表の家

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 つれづれ話の部屋
海外生活はたまらない 台湾編6-10

10 筆談をせずタクシーに乗る


台湾など外地においてタクシーに乗る際、行き先が書かれた紙を持っていると便利だ。ただ、私は一般的な中国語を学びたいと思っていたので、なるべく中国語を話すように心がけた。そしてどうしても通じないときのみ紙を出した。

台北において私がもっとも長く期間住んでいた場所は双城街の双城飯店で通勤する場所は総統府近くの懐寧街の設計事務所。この間をタクシーで移動する。双城街という発音は案外難しい。紙の多用は仕方なかった。懐寧街という発音は日本語的に言うと「ホアイニンチェー」と言い、最初のホはHの発音になるので唇を触れないで発音する。これの発音は9割くらいの確率で分かってもらえた。

ある日、「懐寧街、好不好?」と発音し、運ちゃんから「好!」と返事されたので安心して乗っていた。ところがいつもとコースが違う。変だなあ・・・と思ったら、到着した場所はなんと「華陰街」(ファーインチェー)だった。あいや〜!

それ以来、こういう事にした「請去懐寧街!総統府付近的 新公園前面」つまり「懐寧街に行ってください。総統府付近だよ、新公園の前面の」近くに来たら「懐寧街116号的大楼」と言う。これで間違いは無くなった。

ある日本人の失敗談を聞いたことがある。彼は帰国する為タクシーに乗車した。それで何と日本語で言ったそうだ。「空港、空港!OK?」さて、この人は無事に空港に行けたでしょうか?

残念ですが、実はタクシーはとんでもない方向に行ってしまったのです。空港は日本語でクウコウ、中国でクウコウという言葉に近い言葉は故宮(クーコン)です。つまり、台湾の故宮博物館に連れて行かれてしまったとさ。

9 台湾でもバブルだったのよ

台湾土地銀行、1999年撮影
私が台湾に長期的に滞在した数年間(1987〜1989)は日本のバブルの絶頂の頃であったが、台湾でもそれは同じだった。この当時は日本でも台湾でも株をやらない人はアホ以下と思われる風潮があったんじゃないか?もっとも私は株には手を出さなかったので「見るアホ」だったのだろう。どうせアホなら「踊るアホ」の方が良かったのかもしれないがそれは後の祭り!

私がお世話になっていたL建築師建築設計事務所のkさんの奥様も出勤と称して証券会社に毎日繰り出していた。このL建築師建築設計事務所の若いスタッフの何人かはまるで魂の抜け殻みたいに建築の仕事そっちのけで証券会社への注文、確認の電話で一日中一喜一憂していた有様。困ったものだった。

設計事務所の給料は低い筈だが、若いスタッフの周さんは、株で儲けて外車を購入し、羽振りは良かった。真面目に仕事するのがバカみたいな間違った風潮が広まっていた。そういえば双城飯店にも、イタリアの相場師が常宿としていた。当時、私は株に無頓着だったので何故イタリア人が何故こんな台湾まできて相場を張るのか良く分からなかった。

それだけアジアのバブルが過熱していたということだ。そんなバブルもいつかは崩壊する。台湾人の知り合いもバブル崩壊の煽りで日本円で約5000万円くらい焦げ付かせ家族会議になっていた。 あれは先物取引だったと思う。ああ、怖い怖い!!

8 餃子は主食!おかずじゃないよ

1999年時点の南京東路、林森北路の交差点付近
台北の中心街である林森北路と南京東路の交差点付近に康樂市場というのがあった。今は区画整理されて公園のようになっていて昔の面影はない。ここは戦後大陸から渡ってきた外省人たちがバラックを造り、お店を開いたマーケットだという話を聞いたことがある。彷徨ってみる、まあ、きたないきたない。戦後のバラックのまま今に至るという感じだが面白そうなお店がたくさん軒を並べていた。海鮮料理屋も多かった。

私はこの中の山東水餃大王というところに良く通った。蜆のにんにくしょうゆ漬けを始めとした小皿料理、水餃子そして酸辣湯(サンラータン)を注文する。

水餃子を二十個、三十個と頼む(一個三〜四元という単位だったと思う)。他のお客さんもたくさん食べる。醤油に豆板醤、酢を入れたつけだれで食べる。ラー油もあったが使わなかった。独特の風味であまり韮やニンニクの臭いはしなかったと記憶している。多分ニンニクは入っていなかったんじゃないか?淡泊な味なのでたくさん食べられる。七つも食べれば満腹してしまう日本の餃子のくどさとは違う。

L建築師建築設計事務所の若い方で蔡さんという少し太った方がいた。この蔡さんは日本での研修経験があって餃子についての逸話を聞いた。

蔡さん「私日本に居た時ね、日本の人変よ!」
私「お、何が変なの?」
蔡さん「日本で他の日本の人たち、ラーメン屋さん行くでしょ」
私「そうだね、私も行くとき在るよ。それが変なの?」
蔡さん「注文聞いていたら餃子ライスなんて頼んでいる。出てきたのを見たら、
餃子とご飯とスープしかない。こんなのおかしい」
私「え、それがどうしておかしい?」
蔡さん「台湾人は餃子は主食の一つなのよ。
主食の餃子に主食のご飯一緒に食べて何が楽しい?」
私「!!!」

7 台北、吉○家一号店

(写真は1999年の台北市内)
台湾のL建築師建築設計事務所では1987年頃(或いは1988年?)当時台湾に進出した牛丼の吉○家一号店の図面を描いていた。そして竣工、オープンした。台湾初めての吉○家だ。場所は台北新公園の博物館や総統府(日本時代の総督府建物がそのままの形で総統府になった)の近くで人が多く集まる賑やかな場所。

ある日郭さんとL事務所で働いていたフィリッピン人も含むスタッフ七〜八人で牛丼を食べに行こうと言う事になった。あまり牛丼は好きな方ではなくせいぜい二、三年に一度食べる程度。どうもあの後味が気に入らないからだ。

ところが同行したメンバーは牛丼屋に入るのは初めて。何を注文して良いのか分からないで戸惑っている。いくらなんでもこの人たちよりは私の方が牛丼屋の経験はある。郭さんが「よく知っている日本人の○さん(私のこと)と同じ物を頼みましょう」皆も納得、同意した。さて、頼まれた牛丼が目の前に来た。みんな私の一挙手一投足にみんなの注意が注がれている。こんなに緊張して牛丼を食べるのは初めてだった。私は面白がって、生卵に醤油、七味を入れかき混ぜそれを牛丼の上に豪快にかけるやり方を披露した。実はこの食べ方はお下品なのかもしれないが、日本では一般的だと思う。

みんなのザワツキが聞こえたが、平静を保って食べ始めた。そんな私を大真面目に真似して食べ始めてしまった。多分台北でもこれが標準になるんだろうなあ……とほくそ笑みつつ食べた。

6 日本が戦後置き去りにした日本本来の美しさが台湾に?

(写真はKさんの長男の結婚式の一場面、
中央の背の高い人がL先生、その左の男性が郭さん)
某ホテルプロジェクトで台北に通い始めていた頃、台湾側の設計協力事務所、L建築師建築設計事務所で作業をしていた。この設計事務所の董事長(社長)のL先生は東京大学を卒業し、日本語堪能、インテリであり学者だった。今でも尊敬している。

この事務所に勤めていた郭さんは台湾の日本占領下当時8〜10歳くらいだったらしいが、郭さんも又日本語が達者であった。
郭さんには公私共に色々お世話になった。文林北路のご自宅に招かれたことも何度もあったし、廃線になる直前の淡水線の旅、陽明山へのハイキング等とにかく色々な場所に連れて行っていただいた。台湾は日本に統治されていた歴史から子供時代に日本支配を経験された方が多い。このため、驚くくらい日本語を耳にする。又、高砂族など山の方々はその部族ごとの共通言語として日本語が使われたことからこれまた良く日本語が通じて驚くことがある。しかも丁寧な言葉使い。

日本は戦後それまでの超国家主義、国粋主義を放棄し、アメリカの民主主義に習った。戦後生まれの私はその新しい教育を常識として覚え育った。ほかに比較するものがないのだからそれを当然のこととして信じて受け入れたのだ。ところが、台湾を訪れ戦前の日本を知る人々との出会いで、自分の受けた教育に対して何らかの疑問を感じるようになった。今更私の受けた教育が間違っているとは云わない。ただ、日本人が本来持っていた素晴らしい部分を、戦争中に行われた色々な行為と一緒くたにされてしまったのではないか?戦後の教育を通す事によって悪い部分だけでなく良い部分も割愛されてしまったのではないか?と感じるようになった。

右よりでもない限り戦前の教育勅語は良かったのだという人は少ない。教育勅語の云々はここでは述べるつもりはないが、ただ、戦前の教育が本来持っていた謙虚、敬愛、功徳、慈愛などの素晴らしい部分をバッサリ無くし、戦後の教育の中で必要以上の曲がったイメージを植え付けられてしまったのではないかと思うようになった。

戦後の教育に染まっている私にとっては日の丸や君が代や天皇について語ると「何だ、コイツ右翼に染まっているんじゃないか」という印象を持ってしまう。又、私の友人にもそんな話を好む人は殆ど居ない。

オリンピックを見て欲しい。むしろ日本の戦後教育の一翼を担ったアメリカの方がよほどナショナリズムに熱く、徹しているように見えるとは思うまいか?アメリカの国旗でデザインした服、帽子、傘などで夢中になって応援している人たちがテレビで放映され、皆さんはどう思いますか?同じ事を日の丸で出来ますか?

同時に、旗日(祭日)に日の丸を掲げている家もめっきり少なくなったとは思いませんか?

L先生や郭さんはどちらかといえば戦後教育の我々に合わせてくれていたと思うが、台湾でお会いした他の多くの年配の方々と話すとまるで自分がタイムスリップして昔の日本に戻ってしまい他界した自分の祖父に再開したような錯覚をする。台湾の老人の話を聞くのは大好きだった。もし戦前の日本の美しさに触れたい感じたいと思ったら、私は台湾旅行をお薦めしたい。そして戦前の日本を知る老人と出会い、話すと良いとおもいます。