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過去のご意見箱2019年

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過去のご意見箱2019年

1182.松戸市八丈島保養所ブーゲンビリアについて
名前:北東北から来ました 日付:2019/12/24(火) 23:12

はじめまして。三年前に北東北のまた田舎から松戸に越してきました。こちらのホームページを楽しく拝見しております。さて、標題の件について。最近、市民図書館より「広報まつど縮刷版」を借りてきました。で、その昭和51年4月5日号の第3面に「八丈島市民保養所 利用客減で閉鎖」昭和48年5月のオープンから約3年で幕、という短い期間だったようです。もしかするとすでにご存じかもしれませんが、一応情報提供です。では失礼。

1183.Re: 松戸市八丈島保養所ブーゲンビリアについて
名前:表の家 日付:2019/12/26(木) 15:7

北東北から来ました 様、
調べてくださって、ありがとうございます。三年で無くなってしまったんですね!今度、該当ページに追加させていただきます。私は八丈島の施設は行ったことがありませんでしたが、軽井沢の林間学園には行った記憶があります。パンフには長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢1052番地361と書かれていました。多分これも松戸市の手を離れたのでは?
http://omotenouchi.jp

1184.Re: 松戸市八丈島保養所ブーゲンビリアについて
名前:北東北から来ました 日付:2019/12/27(金) 18:17

ご返事ありがとうごさいます。
松戸市HPに平成23年11月10日開催の教育委員会会議録が載っていました。その会議で松戸市林間学園条例を廃止する条例が審議が行われたのですが、その中に「平成12年になって軽井沢は廃園」と記載されておりました。白樺高原についても平成23年度限りで廃止、土地は所在地の町有地であったため、解体のうえ更地で返還したようです。

1185.Re: 松戸市八丈島保養所ブーゲンビリアについて
名前:表の家 日付:2019/12/29(日) 16:31

市単位で林間学校を持っていたというのはなかなかの時代だなあ・・・と思います。バブル崩壊やその他の理由で、維持できなくなったんでしょうね!

1167.竹ケ花村の人々
名前:うしとら 日付:2019/8/2(金) 0:8

お盆も近いので、ぺんぺん草さんのご先祖に関係あると思われるネタを書き込ませて頂きます。江戸時代の竹ケ花村は村高が約64石の小さな村でした。給地は幕府領が約50石、田中藩領が約14石の内訳でした。支配者は幕府領が代官(浅岡彦四郎ら)で、田中藩が藩主の本多家となります。その下に名主が居ます。

竹ケ花村の名主は、元禄12年に四郎兵衛、安永5年に兵右衛門、天保2年に四郎兵衛、庄太郎、安政2年に嘉七の名前が記録が残っているそうです。明治維新(明治9年)の際、字限地図帳(測量図)を作成した際の奥書に連判している名前には苗字が入っており、それと付き合わせると、四郎兵衛は藤枝四郎兵衛さん。兵右衛門は山室兵右衛門さん。

であることが分かります。庄太郎、嘉七は残念ながら姓を特定することができませんでした。因みに竹ケ花村の字限地図帳を作成した際の奥書に連判している方は以下の通りです。

  • 戸長:鈴木貞吉(竹ケ花村の人ではないと思う)
  • 副戸長:竹内清八(竹ケ花村の人ではないと思う)、
  • 用掛:藤枝喜代太郎、石橋和吉、改正事務掛:山室兵右衛門、小前惣代:藤枝四郎兵衛

私が別件の調査で見た古文書によると、竹ケ花村の名主クラスの家は松戸新田に土地を持っていたことが分かります。その古文書では土地の所有者、土地の場所まで特定できます。藤枝姓、山室姓以外にも秋田姓などもありました。乱筆になりましたが、とりあえずこの辺で。

1168.Re: 竹ケ花村の人々
名前:道草亭ペンペン草、 日付:2019/8/8(木) 13:35

先週金曜日に母が熱中症で救急搬送され、その後色々有りまして、てんやわんやで大変でした。母は復調しているものの、お盆も同じような状況になりそうです。せっかく興味深い書き込みをしていただいたのに、そんな事情でお返事も出来ず申し訳有りません。お書きになった姓名の中に我が家の姓があります。この様にはっきりしてくると改めて驚きです。

この件他界した父に知らせたら驚くだろうなあ・・・今週の土曜日か日曜日には竹ヶ花のお墓掃除に参りますので、改めてご先祖様にお伝えしたいと思います。ありがとうございます。
http://omotenouchi.jp/

1169.Re: 竹ケ花村の人々
名前:うしとら 日付:2019/8/9(金) 0:0

ぺんぺん草さん、大変だったですね。お母様が復調されつつあり、何よりでした。
新政府が明治5年に作らせた壬申戸籍のデータによると、当時の竹ケ花村の戸数は25件で、、姓とその戸数は以下の通りです。

  • 藤枝・・・9件
  • 山室・・・3件
  • 鈴木・・・2件
  • 森谷・・・1件
  • 青木・・・1件
  • 浜野・・・1件
  • 梶田・・・1件
  • 秋田・・・1件
  • 野田・・・1件
  • 石橋・・・1件
  • 石堂・・・1件
  • 山口・・・1件
  • 高橋・・・1件
  • 宮間・・・1件

「表の家」があれば「裏の家」があったのでしょうか?複数の家があるのは3つの姓だけでした。壬申戸籍は現在では閲覧することができない戸籍ですが、市が調査して開示している資料を情報源にしています。また、市役所の市民課で戸籍の除籍簿を遡って取得すれば、江戸末期の先祖までは確認することが可能ですので、前回の書き込みで挙げているご先祖様が確認できるかと思います。

こういった具体的な話になりますといっぺんに書くことが難しく、また、どんどん話が広がって行ってしまうので、私が知っている情報を勝手に書き込んで置きますので、お暇な時に読んで頂けると嬉しいです。

1170.Re: 竹ケ花村の人々
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/8/9(金) 5:47

複数ある三つの内の一つですね。実は地元でご老人の方に表の家と聞くとすぐにどの家か分かるんですが、この場では控えます。少なくとも竹ヶ花に表の家はあっても、裏の家は聞いたことがありません。実は父は自分のルーツを調べて、系図を書いていたようなんです。それは栄松寺の過去帳を元になんですが、私のルーツを調べる手段はそうは多くないと思っていましたが、このような形で調べられるとは驚きです。

私はどちらかというと昭和30-40年代の松戸の記録を残す事に主眼を置いてましたが、ルーツについてもしっかりと調べないといけないかな・・・と思い始めてます。あらためてありがとうございます。出来ましたら色々と書き込んでいただけましたらありがたいです。
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1171.Re: 竹ケ花村の人々
名前:うしとら 日付:2019/8/9(金) 22:30

明日から夏休みに突入することを祝い、家で酒を飲みながら書き込みをしていますので、言い回しがクドくなるかもしれませんが勘弁してください。先日書き込んだ字限地図帳(測量図)の作成について加筆します。当時は測量技師を養成する講習会が各地で行われたそうですが、農村では文字が読み書きできる者は一部の富農層に限られていたので、これら富農層からにわか仕込みの測量技師が生まれました。

字限地図帳の奥書に連判した役職者について市の資料を読み込むと、「・・・改正事務掛になった物の層を見てみると、七右衛門新田の富田権蔵のように、かなりの持高者であり、村内の上層であったことは間違いない・・・」とあり、その根拠として富田権蔵の地引調査の結果(現在の固定資産税台帳のようなもの)を提示して説明しています。

「表の家」の過去についての伝聞の裏付けになるかと思い加筆します。また、別の調査経験から、竹ケ花村の方々は松戸新田村に土地を持っていたことが分かっていると書き込みましたが、明治20年の松戸新田村の反別地価名寄取調帳を見て、竹ケ花村の方をピックアップしますと、

  • 鈴木忠蔵 7筆 9反8畝28歩(地価37円73銭6厘)
  • 秋田常五郎 3筆 7反8畝(地価78円74銭8厘)
  • 石堂栄吉 2筆 1反9畝7歩(地価16円62銭2厘)
  • 山室兵右衛門 1筆 2反7畝25歩(地価27円14銭1厘)

というメンバーになります。参考までに最後に名前が記されている山室兵右衛門さんの例でご説明すると、1筆というのは1つの土地を持っていたということで、面積が2反7畝25歩なのですが、分かりやすく換算すると835坪(2756㎡)ということになります。現在とは土地の価値は異なりますが、結構な面積だと思います。

さらに、年は若干遡りますが、明治13年の松戸新田村の田畑小作入附帳の小作名寄を見て、竹ケ花村の方をピックアップしますと、

  • 山室兵右衛門 畑4反 売麦2石4斗7升5合
  • 藤枝助次郎  畑1反1畝 売麦7斗9升

というメンバーになります。前出の山室兵右衛門さんは835坪の自分の土地の他に1200坪の麦畑の小作入附しており、松戸新田村だけで合計で2035坪の面積を耕作していたことが分かります。竹ケ花村は村高が64石で、面積は約170反(田畑以外も含む)で、前出の壬申戸籍を見ると村の人口は143人です。1石は成人男性が1年で食べるお米の量です。

1石=1合/1食×3回/1日×365日=約1000合 田1反=300坪=1石のお米が取れる田の面積ですので、竹ケ花村だけでは食べていけないことが理解できると思います。但し、竹ケ花村は水戸街道に面していたので、商いをされていた家も多かったようです。

これらの情報源は松戸新田の芦田家古文書を見ています。前に小根本の件でキャッチボールしていた時、ぺんぺん草さんが松戸新田の常照庵と神明神社のお名前を挙げていましたが、常照庵と神明神社の中間にあるお屋敷が松戸新田村の開発人の芦田家です。常照庵を開基したのも芦田家ですし、神明神社を造立したのも芦田家です。

芦田家は清和源氏(先祖を辿ると清和天皇に繋がる家系)で、当代は清和天皇から数えて51代目というから驚きます。戦国時代は武田信玄の家臣でしたが、武田家が滅亡し、武田家の家臣団を徳川家康が飲み込み、家康は自らの息子に武田家を継承させ、小金城を治めさせた関係で、松戸は武田家臣団をルーツに持つ名家が残っています。お父上の墓参される前に伝えたいと思い、長文になってしまいました。今日はこのくらいにしておきます。

1172.Re: 竹ケ花村の人々
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/8/10(土) 6:18

今朝、4:30頃、お墓掃除、墓参りに行ってきました。その際、うしとら様が色々と調べてくださった事、ルーツが見えてきた事なども報告しました。さぞや、わが父も、ご先祖様も喜んでいるかと思います。ありがとうございます。
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1173.Re: 竹ケ花村の人々
名前:うしとら 日付:2019/8/10(土) 20:6

お墓参り、おつかれさまでした。私の家族からは疎まれている郷土史探索が、お役に立てて頂ければ嬉しいです。歴史に埋もれていた情報を、当事者の方に伝えられて良かったです。わたしの家では昨年の秋に父が他界しまして、今年は父の新盆ということもあり、盆提灯を新調しました。

ぺんぺん草さんの結婚式の記事で、八嶋商店さんの提灯を紹介されていましたね。あの提灯にあった家紋が二葉葵だったのが印象的でした。葵紋といえば、徳川・松平家が三葉葵を使っていたことが有名ですが、もともと徳川・松平家の賀茂信仰から葵紋を使ったそうです。

江戸時代は葵を使った家紋は厳しく使用制限され、松平家でも使用が許されない家もあり、それまで葵紋を使っていた大名家が、幕府から葵紋の使用が禁止され、他の家紋に変えさせられたこともあったそうです。松戸市内では東漸寺や松龍寺が、徳川家との関係から三葉葵を使っていますが、「表の家」の菩提寺の栄松寺も、葵紋を使っていることはご存じでしょうか?

丸に右離れ立ち葵という図柄で、通称「本多立ち葵」と呼ばれる本多家オリジナルの家紋です。上に書いたように葵紋は使用禁止だったのですが、徳川家譜代家臣の本多家だけは特例で使用を認められました。本多家は徳川家への貢献度が高いこともあったと思いますが、賀茂神社の禰宜をルーツに持つ家柄であることも理由だそうです。

では、なぜ栄松寺の寺紋が「本多立ち葵」なのかという疑問が生じますが、文献などは残っていないようです。江戸時代、東葛飾エリアは幕府領、旗本領、田中藩領が併存する状態でしたが、栄松寺の近傍では、根本村、竹ケ花村、馬橋村、千駄堀村などに田中藩領が含まれており、その田中藩の藩主が本多家で、家紋は「本多立ち葵」でした。

寺請制度もあり、田中藩本多家との関係から、栄松寺が「本多立ち葵」の使用が免されたのではと愚考して居ります。また、田中藩の本拠地は駿河国益津郡の田中城ですが、ここは現在の静岡県藤枝市です。竹ケ花村の名主家であった藤枝家は、静岡県藤枝市にルーツがあることを某誌で読んだことがありますが、田中藩本多家と関係があったのだろうと・・

これまた勝手に愚考して居ります。藤枝の田中城は、長篠の戦いで武田勝頼が織田信長に大敗した後、信長の甲州征伐の際に徳川家康が攻城しましたが、このときに最後まで堅固に守り抜いたのが依田(芦田)信蕃です。このあと、信蕃は家康に仕えることになります。

信蕃はこの他にも数々の武勇伝がある人物で、家康は信蕃を非常に高く評価しており、信蕃の嫡男の康国は松平姓を賜り、六万石の大名となりました。昨日紹介した松戸新田の芦田家古文書の中には家系図があり、松戸新田の開発人:芦田孫左衛門信綱さんは、その康国のひ孫に当たるそうです。別件を調べていて、関係ないと思っていたことが繋がり合うのが面白いです。

1174.Re: 竹ケ花村の人々
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/8/12(月) 7:36

あの二葉葵の提灯は、ウエディングイベントを行った場所が戸定邸で、徳川昭武様のお屋敷だったので、そこで行われる神事という事で使われたんでしょうね。我が家の家紋は丸に横木瓜ですので、本来的には我が家の家紋を使うべきなんでしょうが、千葉の観光を推進するという目的と、場所が場所だけにそういう事になりました。

ただ、私が着ていた紋付は丸に横木瓜です。写真では見えませんが・・・実は、昭武様の末裔の徳川文武様とは一度名刺を交換しただけですが、徳川昭武公のお兄様である、最後の将軍の徳川慶喜公の末裔、徳川慶朝様とは十数年前に度々、松戸の某ふぐ料理やでお会いし、お酒を飲み交わしました。

数年前に他界されましたけれど・・・栄松寺が本多立ち葵であるというのは私は意識してませんでしたので、知りませんでした。そうだったんですか・・・調べていくと面白いことがありそうですね。
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1175.Re: 竹ケ花村の人々
名前:うしとら 日付:2019/8/12(月) 21:8

徳川様とご面識があるということだけでも驚きますが、やっぱり歴史というのは何となく繋がるものだなぁと感じるコメントでした。実は、ご紹介した松戸新田の反別地価名寄取調帳を見て驚いたことがありました。竹ケ花村の山室兵右衛門さんの次に記されている地主が小梅町の徳川篤敬さんでした。

実地取調人足諸費仮割簿などの事務書類でも、竹ケ花村の山室兵右衛門さんの次が小梅町の徳川篤敬さんになっていました。山室兵右衛門さんの前は竹ケ花村の石堂栄吉さんなので、単に竹ケ花村の次が小梅町という事務的な扱いだったのだと思うのですが、徳川篤敬さんのキラキラネームはとっても目を引きます。

篤敬さんは第10代水戸藩主の慶篤の長男で、第11代水戸藩主の昭武さんの養嗣子になった方で、慶喜の甥に当たり、昭武の家督を継承しています。ぺんぺん草さんがお会いした方はそのご子孫ですね。以下は追加情報です。上記の反別地価名寄取調帳は名寄(集計表)なので、所有していた土地の地番を特定できず残念でしたが、山室兵右衛門さんが松戸新田に小作入附していた場所は、田畑小作入附帳と松戸新田地籍図により特定することができます。

  • 1筆目が字元屋敷(高札前)144番地
  • 2筆目が字元屋敷(作)163番地

でした。これは現在の住居表示では、

  • 1筆目が松戸新田167の辺です。
  • 2筆目が松戸新田169-17と169-10の間の辺です。

住居表示は建物がある所しか割当てられていないので、ピンポイントの場所を示すことができませんが、ほぼこの辺です。耕宅地価地租一筆限取調簿を見ますと、この2筆の麦畑の地主は芦田孫左衛門さんでした。この芦田孫左衛門信萬さんは、昨日ご紹介した松戸新田開発人の芦田孫左衛門信綱さんから9代下ったご当主です。

私が情報源としている資料はこちらの芦田家が残した古文書です。これらの資料は一般に公開されて居り、千駄堀の千葉県西部図書館でも閲覧することが出来ますので、ご興味があったらチェックしてみて下さい。

1176.Re: 竹ケ花村の人々
名前:道草亭ペンペン草、 日付:2019/8/21(水) 8:48

うしとら様、
今身の回りで色々な事がありまして、お返事出来ずすいません。教えていただいた内容をいずれゆっくりと自分自身でも調べ、研究していきたいと思います。
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1177.Re: 竹ケ花村の人々
名前:うしとら 日付:2019/8/24(土) 22:22

ぺんぺん草さん、何やら今年は大変な夏になってしまった様ですね。またまた書き込みを入れておきますので、お暇の時に読んでみて下さい。前出の明治5年の壬申戸籍に基づく統計資料によると、

竹ケ花村は、25戸のうち、最高持高が7石、15戸が持高1石未満、6戸が無高でした。平均持高が少ない村(都市的な村)だったことが分かります。因みに地租改正前の租税は、まだ江戸時代の貢租形態が踏襲されていました。壬申戸籍には職業の記載があり、農家は「農」、名主家は「農、名主」または「農、組頭」などと記載されています。

江戸時代は「名主」の下に、名主を補佐する「組頭」が居ました。壬申戸籍は昭和43年に閲覧禁止になっていますが、私の情報源は昭和39年に壬申戸籍を基に作られた資料です。また、壬申戸籍は当時の名主に戸籍取調書を作らせており、その調書の控えを残している名主家の古文書で閲覧可能の物があり、それを閲覧するとどんな文書であったかが良く分かります。

興味深いのは、持高や職業の他に、何処の神社の氏子で、何処のお寺の檀家か、という記載があります。江戸時代は寺請制度だったので、宗門人別改帳で民衆や租税を管理しており、この辺の情報を紐付けないと新しい戸籍を作れなかったのだと理解できます。以前にもお伝えしましたが、竹ケ花村は水戸街道沿線で、松戸町や根本村にも近接しているため、農業以外の商いに従事する者が多かったことが分かっています。

この当時、9戸が下記の農間渡世(耕作の合間に行う商い)に依存していました。

  • 鍛 冶・・・1戸
  • 棒 屋・・・1戸(専業)
  • 穀 屋・・・2戸(うち1戸が専業)
  • 足袋職・・・2戸(うち1戸が専業)
  • 蝋燭職・・・1戸
  • 提灯張・・・1戸(専業)
  • 飴 商・・・1戸(専業)

現在でもご商売されているのは松戸米穀さんくらいでしょうか?竹ケ花の石堂家の屋号が「提灯屋」だと聞いたことがあります。また、明治20年の土浦商店繁盛一覧番付という宣伝用に作った資料があり、これは水戸街道(東京~土浦間)にある有力な商家が番付表で記載されています。竹ケ花村からも下記の3件が掲載されていました。

  • 前頭 米商 石橋伝次郎さん
  • 前頭 酒醤油商 石橋岩松さん
  • 前頭 鈴木屋材木店(リバブル松戸の場所にあった材木屋ですね。)

さらに、この資料に掲載されている商家の中から、これまでの話と関連する商家をピックアップしてコメントしてみます。

  • 一品 新作村 醤油醸造業 竹内清三郎さん(小金屋)

この資料では「一品」というのは大関よりも上位に位置しています。竹内清三郎さんの娘が幕末に竹ケ花の石橋家に嫁いでいます。その息子の石橋伝太郎さんが北辰一刀流の免許者で、万延元年(1860年)の武術英名録に剣客として紹介されています。

  • 小結 松戸町 薪炭商 安蒜権左衛門さん(伏見屋)

こちらは、「表の家」の記事にも出て来たお名前ですね。初代松戸町長になられています。

  • 前頭 松戸町 荒物商 坂入重治郎さん(桝屋)

この方は松戸宿家並絵図に出ている荒物屋番物屋(坂入)門十郎さんの次代です。春雨橋の南東側の現在駐輪場になっている辺りにお店があったそうです。この後、本屋(坂入書店)になり、国定教科書も扱っていたそうです。ぺんぺん草さんがご紹介されている、千葉高等園芸学校の古い絵葉書を発行していたのもこちらの坂入書店です。

屋号は「桝屋」ですが「マッコ屋」と呼ばれていたようです。こちらは水戸街道随一と謳われた堂々たる二階建ての建物が有名だったそうですが、残念ながら昭和9年に廃業してしまいました。しかし、この建物は昭和14年に坂入家の菩提寺であり、「表の家」の菩提寺でもある南花島の栄松寺の庫裏として、有力檀家の寄付を得て解体&移築され、現存しています。

栄松寺本堂の東隣の建物です。玄関部分だけは増築したそうです。当時の日本は中国大陸で戦争をしていたので釘が無く、住職が行政に掛け合って特別配給して頂いたそうです。

1178.Re: 竹ケ花村の人々
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/8/30(金) 4:26

コメントありがとうございます。いや、コメントどころか、素晴らしい資料だと思います。酒醤油商 石橋岩松さんは、バブル崩壊後暫くは現在の吉岡材木店付近に酒屋がありましたが、そこの事だと思います。笹屋(石橋酒店)雷電神社の参道近くの松戸米穀は石井姓ですが、米商の石橋伝次郎さんが、そこなのか、或いは石橋酒屋さんの流れで違う場所にあったのかはよくわからないところですね。

坂入書店が元々荒物屋だった話も非常に興味深いです。そもそも、カメラをもって絵葉書を発行するあたり、よほどの財力がないとなかなか難しかったと思います。「桝屋」でマッコ屋というのも面白いです。昭和40年代までは桝屋という蕎麦屋が街道沿いにいくつもありましたが、その血筋なのかな?と考えてしまいます。身内の事で色々とあり、時々しかお返事出来ませんが、とても感謝しております。ありがとうございます。
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1179.Re: 竹ケ花村の人々
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/8/30(金) 4:34

現在グーグルで見ますと松戸米穀と書いてありますが、いつから名前が変わったんだろう?松戸米穀という違う会社があったような気がします。以前は石井米店だったと思うのですが、どうしてだろうか?お米販売も昔と違って今はスーパーで買ってくる事の多い時代になってしまっているので、小さなお米屋さんも中々大変な時代なのかな?
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1180.Re: 竹ケ花村の人々
名前:うしとら 日付:2019/9/3(火) 21:3

松戸米穀さんは石井さんだったんですね。明治5年の壬申戸籍作成時には、竹ケ花村には穀屋が2件あり、うち1件は石橋伝次郎さんです。また、当時の竹ケ花村には石井姓は居ませんので、もう1件の穀屋も石井さんではないことは間違いありません。ですので、石井さんは明治中期以降に竹ケ花に移った家です。

ちなみに2件の穀屋のうち、1件は、2人家族で無高(専業の穀屋)でした。1件は、6人家族で持高1石以下(兼業の穀屋)でした。どちらが石橋伝次郎さんかは不明です。残念ながら30年近く前に石橋酒店さんは廃業されましたが、南花島に2件のご分家がご健在です。

ぺんぺん草さんと同じ姓の家も南花島の水戸街道沿いにありますが、ご親戚でしょうか?栄松寺の檀家さんで、歴代住職のお墓の隣にお墓がありますが、お施餓鬼の時に拝見したら家紋もぺんぺん草さんと同じでした。坂入門十郎さんは松戸宿の数人居た名主の一人でした。

残念ながら坂入書店(桝屋)さんは昭和9年に廃業されましたが、昭和4年に米国で世界恐慌が起き、昭和5年、6年は世界恐慌の影響で、日本でも昭和恐慌に陥り、小売業者の30%が廃業したと言われ、デフレにより3年で米価が半分近くまで落ち込んだそうです。水戸街道沿いの桝屋さんは島田姓でした。

陸橋の下で20年くらい前まで営業されていましたが、ご主人が他界され閉店してしまいました。、6号線沿いにご兄弟が営業されていた桝屋さんが現在でも残っています。

1181.Re: 竹ケ花村の人々
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/9/8(日) 6:20

うしとら様、
書き込みありがとうございます。中々表の家の更新が出来なくてすいません。南花島の家は遠い親戚だと聞きました。何代前なのかはよく分かりません。我が妹と同級生のケンちゃんの住んでいる家だったと思います。婿さんが継いで自分の家の名前を名乗る事もありますから、元はもしかすると石橋さんだったかもしれませんね。

確か松戸本町の岩田さん(松戸の灸、新角ビル)の家も元々違う姓だったような記憶があります。そういえば昭和恐慌の不景気→ケインズ理論による公共事業で活性化→新坂川の掘削が行われたと思います。

> デフレにより3年で米価が半分近くまで落ち込んだ

日本の統治下にあった朝鮮や台湾の安いコメが入ってきた事も大きかったんでしょうね。もっとも当時の政府も間接統制し、さらに米穀統制法によって統制を強めていたようですが・・・大凶作、豊作飢饉、或いは安いコメの流入で、東北の農家が揺さぶられ、打撃を受け、貧困になり226事件に繋がっていったという話も聞いたことがあります。
http://omotenouchi.jp/

1135.たくぎん独身寮
名前:うしとら 日付:2019/7/2(火) 14:34

たくぎんの記事拝見しました。なつかしかったです。たくぎんの倒産は私も成人していたのではっきり記憶しています。子供のころ、たくぎん松戸支店の隣にあった皮膚科に何度か行きました。また、南花島3丁目の春日神社の前にたくぎんの独身寮がありましたが、売却されいまでは跡形もありません。

銀行の独身寮といえば、石破茂さんは鳥取県出身ですが、三井銀行の社員時代は松戸市民だったようで、小根本公園の近くにあった三井銀行の独身寮に住んでいたと、選挙応援で松戸に来た時にお話しされていました。

1137.Re: たくぎん独身寮
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/7/2(火) 21:6

えええ、石破さんが鳥取出身で、小根本公園近くの社員寮に住んでいたとは・・・驚きです。初めて知りました。それにしても銀行はその存在価値が微妙になってきて、リストラも進んでいる様で、難しい時代になってきましたね。
http://omotenouchi.jp/

1143.Re: たくぎん独身寮
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/7/7(日) 20:49

石破茂さんが松戸に住んでいたというお話を伺った事から、小根本の土地の原風景など、昔日の松戸を更新してみました。

1146.Re: たくぎん独身寮
名前:うしとら 日付:2019/7/10(水) 11:8

最新投稿、おつかれさまでした!とても楽しく拝読しました。石破さんのブログの抜粋、表の家さん好みのほっこりするエピソードでしたね。笑以前投稿された「小根本の原風景」、区画整理前の地理的な情報が盛り沢山で大変な力作だと思っています。

この地域は谷津の原風景が大規模に破壊されていますが、岩瀬側の傾斜林、新京成の鉄道用地、池田弁財天、あと、表の家さんの墓地のところから吉井町方面に抜ける細道は、今でも以前の雰囲気を残しているので、何となくではありますが、資料との突合せが可能なのが面白いですね。

竹ヶ花古墳(お墓の山)などの台地を掘削した土砂を、谷津の埋め立てに使ってしまって失った物が多い地域ですが、記憶だけでも残って欲しいものです。池田弁財天の両サイドが池で子供が釣りをしている写真を見たことあり、その辺を必死に調べたことがあるのですが、さっぱり分かりませんでした。

1147.Re: たくぎん独身寮
名前:道草亭ペンペン草、 日付:2019/7/10(水) 12:49

閲覧していただきとても嬉しいです。ありがとうございます。あの場所は大好きな場所でしたので、張り切ってしまいました。出来れば三井銀行の社史を探して、社員寮の写真(さすがにないかな?)などあればよいのですが・・・吉井町方面に抜ける細道は旧道で昔からある道ですね。

あの道の事も書こうと思いましたが、焦点がぼけるかも?と思いやめてしまいましたが、書いたほうが良かったかな?私が持っている池田弁財天の写真は昔の絵葉書(下記リンク参照)、だけですが、『目で見る松戸の100年』という写真集に何枚かそれらしい写真が掲載されてますね。
http://omotenouchi.jp/CCP083.htm

1148.Re: たくぎん独身寮
名前:うしとら 日付:2019/7/10(水) 17:2

松戸市役所が相模台の中央公園エリアへの移転を計画されており、また、それに併せて松戸税務署も相模台に移転するようなので、令和時代になって小根本の風景も更に変貌してしまいそうです。相模台の中央公園は軍用地だったからいまは国有地なので、土地の仕入れが必要ないので好都合みたいです。

いまの松戸市役所の敷地は売却して建替資金を調達するのかもしれません。そうなると、役所跡地にはタワーマンションでも建ちそうな気がします。相模台にある法務局と裁判所も近年建て替えられていますので、相模台が松戸の新拠点になる感じですね。市民会館と図書館も併せて移転を検討されているそうです。中央公園エリアが再開発されると相模台の遺構も無くなる場所が出そうで残念です。

1149.Re: たくぎん独身寮
名前:道草亭ペンペン草、 日付:2019/7/11(木) 8:56

相模台に美術館の計画もあるらしいです。私の知り合いの学芸員の方が懸命に進めてます。どうやら松戸にちなむ所蔵品や過去に購入した美術品がたくさんあるらしく、展示するスペースが無いのだとか悩んでいらっしゃいました。新京成の切り通しが出来る前は市役所の高台は金山神社と一体で、さらに昔に遡ると古代の鋳鉄遺跡に繋がっていきますので、実は掘り下げていくと結構面白い場所です。

今回小根本の事を書きましたが、4年くらい前に聞き取り調査をした時の証言があったのを思い出しましたので、いずれ時間のある時に追加していこうかと思っています。

1150.Re: たくぎん独身寮
名前:うしとら 日付:2019/7/11(木) 10:15

金山神社の由来は、鋳鉄遺跡だったんですね。根本城跡だということは有名ですが、鋳鉄遺跡の話は初耳でした。流山に大きな鋳鉄遺跡があるので、松戸にあっても不思議じゃないです。話は脱線してしまいますが、市役所周辺については私もちょっと情報がありまして、ぺんぺん草さんならご存知かも知れませんが、せっかくなのでタレコミさせて頂きます。

根本のK家(白玉で有名)は、初代の方が関ケ原と大阪夏の陣で武功を上げ、静岡県浜松市から江戸鎮撫のために日本橋に派遣されたのですが、その後隠居して松戸市根本に移り住み、商売を始めたそうです。そのK家の墓地が市役所がある山の中にあったのですが、南花島の栄松寺の檀家となり、墓もお寺に移したそうです。

その跡地に建てたものが、角海老の裏の岩山稲荷だという話です。また、浜松にはK家初代の子孫が残っており、ピアノで有名なK楽器の創業家だったそうです。浜松の菩提寺で過去帳を辿ったら同じ初代だったそうです。前半はK家の会社HPに出ていました。後半は図書館にあった文献で読みました。どえらいファミリーヒストリーですよね。

1151.Re: たくぎん独身寮
名前:道草亭ペンペン草、 日付:2019/7/11(木) 11:2

情報大歓迎です。ありがとうございます。K家についてはしっかり調べていない点があり、情報が結びつかないなあ・・・と悩んでいる部分があったり、私の勘違いもあるようです。もう一度調べてみますね。

私の勘違いかもしれない事-1:栄松寺に関して、我が家も外檀家なんです。以前ある古老から栄松寺は根本付近から南花島に移ったという話を聞いたことがありました。私もそう思い込んでおりましたが、K家が根本から栄松寺に移したという事とゴッチャになってしまったのかもしれません。

私の勘違いかもしれない事-2:岩山稲荷はK家の屋敷守として以前から有ったものだと思ってました。

これも勘違いかもしれません。もう一度調べ直して、勘違いを正さないといけませんね!情報ありがとうございます。十数年前から調べている事がありまして、それは根本、金山神社の清水講の事です。清水講とはつまり富士講の根本地区版ですが、金山神社の頂上までの階段の手すり子に講に入って寄進していた人たちの名前が刻まれています。

この清水講の講元がK家でして、K家絡みでたくさんの人の名前が出てきます。7月1日の山開きの日に見に行ったこともあります。実際根本地区にはKという名字の人が多くいらっしゃいますね。また、分家のIi家、Ih家があり、それらの名前の方に多く出会います。ただ、清水講を調べれば調べるほど、個人情報に繋がってしまうので、中々公開が出来ない部分があります。

1152.Re: たくぎん独身寮
名前:うしとら 日付:2019/7/11(木) 14:5

残念ながら栄松寺の昔の所在ははっきり分からないみたいですね。千葉県西部図書館にあった松戸新聞社が発刊している「松戸の寺」という小冊子の栄松寺の頁に、「初代晴光和尚の没年(1331年)の記録から、鎌倉末期の開山で、当初は花島寺と称し、岩瀬一本松から日暮に通じる佐竹街道にあったと・・・」とありましたので機会がありましたらご一読ください。

相模台合戦の戦災に会い、現在の場所に移って来たそうです。ぺんぺん草さんの返信を読んで、昔のK家は岩山稲荷の辺りに屋敷も墓地を一緒になって住んでいたのかもしれないと思いました。江戸時代初期までは台地に沿って人々が生活していたはずなので・・。

松戸宿は江戸初期に三河衆(高木氏)が支配していたので、本官地から商人が分家を出したり、家臣の分家が土着したりしているようで、江戸期に愛知、静岡方面から移住している家が多いみたいですね。未確認ですが遠州屋さんなどの屋号もそうなのだろうと理解しています。

ぺんぺん草さんは清水講の調査をされていますが、清水講を発起人の竹ヶ花のF家も静岡から移住されて来て、そのF家の屋号を取って清水講となったと聞いたことがあります。静岡出身の方が多いから富士山への思いも強かったのかもしれませんね。松戸の農家の屋敷稲荷として笠間稲荷を祀ってる家が多いですが、私の知り合いの三河衆の子孫の家では豊川稲荷を祀って居り、今でも新幹線に乗って愛知県の豊川稲荷まで行っているそうです。岩山稲荷も豊川稲荷かな?とか考えています。

1153.Re: たくぎん独身寮
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/7/14(日) 18:33

うしとら様、
金曜日から体調悪く、お返事が遅れすいません。栄松寺他、色々と情報ありがとうございます。うしとら様は松戸市の歴史についてすでに色々と調べられていらっしゃって、かなり造詣が深いと感じました。今後ともよろしくお願いいたします。遠州屋薬局さんも遠州屋果物屋さんも皆さん同じH姓で、新東京病院の元院長もですね。

おっしゃる通り、浜松?(だったかな?)方面から来た一族じゃなかったかと思います。その際、信仰する秋葉様(秋葉神社)を松戸に設置したという話も聞いたことがあります。遠州屋薬局さんの店舗は今はご長男が内科・循環器内科?のお医者様として開業、私の主治医でもあります。

今は隠居されていますが、遠州屋薬局のご主人と酒を飲み交わしたことが数回あります。とてもインテリな方で、色々な知識をお持ちで舌を巻きます。野鳥の写真撮影が好きで、早朝カメラを持って野鳥を追いかけているHさんを度々お見かけしましたが、最近は足腰が弱くなったとか、外出も少ないようです。

江戸川風景4というブログもお持ちですね。三河屋さんはご主人がなくなり、暫くお店を閉めていらっしゃいましたが、娘さんだったかな再建され、応援したいです。

竹ケ花のF家の事と雷電神社

根本、金山神社の清水講の記念碑が良く知られていますが、実は竹ヶ花の雷電神社の参道途中にも清水講の石碑があり、その石碑に書かれた年代を見ると、金山神社の記念碑に書かれた開講年代よりも古いことが分かり、この矛盾に疑問を持ち、松戸史談に投稿した事があります。よろしければ松戸市立図書館に松戸史談のバックナンバーがありますので、読んでいただけましたらありがたいです。

豊川稲荷様か笠間稲荷様かという視点はとても面白いです。お稲荷様や弁天様は鳥居が連続して並んでいるところが多いですね。これは霊験あらたかで、ご利益が多い為だと解釈しますが、同時に(現代的ではありませんが)たたりも怖いので私はあまり近づきません。

田様の境内には子供の頃、入ったことがありますが、曾祖母からたたりがあるから近づくなと言われて、それ以来境内に入ってません。笠間稲荷に行った時も、友人はお参りしてましたが、私は門前で佇んでいました。
http://omotenouchi.jp/

1154.Re: たくぎん独身寮
名前:うしとら 日付:2019/7/14(日) 21:44

ぺんぺん草さんは顔が広い!流石です。いろいろ調べてみると、人から聞く情報が一番面白いですよね。笑私の場合は、実家が祖父の代まで農家で、地元に親戚が大勢居たこともあり、年長者にいろいろなエピソードを聞いているうちに、疑問に思ったことを自分なりに調べる感じで現在に至っています。

なかなか話しても興味を持たれないことが多いので、これまで人に話すことが無かったのですが、ぺんぺん草さんは北部小&六中の先輩ということもあり、聞いてみたい、聞いて欲しいことを「ご意見箱」に書き込んでしまいました。今後共宜しくお願いします。清水講に関しては、実家に昭和初期(国民服の方が写っているので戦時中だと思う)に富士山に登頂した時の写真が残っています。

全体写真で100人くらい写っていて、台紙に貼り付けてあって、富士登頂という朱印が押されています。根本や竹ケ花だけではなく、南花島や岩瀬など明村全体から集まっていたと思っていました。ぺんぺん草さんの情報についてですが、金山神社には清水講の石碑が沢山在るのは承知しています。それらをちゃんと読んだことはないのですが、金山神社が清水講の拠点であると理解していますので、雷電神社の石碑の方が時代が古いというのは意外です。

場所からして、発起人のF家が置いたと考えるのが自然かと思いますが、なぜ、金山神社の石碑と合わないのか疑問が残りますね。講でないと富士に登れない時代なので、曖昧なスタートではなかったはずですから、清水講以前にF家が他講で登った記念碑とは考えられないでしょうか?

何の根拠もない憶測でスミマセン。わたしの実家にも屋敷稲荷(笠間稲荷)が残っていますが、明治期に分家した家で、炭の不始末で納屋を燃やしてしまった時に、納屋に居た馬が死んでしまい、それを供養するために屋敷稲荷を建てたそうです。数年前に実家を建替え

1155.Re: たくぎん独身寮
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/7/15(月) 8:39

うしとら様、コメントありがとうございます。少々長くなりますが、以前松戸史談に書いた清水講の開講年代の内容について、要約して少し書きますね。金山神社の頂上にある清水講記念碑に書かれているのは

「今ヲ距ル七十餘年當區關口了佐氏講元ト爲リ冨士淺間神社参拜講社ヲ設立シテ清水講ト名ツケ金山神社ノ神域ニ 其分社ヲ祀ル大正十三年以来講元及ヒ先達幹事同氏ノ意ヲ紹キテ專心神社ノ發展ヲ圖リ僅少ノ講金利子ヲ貯蓄シ以テ神域ヲ莊嚴ニシテ 茲ニ記念碑ヲ建ツ是レ敬神ノ念ヲ敦クシ神威ヲ顕揚セシムル所以ニシテ洵ニ邦家ノ爲メ慶賀ニ堪ヘス之ヲ勒シテ後昆ニ傳フ 昭和九年七月一日」

前半を要約すると「昭和9年7月1日から数えて70余年前に関口了佐さんが、講元となって富士浅間神社参拝講社を設立して清水講と名付けました」と書かれています。分かりやすくする為、西暦に直します。昭和9年とは西暦で、1934年です。1934年から数えて70年前は1864年です。70余年とありますので、仮に余年が大きく見て9年だとすると、79年前なので1855年、つまりこの記念碑で云って居るのは1855-1864年の間に関口さんが講元として清水講を設立し、名付けた事になります。

ところが、雷電神社にある石碑を調べますと、清水講と書かれた記念石碑があって、天保十一年(1840)十一月吉日にお焚き上げを記念し、清水講による石碑が造立されている事になります。となると清水講開講時期について矛盾が生じる訳です。金山神社の記念碑は開講が1855-1864年の間だと書いてありますよね。

しかし、雷電神社の清水講の石碑では金山神社の記念碑で云う昭和9年から見て70余年前の開講どころか、さらにもっとさかのぼります。雷電神社では昭和9年から見て94年前に記念碑が建てられている事になります。これは不思議だと思いませんか?

故秋本勝造先生の松戸史談への寄稿で

「竹ヶ花の雷神社の傍に住むFさんの先祖は静岡県藤枝市から移って来た人で屋号を清水屋といいました。熱心な富士山崇敬、浅間信仰者で是非共この地で富士登山講社を作り、・・・略・・・漢方医の関口了佐氏に思いを述べ、相談をもちかけました。関口氏は藤枝さんの熱心なすすめにひかれまた市内の出来事など考慮に入れたのでしょう自ら講元を引受け藤枝さんの屋号から清水講と名付け講員の募集をはじめました」

と在ります。ところが、金山神社の頂上にある記念碑には、言い出しっぺの Fさんについては全く書かれていません。私は、この事実にどうしてこういう記述になったのか考察してみました。

  1. そもそも金山神社の記念碑が建てられたのが昭和9年で、関口了佐さんの頃の事は70年以上前(実は94年前)の事だったので、言い伝えを聞いていた人の記憶が非常に曖昧で、大雑把に書いてしまったんじゃないか?
  2. 当初はFさんが生きていた頃は雷電神社で清水講をしていたが、Fさんが他界されたか、或いは関口さんとの間で何かあったかで、雷電神社ではなく金山神社で清水講の儀式をするようになったのではないか?

漢方医関口了佐さんがどこに在住していた人なのか良く分かりませんが、以前根本の交差点近くに関口薬局というお店がありました。
http://omotenouchi.jp/

1156.Re: たくぎん独身寮
名前:うしとら 日付:2019/7/15(月) 19:57

とっても興味深い話ですね。私はぺんぺん草さんがご指摘している雷電神社の石碑が正しく、金山神社の石碑が誤解を招く表現になっているように感じます。開講年の示し方も曖昧で怪しいですよね。1855~1864年が開講年とすると、歴史的に不自然だと思います。状況証拠になってしまいますが、この年代の歴史的事件を見てみると、

  • 1853年 ペーリー来航
  • 1855年 安政の大地震
  • 1858年 安政の大獄
  • 1860年 桜田門外の変
  • 1864年 天狗党の乱
  • 1867年 大政奉還

となります。このような世情が混乱している時期に庶民が物見遊山で松戸から富士まで行くとは考え難いと思います。また、富士講の全盛期は18世紀から19世紀中盤までと書かれていますので、19世紀に富士講を開講しているのであれば、1855年より前であると考えます。この年代の歴史的事件を見てみると、

  • 1843年 将軍徳川家慶の日光御社参り
  • 1849年 将軍徳川家慶の小金牧鹿狩り

となります。関東の世情が安定していることが覗えます。こう考えると雷電神社の石碑が生きてくると思います。更に私も竹ケ花のF家の存在は大きいと思いますので、ぺんぺん草さんの見立て通り江戸期には雷電神社に拠点があった可能性は高いと思います。明治期に明村が出来た際、明村役場が置かれたのは竹ケ花であり、初代村長になったのはF家でしたので、F家の影響力は小さくなかったと考えます。

郷土史をやっていると年号や名前が間違っていることがよくあり困惑することがありますが、それがまた面白さでもあると思っています。また、現代よりも当時は細かいことは気にしなかったのかも。笑 あと、私も漢方医の関口了佐さんは根本の関口薬局のご先祖だと理解しています。

追伸:栄松寺についての続報ですが、松戸佛教会の「松戸のお寺」という冊子の栄松寺の頁に、鎌倉末期、晴光和尚によって小根本字花嶋台の地に密教寺院として創建され・・・とありました。この冊子は平成27年発刊なので、最新情報だと思います。昭和期に松戸市が住居表示された時の旧字を確認しましたが、残念ながら小根本及びその隣接区域に花嶋台なる字はありませんでしたので、私は新京成の鉄道用地に字を潰された可能性があるかなと思っています。

1157.Re: たくぎん独身寮
名前:道草亭ペンペン草、 日付:2019/7/16(火) 9:31

うしとら様、
時代背景からのご推察、素晴らしいです。そこまでは考えておりませんでした。ありがとうございます。おっしゃる通り、郷土史を調べていきますと年号や名前、その他について疑問を感じる事はありますね。年配の方からの聞き取りもタイミングがあえば行っています。ただ、事象が起きたタイミング、時代、場所について、本から読んだ内容を混ぜて自分の経験であると思いこんでいたり、そもそも何十年も前の事ですので記憶が曖昧だったり、という事はおうおうにしてあります。

そこで聞取りはなるべく複数の人から行い、松戸市史や写真集などを見たり、場合によってはその場所を歩いてみたり、その上で新たに感じたこと分かった事を最初に聞いた人に聞き直して、ああだ、こうだ言いながら修正出来るようにしています。

栄松寺が小根本字花嶋台に創建されたというのは非常に興味深いですね。先日のお話で、”岩瀬一本松から日暮に通じる佐竹街道にあった”という情報と”小根本字花嶋台に創建”という情報を元にその接点を調べていくと面白そうです。寺社になにか解明の糸があるとすれば、岩瀬胡録神社或いは 胡録台神明神社一本松のすぐ近くに真言宗豊山派の光明山花蔵院や松戸新田神明神社の近くには常照庵がありますが、それらとの関係。こういう話になりますと上本郷の本福寺の佐藤住職が詳しそうなので、今度伺って聞いてみようかな・・・

1158.小根本花嶋台
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/7/17(水) 6:8

グーグルマップで小根本を検索、エリアに当たる所は国道6号線よりも西側で新京成の線路の南側の小根本公園周りの一帯、市役所の南部の一部、新京成の線路の北側は元荒井畜産付近。これら現在の小根本エリアで台らしき場所は、花蔵院の付近と強いて言えば元荒井畜産のところになるなあ。この辺りが小根本花嶋台と言えるのかどうか!?

又、一本松の付近は胡録台なので、果たして小根本花嶋台とはどこに当たるのか?大正6年測量の地形図にも花嶋台は出てきませんね。明治の頃小根本がどこからどこまでだったのか調べたい。
http://omotenouchi.jp

1159.Re: たくぎん独身寮
名前:うしとら 日付:2019/7/17(水) 14:9

字花嶋台ということですから台地の上ということは間違いないですよね。小根本は台地を掘削して低湿地を埋め立てて区画整理してしまっているので、現在の地形からは特定することは厳しいですね。開発前の小根本の国土地理院の航空写真を見ると、下総台地を掌状に浸食している小根本谷津には5つの舌状台地があるのがわかります。場所と特徴を挙げると以下の感じです。このどれかだといいのですが。

①小根本公園から見て北西部にある竹ヶ花古墳(表の家のお墓の山)
⇒佐竹街道(岩瀬側)から近く、近代まで墓地が残っていた。

②小根本公園から見て北部にある現在の吉井町と新京成線の南側
(現在の新京成沿線道路のいちばん高いところ近辺)
⇒現在の栄松寺と立地条件に似ている感じがするが、佐竹街道(胡録台側)との絡みが薄い。

③小根本公園から見て北東部にある現在6号線のT字路の給油所のあたり
⇒小根本で最も現在の栄松寺に近い。佐竹街道(胡録台側)からも近い。

④小根本公園から見て東部にある昔の松戸警察署のあたり
⇒小根本で最も佐竹街道(胡録台側)に近い。現在の栄松寺からも近い。

⑤小根本公園から見て南西側にある岩瀬城跡(昔のメクマンの裏山)
⇒佐竹街道(岩瀬側)に最も近い場所。近代まで墓地が残っていた。大字が岩瀬で、異なる小字があるので違うかも。

私は区画整理後の小根本しか記憶がありませんが、谷津だったころの小根本の記憶があるぺんぺん草さんだったら、手掛かりを思い出せるかも。

1160.Re: たくぎん独身寮
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/7/19(金) 11:13

うしとら様、
ありがとうございます。
これはとても興味深い課題ですが本腰を入れて取り組む必要性がありそうですね。どこにあったかという事実に加え、移動した必然性、その時代背景も気になります。松戸の本町にある西蓮寺が17世紀初頭に下矢切から移された事、同様に松龍寺は17世紀初頭に東漸寺末寺として創建され、程なくして17世紀初頭に現在地(本町)に移った・・・

という他寺院の例を見るともしかすると同じ時期に、つまり江戸幕府が開府された後に何らかの必要性があって、現在地に移動したというのも考えています。檀家制度が定着した後ですと、移動も中々大変でしょうし、やはり江戸幕府開府頃或いはそれよりも以前と考えるのが順当なんでしょうね。これは時間がかかりそうですね。
http://omotenouchi.jp/

1161.Re: たくぎん独身寮
名前:うしとら 日付:2019/7/18(木) 14:43

栄松寺は相模台合戦の戦災により現在の地に移転したことが、万満寺の過去帳に記されてあったと思います。そのころは長福寺という寺名だったのですが、江戸時代に将軍を輩出する御三家の紀州徳川家の嫡男が長福丸という御名でカブってしまい憚られるということで、栄松寺に改名したそうです。

西蓮寺についてはノーチェックでしたが、わたしの手元資料によりますと、1609年ごろから水戸街道筋に松戸七ケ寺と呼ばれる寺院が次々と建立され、その1つ西蓮寺は、はじめ三河の権律師の釋順誓師が1594年に下矢切に建立、1613年江戸村永井両家の招聘により現在の地に移転した。とありました。1603年に江戸幕府はスタートしますが、1590年に小田原征伐が終わり家康は関東移封され、それまで松戸を支配していた高城氏の居城:小金城には家康の息子の武田信吉が入城しますが、1593年には小金城は廃城になります。

小金城の支城(松戸城、根本城など)もこれに続いて廃城になります。武田信吉が佐倉に転封され、その後に旗本:高木広正、正次親子が松戸宿に入り支配を始めます。地域の支配者が陣屋を構え(現在の松戸神社)、金町に関所が出来、参勤交代が始まり、江戸川の水運が整備され、ここから松戸宿成長の歴史が始まります。前記の記述はこの歴史には沿ったものと思います。

寺が増えたのは幕府が寺請制度による民衆管理を始めたことも大きかったと思いますが、寺ごとに檀家の身分を分けることもしていた様なので、複数必要だったのかもしれません。明治維新の際に廃仏毀釈で激しい攻撃の的になったのは、寺請制度により新政府から幕府の出先機関と見なされたためとも言われています。

1162.Re: たくぎん独身寮
名前:道草亭ペンペン草、 日付:2019/7/19(金) 18:38

うしとら様、コメントありがとうございます。すでに色々と研究されていらっしゃると見えて、うしとら様の引き出しの豊富さに舌を巻きます!移動した時期はすでに特定出来ていたんですね!あとは花嶋台がどこに有ったのかという点ですね。とは言いましても、とても調査が難しそうです。前回の私の書き込みに誤字脱字がありましたので、訂正しました。
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1163.崙書房 返信 引用
名前:うしとら 日付:2019/7/22(月) 9:53

崙書房さん、今月末で廃業されるみたいです。東葛地域の郷土史好きには悲しすぎる。欲しい本があれば、今月中に入手しておいた方がいいかもしれないですね。

1164.Re: 崙書房
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/7/22(月) 21:17

その様ですね!私も先週知りました。崙書房の方々には我が拙ホームページも認識していただき、東葛出版懇話会にもお誘いいただいて、素晴らしい方々を紹介していただいたっけ!一度流山の会社にも訪問した事があります。最近は交流がありませんでしたが、寂しいです。
http://omotenouchi.jp

1165.Re: たくぎん独身寮
名前:うしとら 日付:2019/7/23(火) 22:5

思い出してしまったことがあり、追記させて頂きます。前のコメントで書いた旗本の高木氏、松戸での初代となる高木広正は三方ヶ原の戦いで敗走する家康の馬が銃撃された際に、自分の馬を家康に差し出して逃がし、追撃して来た武田勢の追手を討ち取ったエピソードで有名な武将です。

よく家康の時代劇にも使われるシーンです。江戸初期に下総松戸陣屋(現松戸神社)で約100年ほど支配していましたが、元禄の地方直しで匂坂代官屋敷(静岡県磐田市)に領地替えになりました。しかし、100年も居たのでかなりの私領を作ったのだと思うのですが、分家が松戸に土着して、いまでも子孫が残っています。

所在は個人情報なので伏せておきますが、現在でも大地主です。高木氏は清和源氏(先祖を辿ると清和天皇に繋がる家系)で鎌倉時代は三河にある高木という場所の地頭だったそうです。家紋は「高木鷹の羽」というオリジナルの家紋(斑紋がある違い鷹の羽)で、現在でも使われており、ご自宅の敷地にある土蔵の瓦や、お墓にもこの家紋が入っています。

以前、三河から来た家は愛知の豊川稲荷まで新幹線に乗って初午に行くという話をしましたが、こちらの家も先代まではそうされていたそうです。表の家さんが檀家である栄松寺、大住職の奥様はこちらの家から嫁いで来ています。

ですので、若住職とこちらの家の当代は従兄弟同士ということになります。また、こちらの家は栄松寺の檀家総代もされていますので、お施餓鬼の際などには受付をされていますから、ぺんぺん草さんもお会いしているかもしれません。笑

追伸
下矢切の西蓮寺の件、はじめ三河の権律師の釋順誓師が1594年に下矢切に建立・・・とありましたが、この釋順誓師を三河から招聘したのは下矢切村の杉浦家、近藤家、他であるということが追加情報としてわかりましたのでお知らせします。細まい話を長々と恐れ入ります。

放って置くと延々と続いてしまうので、この辺でこの話は打ち止めにします。お付き合いありがとうございます。

1166.Re: たくぎん独身寮
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/7/25(木) 21:28

興味深い内容、ありがとうございます。このお話は私は知らない内容ばかりで非常に興味をひきます。それが栄松寺に関連し、とても興味深い。施餓鬼法要は実は数度しか行ってません。受付の数人のお顔は正直あまり覚えてません。

ただ、このお話を聞いてとても興味深く感じてしまいました。今年の施餓鬼法要には出席してみようかと思います。
http://omotenouchi.jp/

1129.松戸の市場
名前:うしとら 日付:2019/6/25(火) 15:12

松戸の市場の記事、とても興味深ったです。私も竹ヶ花にも市場があったことは聞いていたのですが、記事を読み丸新青果市場だということがわかりました。

篠崎ビルさんの裏あたりで、現在は住宅地になってしまっていますが、わたしの子供のころ(昭和50年代前半)には、丸松市場的な旧市場の建屋が残っていたと思うのですが、子供の頃のうっすらととした記憶なので、表の家さんならご存知でしょうか?

あと、そのころ竹ヶ花交差点(いま駐車場になっているところ)に交番があったと聞いています。その建屋も昭和50年代まで残っていたような気がするのですが・・ご記憶ありますでしょうか?そこの交番に勤務していた警官の方が私の実家に下宿していたそうです。

1132.松戸の市場
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/6/26(水) 14:42

竹ケ花の交番ありましたね!竹ケ花の交差点は跨線橋が出来るまでは三叉路(Y字路)でした。Yのお股に当たるところに吉岡材木店があって、吉岡材木店から見て右側には河合肉店、枡屋(蕎麦屋)、笹屋(酒屋)が並び、左側には榎本治療院、交番、善味屋などがありましたね!

確か跨線橋が出来た頃交番は無くなったような記憶がありますが、多分それが昭和50年前後かもしれません。

1133.松戸の市場
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/6/26(水) 14:45

うしとら様、
松戸市竹ケ花181-27に篠崎竹ケ花マンションというのがありますね。この付近の市場の事ですね。でも私ははっきりとした記憶は無いです。これは松戸の市場でも少し触れた丸新青果市場(松戸一丁目及び竹ヶ花)の事ですね。

松戸市は松戸駅付近、水戸街道、北小金などの一部の商業が発達していた地域以外の産業は殆どが農業だったので、大小多くの市場があったのでしょうね!北部市場跡地は大きなショッピングモールに変わるようですし、いよいよ変化していきますね!

1120.アライハム
名前:東松戸鰻太郎 日付:2019/5/5(日) 4:40

以前、話題になっていた、アライハムですが、豚の屠殺場及び枝肉の加工場は吉井町の住人によるクレームが相次ぎ、茨城県の土浦市に移転。その後、アライハムの事業は大手の伊藤ハムに引き継がれ、葛飾区金町の本社はラーメン店になりました。

その後、ハムの製造部門は伊藤ハムに吸収合併され、本社の荒井畜産事業部で伊藤ハムの販売をはじめました。昭和60年台に創業者の息子が新たに本社の所在地と同じ葛飾区内に株式会社リキフーズを設立。現在も営業中。というのが知る限りのいきさつです。

1121.Re: アライハム
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/5/14(火) 12:50

東松戸鰻太郎様、
ご意見ありがとうございます。とても勉強になります。そうでしたか・・・クレームが・・・当時は、道路の排水側溝に処理した水を全部流していたので、あの坂を通ると鼻をつく臭いでした。文句が出るのも当然でした。多分当時は排水規制がなかったんでしょうね。

ただ、吉井町の現在の住宅街は戦後には野原のようになっていて、屠殺場の方が先に出来てましたので、後から住み着いた人たちに文句を言われたという事なんでしょうね。
http://omotenouchi.jp/

1124. アライハム屠殺場
名前:カカロット 日付:2019/6/21(金) 10:38

あの屠殺場が営業中だった昭和30年代に屠殺場が流した豚の血や脂肪をふくんだ排水が当時、松戸本町をながれる坂川を汚染して、悪臭やひどい水質汚染で新聞沙汰になり松戸市から営業をやめるように勧告されたのが移転した理由のひとつのようです。

金町の本社がラーメン店になった。よくご存じで、国道6号沿いのまる金らーめんですね。ちなみにもう1つ、居酒屋の「あら井」も営業しておりました。現在はしりませんが。創業者一族の長男が新会社設立・・。よくご存じですね・・・名前は荒井 力さんでしょうか?

荒井 注とまちがえるだろっ・・って冗談はここで・・。ちなみに業務内容はホテルなどや独身寮、学校給食などに使う業務用のハム・ソーセージなどの製造販売、伊藤ハムの下請けなどをやっているようです。創業は明治末期にまでさかのぼるようです。最初は本社も屠殺場も現在の葛飾区青砥にあったようで、戦前に松戸屠殺場が移転、本社が金町に移転したようです。

1125.アライハム
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/6/24(月) 14:30

カカロット様、
書き込み誠にありがとうございます。とても勉強になります。そういえば入り口に動物の為の慰霊碑があったかと思いますが、跡地にマンションが出来た時になくなってしまいましたね。
もしかして、移転先に慰霊碑も持っていったのかな?と思っておりました。

1126.Re: アライハム
名前:ベジータ商店サイヤ支店長 日付:2019/6/24(月) 18:58

管理人様、いつもサイトを楽しく拝見させていただいております。あの慰霊碑はハムやソーセージにされてしまった豚たちのために建立さてら慰霊碑でした。東急ドエスアラス建設の際、移転したものだと思いました。

ちゃんと神主さん立ち合いのもと、御霊抜きの儀式をしたのでしょうか?個人的に跡地マンションで心霊現象などの噂がでていないかなーと思います。

1127.Re: アライハム
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/6/25(火) 6:20

ベジータ商店サイヤ支店長様、コメントありがとうございます。私も個人的に気になってますね!もしかすると金町の会社敷地にあったりして・・・
http://omotenouchi.jp/

1128.Re: アライハム
名前:みんな、同一人物です。 日付:2019/6/25(火) 12:12

新井畜産の移転先の土浦の屠殺場がその後、伊藤ハムの茨城工場と食肉加工と畜産の専門学校になっているので、現在、豚たちの慰霊碑はそこの敷地内に移動したと思われます。

1130.Re: アライハム
名前:元従業員 日付:2019/6/25(火) 19:48

元従業員です。正しい所も有りますが、殆ど間違ってます。どこの情報だと笑ってしまいました。

1131.アライハム
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/6/26(水) 10:55

元従業員様、
拙ホームページを読んで、コメントまでいただき誠にありがとうございます。このままですと間違えた情報のまま私を始め皆さんが理解してしまいますと、あらぬ誤解も生じてしまうかと思います。もし、差し支えありませんでしたら、間違えている情報がを正し、正確な情報を発信していただけましたら、至極光栄です。

お願いできませんか?もしここでは難しければメールでも構いません。

1122.竹ヶ花西町の土地の件
名前:うしとら 日付:2019/6/14(金) 8:45

いつも楽しく拝見して居ります。
表の家とは?という記事にあります竹ヶ花西町の土地の件についてコメントさせて頂きます。私の実家が南花島向町(山パン工場がある地域)の水田を耕作していたので、少しだけ話を聞いていることがあります。

上記の南花島向町や竹ヶ花西町は昭和30年代の区画整理まで一面水田で、しかも団子地(土地の形が不整形)でした。これは昭和30年代の航空写真でも分かります。そこに水田等を所有していた農家は、区画整理事業によりお金で補償されたり、他の場所に換地されたりしたそうです。

表の家さんの曾祖母様の時代となると明治期だと思いますので、法務局に出向いて、竹ヶ花西町の地域の主要地番の旧土地台帳を閲覧し、土地の所有者にご先祖様のお名前を確認できるかましれません。その時代はほとんどが小作で、また土地の所有者は地主なので、戦後所有者となった小作の場合は確認することができないですが、名主家でしたら確認できる可能性が高いです。

旧土地台帳の閲覧・複写は無料みたいです。お時間ができたら調査してみると面白いことが分かるかもしれません。戦前の不動産の閉鎖登記簿は、諸所の事情から閲覧できない可能性が高いです。蛇足ですが、あの辺りに明治期に鉄道が敷設された際、当時竹ヶ花のI家が大地主で、土地を相当寄付されたと聞いたことがあいます。I家は幕末に北辰一刀流の免許者が出ているそうです。

1123.Re: 竹ヶ花西町の土地の件
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/6/15(土) 13:28

うしとら様、
非常に興味深いお話、誠にありがとうございます。そういう調べ方があったのですね。非常に新鮮な気持ちです。まだ現役で働いてますので、時間が出来るようになったら、ルーツ調べに法務局に行ってみようと思います。

I家も思い当たる家があります。他界した父も失ったどの土地なのか具体的には分からなかったようですが、これによって分かるかもしれませんね! ありがとうございます。
http://omotenouchi.jp/

1118.文房具店
名前:ブライト 日付:2019/3/12(火) 20:11

本日はじめて貴ページを拝見しました。今の子供たちは文具を100円ショップで購入します。ちょっとかわいいのはイオンやヨーカドーなどで購入します。小学校も高学年ともなると塾や習い事で忙しくなり子供だけで学校前の文具店に行くことはありません。スーパー内にある100円ショップが安くそれなりに品揃えもあるのでそこで購入します。

1119.Re: 文房具店
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/3/14(木) 13:1

ブライト様、
書き込みありがとうございます。確かに、今やダイソーに行くと(私は松戸ダイエーの上のダイソーとヨーカ堂上のダイソーに行きます)文房具がたくさんあり、たいてい用がたせてしまいます。文房具というと品揃えの良い東口の木屋さんに行きたいのですが、行こうと思うと休業だったりして、いけない事が多いです。

私が子供の頃は、学校近くの文房具屋=駄菓子屋という感じでしたので、お小遣いを持ってよく行ってはくじを引いて遊んでいました。
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1116.マニアックで素敵です。
名前:うしとら 日付:2019/1/31(木) 13:48

マニアックな素敵な記事を楽しませて頂いて居ります。私の実家は南花島で、同じく栄松寺の檀家です。学校も北部小⇒六中です。竹ヶ花古墳跡の墓地移設、とても興味深かったです。私の実家は現在の栄松寺の北側(かつての栄松寺の敷地内)に土葬していた遺骨を掘り出し、栄松寺内の現在の墓所に移設したそうです。

時期は表の家さんよりも前の昭和30年代だと思います。ちょうど南花島が宅地開発された頃です。かつて土葬していた場所は掘削され、整地用土砂に使われたそうです。ところで、そのむかし栄松寺は岩瀬の一本松のバス停付近にあったそうです。国府台合戦で戦災を受け、南花島に移って来たそうです。

1117.Re: マニアックで素敵です。
名前:道草亭ペンペン草 日付:2019/2/2(土) 7:58

うしとら様、
駄文のホームページにご意見いただき、誠にありがとうございます。昔の空中写真を見ますと、栄松寺の北の元国鉄(現JR)職員の宿舎や公園の付近まで、一帯の島の様で、何となく古墳の様で、多分栄松寺の区画もその一帯の島全体だったと思われ、そこにお墓があったのもうなづけます。

以前、すぐ近くの本福寺の佐藤住職(面白い人)とお話した時に、あの栄松寺の区画と田畑の境目辺りに防空壕があったというお話も聞きました。私が小さい頃は、周辺の様子はあまり覚えてませんが、ただ、栄松寺の中に大きなナンジャモンジャ(松戸のこの地域ではマテバシイの事をナンジャモンジャと呼んだ)の木があって、友だちと取りにいったことがありました。

しかも石を投げて落として取っていたので、墓石の裏に隠れていた和尚さんに怒鳴られてびっくりした思い出があります。ナンジャモンジャの大きな木は風早神社にもありますね。風早神社の方が大きいかな・・・

栄松寺は根本付近にあったと聞いたことがありましたが、岩瀬の一本松という事は、胡録台だったんですね・・・もしかすると胡録神社と対であったのかもしれませんね。
今後ともよろしくお願いいたします。
http://omotenouchi.jp/

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