昔日の松戸昭和の松戸を歩く

松戸にゆかりのあるラーメン店-1

ラーメン 昭和の松戸を歩く
UnsplashBon Vivantが撮影した写真
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味噌ラーメンがきっかけ

小学生の頃は、家で母が軽食堂を営んでいた。夕飯はご飯を炊く事もあったが、お店が忙しかったため、お店で出していた焼きそばが夕飯になる事も少なくなかった。そんな家庭環境も手伝って、家で即席めんを食べる機会は少なかった。妹が産まれる前後は、お店はやめていたが、出産前の頃は自分で何か作らざるを得ない状況があったんだと思う。

そこで、即席めんのエースコックのワンタンメンを食べていたが、毎日食べていたら、ある日、じんましんが出てしまい、浅間台の松戸市立病院に行き、診てもらった。すると医師から「暫く即席めんはやめなさい」と言われた。私は実際に食べるのをやめた。あの奇妙な味に飽きていた事もあって、それから暫くは、即席めんは食べていなかった。

それから、一年後だったか、ある時、サンヨー食品の”サッポロ一番味噌ラーメン”という即席めんを食べたら案外美味しかったのを覚えている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%AD%E4%B8%80%E7%95%AA%E3%81%BF%E3%81%9D%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3

あれは小6か中1の頃だったと思う。でも、あれが味噌ラーメンという存在を初めて知った時だったんじゃないかな?当時は、サンヨー食品の長崎タンメン、明星食品のチャルメラも出ていたが、母は即席めんをそのまま食べるのではなく、必ず野菜を入れていた記憶がある。だから美味しく感じたのかもしれない。

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松戸にゆかりのラーメン店、チェーン

「味の三平」の札幌味噌ラーメン

松戸の話題から少し離れるが、味噌ラーメンの考案者は、札幌の「味の三平」の大宮守人氏だ。

http://www.ajino-sanpei.com/

札幌の「味の三平」であったかどうかは定かではないが、1973(昭和48)年、私がまだ16歳の頃に北海道旅行に行き、札幌で札幌味噌ラーメンなるものを食べた。あれは美味しかった。あの当時の札幌ラーメン激戦区のような場所に連れていかれたが、その地区のどこに行っても味噌ラーメンを扱っている店があった印象がある。余程、ド当たりした頃なのだろうと思う。

どさん子ラーメン

身近なところで、松戸駅西口土地区画整理後、松戸駅西口の元不二家レストランの隣に野田ビルという建物がある。現在、磯丸水産が入っているところに、あの当時、どさん子ラーメンが出来た。野田さんという人が営んでいた。どさん子ラーメンの商標は北国(ホッコク)商事の創業者青池保氏によるものなので、多分フランチャイズだったのだと思う。

青池保氏と大宮守人氏との直接の関係は分からないが、青池保氏は、ある日百貨店の物産展で偶然に出合った札幌みそラーメンに魅了された・・・というのがきっかけの様である。「味の三平」の大宮守人氏は東京の百貨店で札幌味噌ラーメンを出したということになっているようなので、それを青池氏が食べたのだろうと思う。

どさん子ラーメンは1967(昭和42)年墨田区両国に「札幌ラーメン どさん子」1号店をオープン、それ以降、どさん子のチェーン展開を始めた事もあり、全国に味噌ラーメンを広めた一人であるとも言える。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%95%E3%82%93%E5%AD%90

どさん子大将

どさん子大将

どさん子大将(看板のみ)
2007年撮影

松戸市根本の中銀マンションの107区画にあった。多分、後に串揚げ”味”、エジプト料理”ラムセス”, ロシア料理”サハリン”、松戸香房、現在の”せいじ”のところだと思う。実は私は入ったことが無いので、詳しいことは分からない。何かご存じの方がいらっしゃったら、教えてください。ちなみにどさん子大将は北宝商事の展開してたチェーン。

どさん子大将を運営する北宝商事は、めぐり館、和歌山っ子などの別のラーメンブランドも展開していたようだ。

どさん子とどさん娘の激戦区(稔台産業道路沿い)

現在は、どさん娘まこちゃんだけで、どさん子稔台店は無いが、2000年初頭まではこの二つがあったと思う。中々の激戦区だったようだ。ここは産業道路沿いで、みのり台駅と八柱駅の間。100mも離れていないのではないか?この二店の間にはペットのデパートが今でもある。ペットのデパートは以前、東葛鳥獣店という名前だった。

手打ちラーメン太郎

これは、前回説明したので割愛する。ご興味ある方は下記にリンクを張るので、見ていただきたいが。多分西口のどさん子と開店した年はそう変わらない頃だと思う。

https://omotenouchi.jp/soup-noodle/

札幌ラーメンえぞふじ

えぞふじファサード

東経フランチャイズ年鑑 1980年版より、えぞふじ ばらき店

このえぞふじは首都圏にチェーン展開していた有名な札幌味噌ラーメンの有名なブランドだったけれど、実は、本部は松戸市栗山にあった。創業者は岩佐昭さんという方で、1928(昭和3)年に松戸市の農家に産まれ、旧制中学を出ると家業の農業を三年間していたが、どうしてもサラリーマンになりたくて、石鹸会社に15年勤めた。

ところが、サラリーマンに飽き足らず、40歳に手が届く頃、おにぎり屋を始め、その後、札幌ラーメンとの出会いがあったと思われるが、1967(昭和42)年3月に札幌ラーメン店を岩佐氏自ら開業し、1971(昭和46)年10月に製麺工場を建設し、めんの販売をすると共に北海商事を設立、フランチャイズ化を進めたらしい。

ここが歴史的に非常に面白いところで、どさん子とえぞふじは同じ年に札幌ラーメン店を開業したことになる。そういった意味でも、えぞふじの北海商事も札幌ラーメンを全国に広めた会社の一つだと言える。

北海商事のチェーン店数は1979(昭和54)年12月末時点で、120店舗(内、直営が一店舗、119店がフランチャイズ)、ブランド名としては、札幌ラーメン(ラーメン)、舞子(京風らーめん)、札幌ラーメンえぞふじ(ラーメン)の三つであったようである。

竹ケ花の踏切近くにあったえぞふじにはよく通ったけれど、この北海商事のフランチャイズ店であったのだろう。

札幌ラーメンチェーンの乱立

フランチャイズの方法か、ロイヤリティのあり方の問題か、核心は見えないが、どさん子と良く似た名前のチェーンが出てくることになった。それが、サトー商事のどさん娘や北宝商事のどさん子大将だったと思う。当時は店名に多くの関心を寄せていなかったので、どれが元々のオリジナルであったのか、さっぱり分からなくなったとも言える。

どさん子とどさん子大将は裁判で争っていたようだ。
https://shohyo.hanrei.jp/hanrei/tm/5046.html
また、どさん子とどさん娘も争い、どさん娘は元々、読み方がどさん娘(こ)であったが、どさん娘(むすめ)に変えた。これは歴史的な事実として残っているが、当時の私はあまり気にも留めなかった。

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味華

味華は、味噌ラーメンも出していたが、どちらかというと一般大衆向けの町中華だった。とにかく安くて、にんにくの臭わないジャンボ餃子も魅力で、私自身足しげく通った。すでに味華については、下記で書いているが、表の家の読者であり協力者のうしとらさんからいただいた味華の評論記事があったので、それを掲載しておきたい。

新橋味華 中華料理店第二号 柴田書店発行, 1977年10月号より引用

餃子のバラ売りとサービス券の発行で、常連客をつかむ
東京新橋・味華
一に価格、二に味つけ

新橋駅・烏森口の広場を見おろすようにニュー新橋ビルが建っている。地下一階から三階までは飲食店舗が雑居し、和食、洋食、中華、それに酒という具合に、周辺のオフィスへの通勤客の胃袋をどんな好みにでも満たしてくれそうである。が、ビル内のそれも地下になると、飲食店の経営はむずかしいらしく、おろしたままのシャッターも目立つ。

ぐるっとビル内を一覧できる地下通路の両側に、とりどりの看板が出ていて、元祖満福大餃子「味華」は、そのもっとも目立たない隅にあった。
この店は、㈱新橋味華本舗の本店で昭和四九年二月に開業された。
経営者の飯田静男氏(三六歳)は、飲食店については同店が開店するまでは、ズブの素人だった。

本業はアクセサリーの販売で、今でも両方の経営を兼ねている。
「ここはね、営業時間が限られているんですよ。お客さんはほとんどがサラリーマンですから、昼食時と退社時に集中して、あとはさっぱり。土、日曜は駄目だし、せめて駅と地下道で結ばれていればいいんですがね」

と飯田氏は、開店して知った土地の難点を指摘した。そのうえ、補償金一千万円、家賃月二十万円で手にいれた七・五坪の店舗は、この地下街がオープンして三年後に「味華」が入るまでは空いていたという悪い位置にあった。が、飯田氏が早口にまくしたてる現在の営業成績は、おそらくこの地下街ではトップクラスではないかと思われる数字であった。

明るい店内には、カウンターとテーブルで一八席がある。客単価は四〇〇円で、一日二〇回転といえば、単純計算で、一日客数は三六〇人、日商は十四万円を超えることになる。これだけの売り上げを、午前一一時から午後九時までの営業時間内に、正社員三人、パート二人でこなす。

「うちは、大衆向けに徹してますからね。それには、まず一に値段、そして二に味ですよ」と、飯田氏は、「味華」がサラリーマンにウケる要因を値段と味の二点にしぼる。

—–中略—–

飯田氏自身が、この餃子に惚れ込んだお客の一人だったのである。
そこには餃子一筋に修行を積んだ料理人と、食道楽の経営者とがお互いに信頼しあう出会いがあった
現在は、「味華」のこの二月にオープンしたばかりの松戸店石田店長(四二歳)が, その料理人で、石田氏は,以前,東京駅の地下街で餃子の店を開いていたことがある。

そこへ飯田氏が足しげく通っていたというわけだ。この餃子は、幅が一三センチもある特大の小判型で、皮は薄く、アンコが厚い。歯ごたえは柔らかく、なんとなく甘い。そのうえ、もっとも特徴的なのは、ニンニクの特有の臭いを消してある。

「わたしは経営の方ばかりで、作る方は店長に任せっきりですから」
と飯田氏は、石田店長苦心の味づくりのノウハウには固く口を閉ざす。
がともかく「これはいける」と、飯田氏は経営の勘を働かせ、石田店長と共同で特大無臭餃子の量産販売に乗り出すことになった。

—–後略—–

満腹餃子からジャンボ餃子へ

上の記事を読んで、「味華」は元々新橋で開業した事が分かった。また、石田店長が元々作っていたのは小判型の臭い消し餃子だったが、味華では三日月形になったようだ。また、餃子のネーミングとして、この記事の頃は満腹餃子というネーミングだったが、いつしかジャンボ餃子と名前が変わっている。

これは私の単なる想像に過ぎないが、ジャンボジェット機のジャンボと、ゴルファーのジャンボ尾崎(尾崎将司さん)さんの名前にちなんだのではなかろうか?

元々は象の呼び名として採用されたジャンボという言葉があった。1967年に登場したジャンボジェット機(ボーイング747)が出て以来、1970年代はジャンボという言葉が妙に流行った印象がある。また、尾崎将司さんさんは、当初は野球選手で、西鉄ライオンズの投手として所属していたが、思ったほど成績を残せなかったことから中西太監督に退団を申し出た。

その後、ゴルファーに転向し1970年にプロテストに合格、1971年に日本プロで初優勝を飾り、その後プロの世界で活躍された。尾崎さんはジャンボ尾崎。あの頃、ジャンボという言葉が妙にはやった記憶がある。大きければ何でもジャンボ。そのジャンボという名前にちなんだのではなかろうか?

近代中小企業(1979年8月号)の記述

また、1979年に中小企業経営研究会出版より発行された近代中小企業(1979年8月号)には味華について、下記のように書かれている。

「従業員の”やる気”を引き出す」 毎月昇給と報奨金

株式会社「新橋味華」は、直営方式で大衆中華料理店をチェーン展開している会社である。昭和四十八年に、その第一歩を踏み出してからの成長は目覚ましく、将来も大いに期待されている。この成長の要因としてまず、低価格政策、立地に合った店舗づくりなどの基本戦略をあげることができよう。しかしそれ以上に、生き生きと働く従業員の力が大きな比重を占めているのである。

例えば松戸店の話だが、従業員が相談し合って呼び込み販売を始めたことがある。土産用の餃子やシュウマイを店先に並べて呼び込みをするのである。当たり前といえばそれまでかもしれない。しかし職人たちが自分の作った料理を店先で呼び込み販売をしたというのである。しかも自らすすんで・・・・・。よほど”やる気”がなければこうはなるまい。

—–中略:柏店、新橋店、市川真間店についての記述—–

五年間で九倍に成長

社長・飯田静男氏は、以前カフスボタンの製造と卸を営んでいた。—–中略—–その後は五十二年二月に松戸店、五十三年九月に柏店、さらに五十四年四月には市川真間店を開店してきた。その間に、本社工場も設立し、現在は製麺から販売までの一貫体制ができている。

—–中略—–

毎月の昇給制度
一、昇給は毎月行います
一、毎月の昇給は1000~3000円の間で決定します
一、その年の毎月の昇給額は、毎年四月に決定します

—–後略—–

以上抜粋である。お会いしたことは無いが、かなりユニークな社長であった事を感じた。

https://omotenouchi.jp/soup-noodle/

ラーメン大学

ラーメン大学

ラーメン大学 2007年10月撮影

ラーメン大学松戸店は松戸本町の飲み屋街の所にあった。上州屋の隣。後に同場所は中華居酒屋になり、現在は韓国風の居酒屋になっている場所。過去の、グルメサイトの情報によれば、松戸店は赤い内装で、ヤング向けになっていた・・・という様なことが書かれていた。

墨田区押上に本部があった。代表は鈴木昭春さん。フランチャイズ化としては、どさん子、8番ラーメンの昭和42年、どさん娘、どさん子大将の昭和44年、寿がきや、狸小路ラーメン、大龍の昭和45年、ラーメン大学、熊ぼっこは昭和46年となっていて、ラーメンチェーン店のフランチャイズ化としては、後発組でかなり落ち着いてきてしまった後だと思う。

このラーメン大学の創業者は元々長野県内でレストランチェーンを運営していたが、上京した際に食べたラーメンが忘れられず、ラーメンのチェーンを作ってしまったという話が、ブルータスの記事にあった。下記です。なんというレストランチェーンなのか知りたいです。

https://brutus.jp/nagano_2ramen/

ラーメンチェーンはロイヤリティがゼロのところが多いが、多分,麺他の他の販売供給によるところが大きいのかもしれない。ただ、昭和47-8年前後にラーメン大学はサブフランチャイズ権を京都のホープ興業という会社に売り,ホープ興業は関西方面で積極的にチェーン展開していたようだ。

その後のラーメン大学の本部とホープ興業の動きが見えないが、現在のラーメン大学の本部は株式会社エスネッツであり、長野県でセントラルキッチンがあり麺などをチェーン店に供給しているようだ。現在は、東京本店がなく、長野県にラーメン大学が多いようだ。また、下のブログ主の弟さんがエスネッツの社長さんだそうです。

https://blog.goo.ne.jp/taro-hana0110/e/fe1f5543195cdad3b0614039e2127645

サッポロラーメン狸小路

北松戸駅東口を降り、左側交番の前あたりに、サッポロラーメン狸小路北松戸店があった。あのお店が無くなってから、台湾屋台料理の阿里山となり、現在は大記餃子となっている。残念ながら私はこの店には入っていません。ただ、ラーメンデータベースの情報を読むと

「BGMには鳥のさえずりのCDが流れ、秋の枯葉をイメージした装飾がなされています。店の奥さんは季節感を大切にしている人なのかも・・・」

と書かれていて、内装も想像できます。チャーシューの評価は高かったようです。”日本のフランチャイズチェーン 全調査 商業界出版 1974”によれば、

石狩商事
代表者藤田満
フランチャイズ一号店:昭和45年7月
東京都墨田区向島2-19-10大京ビル
店舗数(直営店1店、FC119店)狸小路の出店地の80%以上が首都圏周辺部で、直営一店と徹底したFC志向。標準店舗は八坪15席で、申込金5万円、加盟契約金二十五万円

と書かれていた。ただ、”フランチャイズ21年史 投稿経済出版 1986年4月”によると
狸小路ラーメンは直営店1店、FC88店と減っている。どさん子の1000店を超えるフランチャイジーに比べると規模は小さかったようだ。また向島2-19-10の建物を見ても、Dog Salonが一階にあるようだが、石狩商事の有無に関しては、分からない。またネット情報も極端に少ない。

らーめん寺子屋/13湯麺

↑ありし日のラーメン寺子屋外観(2009年)

↑ありし日の13湯麵の本店(常盤平5-17-4)ビルです。現在は、五香5-1-1です。この13湯麵は寺子屋からすぐ近くで、聞くところによると”洋風居酒屋のような雰囲気の綺麗な店”だったそうです。

松戸にゆかりのラーメン店を書いていて、ラーメン寺子屋を書かないわけにはいかない。これは、2002年に松戸市の空き店舗対策事業として、五香さくら通り商店会が事業主となり、松戸市から三年間の時限事業として2005年まで行われ、最終的には9期卒業生を輩出した。塾長は松井一之さん、ラーメン四天王の一人。三ケ月でラーメン店を開業するまでの塾でした。

ここでは、ラーメン作りはもちろんの事、店舗作り、厨房・備品、経営の基礎、収支計画、税務申告、開店のための借入金、メニュー構成、販売促進、スタッフの使い方、材料の仕入れ先など、プロじゃなければ分からない、痒いところにしっかり手の届く手厚い授業が行われていた様だ。松井氏は元明星に勤務していた人で、ラーメン店を開店したら5年は頑張れと言っていたそうだ。

入学金15万円、授業料三か月で45万円、合計60万円で、上述した様なラーメン店を開業するまでのノウハウを勉強する。ラーメン寺子屋へのロイヤリティは無し。松戸市としての時限事業が終了した後は、各方面からの要望もあり、松井氏が私塾として、この事業を13湯麺が引継ぎ、続けられた。

当時は川井市長の頃で、面白い企画をやるものだと思った。卒業生は必ずしも五香の空き店舗に埋まった訳ではなかったけれど、このラーメン寺子屋によって松戸もかなりラーメンでは盛り上がったのではないかと思う。恥ずかしい話、私が通った13湯麵は、松戸駅東口にあった13湯麵hideだけであった。これについては後述する。

下のyoutubeは5:13あたりから13湯麵が登場する。サンバを一時間練習するとラーメン一杯が食べられるということで、子供たちが集まっている様子が見える。面白いね。

——————————-

松井さんが出てくるyoutubeです。べらんめえ口調で、面白いよ!

また、松井氏はサンバ好きで松戸のサンバチーム・セレージャを作った人でもある。多才な人だなあ・・・

https://cereja.jp/

13湯麺HIDE

千葉県松戸市根本472-5
2003年7月にオープンしたラーメン寺子屋の卒業者による13湯麵で、場所は現在で言えばBAR SITE!SITE!SITE!(バーサイトサイトサイト)の所だったか・・・?以前は、二階に小島武夫先生の雀港が入っていたビルだ。店主はN君で夫婦で切り盛りしていた。奥様も顔見知りだ。

実は、N君と会ったのは記憶が間違えていなければ、マザーグースが雑居ビルの二階で営業していた頃だと思う。彼は当時、綾瀬だったか北千住だったか忘れたが、秀吉という名前の和食店を営んでいた(居酒屋だったかもしれないが、忘れた)。N君は秀吉がふけた後、確か夜中の0時過ぎか1時ころ何人かでやってきて、賑やかに一杯やっていた。

人柄が良く明るいのでみんなから好かれた。その後、私も海外常駐であちこちに行き、一定期間は会わなくなっていたが、ある時1階のマザーグースで飲んでいたら、N君と会い、ラーメン屋を始めるという。「和食からラーメン屋ですか?」と聞いたら、どうやらラーメン屋は一度やりたかったんだと言っていた。なるほどと思い、期待した。

オープンしたのは2003年7月で早速行って食べた。松井さんから伝授されたもので、それは美味しかった。トッピングの青菜の味付けで、八角を使っていたと思う。実は八角があまり得意でない。4年間香港に居たのにも関わらずだ。しかし、それ以外は、全く問題なかった。結局、N君の人柄で何度も通ってしまった。

ただ、2年後だったか、N君の個人的な事情があり、お店は閉店してしまった。その後、亀有で店を始めたとか、北習志野の西友で店を始めたという噂は聞いたが、残念ながらそちらには行ってなかった。N君はどうしているかなああ・・・

その他

その他、色々なお店があったと思うが、かなり忘れているので、主に昭和の頃の印象的な店について思い出したら加えていく予定です。

関連ページ

松戸のらーめん屋さんの思い出(主に昭和の頃)
松戸で生まれ育った私が本格的なラーメンを食べたのは高校生の頃で、らーめん太郎だった。ニンニクの香るコクのある味噌ラーメンが大好きだったし、一口餃子もこれまた美味しかった。ラーメン太郎やその他の周辺の情報も含めて、思い出しながら書いてみた。
松戸にゆかりのあるラーメン店-2
松戸にゆかりのあるラーメン店を書いてきた。それはラーメンだけに特化したお店と、中華食堂としてラーメンを出している大きな二つのケースがあるが、前回の書き込みで書ききれなかったチェーン店、珍来とゆうえんについて、補足的に書いてみたいと思う。

コメント

  1. うしとら より:

    北松戸駅前の塾に通っていた時、駅前交番の前に狸小路という店があり、らーめん太郎が休みの時は狸小路に行って味噌ラーメンを食べていました。15年くらい前まではあったと思うのですが、場所はいま王記餃子がある場所です。狸小路も札幌ラーメンで、他所でも見たことがあったのでチェーン店だと思います。

    • 道草亭ペンペン草 より:

      うしとらさん、
      コメントありがとう御座います
      狸小路、たしかにあそこにありましたね
      味噌ラーメンはある時期急激に増えた印象ありますが、ある時を境に淘汰されてしまった感じですね

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