパンにドロドロになった砂糖が塗りたくってあった。短期間これに嵌ってしまった。それとバナナフリップ。中学生だったので糖分が必要だったのかもしれません。これら菓子パンの影響によって少しはパンを食べるようにはなったと言えます。
食パンを何故食パンというのか分かりませんが、ヤマザキパンの食パンの味がパンの味だと思って育ちました。もっとも私は米飯党なのでパンはあまり食べませんでしたが・・・
「ザ・ヒット!ピンク百発百中」:ヤマザキパン提供冠番組
冠番組(かんむりばんぐみ)という言葉があります。これは提供するスポンサー、主演の俳優名が番組名の一部になったものを指します。冠スポンサー番組としては
- キューピーの3分クッキング
- 日清ちびっ子のど自慢
- ミユキ野球教室
冠俳優番組としては古いですが、
- 巨泉・前武のゲバゲバ90分!!
- ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!
などがあります。この冠番組に自分の名前が使われるようになると一流なんだそうです。ピンクレディーが自分たちの冠番組を持ったことがありました。「ザ・ヒット!ピンク百発百中」です。これはがヤマザキパン提供でした。多分、ヤマザキパンも関東地方だけでなく全国規模で拡大していた時期だと思います。
いつ頃だったでしょうか?手作りパンがブームになった。私はそれでもあまり食べなかった。十数年前、自然酵母で作ったという手作りパン屋の食パンとヤマザキパンの食パンを食べ比べたことがあります。これが同じパンかという位、香りも味も違っていた。どのように違っていたのか、どんな味がしたのかここでは書きません。
ただ、その頃からでしょうか、どこでパンを買っても美味しくなったような気がします。私の気のせいでしょうか?
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