ここ何処?松戸!

ここ何処?!番外編-1

道灌山 ここ何処?松戸!
出典:国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」 (https://www.ndl.go.jp/landmarks/)
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ここ何処?!番外編

結果的に言いますと、この投稿は松戸では無かったので、いずれ別邸に移すつもりですが、その他の松戸以外の写真もありませんので、このカテゴリーにとりあえず入れておきます。ここで分析する写真も松戸に所縁のある方のお父様が撮影された写真だそうです。

写真を見ていくと色々なストーリーがあり楽しい。

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分析する写真

写真-1 1971(昭和46)年3月26日撮影

昭和46年3月26日どこでしょう?-1

1971(昭和46)年3月26日撮影

写真-2 1971(昭和46)年3月26日撮影

昭和46年3月26日どこでしょう?-2

1971(昭和46)年3月26日撮影

写真-3 1971(昭和46)年3月26日撮影

昭和46年3月26日どこでしょう?-3

1971(昭和46)年3月26日撮影

写真-4 1971(昭和46)年3月26日撮影

昭和46年3月26日どこでしょう?-4

1971(昭和46)年3月26日撮影

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当初あたりを付けた場所

当初、これは松戸の写真であると思い、もしかすると松戸駅東口のイトーヨーカ堂の工事途中の写真、或いは松戸隧道の付近の写真であると思って考えていた。仮に松戸駅東口のイトーヨーカ堂であったとして、写真-3の歩道橋は工事中には無かった。だからそこではない。次に松戸隧道の所であると思い調べている内に、擁壁が違うことに気が付いた。

松戸隧道の擁壁

松戸隧道の擁壁は、自然石の割肌が見えるブロックによる谷積み?風なのに比べ、写真-2の拡大を見ると

写真-2の擁壁

写真-2の擁壁

写真-2の擁壁

この様に、リンテルも見えるし、擁壁の工法が違っていたので、松戸でこれだけ高さのある擁壁を他にないかどうあ探してみたが、見つからなかった。私はここで手詰まりしてしまった。ただ、この擁壁を見た時に正直な感想を言えば「東京なのに随分安っぽい擁壁だ」と感じた。ただ、これは何らかの理由があるかもしれない。

これについては後半で述べてみたい。

ビルの看板の文字

ここで、この表の家の書き込みにコメントを下さるうしとらさんに相談してみたら、うしとらさんは非常に面白い所に目を付けて、探し出してくれた。それが写真-4に描かれた看板の文字だった。

三井サウナとは

三井サウナ

三井サウナ

この三井サウナは何処にあったのか?私も松戸で探してみていたのだが、実は分からなかった。そしてうしとらさんがこれじゃないか?と探してくれた資料が下記だった。

アジア工業 三井サウナ(西日暮里)

アジア工業

全レジャー産業・設備・機器・製品情報集 : 業種別・設備別・取扱業者別 1973-1974 日本エコノミストセンター出版 1972年発行

これは日本エコノミストセンターが出版 1972年発行した「全レジャー産業・設備・機器・製品情報集 : 業種別・設備別・取扱業者別 1973-1974」に記載されていた会社。これに三井サウナ(西日暮里)と書かれていた。うしとらさん、ありがとう。良く見つけてくれた。これでは松戸で一生懸命探しても出てこない筈だわ。

そしてこの情報から西日暮里の駅付近の道灌山通り沿いであることが分かった・・・という訳だ。

写真の説明

写真キープラン

 

西日暮里キープラン

西日暮里写真アングルキープラン

 

写真-1 1971年3月26日及び2024年10月21日撮影

この正面の線路沿いの道を上がっていくと開成高校・中学校のグランドがある。

写真-2 1971年3月26日及び2024年10月21日撮影

この擁壁は、写真-4にもある神丸ビルから正面の擁壁を撮影した写真である。ただ、まだ納得していない部分があり、左の昭和46年の写真では、目地パターンの施工を地面から1mくらいまでのところまで施工しているように見えるが、2024年現在の写真では、その目地パターンが少なくとも四メートル高さ以上の所から上方向に始まっていて、下は平滑になっている。何故だろうか?

写真-3 1971年3月26日及び2024年10月21日撮影

 

写真頭上に見える影は間之坂架道橋で、ちょうど京浜東北線の下あたりで撮影している。前方に見える歩道橋は西日暮里駅前歩道橋で、西日暮里公園と開成高校などがある”ひぐらし坂”方面をつないでいる。

写真-4 1971年3月26日及び2024年10月21日撮影

 

写真の左手前は西日暮里駅出口3,その先に建設現場があるが、それは神丸ビルの現場で、どうやら神丸ビルはこの1971年或いは翌年の1972年には竣工したと思われる。現在この神丸ビル一階には新潟料理の居酒屋があるようだ。また、写真頭上に見える影は間之坂架道橋で、ちょうど京浜東北線の下あたりで撮影している。

写真-1から写真-4及びその周辺の注目点

注目点-1 間之坂架道橋

間之坂架道橋

間之坂架道橋
2024年10月21日撮影

西日暮里駅に関連する歴史
1969(昭和44)年12月20日 千代田線北千住ー大手町間が開業した。同時に千代田線西日暮里駅は開業している。国鉄西日暮里駅はまだ開業していない。
1971(昭和46)年4月20日 千代田線綾瀬-北千住間が開通した事で、同車両が常磐線緩行線に乗り入れたことで、松戸から大手町方面に直接行くことが出来るようになった。同時に国鉄の西日暮里駅が開業した。

写真-4において、写真左の出入口は出入口-3であるが、基本的な入り口の形状は1971年も2024年現在も変わらないように見える。ただ、1971年の写真では何らかの施工中で、この出口-3のシャッターが閉まっている。しかし、歴史的には、この時期はすでに開業していたので、この出入口-3は使われていた筈である。

この出入口の上には「間之坂架道橋」という橋がかかっていて、写真-4付近は京浜東北線の直下辺りになるのだけれど、通過する線路が増えるたびに架道橋の改修をしているらしい。工事現場の様な雑然とした状況をみると、どうやらこの時期は「間之坂架道橋」の改修工事をしていたのかもしれない。

注目点-2 間之坂或いは間の坂

間之坂の入り口

間之坂の入り口
2024年10月21日撮影

この「間之坂架道橋」に沿って上がる坂がある。片方を上がると西日暮里公園や諏方神社、そして諏訪台方面に向かい、もう一方は道灌山方向で開成高校、中学のグランドの方に上る。この坂は非常に気になる坂で、歩道のエンドが階段になっていて不思議だ。これは新潟地酒を看板にしている道灌山通り対面の神丸ビル横の道も同様である。

何故だろうと思って、色々とググっていくと下記のページに当たった。どうやら、このページを書いた人は、元々はこの「間之坂架道橋」をくぐる前はどうやら踏切だったらしいが、それを高架にした際に、道灌山通りの地盤を下げたのではないか?というご推察だった。もしそうだとすると納得できる。

https://warpal.sakura.ne.jp/yamanote/18west-n/1manosaka/manosaka.htm
間の坂(西日暮里) - ぼのぼのぶろぐ
この坂はこれまでの坂関連の本には出ていない。 しかし、岡崎清記氏は『今昔東京の坂...

注目点-3 擁壁について

西日暮里 写真-2

西日暮里 写真-2
2024年10月21日撮影

西日暮里駅を出て、道灌山通りを歩くと、大きな擁壁が非常に気になる。当初、東京にしては随分と安っぽい擁壁ではなかろうか?と思っていた。果たして最初に切通しをした時からこの状態なのかと気になっていた。

ところが、昭和46年の写真では擁壁の工事をしているようだし現状の擁壁は、何らかの事情で近年に補修したものではなかろうかと考え始めている。その一つの理由として、道灌山の北東部から間之坂を降りてくる際に低い擁壁を見たら、自然石の擁壁であった。下の写真がそれである。

道灌山の擁壁

道灌山、間之坂の擁壁
2024年10月31日撮影

調べていくと、どうやら西日暮里の間之坂架道橋は以前は踏切であったが、どうやら凡そ昭和元年の前後に架道橋となったらしく、その頃に区画整理があり、道灌山通りも拡幅されている様に見える。

注目点-4 開成高校・中学校と渡辺町

開成は非常に歴史ある学校で、1871(明治4)年に開校している。元々は神田淡路町にあった。淡路町と言えば御茶ノ水駅のすぐ近くで、丸ノ内線淡路町駅の北側ブロックで馴染みがある場所だ。ただ、1923(大正12)年9月1日にあった関東大震災で被災している。このため、翌年1924(大正13)年西日暮里の現在地に移転した。

ただ、この当時は渡辺銀行の関連会社渡辺保全会社によって開発された渡辺町で、渡辺町の碁盤の目の様な住居街区に沿って作られたひぐらし公園であり、このひぐらし公園に開成は作られたことになる。

ひぐらし公園写真

ひぐらし公園写真
荒川区史より引用

江戸時代、道灌山一帯は秋田藩主佐竹氏の下屋敷だった。佐竹家は元々は清和天皇の血をひく家柄で、天承1131年(天承元)年、常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸市)に土着し、佐竹氏を名のり、後に太田に移る。

佐竹義宣の頃は、秀吉の家臣であったが、秀吉の死後、関ヶ原の合戦の際に日和見的な佐竹義宣の態度は家康には危険な存在となり、1602(慶長7)年に秋田への国替えとなり、ここから佐竹家は秋田藩主となり、家康から現在の西日暮里の道灌山の地を下屋敷として(何らかの)交換をした・・・らしい。下記参照。

東京史跡ガイド:18 荒川区跡散歩によれば
「もとは水戸の徳川の抱屋敷であったものを、交換で羽後久保田(秋田)城主二十万八千五〇〇石、佐竹右京太夫が下屋敷としたものである」と書かれている。

ただ、明治以降は佐竹っ原と言われ、孟宗竹の荒地のようになってしまい、そこを東京渡辺銀行の渡辺保全会社が、田園都市構想の考えに基づき区画整理したらしい。当初は高級住宅街としてもてはやされたらしく**庵と書かれた家(つまり本宅でなく別宅の事で興味のある方はご自分でお調べください)が多く見受けられたらしい。

ただ、関東大震災(1923(大正12)年9月1日)で渡辺町でも被災した家も多くあったらしい。同時に、この関東大震災で、中小の銀行が大きな痛手を受けたらしい。

Wikipediaによれば
「経済混乱に対応するための震災手形が膨大な不良債権と化していた。折からの不況を受けて中小の銀行は経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた」とある。

又、そもそも金融不安があった状況であったのにも関わらず、1927(昭和2)年3月14日の大蔵大臣の失言をきっかけに昭和金融恐慌が始まり、東京渡辺銀行は休業に追い込まれ、1928(昭和3)年6月29日に破産宣告を受けた。

Wikipediaによれば
1927年3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相(第1次若槻内閣)が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言したことをきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。

下の地形図は、1917年~1924年頃の道灌山周辺です。

フルスクリーン表示

西日暮里から日暮里にかけての地形

道灌山の連なりは独特の地形であり、道灌山からJRの線路を超えて先の方を見ても比較的平らな土地が続くが、JRと反対側の文京区方面を見ると本郷台(千駄木方面の高台)が見える。つまり、これら道灌山に連なる諏訪台の高台と文京区の本郷台の間はちょうど谷津の状況を呈し、囲まれている感じで、印象も良い。

東京史跡ガイド:18 荒川区跡散歩 によれば
「この丘陵の突端は幅が千メートルほどに広がり上野公園となる。それから北西に向かって谷中、道灌山と続いて飛鳥山まで連なるが、この道灌山付近では台の幅は約一〇〇メートルにせばまっている」と書かれている。

道灌山と諏訪台との間の切通しは

道灌山と諏訪台の間を通過している道灌山通り(都道457号線であると同時に環状第4号線である)はいつ切り通されたのか、考えてみた。

1880(明治13)年-1886(明治19)年の関東地方迅速測図(2万分1) 農研機構

フルスクリーン表示

実はいまだにはっきりしないのだが、ただ農研機構による1880(明治13)年-1886(明治19)年の関東地方迅速測図(2万分1)を見ると、現在の切通ほどでは無いものの、道灌山と諏訪台の間を通過出来るような形に見える。その後、ある時点で、それが昭和の頃なのか良くわからないのだが、拡幅し東京都道457号としたのではないか?と考えている。

空中写真(1936年~1942年頃)国土地理院

フルスクリーン表示

戦前の空撮1936(昭和11)年~1942(昭和17)年によれば、すでにかなり拡幅されていた事が分かる。

西日暮里の行政区画

フルスクリーン表示

上野・鶯谷と聞くと台東区のイメージが強く、当然ながら日暮里や西日暮里も同様であると勘違いしていたが、実は荒川区である事をこの分析調査をして知った。自分の浅薄さが恥ずかしい。そこで、改めて行政区分をマップ上に入れてみたのが上図だ。この荒川区に接している台東区、文京区、北区も入れてみた。

そこで分かったのが、荒川区が上記三区に接している狭間の小さい部分に日暮里、西日暮里という場所があった。日暮里から少し南下すれば台東区であるし、西日暮里から少し北上すれば北区、そして、道灌山通りを少し西に走るとそこは文京区。さらに面白いのが、このJRの線路を超えた荒川区の西側だけが高台で、その他全てが低地であることだ。

この西日暮里四丁目付近、道灌山界隈は元々東京渡辺銀行の関連会社の渡辺保全会社が開発した高級住宅街である渡辺町であったが、それが関連するのだろうか?そこが良く分からない。

西日暮里周辺の寺社を歩く

西日暮里のある荒川区、接している文京区、台東区、北区にはかなり寺院が多いことに気が付いた。下にプロット図を置くので、いかに多いかというのが視覚的にわかると思う。私の住む松戸市の比ではないと思う。例えば、台東区については徳川様が上野の寛永寺を置いたことで、台東区周辺には多くの寺院が集まったとされる説がある。

また、文京区に寺院が多い理由は江戸時代の明暦の大火で焼け出された寺院が移転してきたともいわれている。また、荒川区の延命院事件、江戸大奥のスキャンダルがあったと言われる延命院(東京都荒川区西日暮里3丁目10−1)はぜひ行ってみたいと思う。

驚くほどたくさんのお寺があるが、いきなりこんなに回れないので、日暮里から西日暮里までの主要なお寺を軽く回ってみた。

本行寺

別名、月見寺と言われる。

延命院

1803(享和3)年、大奥のスキャンダルの舞台となった寺院。美男子の僧侶と参拝にやってきた奥女中が愛欲にふけっていた事が発覚した事件。僧侶は斬罪。すごい事件ですね。

イケメン僧侶と大奥女中のスキャンダル : 延命院事件
享和3(1803)年、11代将軍・家斉の治世、後々まで語り草となる大スキャンダルが大奥を襲う。延命院事件だ。歌舞伎役者と見まがうほどのイケメン僧侶と、参詣にやって来た奥女中が愛欲にふけっていた事実が白日の下、明らかになったのである。大奥の堕...

浄光寺

別名雪見寺。

諏方神社

この神社は、鬱蒼として、いかにも神様が存在していそうな独特の空気が流れている。

富士見坂

富士見坂

富士見坂
2024年10月31日撮影

富士見という地名は多いけれど、東京でもここは富士山が見える日があるんだとか・・・一度ここから眺めたいですね。

諏訪台通り、西日暮里公園、道灌山などの眺め

道灌山錦絵

日暮里(ひぐらしのさと)の山

 

山手台地の最高地点にあり眺望が良いとされ、安藤広重などにも描かれているこの日暮里の高台は果たしてどの辺りなのか?現状からどこが良さそうであったか、実際に考えてみた。

道灌山 | 錦絵でたのしむ江戸の名所
道灌山が描かれた錦絵のリスト。

道灌山や西日暮里公園から北東(JRの線路の向こう側)

 

 

御殿坂から谷中方面及び富士見坂から南西方面

結論として

結論的に言うと、2024年現在では、どっちもどっちなのだが、北東方向はどうしても線路越しの景色であるが、道灌山の南西(道灌山と千駄木の丘の間)には、すでに暗渠になってしまっているが、江戸時代は藍染川が流れていて、夏になると蛍が飛んだのだそうだ。もし似たような景色であれば、ホタルの飛ぶ谷中方面を好きになるかもしれない。

下記 ”水の行方を追って” というブログにはこの谷田川・藍染川流路のマイマップがあります。ご興味のある方は是非、訪れていただき、文中のリンクでそのマイマップを見るとなるほどと分かる筈です。

藍染川:蛍沢支流(仮)    -強壮を謳う除倦覚醒剤の恐怖-
強壮:からだが丈夫で元気なこと。また、そのさま。「―な身体」・・・goo辞書より抜粋 西日暮里駅前を通過する道灌山通りよりやや上流(谷中3丁目)にあたる流路のすぐ横に、ちょっと前まで大日本住友製薬株式会社がありました。旧大日本製薬だったとこ...

その他

藍染川蛍沢支流(仮)と「あの大使館」 - 暗渠さんぽ
ちょっと間が空いてしまいましたが、谷田川・藍染川の再開でございます。今回は、...

 

西日暮里駅前再開発

道灌山とは反対側の日暮里・舎人ライナーの西日暮里駅のある側では現在大きな再開発計画が動いている。”西日暮里駅前地区第一種市街地再開発事業”だそうだ。

西日暮里駅前地区第一種市街地再開発事業
西日暮里駅前地区では、平成26年6月に西日暮里駅前地区市街地再開発準備組合が設立され、具体的な検討を進めています。

この界隈一帯は無くなって新しい街になるらしい。

計画概要

下記概要は”東京・大阪 都心上空ヘリコプター遊覧飛行”さんより引用しました。

荒川区 地上46階、高さ約180mの複合再開発「西日暮里駅前地区第一種市街地再開発事業」 事業計画の縦覧・意見書の提出! - 東京・大阪 都心上空ヘリコプター遊覧飛行
-西日暮里駅前地区第一種市街地再開発事業- 荒川区の西日暮里駅周辺地区では、...

 

計画概要
所在地 東京都荒川区西日暮里五丁目32番他
階数 (住宅・業務棟)地上46階、塔屋2階、地下2階、(商業・ホール棟)地上10階、塔屋1階、地下3階
高さ (住宅・業務棟)最高部179.550m、軒高169.900m、(商業・ホール棟)最高部65.500m、軒高61.900m
敷地面積 約12,340㎡
建築面積 約9,840㎡
延床面積 約164,150㎡(容積対象面積約116,840㎡)
構造 鉄筋コンクリート造、鉄骨造、鉄骨鉄筋コンクリート造
基礎工法 場所打ちコンクリート拡底杭(江戸川層を支持地盤)
用途 共同住宅、店舗、事務所、公益施設、劇場、駐車場等
総戸数 979戸
建築主 西日暮里駅前地区市街地再開発組合(予定)
参加組合員 東急不動産
設計者 梓設計
解体工事 2026年度以降予定
着工 2027年04月予定
竣工 2031年03月予定
総事業費 1341億7600万円(工事費1028億9400万円、補償費178億3900万円、他)

ひぐらし保育園

西日暮里スタートアップオフィス

ここは元々荒川区立道灌山中学校だった場所。この道灌山中学校は2001年荒川区立諏訪台中学校へ統合されると共に廃校になった(道灌山中学校は道灌山にある訳ではなく、また諏訪台中学校も諏訪台にある訳ではない)。

現在は西日暮里スタートアップオフィスとして、ベンチャー企業を目指す人にオフィスを格安で利用してもらう施設になっている。しかし、このオフィスも再開発によって壊される。

道灌山通り沿いの商業ビル

左の線路沿いの店舗は“さくら水産”、真ん中の商業ビルは100円均一の“Can Do”の文字が見える。今一つ元気がない。

再開発計画の動画

動画があるので、ご興味のある方はご覧ください。

1968年と1971年の空撮動画

1968年、1971年頃の西日暮里周辺の空撮動画。見ていると何となくその時代に行った様な気になる。

終わりに

松戸に比べて、馴染みの少ない西日暮里周辺の題材は、投稿するにはかなり勉強が必要で、大変な作業だったと申し上げたい。しかしながら、流石東京の街というのは奥が深い。調べれば調べるほど、まだまだ、奥の奥がありそうで、つい夢中になってしまう。楽しかった。他の作業が出来なくなってしまうくらいだ。

又、もう少し簡単に投稿しようと思ったが、作業している内に何故か7500文字くらいになってしまった。もし読み飽きてしまったら申し訳ありません。本当は二つの記事に分けた方が良いのだが、主題の異なる記事が二つになりそうなので、結局一つの投稿としてまとめた。

ただ、表の家はテーマが松戸なので、松戸以外の土地の場所探しの題材が一つでも見つかったら、この西日暮里の投稿と共に表の家別邸に移動するつもりです。よろしくお願い申し上げます。

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