鶏のお話
この表の家のご意見箱に意見を書いてくださったり、或いは貴重な資料をいただいたり、昔の坂川の写真をいただいたりしたYukiさんが、犬のお話から野良鶏のエピソードを書いてくださったので、私も自分の家で飼っていた鶏のお話をしようと思います。以前鶏については短文を書いていたのですが、それをもう少し詳しく書き直してみようと思いました。
当時の写真が今の所見つかりません。全部イメージ写真ですのでよろしくおねがいします。見つかったら、写真をアップロードしますね。
北部小附近に来ていた露天商
私が北部小学校に通っていた頃、学校の近くには色々な露天商が来ていた。紙芝居、型屋、かくれ屏風売りなどである。かくれ屏風は地方によって色々な呼び方があるらしく”板返し”,”パタパタ”,”ペタクタ”,”カッタリカッタリ”と呼ばれていたらしい。屏風のような色柄のついた折りたたみ紙にコインを挟んで折りたたみ再び開くとお金が消えているというおもちゃである。
カラーひよこを売る露天商
露天商としてカラーひよこを売る人も来ていた。北部小の正門附近(吉岡文具の斜め前辺り)に来ていた露天商は雄○円、雌○円として売っていた。そのおじさんは、ひよこのお尻を見つつこれは雌だから・・・とか言いながら、見ているこちらもその気になってしまった。ただ、卵を生む雌は高かった。倍以上の価格だったと思う。それでも卵を生むひよこの方が良いと思い、雌のひよこを買ってきた(つもりだった)。
鶏冠が大きくなっていった
ただ、聞く所によるとカラーひよこというのは、通常、体が弱くて、余程の事をしない限り、成長する前に死んでしまうのだそうだ。ところが幸か不幸か、我が家のひよこは元気なままだった。いつの日か色のついていた産毛は取れ、真っ白くなって大きくなっていった。わおー!ところがだ、体と共に鶏冠まで大きくなっていった。
何だ雄じゃんか・・・!でも、気がついた時は後の祭り。苦情を言うにもあのカラーひよこ売りのおじさんも消えていなくなっている。仮に売りに来ていたとしても、知らぬ存ぜぬで誤魔化されるのが落ちだったと思う。
ピーコ、毎朝元気な”鬨の声”
半年もしない内に鶏冠も体も大きくなりご立派な雄鶏に成長してくれた。我が家ではピーコと名付けた。そしてご丁寧に毎朝”鬨の声”を上げた。あれは昭和40年代だったが、近所の人も騒音に対して相当寛容で助けられた。「朝っぱらから、うるさい!」と苦情を投げかける人は居なかった。近くに浅間鳥獣店があって、実はお店の鶏がもっと以前から毎朝の”鬨の声”が常態化していた。
これが幸いして、我が家に”鬨の声”をあげる鶏が一羽増えたからといって大して変わらなかったからかもしれない。その当時のご近所の皆様、ご迷惑をおかけしました。
白い紙がトラウマ
さて、その鶏は我が家と隣地の間の三角形の隙間があったので、簡単な木柵で閉じ、それなりの広さの鶏小屋になった。我が父も時々面倒を見ていたようだが、あまりにピーコの気が荒いので白い紙バックで煽りながら面倒を見ていたようだ。その白い紙バックが後にピーコにとってのトラウマになったらしい。
ある時家の外で女性が「きゃー!」と叫ぶ声が聞こえた。慌てて外に出ていくと、ピーコがよりによって、白いバッグを持った女性に何度もドロップキックをしていた。慌てて、ピーコを捕まえた。そして女性には平謝り。でも気が動転、呆然としている女性はそのまま立ち去った。こんな事が何度かあった。
ピーコはあまりに凶暴化しつつあったので、正直手に負えなかった。私もいつしか、餌と水を上げるだけの関係になってしまった。
脱走と恋の季節
ピーコのいる場所の木柵は簡単なものだったので、ピーコは時々脱走した。脱走しているピーコの姿を私は目撃したことがあったが、アスファルトの道路の上をピョンピョンと飛び跳ねながら、見るからに滑稽に歩いていく。近所の人からは「お坊ちゃまのお通りだよ」と評された。しかし車が来るので危ないためすぐに捕獲して連れ戻す。
ある日、再び脱走したので(又、人を襲わないか心配になり)ピーコを探した。その時ピーコの行き先が判明した。それは浅間鳥獣店の店先だった。そして、浅間のおばさん曰く「お宅のおぼっちゃん来てるわよ」。浅間鳥獣店には店先に雌鶏の籠が置かれていた。雄鶏のピーコは雌鳥に会いに行っていたことが分かった。
一度、恋をさせてあげようか?
浅間鳥獣店のおばさんが、ある日、そんなピーコを見るに見かねて母に申し出た「一度、恋をさせてあげようか?」ところが心配性の母は断った。私が「何故断ったの?」と聞くと、「ピーコは乱暴者でしょ、売り物の雌鳥に怪我をさせるのが怖いから・・・」とボソッと語った。これで、一生に一度あるかないかのご結婚が破断になってしまった。
後になってみると、気持ちを叶えてあげればよかったのにと反省する。
ピーコの行水
狭いジメジメとした場所がピーコの住まいだったので、どうしても汚れる。私は可哀想だと思い。ある日、タライの中で羽を洗ってあげた。確かエメロンシャンプーとリンスまで使って・・・行水後、ピーコはお日様の下で、ピカピカに輝いていた。こんなに綺麗になるものなのか・・・と驚いた。エメロンシャンプーってすごい!と思った。
でも、ピーコにとってはシャンプーの臭いが好きであったかどうかというと、それは疑問だけれど・・・
羽虫とピーコ
ある日鶏冠と羽の隙間を見たら、大量の羽虫が居た。こりゃ、何とかしてあげないといけないと思い、母と相談した結果、キンチョールのスプレーを鶏冠にかけてあげたらどうか?という事になった。キンチョールだったら、鶏の絵も書いてあるし、悪くないかもしれない・・・なんて勘違いをしていたけれど・・・
それをキンチョールのスプレーをなるべく顔にかからないように気をつけながら鶏冠に吹いたんだけど、そんな綺麗には吹けない。ピーコは涙をこぼしていた。効果あって、鶏冠の羽虫は一時的だったが消えた。
鶏冠にたくさんの蚊
又ある時は鶏冠にたくさんの蚊が集っていた。この時も殺虫剤で対処したが、今になって思えば、こんなに虫にやられるというのは体力が弱っていたからかもしれない。もしかすると一度病院に連れて行ったほうが良かったのかもしれないと思う。下記のサイトを見ると、鶏にたかる虫たちによって命に関わる事があると書かれていた。
ある日、冷たくなって倒れていた
その後、羽虫が集ると再びエメロンシャンプーで洗ってあげたり、なるべく不潔にならないように気を付けていたのだが、ある朝だったか、倒れて冷たくなっていたピーコを見つけた。やはり体力が落ちていたんだなあ・・・ご意見箱で、いくら乱暴者の鶏でも健気に餌と水を与えていたyukiさんの献身的な姿が目に浮かんだが、やはり家で飼っていると情も湧くだよなあ・・・。
そして、彼らの死に直面するとこんなに寂しいことはない。
番外
中国の片田舎で見かけた放し飼いのニワトリ自由奔放でした。
最後に
今現在、街なかで鶏を飼っている人は少数派だと思う。いるのかしら?もし鶏に関わらず、小動物を飼っていたとしたら、大事にしてあげて下さい。お願いいたします。
コメント
材木屋の事務所で烏骨鶏を飼われています。
子供の頃、猫が小学校の兎や鶏を襲うという事件があったのですが、
材木屋は猫と一緒なのにケンカしないで仲良くやっているようです。
烏骨鶏が夕方にも「コケコッコー」と鳴くので、鶏が鳴くのは朝に限らないということを知りました。
平成に入るくらいまで、南花島の「石島医院」で孔雀を飼っていました。
石島医院は、先代の先生が沖縄に行って、仕事を求める女の子を看護婦として雇い入れていたそうなので、その関係だと思います。
うしとら様、
コメントありがとうございます。
そうでしたか・・・あの材木屋さんで烏骨鶏を飼っていましたか!うるさくありませんか?
30年くらい前に台湾に常駐していた頃、設計仲間が注文してくれたお弁当が、烏骨鶏の足の弁当でした。美味しいんですが、あの形のまんまご飯の上に乗っていますので、最初は食べにくかった・・・
そういえば、野田のカントリークラブ近くだったか、烏骨鶏の卵の販売をしているところがあった記憶が・・・
石島医院の大先生にはよく診てもらいました。
ただ、あの病院に入ると待合室だったか、潰瘍になった胃袋のホルマリン漬けがあって、引いたのを覚えています。
それにしても、孔雀飼っても良いのかなあ・・・茨城の真壁の北の方(桜川市)に雨引観音というところがあって、お参りすると孔雀や金鳥が境内に自然に居て、えらく面白かったのを覚えています。
あと沖縄は関東地方より失業率が高くて、関東で4.5%くらいだった時、沖縄では8%くらいでした。
先代の石島医院の看護婦さんが沖縄出身者で固められていたのは、戦争で大変なことになった沖縄への援助の一環だったやに聞いています。
石島胃腸病院名物「胃腸のホルマリン漬け」なつかしいです!
なるほど・・・本土の戦争の為に犠牲になった多くの人達に、改めて哀悼を捧げたいです。最近、中国大陸による台湾への武力侵攻が話題になっていますが、かりに侵攻が起きたとしたら、沖縄には米軍キャンプがあるだけに、また台湾に近いだけに、沖縄は再び大きな被害を受ける可能性があります。何とかならないものか・・・と思います。