東京五輪1964の思い出
テレビが我が家には無かった
東京五輪64が開催された1964年(昭和39年)には我が家にテレビが無かった。皇太子さまご婚礼のパレード1959(昭和34年)に白黒テレビが普及し、東京五輪64が開催された1964年(昭和39年)にカラーテレビが発売普及したという歴史になっている。ところが我が家には、カラーテレビどころか白黒テレビさえ無かった。
このため、テレビが設置されている新小岩の親戚の家に訪れ、てなもんや三度笠とかブーフーウーを観た記憶がある。帰宅時間が近づいても、私は「もっとテレビみたい!帰りたくない」と駄々をこねた。
昭和39年頃の我が家の生活
あの頃は、母が我が家の庭の一部を利用して、軽飲食店を営業していたので、テレビが買えない程貧しい訳では無かったと思う。今思えば当時は高度成長期の真っ只中で、父も母も我が家の生活のため一生懸命に働いていた頃だったので、娯楽道具としてのテレビそのものに関心が無かったのかもしれない。

いらすとや
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当時、庶民にとっての三種の神器と言われたテレビ、冷蔵庫、洗濯機の内、一番最初に我が家に導入されたのは洗濯機だったと思う。それまでは母が庭にたらいを置いて洗濯板でゴシゴシ洗っていた。当時は電化製品も月賦百貨店で買っていたと思う。我が家が良く利用したのは根本にあった京屋百貨店だった。

人研ぎ石の流しが、サンウエーブのステンレス流し台に替わった時の母の嬉しそうな表情は今でも忘れない。私と同年代の人と話をすると稀に「我が家はかまどだったよ」という人がいるが、流石に我が家にはかまどがあった記憶はない。ただ、私が物心がつく以前であれば、可能性は高い。
京屋の社長のおかげでオリンピック視聴
前節で京屋百貨店について触れたが、私がテレビで東京オリンピックを見られたのは、京屋百貨店のおかげだと言ってよい。ある日、松戸市根本の某居酒屋で、ふと出会ったおじさんと京屋の話をすることになり、話を聞いていくと京屋の娘と同級生だったという。さらに京屋の社長が北部小学校の各教室に一台ずつ寄付したんだ・・・という事を聞いた。
確かに私が小2だった頃、ある日突然教室にテレビが置かれた。あれはうれしかったなあ・・・ただ、あのテレビは東京オリンピックを見るために置いたという不文律みたいなものがあった。
テレビのサイズは13インチ程度だったと思う。画面が小さくて自分の席からはよくわからなかった。担任の先生が、「〇〇という日本人選手が出場しています」と言いつつ、視聴した様な記憶があり、ああ、そうなんだ〇〇という選手か・・・と、テレビを見ているのにどちらかというと耳からの記憶で見ていた感じがあった。
そのためか、テレビで視聴した時の記憶があいまいだったが、聖火入場のシーンはなんとなく記憶している。
市川崑監督の「東京オリンピック」
授業もあったし、画面も小さく、北部小のテレビで、東京オリンピックを堪能する事は無理だった。
後年、市川崑監督の「東京オリンピック」という映画で、やっと全貌が見え堪能したと言っていい。あの映画で直ぐに目に入った印象的な場面は鉄球で建物を解体していくシーンだった。あれは、ミンチ工法と言って、モンケン或いはフンドウと呼ばれる鉄球をクレーンなどの重機の先に吊るし、鉄球をぶつけ解体していく。
英語ではあの玉をWrecking Ball(レッキング・ボール)と呼ぶ。

UnsplashのLance Andersonが撮影した写真
ただ、2002(平成14)年5月に施行された所謂”建設リサイクル法”でこのミンチ工法は事実上出来なくなっている。ミンチ工法は廃棄物が一緒くたになってしまうのだが、この建設リサイクル法によって、コンクリート、鉄筋、木材、断熱材他の廃棄物を分別しなければいけなくなったためだ。さらに騒音問題もあると思う。
さらに2021(令和3)年4月に施行された”大気汚染防止法の一部を改正する法律”でアスベストに関する規制が厳しくなった事もある。これらにより、事実上ミンチ工法は不可能になったと言えるわけだ。
記憶の中のオリンピック選手(東京五輪64)
砲丸投げタマラ・プレス

タマラ・プレスは妹のイリーナ・プレスと共にローマ大会、東京大会で活躍したソ連の陸上競技の選手である。タマラ・プレスはソビエトの砲丸投げの女性選手であり現在でいうウクライナのハルキウ州出身である。数年前からロシア・ウクライナ間の戦争が始まっていて、ウクライナ東側がかなりロシアから攻め込まれたり、取り返したりしているが、ハルキウはその東側に近い場所で、戦火の絶えない場所でもある。
ただ、このタマラ・プレスは実は男性なのではないか?という疑いをもたれていた。何故小2の私が知っていたのか良く覚えていないが、多分父親が教えてくれたのかもしれない。東京五輪64までは性別検査は行われなかったが、1968年のメキシコ大会からは性別検査が行われるようになったためか、プレス姉妹は姿を消してしまった。
アベベ・ビキラ(エチオピア)

アベベはマラソン選手として、小学校の教科書にも載り、裸足の英雄と言われた。ただ、裸足で走ったのはローマ大会で、1964年の東京五輪ではしっかり靴を履いて走っていた。また、ローマで裸足で走ったのは、偶々靴が壊れてしまったためローマで調達しようと思ったが、ちょうどよい靴が無かったので裸足で走ったそうだ。
アベベの走りで驚くのは全く冷静な顔でちっとも苦しそうではない。それはゴール後も同じで、多くの選手がゴール後ぐったりした様子なのにも関わらず、アベベだけは何故かまだ元気が余っていて屈伸などをしていた。ただ、気の毒なのが後に自動車事故で頸椎をやられ、下半身不随になって車いす生活になってしまった事だろうか?
良い選手だっただけに気の毒である。
ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)ー体操
小2の私でも開催当時、チャスラフスカの名前は何度も聞いた。ただ、演技をじっくり見たのはやはり市川崑監督の映画「東京オリンピック」であったと思う。スローモーションで彼女の名演技をこれでもかと表現していた記憶がある。

チャスラフスカさんは、”プラハの春”の支持を表明し「二千語宣言」に署名した。メキシコ五輪開催へ向けて合宿し練習していたが、五輪開催の僅か一ヵ月前ソ連のプラハ侵攻があったため、山中の小屋に籠り練習道具も無いにも関わらず一人で練習したそうだ。メキシコ五輪への出場は危ぶまれたが、何とか出場し、個人総合二連覇、種目別で三つの金メダルを取り活躍した。
すっかり表舞台からは消えてしまった。チェコスロバキアは後にチェコとスロバキアに分裂、ソ連の支配から抜け独立したが、彼女の選手としての活躍の場を見られなかったのは残念だ。そういえば、後年、他界される数年前だと思うが、来日したことがあった。
2002-3年頃だったか、チャスラフスカさんのための何らかの情報、資料を公募していた記憶がある。私も何らかの資料を送った記憶がある。しかしその後他界された。
さて、話を体操競技に戻すが、いつの間にかルーマニアのナディア・コマネチ選手を代表とするような、女性美というよりは、どちらかというと”森の妖精”的、或いは軽業師の様な演技と言えばいいのか、ミスのない満点演技ではあるものの、私としては何か物足りなさを感じる方向に向いていった感がある。

大人の女性美を感じる体操選手が脚光を浴びる時代が遠のいていたような印象がある。
三宅義信-重量挙げ

小2の頃、話題になった一人に重量挙げの三宅選手が居た。何故名前を憶えているのか分からないがやはり金メダルを取ったことで、何度も名前を聞いたので覚えてしまったというのが本当のところかもしれない。私が45歳の頃、沖縄のホテル新築工事の常駐監理をした際に施主の一人が、えらく厳しく当たるので、私としては苦手だった。
ただ、話を聞いていくと元重量挙げの選手だった事が分かった。何となく風貌が三宅義行選手に似ていた事もあって、「1964年の東京五輪やその後のメキシコで三宅選手は活躍しましたね!私は覚えていますよ」と話題を向けてみたら、それまで怖ばらせた表情だったのに、突然表情が変わり破顔になった。話を聞くと、どうやら、三宅選手に憧れていたらしい。
その後、ロンドンやリオで活躍した娘の三宅宏美さんは三宅義信さんの弟の義行さんの娘。つまり、三宅宏美さんから見ると、三宅義信さんは叔父さんという事になる。それにしても三宅宏美さんは、叔父さんにもお父さんにも似ているなあ・・・と思う。
そういえば、東京五輪の頃だったが、重量挙げの際の腰のベルトは重要で、それをしないと腸が飛び出してしまう・・・という本当なのか、嘘なのか分からない都市伝説があり、私は信じていたのを思い出す。
ちょっとサブカル
東京五輪1964の切手

五輪切手
東京五輪1964の記念切手が発売されていた。ただ、当時は切手収集の趣味を持つ以前の事だったので、それを買おうという気持ちも無かったし、そもそも財力も無かった。オリンピックの切手を始めて手にしたのは小3の頃で、房総白浜出身のFさんがくれたものだった。それまでの私の所有切手はほぼ全て使用済み普通切手で、我が家に届いた手紙から剥がし、乾かしストックしたものだった。
そんな乏しいストックブックをFさんは不憫に思ったらしく、多分Fさんのお古だったのだろうとと思うが、黒い、大きなストックブックと共に当時すでに発売されていた記念切手をたくさん入れて、私にくれたのだった。東海道新幹線開通記念、姫路城修理完成記念、国際通貨基金などなど・・・私は飛び上がるくらい嬉しかった。
そのストックブックの中に東京五輪1964の切手も入っていた。東京五輪の競技切手は何故か角度が45度振っていて、ストックブックに入れても収まらなくて、収めても倒れそうになってしまったが、何となくインパクトがありカッコいいと思ったものだった。あの日の感激を元に私の切手収集が始まった。

ペプシコーラのプロモーション

ペプシコーラのプロモーション1964年の頃
東京五輪64開催の頃は我が母が自宅庭の一部で飲食店を営んでいた。近くに竹の湯という銭湯があったので、その帰宅客をターゲットにかき氷を始め、加えてペプシコーラ、ソーダ水、あんみつ、アイスクリームなども出していた。いよいよ寒くなってくると焼きそばやおでんも始めた。開店し始めた頃だったと思うが、ペプシコーラのプロモーションが始まった。
ペプシコーラを飲んで競技選手の小さなフィギュアをもらおうというものだった。王冠の裏に当たり外れが書いてあったかと記憶していたが、あらためて当時の広告を見ると王冠二つに加え10円でもらえるものだったようだ。各店舗にペプシコーラ製の45センチx30センチくらいのディスプレイ台が置かれた。その台にはフィギュアが挿してあり、大きくペプシコーラのロゴが入っていたと思う。
私は興味が無かったけれど、どんな時代でもああいうものを欲しがる人というのはいるものだ。あの頃もフィギュア目当ての人も来ていた。

同級生の網谷君は
小1,2の時に同窓だった網谷君は南花島或いはその先の上本郷に住んでいて、度々遊びに行ったことがある。確か南花島N家の輝夫君とは”いとこ”或いは”はとこ”だったと聞いた。その網谷君は「お父さんと東京オリンピックを見に行くんだ」と言っていた。実際に行ったのかどうか、どの競技を見に行ったのかは分からないが、うらやましいと思った。
私は現在六十代後半だけれど、結局オリンピックなるものは見に行っていない。2020東京オリンピックは初めて見に行くチャンスが訪れると思っていたのに、事もあろうにコロナ禍で、開催はしたものの無観客という状況で、チャンスを逸してしまったが、やむを得ない。
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