根本の町並みの思い出と算盤塾
昭和38-39年頃の松戸市根本のお話です。あの当時はまだ根本が区画整理される前で、今とは根本の町並みが全く違っていました。当時は街道沿いの商店街で、歩いているとその商店で働いている人の姿が見える商店街です。私が商店で働いている人を見ていたように、私も商店の人たちに見られていた。そんな時代でした。
習字と算盤
松戸駅方面に向かって根本に松戸第一珠算学校という算盤教室があり、ある日、母に連れられて行きました。以降そこで習字と算盤を習う事になりましたが、私は、まだ小1でした。当時、あんなに幼かった私を、母が一人でそろばん塾に行かせ、加えて銭湯にも一人で通わせました。
多分それは、曾祖母が他界した後、母が自宅の庭でかき氷屋を始めた事に起因していたのでしょう。多分、それが繫盛したためです。予想以上にお客さんが来ていました。お店はほぼ午後9時過ぎまで営業していました。
方向音痴

いらすとや
https://www.irasutoya.com/
そんな鍛え方をされたおかげで、私は方向音痴にならないで済みました。小さい頃、父が連れて行ってくれた納屋川岸の堂の口橋のたもとの駄菓子屋さんに、再び一人で行った事があります。駄菓子屋のおばさんに「良く一人でこんなに遠くまで来たわね」と心配されたっけ・・・
私は過去迷子になった記憶が無くて、なんだかんだ言いながら家に帰ってきてしまう。ところが、現在の私の娘も妻も何故か、方向音痴です。娘が北部小を卒業し、一中に入学する際、一中への行き方が分からないと言われ、一回では覚えられず、もう一回一緒に一中まで歩き、何とか一人で行けるようになりました。
妻はそこまでひどくはありませんが、妻が運転していると、やたら私に道順を聞かれるので、不思議に感じます。道を間違える事に恐怖心があるらしい。でも、道の選択間違いというのは地理を覚える肥やしになりますので、たくさん間違えて道を覚えた方が良いと考えてます。でも方向音痴の人は、一度の間違いも困るのかもしれません。
自動車で松戸市内に買い物に行き、比較的自宅から近い位置にいるにも関わらず、帰る時にどちらに向かっていいのか分からないそうです。あれで良く運転できると思います。鳩だってバスケットの中に入れ、50キロ、100キロ離れた場所から放たれて、しっかり自宅に戻る帰巣性があるのに、どうして人間には方向音痴があるのか?
ちょっとだけエスパー
そういえば余談ですが、テレ朝系で”ちょっとだけエスパー”というSFドラマがあり、ちょっとだけエスパーの能力のある人間が織りなす、コメディドラマなんです。
その中に半蔵というちょっとだけエスパーが、動物とちょっとだけ会話できる能力があり、ある自動車を目的地に到着させないために、鳩に頼み込んで、車が目的地に向かうのを阻止するという場面がありますが、あれは笑えました。
方向音痴というのはどうして起こってしまうんでしょうか?何度も同じ場所に連れてきているのに、帰る時になるとどうやって帰るのか分からないという。私の場合は、大雑把な地図が頭の中に描かれていて、来た経路、太陽の位置、目印になる建物によって、概ねこの方向に向かえば帰られるというのが分かるんだけど・・・
松戸第一珠算学校までの道のりには
それはさておき、昭和38-39年に戻ります。我が家から松戸第一珠算学校に行きつくまでには、竹ケ花の商店、根本の商店街(根本商栄会)を抜けていかなければなりません。商店街のおばさんたちの監視の目もあったと思いますが、危険な目にも合わず、今まで生きてこられました。
竹ケ花地区ですが、関口下駄屋さん、初田さん、横尾商店(ヤマザキパンや菓子類販売)、明治屋(踏切近くの乾物屋さん)・・・この明治屋で思い出しましたが、明治屋さんにいくとおばさんが、下の段に珠が5つある五つ珠そろばんを使っていました。そろばん塾で使うのは四つ珠そろばんです。
果たして、この五つ珠そろばんってどんな利点があるんだろうか、どうやって使うのか興味津々でした。

そろばん写真
踏切の遮断機昇降をしているおじさん達、過ぎて、助六(揚げ物屋)、テーラーキワのオヤジさん、小久保電機さん、山長そば、山長団子屋(山長そば屋のおじさんも、山長団子屋のおばさんも今でも会えば挨拶する)、この辺りまでは竹ケ花。
その対面は根本なんですが、花沢燃料屋、二葉屋(吉川酒店)もある。再び手前側は、大熊さんの家で竹ケ花は終わり、根本の区画に入る。
とんかつほそや

表の家スケッチ
少し歩くと”とんかつほそや”さんがあって、ここでは良くポテトフライを買って食べた。コロッケもあったけれど、小学生の私にはコロッケは割高に感じ、安いのはポテトフライだった。ポテトフライと言ってもジャガイモを乱切りしてパン粉を付けて、揚げてあるもので、ほくほくして美味しかった。
ただ、お店のカウンターが子供には高さがありすぎて、買いにくいという印象があった。カウンターは確か緑色の柄入りメラミン化粧板仕上げだったと思う。
八百浪さんや魚力さん
上の地形図は松戸市役所が昭和39年に発行した地形図に昭和37年の商店情報をインプットした図です。青いラインは旧水戸街道です。上のフルスクリーンをクリックしてお確かめください。もし間違いがありましたら、ご指摘ください。ありがとうございます。

八百浪
2005年11月撮影
上の写真の中央の間口が広いお店が八百浪さん、その右隣が渡邊種苗店、魚力さんと続く。これらの店舗の内、渡辺種苗店だけが残っていたが、昨年暮れか今年の春頃解体された。2025年現在はこれら木造の建物は、全て無くなった。
さらに歩くと八百浪があって、ここは私の行動をチェックされる大きなチェック・ポイント、数軒先に魚力があり、ここも大きなチェックポイント、私の事を良く知っている。この辺りを過ぎ根本の交差点を渡ると母の行動範囲外なので、私を知らない人たちのお店ばかりになる。
これらお店以外にも、私を知る人はたくさん居て(やはり自宅で母がお店を営んでいたからか)、歩いていれば必ず声を掛けられる。考えてみれば、こうやって地域の皆さんに守られ、私は育ってきたと言える。ある意味、子供が成長するには地域の横のつながりが大切かもしれない。個人商店はやはり必要なのだ。
子どもの頃は竹ケ花で、今は根本に住んで居る。現在の根本に住んで居る人から「◎◎さん(私の母親)とは良く買い物している時に会ったわ」と言われる事もあります。こういう声掛けをしていただくというのは大事な事と思います。そして、こういう声掛けが少なくなってくると、人の成長に大切な何かが徐々に失われ、悲しい気持ちになります。
今は過渡期にあるのかも・・・
当時の松戸第一珠算学校のあった場所
話が横道に逸れました。現在の松戸第一珠算学校の本校は、松戸駅西口の中通りにあります。
ただ、根本区画整理後からつい最近までは、旧ダイエーの裏通り沿いに鉄筋コンクリートのビルで存在していました。
ここはほぼ元木造校舎のあった場所或いは近い場所だと思います。私が通っていた当時は、とにかく算盤を習う子供たちがたくさん居たので、珠算学校に行くと、実に賑やかで、松戸本校も平面的に広がって、えらく広い敷地のイメージでした。区画整理後、このビルが建ち、随分こじんまりとまとまったなあ・・・と思ったものでした。
久しぶりに田中先生を見かけたら
木造校舎のあった位置は松戸市根本499でした。校長先生は田中先生。そういや、今から15年くらい前だったか、ダイエー横の松ノ木通りを歩いていた田中先生を見つけた。道のど真ん中を歩いていて危ないので、「田中先生、ここは道の真ん中で危ないですよ、舗道の方にどうぞ」と手を引いて、舗道に寄せてあげた事がありました。
名乗りつつ、少し話をしたら、「根本の◎◎◎店の?」というので、「否、そこにもその名字のお店がありましたが私は竹ケ花ですよ」と言葉を交わした。どうも視力がかなり落ちていて、あまり見えなかったらしい。
さらに2025年の夏ころだったか、一階の床屋(理容ひまわり)が閉店し、さらにあのビルの引っ越しが始まって、解体が始まってしまった。

そろばん塾跡地2025年11月1日撮影
昭和の頃の松戸第一珠算学校
上の図は松戸市役所が発行した昭和39年の地形図に松戸第一珠算学校の位置と私がどういうルートで珠算学校に行ったのかを図示したものです。そこに当時存在した商店をざっと書いていきました。店舗位置など、何か不適切な部分がございましたら、ご指摘ください。

広報まつどs351月1日号
現在、杉浦葬儀店や飯田産業の入っているシエモア松戸付近に中に入る細い道がありました。道幅が2.5m程度で、車が通れる道ではありません。道の中央に蓋はあるものの排水溝が連なっていて、自転車でその道を通ると、蓋がパタパタ音を立てるので、面白かった記憶があります。
その細い道を入っていくと、ひっそりとした住宅街という感じで、両側は生垣だったり板塀だった記憶があります。さらに真っ直ぐ入って行き、途中で左に入ったところに松戸第一珠算学校がありました。
暗くなるとあの道は薄暗く怖い。電灯があった記憶がありません。珠算学校の授業が終わるころはどうしても暗くなるので、遠回りでも金ケ作陣屋道まで一旦出て、松戸消防署の前に出てから、水戸街道を歩いて帰ります。
金ケ作陣屋道というのは、旧ダイエーの付近のラーメン二郎の所に斜めに走っている不思議な道がありますが、その道は旧水戸街道から松戸西口公園先の小根本の踏切まで繋がっていた道です。その金ケ作陣屋道を歩くと、駅方面に向かうやけに開けた明るい道があった。それが高砂通りだった。
高砂通り

昭和36年頃の高砂通り
(松戸市商店街診断報告書昭和37年3月発行 松戸商工会議所より)
高砂通りは、親と夕涼みで駅に向かう時に通ったものの、夜暗い時間に小学生が一人で歩く道ではなかった。所謂盛り場の道、酔っ払いの来る大人の道なんです。
とはいえ、昼間歩くとうなぎの引っかけ釣り屋があって面白かった。客がうなぎを釣るとそれを店先でさばいて焼いてくれる。ただ、まな板でうなぎを捌いている職人の横のバケツには捌かれた残骸のうなぎの頭がいつまでも口をパクパクさせているのが、気持ち悪かった。
同時に東光ゲームセンターがあった。一緒に珠算学校に通っていた同級生の南花島のM嬢、竹ケ花のT君と一、二度入った事があります。レトロなドライブゲームやアナログな感じのピンボールゲームがあった。ただ、当時ゲームセンターに行くのは不良だといわれた、誰が言ったのかは知らないけれど、そうそうは行けなかった。
今、高砂通りの途中にメロンパン屋があるけれど、そこは数年前まではカドヤというお煎餅屋があった。そのカドヤは元々服や生地を売っていた店で、狭いながらもたくさんの服飾関連を売っていた記憶がある。衣食住の内、食に関しては根本商栄会でまかなえたけれど、衣服に関してはやはり松戸駅周辺が頼りだった。
カドヤに行くときは大抵母と一緒だった。当時に行った服飾関係としてベニヤもあったね。
また、金ケ作陣屋道と旧水戸街道の接点まで戻るが、その旧水戸街道の対面にリッカーミシンのお店があって、そのリッカーミシンの背面付近だと思うけれど、親戚がいて何度か遊びに行った事があった。屋代さん一家で、従姉妹の礼子ねえちゃんが居たっけ・・・S君、K君はまだ小さかった。
あの屋代さん一家はその後、千葉大園芸学部の高台と一中の高台との間の谷津にある住宅街に引っ越していった。
もう一つの塾

いらすとや
https://www.irasutoya.com/
この文章を書いていて思い出したのだけど、竹ケ花のS材木店の長男のSさんが、根本であったか、或いは松戸一丁目であったか忘れたが、あの辺りの塾に通っていた。Sさんの話によるとその塾は勉学だけではなく、体育の授業もあるんだと言っていた。不思議な塾ではあるけれど、塾名や場所など全く知らない。誰かご存じの方がいらしたら教えてください。
終わりに
実はこの投稿は習字の手習いについて書き始めたのだけれど、いつの間にか松戸市根本や竹ケ花の町並みについての記述が多くなってしまった。書いている内にそれでもいいかな?と思いタイトルを代えて投稿した。





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