学童集団疎開と母
母がまだ国民学校に通っていた頃、山形県鶴岡市湯田川温泉にあったたみや旅館に学童集団疎開で行ったそうだ。当時、学童集団疎開の行き先はマチマチで、お寺であったりいろいろでそれぞれに苦労があったらしいが、たみや旅館では大変お世話になったそうだ。
新小岩・戸塚の家とバンビさん
子供の頃は自分の親の兄弟が多かったので、冠婚葬祭などで親の兄弟の家への行き来があり、従妹の存在を知った。当時は仲が良くても、ここ数十年、あまりに接触が無かった。遠い親戚よりも近くの他人とは言うが、記憶がなくなる前に記録だけしておきたい。
昭和11年発行古しおり:伸び行く松戸:松戸付近ハイキング
昭和11年発行古しおり”伸び行く松戸”という松戸に関する栞の情報が豊富で非常に多かったため、いくつかのカテゴリーに分けてアップロードする事にしました。今回sは、その一つの松戸付近ハイキングです。園芸学校、江戸川、桜堤、柴又帝釈天などについて、触れています。
古書:常磐線松戸取手間の電化について
"常磐線松戸ー取手間の電化について"とは昭和23年11月1日発行による交通技術第28号の記事で、記事の著者は伊藤伊好さん、財団法人交通協力会発行、同協力会の石原巖さんが発行した。現在殆どの列車は電化されているが、当時はまだまだ発展途上だった
常磐線電化祝賀会招待状-松戸駅
松戸町長小林善作さんが埼玉県の神谷彌平さん宛に送った招待状。つまり、昭和11年12月11日に開催された常磐線の電化の祝賀会、祝宴式及びお食事への招待状です。この小林善作さん、そして招待された神谷彌平さんに焦点を当てて、まとめてみました。
松戸市栄町を中心とした商店、モール、そして流山街道の将来
昭和40年代から松戸で大型物販店の進出が始まった。私に馴染み深いのは扇屋、長崎屋、奈良屋など。当初は松戸の発展と感じた。これら大型物販店は徐々に精力的になり、小売店に影響を与えた。松戸市栄町を中心に流山街道沿いの商業の展望や可能性を考える
常磐線の乗車の仕方教えます その1
毎日松戸駅から利用している常磐線緩行線(各駅停車)。これに座って通勤できるかどうか、大事なポイント。場合によっては一日のエネルギーの大半をこの電車内で消費してしまうかもしれない。そんな電車だったら、是非座っていこう。その方法論について述べる
常磐線を走っていた旧車両と近隣の風景
昭和30年代-40年代に常磐線に走っていたD51,C58などの蒸気機関車、クハ79などの電気機関車、そして当時走っていたはつかり(今は走らない)の数々の写真を見るとその周辺にあった建物や踏切、職員詰め所を思い出す。当時が良かったのかどうか?
常磐線上野・松戸間電化と電車開通記念の古絵葉書
昭和11年12月11日に常磐線の上野駅ー松戸駅間の電化が行われ、絵葉書が発行された。その記念絵葉書についてご紹介したい。また、松戸市立博物館の常設展示に行くと、常磐線の上野駅ー松戸駅間の電化の祝賀が行われている様子がビデオで公開されている。
消えた踏切:常磐線松戸駅付近
戦後東京を中心に衛星都市計画が策定され、常磐線沿線のそれぞれの地区に人口が集中し、常磐線の混雑を緩和させる為、常磐線の複々線化が進められた。それまで開かずの踏切と言われた箇所もあり、複々線になることにより、踏切を閉鎖せざるを得なくなった。