15 海鮮汁ビーフンのお店、アイヤ〜!びっくり! |
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協力設計事務所があった懐寧街に良く通っていた食堂があった。人気メニューは海鮮汁ビーフン。中国語では海鮮湯米粉と言ったかな?ビーフンと言っても所謂細いビーフンではなく、3mm径くらいの太めのビーフン。細いホーと言った方が分かりやすいかもしれない。このビーフンが塩味のスープの中にたくさんの海鮮の具とともに入っている。お昼になると混雑し、皆、人気メニューの海鮮汁ビーフンを注文する。
嬉しいのは注文するとあっという間に海鮮汁ビーフンが出てくる事だった。ただ、便利と同時に困る事もあった。例えば3人前で海鮮汁ビーフンを作っていたとする。そこにさらに海鮮汁ビーフンが2人分、追加注文が入ったとする。そうすると鍋の具の量は変えないでビーフンだけ足して水増しする訳だ。これで「はい、出来たアルよ!」って感じで具の少ない海鮮汁ビーフンが供される。日によって海鮮の具の量が極端に異なるので分かったのだ。だから当たりの人外れの日があった。外れの日は「おいおい、又やられたなあ……」と思いつつ食べる。
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この店の名物はもう一つあった。店内の壁、床に接した所に大きな穴が空いている。当初この大きな穴は一体何だろうと思っていた。耳を澄ませていると天井から壁の中を伝わってバタバタバタと何者かが下ってくる音がする。なんだなんだと思って見ていると、その大きな穴から突然親猫大の大ネズミが矢庭に現れたかと思うと店内の土間を一直線にどこかに走り去る。大ネズミは店内に人が居ようが居まいが動じない。迷いなく走り去る。暫くして再び戻ってきたかと思うと、そそくさとその穴に戻り、再び壁から天井をバタバタバタとよじ登っていく音が聞こえ1サイクルが終わる。
こちらとしては呆気(あっけ)に取られて箸の手が止まる。周りを見ると他の客はそれを分かっていても「そんな事構っていられるかぁ!海鮮ビーフン食べる事が先決だ」と平気のへいさ。私もはっと我に返り、海鮮汁ビーフンを食べ始める。慣れないうちはかなり驚いたものだ。もう二度とこの店に来るか!と思うのだけれど、何故か何度も通ってしまう不思議な店だった。 |
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14 報紙(パオツー)おじさん |
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台湾台北に住んでいた当時、我々の協力設計事務所は懐寧街という場所にあった。懐寧街は総統府、新公園の近く、台北駅から歩いて12分ほどの場所。
日本統治時代、この懐寧街には日本人が大変多く住んでいた場所の一つ。付近の建物は当時のまま使われていることが多く、大正時代に流行った分離派的外観建築デザインに懐かしさを感じる事さえあった。もっともその外観は現在、派手な看板に覆われているため、気を付けて見ない限り、気づかずに通り過ぎてしまうかもしれない……
さて、この懐寧街、協力設計事務所のすぐ近くに決まってタバコを買いに行く場所があった。それは写真の報紙(パオツー)おじさんの露店。報紙(パオツー)とは中国語で新聞の意味で、私が勝手に命名させていただいた。典型的な中華街の造りで舗道上に二階部分が張り出している雨よけの出来る構造の舗道、雨露を凌いだ上で商売が出来る。この報紙(パオツー)おじさんの店には新聞、雑誌、タバコ等雑多に売っていた。
この報紙(パオツー)おじさんの成りとお店の雰囲気を見て、皆さんは「おいおい、こんな乞食みたいなおっさんのタバコなぞ買わないで、もっと綺麗な店で買えよ」とお思いになるかもしれない。私が何故この報紙(パオツー)おじさんの店でタバコを買っていたか?と言えば、実はこのおじさん、日本語を話す人だったから。
所謂、本省人で日本時代に台北で産まれ育ち、しっかりとした日本語教育を受け大変真面目なおじさんだった。タバコを買いに行く度にこのおじさんと話をする。日本時代の台湾台北のお話を伺い、遠い遠い昔の台北の街並みや人々に思いを馳せる。私は当時からそういう事がとても大好きだった。
あれから随分時間が経過した。
1999年頃お世話になった郭さんのご子息の結婚式に呼ばれ台北を訪れた。ふと、あの報紙おじさんにどうしても会いたくなり懐寧街に向かうと、いつもの場所に居た。まるでタイムマシーンで過去の世界に戻ったような気持ちになってしまった。
写真はその6年前に再び訪れたときの報紙(パオツー)おじさんのお店(右後ろ)とおじさんの笑顔。バックに見える樹木は台北新公園。
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13 「何が止まってしまうのが一番困るか?」 |
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五常街のアパートから見た街の風景 |
台湾台北市に長期滞在していた当時のお話。一年360日のうち300日は台湾に居るような状態で殆ど常駐という状態だった。当初は屋台で有名な双城街の「双城飯店」という小さなビジネスホテルに宿泊していた。
安いホテルだった。ただいくら安くても食事はホテルのレストランを始め、いずれにしても外食になってしまう。お金も掛かるし、納豆も食べたい。そこでオーナーに相談してアパートを借りていただくように頼んだ。
オーナーが選んだアパートは五常街という場所にあり、台北の北の民族東路、ちょうど松山空港の付近。オーナー事務所から比較的近い場所。五常街は街中ほどではなかったが賑やかであった。
アパートは街中の雑居ビル的で決して綺麗な建物ではなかった。一階の鉄格子を開けて階段を上がり五階或いは六階だった。部屋の大きさは確か3LDKでゆったりとしていた。 |
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ここが我がアパート |
当初私が一人で住んでいたけれども、このアパートにはその後、香港人男性のフランクとシンガポール女性のドリスとの共同生活を送る事になった。このフランクとドリスは当時恋人同士です。後に結婚されます。 |
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左が香港人男性フランク(当時約三十五〜六歳)
右がシンガポール女性ドリス(当時二十六歳)
フランクが茹でたムール貝を二人で仲良さそうに食べる二人
私も当時は似たような年齢
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シンガポール女性ドリス |
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香港人男性フランク |
この三人との共同生活、珍道中についてはいずれ書くつもりだが、今回は先ず一人でこのアパートに住み始めた頃のお話。
建物自体は古くても新たにアパートに住むというのはワクワクする。近所の商店で色々な家庭用品を買い徐々に生活の匂いを付けていく。といっても座便マットとかスリッパとか身近なものばかり……
ある日、困ったことが起きた。先ず電話が通じなくなった。理由は良く分かないが料金未払いのトラブルだと思う。オーナーに電話して翌日復旧。
ところが問題はそれだけではなかった。一日二日して次はガス→電気→水と順番に止まっていった。一通り家のインフラが断続的に止まってしまった訳。
これらはどれが使えなくなっても困るのですが、さて「何が止まってしまうのが一番困るか?」お分かりでしょうか?
電話は不便だけれど無くても大丈夫。ガスがなくても料理を作らない、風呂も沸かさないで水風呂に入ればいいから何とかなる。電気がつかないと夜帰ってきたときに手探りで部屋に戻る事になるけれどこれも何とかなる。
さて、一番困ったのは「水」。水がないと水洗便所は流せない。お風呂も入れない。部屋の中に異臭が漂います。この状態のままでは一日でも居られない。
屋上に行って針金でロックされているコックを外そうと試みたけれど、罰金を取られてもたまらない。仕方なく、他の日本人の住まいに行ってお風呂を借りた。
あれ以来、水光熱費の請求書を見るたびに、妙に過敏になってしまった。
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12 代替の言葉、分かりやすい発音 |
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世の中に代替の発音、言葉というものがあるように感じる。先に書いた我是日本人(私は日本人です)という言葉を北京風で巻き舌音を使い正確に発音しようと思っても案外通じない。むしろウオースーズーペンレン!とズーズー弁で言う場合などがそれに当たる。
ちっとも中国語が上手でないのに何故か中国語が通じてしまっている人が居る。自分の発音の方が余程良いはずなのに何故だと不思議になる。みなさんはそんな経験はありませんか?これは言葉のリズムや聞こえ方を優先させている為かもしれません!
有名なところでWhat time is it now?
日本語的な勉強の仕方であれば、「ファット、タイム、イズ、イット、ナウ」となるかと思います。
これを「掘った芋いじるな」と勢いよく言ってみて下さい。ネイティブに通じる英語になります。もし西洋人がいたら試してみて下さい。
その他
Sit down(座りなさい)はセダン!Americanはメリケン!
と発音する方が通じやすい。
女優のオードリーヘップバーンはオードリ・ペバン!
そういえばシンガポールに行って現地の友人が行っていた言葉が面白かった。私もこれを真似たらタクシーの運ちゃんがしっかり分かってくれたというのがあります。
一つは「グゥ・ウ・パッ」
もう一つは「ピッ・ポッ・パッ」
これの二つとも分かった方は先着三名様までに中国のジャスミン茶差し上げます。
ヒント:最初のはシンガポールの有名なホテル、上のパッと下のパッは同じ言葉 |
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11 「日本人の中国語でいいんだよ」 |
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学生時代に常磐平支所(だと思う)の会議室で無料の中国語講座があり通った事がある。ところが近所の主婦の方が99%で男は私だけだった。あまりに圧倒されてしまい、照れもあって途中で挫折、いかなくなってしまった。その後中国語とは接する機会がなかったまま就職、その後かなり経ってから台湾のプロジェクトを担当するようになった。
何度か台北に出張し始めた頃、何とか中国語を勉強し覚えたいと思った。そこで松戸駅東口の堀江良文堂に行った。まだ古い建物の頃。カセット付きの教材を探したら良いのがあった。発行は北京放送局出版だった。これを購入し、一つ一つ勉強した。
王「ニーハオ」
李「ニーハオ」
王「請問ニン貴姓」―あなたの名前はなんですか?
李「我姓李」―私は李と申します。
というのから始まり
次に
王「李同志!」―李さん!
李「ニーハオ、王同志!」―こんにちは王さん
王「ター是我的愛人」―彼女は私の家内です。
という下りがある。私は呼びかける相手に`同志`という言葉を付けるのだなあ〜と思いつつ勉強した。台北でまず練習だと思って、仕事上一番仲良くしていた孫文にそっくり顔で日本語の分かる郭さん(以下`孫文顔の郭さん`)にこの言い方で試してみた。
私「ニーハオ!郭同志」
ところが突然大笑いされた。
「表の家さんその中国語何処で覚えたの?`郭同志`なんて言い方は台湾では使わない。大陸(中国大陸)の中国語だね。同志でなく`先生(センスン)`と言いなさい。それと台湾じゃ奥さんの事を愛人なんて言わない。太太(タイタイ)というんだよ」
と言われた。どうやら私が買ったカセット教材は中国が文化大革命の影響下にあった当時の言葉使いを正として作成されたもののだという事が分かった。
発音の仕方も台湾と大陸では随分違っている。
我是日本人―私は日本人です。という言い方がある。北京風に言うと「ウオーシュ〜リーペンレン」と巻き舌音の独特の発音をします。是も難しいし日本の日も難しい発音なのです。
これを`孫文顔の郭さん`に指摘された。
「発音というものは、自分では正しいと思っても似ているだけじゃダメ。正確な発音でないとかえって分からなくなる。北京風の発音の仕方というのは私も分かるし理解できる。ただ、日本人が中途半端に北京風の発音しても我々は理解できないよ。台北では『我是日本人(ウオー・スー・ズーペンレン)』と発音したら台湾でも大陸でも誰にでも理解してもらえるよ」
確かに「ウオー・スー・ズーペンレン」だったら日本語の発音と同じ音で出来ている。私にも分かりやすいが何だかズーズー弁風でいやだなあ……と思っていた。ところが、恥ずかしがってその発音で言わないと周りの人との距離が拡がるばかりで都合が良くない。仕方ないのでズーズー弁風を心がけていた。とは言いつつも北京風の発音の仕方を諦めたわけじゃない。絶えずそういう発音が出来るように練習を重ねていた。再び`孫文顔の郭さん`に練習台になってもらうことにした。
「だめだめ、表の家さん!何故そんなに北京風にこだわるの?あなたは日本人なんだから『日本人の中国語』でいいんだよ。その方がキャラクターが出て良いんだ。もっと自分の臭いを持ちなさい。それは日本人としての臭いだよ。台北で中国語を勉強した日本人の臭いを持ちなさい。その方が将来必ず役に立つ事がある」
私にとってこの`孫文顔の郭さん`のお話しは目から鱗の言葉だった。英語でもこういう事が言える。日本人なのにイギリスの英語、アメリカの英語にこだわる必要はない。今や英語は欧米西洋人だけの言葉ではない。アジアに行くとそれこそ色々な英語がある。日本人らしい英語でどうどうと話せば良いのだ。
むしろ日本人としてのアイデンティティ(独自性)を大切にした方がいいかもしれない。そしてやっと折角台湾にいるのだから台湾の土地の方が分かるような発音の勉強をしようと気持ちを切り替え、心がけた。その後私の一身上の転機が訪れ、より一層深く中国語を使う必要に迫られた。(ただし下手くそな中国語だけど……)
そして四年後台湾の仕事が終了し、台湾の土地を離れ、十数年経過した。私は全く中国語から離れた生活をしていた。その後イスタンブールの常駐などを経て、ある時に中国に出張する機会が訪れた。行き先は武漢。
中国語を使わなくなってかなりブランクがあり忘れてしまっている。ところが台湾に住んでいた四年間ほどの蓄積は案外馬鹿にならないらしい。中国語を聞いているうちに徐々に私の中国語が蘇ってきた。たどたどしい中国語ではあるが、武漢の現地設計事務所の中国人に試しに中国語で話しかけてみた。
そうしたら何と言われたと思いますか?
「表の家さんは台湾出身なの?」
私の言葉はすっかり台湾の中国語になっていたようだ。「日本人の発音なのに随分台湾訛りがあるなあ」と思われたらしい。
それを言われた私はむしろ嬉しく、誇らしかった。日本人が台湾訛りの中国語を話すのです。私の中国語には履歴がある。それを相手が分かってしまう。これを面白いと思いませんか?素敵な事でしょ?
`孫文顔の郭さん`の言葉思い出した。
「日本人の中国語でいいんだよ」
郭さんのおっしゃる通りで御座います。
写真は孫文。
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