表の家の周辺

新小岩・戸塚の家とバンビさん

banbi-san 表の家の周辺
昭和36-7年頃撮影。バンビさんが7歳になり、七五三のお祝いをした日。隣は私
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新小岩と戸塚

東京低地と新小岩

母の実家が新小岩だった。松戸からは比較的近いので、度々新小岩の実家に私を連れて行ってくれた。松戸から新小岩にはバスで市川に出て市川から総武線に乗り換え新小岩に行く方法と、松戸から上野を経由して秋葉原に出て、総武線で乗り換え新小岩に行く。後者の方法をよく利用した。

これは何度も川を渡るコースで、江戸川ー中川-荒川-隅田川を渡り秋葉原に到着し、総武線に乗り換え、隅田川-荒川と渡り新小岩に到着する。通過する葛飾区、足立区、台東区、墨田区、江戸川区は東京低地と言われる場所で、過去水の被害に遭いやすかった場所だ。ハザードマップの浸水リスク検索サービスを見ると、浸水の脅威に晒されている(いた)場所。

それゆえ、いくつも川があるのだろうと思う。子供の頃隅田川は電車で上を超えただけで悪臭がしたものだが、現在は改善している。さて、新小岩のある江戸川区は日本三大金魚産地と言われている。母が子供の頃の新小岩では大雨が降ると養魚場の金魚が溢れ、近所のドブや川に流れて行ったと聞いた。また通学する経路に蓮畑も続いていたと聞いた。現在の新小岩からは想像できないかもしれない。

微かな記憶では新小岩の家の裏には大きめの側溝があったような記憶がある。

昭和の頃の戸塚駅

母の実家は新小岩であったが、後を継いだお兄さんが、昭和40年代に戸塚に越した。戸塚と言っても、戸塚駅と藤沢駅の中間位の場所で、隣に竹林のある、とてものどかな場所だった。戸塚駅から歩く距離ではない。戸塚駅付近からバスに乗ると国道一号線を経由するバスがあるのでそれに乗っていく。ただ、法事の時は蒲田の親戚の叔父さんが、営業用の車で、行き来をしてくれた。

微かな記憶で、当時の戸塚駅前はそれほど大きくなく、不二家レストランがあったのを覚えている。どこにでもあるような雑多な商店街が続き、人間味あふれる場所だった。あれから45年後に行ってみたら、区画整理されて、大型店が建ち、広々として全く異なる駅周辺になっていた。Youtubeで昔の戸塚駅がないか調べてみた。

いかがだろうか?戸塚駅前はかつての昭和の頃にあった商店街というイメージで親しみやすい場所であったことが分かると思う。

戸塚の家での法事

法事

いらすとや
https://www.irasutoya.com/

母の兄はT伯父さん。T伯父さんは確か、K製作所で働いていたと言っていた。すでに他界したが、生前は大変可愛がっていただいた。新小岩の実家にお住まいだった頃は断片的な記憶しかない。はっきり覚えているのは戸塚に越して以降……

亀有の叔父のお話
我が母の実弟である亀有の叔父さんは、実姉である我が母の嫁ぎ先が松戸であった事で、頻繁にやってきた。その度に私に玩具や文房具など色々なものを買ってきて、可愛がってもらった。バブルの頃、本業以外に本屋さんやスナックを始めたり、何かと話題の多い人

行ったのは確か他界した祖父の法事だったような気がする。それが、納骨であったのか、三回忌であったのか、或いは十三回忌であったのか?全く覚えていない。昭和47-8年の頃だったと思う。金沢文庫のお墓に行った記憶はある。あれは四十九日法要の納骨だったのかもしれない。戸塚からの帰路は蒲田の伯父(我が母の姉の夫)が、車で送ってくれた記憶がある。

【神奈川・金沢区】金沢文庫・金沢八景駅周辺の昭和な商店 - 香ばしい町並みブログ ~昭和レトロな町並み&昭和の商店街遺跡~
(2013年9月撮影)金沢文庫駅東口にある飲み屋さんのある路地。猛暑日でしたが空が青い。東口から商店街に入ります。それほど香ばしい建物があるわけではありませんが、それでも人どおりは多く「昭和な商店街」の雰囲気は十分に味わえます。レトロ調な薬...

徳田秋聲先生の返事 暗誦

戸塚の家の隣地には竹林があった。隣の家は養豚場だった様な記憶があるが分からない。
「季節になるとタケノコがあっという間に成長して畳を持ち上げてしまうんだ」
T伯父さんは面白可笑しく話した。

徳田秋声 - Wikipedia

新小岩の祖父が徳田秋聲から返事を受け取った事について触れたが、その候文の返事を祖父だけでなく、T伯父さんも暗誦した。実は竹ケ花の実家に徳田秋聲全集だったか、あるにはある。一度読もうと思いページを開いたが、文章が難しく、又字も小さく断念したことがある。

母方の祖父のお話
母方の祖父は茨城の大農家の長男。文学が好きで小説家をめざし、継ぐ筈の財産を全て次男に譲り、許嫁と共に東京に駆け落ちしてしまった人である。東京で懸命にそして懸命に修行した。自分の作品を徳田秋聲氏に送った。徳田先生はご丁寧にも返事を書いて下さった。

囲碁の話

囲碁

いらすとや
https://www.irasutoya.com/

酔ったT伯父さんから「おい、囲碁は出来るか?教えてやるから座れ」と言われた。私は全くルールが分からないのに、座布団に座らせられ碁を打ち始めた。私が適当に打っていたので、酔った目でじ~っと私の顔を見て「にや」と笑うんだな。勝負は終わり。

そういえばT伯父さんは酔っている姿しか知らなかった。そういえばT伯父さんが奥様との馴れ初めを話していた事があった。それは純愛そのもので、好きで好きで仕方なくて、ハーモニカを吹きながら、恋い焦がれていたという様な話だった。

バンビさん

バンビ

Gitti LohrによるPixabayからの画像

このT伯父さんの長女がとても綺麗な方だった。お姉さんのイメージはバンビ(子鹿)だった。美人で、機転が利いて、キビキビしていて、優秀、はっきりして、明るいが、ちょっと冷めている。考え方はボーイッシュで、しかも、きちっと自分自身を持っている。決して今時見かける色気が前面に出ているタイプではない。そんなバンビの様なお姉さんを以降`バンビさん`と書く。

バンビさんと私は従兄弟の関係。確か、私より三歳ほど年長だと思った。バンビさんは聡明、努力家で東京外語大学を卒業した。小さい頃は本当に憧れのお姉さんだった。頭でっかちの私とは大違いだ。

バンビさんを市川駅まで見送った日

昭和30年代の市川駅前

昭和30年代の市川駅前
市川市発行絵葉書
「観光の市川」より

松戸の我家(表の家)にも来たことがあった。昭和三十九年頃だと思う。自営していた「やきそば○○○○」を手伝ってくれた。我が家に宿泊して二泊目だったか、T伯父さんの家族が船橋ヘルスセンターに行くというのでバンビさんをバスで市川駅まで送った。あの日は実に寂しかった。当時の市川駅は千葉街道から駅に入る処に手信号で車を誘導している警察官がいたっけ・・・

市川駅北口ロータリーは広くて花が咲き、周辺に薄汚れたショーケースがある小さな食堂があり、私は「そこに行きたい」と母にお願いしたが、母は「ショーケースがきたない所は店舗の中もきたないので、駄目」と言われたのを覚えている。

バンビさんと横浜


バンビさんが外語大学に在学中、度々横浜港に英語の勉強をしに行ったそうだ。港で米国人の子供を見つけ英会話の勉強相手になってもらう。この「子供と話す」というところがポイントなのだそうだ。子供は訛りもなくはっきりした発音で非常に分かりやすい。何度も通って勉強した。こういう実践は自分の力になる。

母は実家だった新小岩の家に度々私を連れて帰った。バンビさんが5歳くらいで私の記憶が殆どない頃だ。母と私が帰る際、バンビさんが新小岩の駅まで一緒に送ってくれた。ところがバンビさんは歌が得意らしく、新小岩駅までの雑踏の中で三橋三智也の「哀愁列車」を大きな声で歌い始めた。

「惚~れえて、惚~れえて♪……♪」

母はかなり照れたそうだ。

三橋美智也からローリングストーンズへ

そんなバンビさんもいつしか四国にお嫁に行った。もうすっかり遠い存在になった。
いつか哀愁列車歌ってくれるかな?わざわざ「哀愁列車」を聴くために四国に行けないしね。もっとも四国に行っても、バンビさんが歌ってくれるとは限らない。やはり寂しいね。

また、当時”カーペンターズ”が好きだった私は、バンビさんに「カーペンターズお好きですか?」と聞いたら、バンビさん曰く「私はローリングストーンズ」と言っていた。好みの楽曲が三橋美智也からローリングストーンズに変わっていた。確かにキース・リチャーズもミック・ジャガーもカッコいいよね!

そうだ、法事で戸塚に行った時にバンビさんは「今度従妹会をやろう」と言った。私は楽しみにしていたが、実現はしなかった。それぞれ遠い所に住んでいて、そうそうは簡単に会えるものでもない。当然だわな・・・

我が母の長姉の長女(私の従妹)でとても美人のKさんという女性がいる。最近、身内である出来事があり、Kさんにメールでお知らせしたら、何とその日の内に電話を下さった。実際に話したのは今回が初めてだったのかもしれない。Kさん曰く「バンビさんは結婚後比較的すぐに神奈川県に越してきたわよ」だそうだ。いつかKさんとバンビさんに会いたいなあ・・・

横須賀の伯母様「新婚旅行で宇宙に行けるかもしれないよ」

宇宙旅行

いらすとや
https://www.irasutoya.com/

我が母のお姉さんは二人いた。そのうちの一人は横須賀に住んでいた。横須賀のお姉さんには優しくしてもらい、お世話になったそうだ。横須賀のお姉様は、読書量も大変なものだったと解釈しているが、同時に夢多き女性だったらしく、我が母が小さいときに言ったそうだ「Aよ、お前が大きくなって結婚する頃は新婚旅行で宇宙に行けるかもしれないよ」だそうだ。

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表の家周辺のお話、その他

学童集団疎開と母
母がまだ国民学校に通っていた頃、山形県鶴岡市湯田川温泉にあったたみや旅館に学童集団疎開で行ったそうだ。当時、学童集団疎開の行き先はマチマチで、お寺であったりいろいろでそれぞれに苦労があったらしいが、たみや旅館では大変お世話になったそうだ。
亀有の叔父のお話
我が母の実弟である亀有の叔父さんは、実姉である我が母の嫁ぎ先が松戸であった事で、頻繁にやってきた。その度に私に玩具や文房具など色々なものを買ってきて、可愛がってもらった。バブルの頃、本業以外に本屋さんやスナックを始めたり、何かと話題の多い人
母方の祖父のお話
母方の祖父は茨城の大農家の長男。文学が好きで小説家をめざし、継ぐ筈の財産を全て次男に譲り、許嫁と共に東京に駆け落ちしてしまった人である。東京で懸命にそして懸命に修行した。自分の作品を徳田秋聲氏に送った。徳田先生はご丁寧にも返事を書いて下さった。

続く

また、加える事がありそうなので、分かり次第書き込みますね。

 

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