表の家の周辺

亀有の叔父のお話

新小岩と親戚 表の家の周辺
昭和34年頃撮影、場所は新小岩、左奥がG叔父、右端の子供が筆者、筆者を抱いているのが、戸塚の伯父さん、左下は横須賀の従妹のEさん
スポンサーリンク
スポンサーリンク

亀有の叔父のお話

頻繁にやってきたG叔父

 

鉄人28号 - Wikipedia

 

私がまだ小学生低学年の頃、突然「姉さん!」と言いながらニコニコして我が家にやってきたG叔父。私が叔父の実姉の長男だったこともあって叔父には大変可愛がって頂いた。我が家にくる度に色々なお土産を買ってきてくれた。鉄人28号のブリキのおもちゃ、筆入れ、学年が上がってくると、万年筆や腕時計など買ってもらった。

私にお土産をわたすと目をくりくりさせながら、屈託のない笑顔で私が喜ぶ姿を見ていたのを覚えている。

 

404 Not Found

 

大洗海岸 - Wikipedia

 

海に連れて行って頂いたこともある。あれは大洗海岸だった。確か叔父が運転して、助手席に奥様、後ろの席に長女がいたと思う。大洗海岸は茨城の鹿島灘の最北に位置する場所で、冷たい親潮が流れてくる場所で、千葉県の九十九里浜に比べるとえらく水が冷たい。また、砂浜というよりも砂利浜に近い感じがした。

電話工事が本業のG叔父

G叔父は電話工事の会社を経営していた。1953年(昭和28年)~1983年(昭和58年)は電話債券の時代で、特に昭和30年代までは電話を引くのも高額だった。電話が欲しいなら電話債券を買わないと電話が使えなかった。我が家に電話が入ったのはお店を始めた昭和39年だったと思う。そういう背景もあって、電話工事も良い仕事の一つだったのかもしれない。

電話加入権 - Wikipedia

私が初めて自分の住むアパートに電話を引いたのが、1990(平成2)年で、単に電話加入権と言っていたと思う。松戸の一平橋の先にあったNTTで72800円で電話加入権を買った記憶がある。当時は電電公社ではなく、すでにNTTだった。あの頃は望まずして、支出が多い時期だったなあ・・・

“ナウイ”事が好きだったG叔父

目立ちたがり

Steve WattsによるPixabayからの画像

この叔父さんは兄弟の中でも末っ子だった為か、何となく自分自身の存在感を顕在的に示そうとする御性格だったと記憶している。分かりやすく言い換えると目立ち屋さんだったのかもしれない。

新しい事、革新的な事を目指していた。死語であるが”ナウイ”事が好きな人だった。ある日、我が家の黒電話を緑だったか色つきの電話機に替え、さらにその次にはプッシュフォンに替えて行ったことがあった。又、ある時「年賀状はやめて電話で挨拶をするんだ・・・」と言い実行していた事があった。心配性の母はそういうG叔父さんをどうなんだろうか?と考えていたけど・・・

「将来〇〇(私の事)に会社をあげるぞ!」とありがたい言葉をいただいたこともある。家族も従業員も居るわけだし、現実はそんなに簡単な話ではないので希望的社交辞令の様なものだったと思う。

新生「鹿島屋書店」

書店

naobimによるPixabayからの画像

G叔父は小説家を目指して夢破れ、結局本屋になった亡き父(私にとっては祖父)が経営していた鹿島屋書店の名にあやかり、亀有に新生“鹿島屋書店”を立ち上げた。この時は、我が母は誇らしげに私に語ったし、横須賀の姉、戸塚の兄、鎌田の姉も大層驚いたのではないだろうか?

母方の祖父のお話
母方の祖父は茨城の大農家の長男。文学が好きで小説家をめざし、継ぐ筈の財産を全て次男に譲り、許嫁と共に東京に駆け落ちしてしまった人である。東京で懸命にそして懸命に修行した。自分の作品を徳田秋聲氏に送った。徳田先生はご丁寧にも返事を書いて下さった。

一度お店に行ったことがあった。所謂新刊本の本屋で、こじんまりとした住宅街の本屋だった。あれは確か昭和の末期の頃だったんじゃないか?ただ、本の品ぞろえとしては、それほど魅力的な本屋では無かった。

当時は本屋稼業が再販制度に守られていた時代じゃないかな?売れない本は出版社に返品出来るので、住宅街の本屋でも生計が建てられた時代だったと思う。それでも本屋はセカンド・ジョブとして維持出来るほど簡単では無かったらしく、新生「鹿島屋書店」は程なくして店をたたんでしまった。

スナック業開始

飲み物

ダ鳥獣ギ画
https://chojugiga.com/

その後、G叔父は本屋廃業後、おなじ場所でスナックを開店した。私も何度か店に行ったことがある。ところが私が行っても客として御代金を請求しない。叔父は優しさのつもりでそうしたのだろうし感謝すべきなのだが、私は客として来ている訳で金は払って帰りたい。そうしないと第一常連になれないし、タダ飲みの客になってしまう訳で心苦しいし、応援にならない。

ここで初めてハイボールという飲み物をいただいた。知らず知らずのうちに飲み過ぎた。不覚にも飲み物を我がズボンにジャーと溢してしまいビショビショになったのを仄かな記憶として覚えている。目を覚ましたら、それは店の二階の叔父の家だったという事があり、自分としてはかなりショッキングで、G叔父一家には御迷惑も掛けてしまった。

ただ、昼は本業の電話の仕事、夜はスナックの営業では体が保つわけが無い。結局スナック業も程なくして止めた。

G叔父の他界

亀有に住んでいたG叔父が2005(平成十七)年に他界した。我が母の弟で享年六十六歳だった。私も現在似たような歳だが、そろそろ体に気を付けないといけないなあ・・・と感じる。母も闘病中の実弟であるG叔父を気遣って何度も足を運んだ。姉の愛であろう。G叔父さんのその実姉が最近G叔父さんに会いに行ったので、向こうでよろしくお願いします。合掌!

スポンサーリンク

表の家周辺のお話、その他

学童集団疎開と母
母がまだ国民学校に通っていた頃、山形県鶴岡市湯田川温泉にあったたみや旅館に学童集団疎開で行ったそうだ。当時、学童集団疎開の行き先はマチマチで、お寺であったりいろいろでそれぞれに苦労があったらしいが、たみや旅館では大変お世話になったそうだ。
新小岩・戸塚の家とバンビさん
子供の頃は自分の親の兄弟が多かったので、冠婚葬祭などで親の兄弟の家への行き来があり、従妹の存在を知った。当時は仲が良くても、ここ数十年、あまりに接触が無かった。遠い親戚よりも近くの他人とは言うが、記憶がなくなる前に記録だけしておきたい。
母方の祖父のお話
母方の祖父は茨城の大農家の長男。文学が好きで小説家をめざし、継ぐ筈の財産を全て次男に譲り、許嫁と共に東京に駆け落ちしてしまった人である。東京で懸命にそして懸命に修行した。自分の作品を徳田秋聲氏に送った。徳田先生はご丁寧にも返事を書いて下さった。

コメント

  1. うしとら より:

    G叔父さんの本屋とスナックを開業した話で思い出したことがあります。独身時代に新京成沿線の某駅近くのアパートの住んでいた折、駅前の八百屋さんが閉店してしまい、スナックになったのですが、店の扉から出て来たママがどこかで見たことがあるなぁ・・と思ったら八百屋のおばちゃんで、ビックリしたことを思い出しました。服と化粧で気が付かなかったです。

    • うしとらさん、
      コメントありがとうございます。
      そのお話面白いです。同時に個人商店の厳しい現実があったのかも・・・とも感じますねs。
      もしかするとバブル崩壊後で個人店が大型店におされて、商売にならなくなってきた頃かもしれません。
      45年くらい前の学生時代に松戸新田に住む同級生(女性)が飲食店を営んでいた事があって、私はそこの常連でした。就職後、仕事の関係であまりその店に行けなくなりました。
      1990年代だったかな・・・突然スナックになってしまった。
      店に行くとその同級生とお母さんがお店でお酌をしていたっけ・・・
      もっともその同級生がスナック始めたいというので、内装設計の人を紹介したのは私でしたけどね・・・

タイトルとURLをコピーしました