表の家

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 つれづれ話の部屋

海外生活はたまらない スリランカ編1-5


5 風土と病気


コロンボには様々な風土病、伝染病がある。街頭では象
皮病で足が象の足のようにパンパンに膨れ上がっている物
乞いを見かけたこともある。デング熱やマラリアへの恐怖も
ある。
現場内を歩けば至る所に水溜りがあり蚊も発生しやす
い。
蚊を媒介とした病気への心配は日常茶飯事だった。

デング熱など、まさか自分には関係ないと思っていたある日39度を超える高熱を出した。
ついに「感染した」と思った。とうとう私にも来たか!
デング熱を発症した日本人の話を聞くと毎夜高熱と悪夢に苛まれるのだとか!いやだなあ!
外地にあって病気になるというのはとかく不安で、先ずは医者に診てもらわないといけない。

現場のゼネコン`T`建設が非常勤でスリランカ軍医を雇っていた関係で軍医の治療を受ける
事になった。
初診はゴールロード沿いにあった軍の施設だった。
軍医の印象は背の高い職業軍人といった風貌で、流ちょうで分かりやすい英語だった。
色々な症状を見、いくつかの質問のあと「Flu」と言った。
「Flu」とは、つまりインフルエンザ。
デング熱ではないので少し安心だったが、インフルエンザだって侮れない。

軍医は処方箋を書いてくれた。
軍の施設内には薬局は無く、指定された場所に行って買うことになる。
医者がオープンの状態で処方箋だけ書き薬局で薬を買うシステムは日本では今やすっかり定
着したが、当時初体験だった。

「ワサンタ」君の運転で薬局に向かった。薬局はイギリス統治時代建設と思わしきコロニアル建
物だった。中に入ると広いホールがあり、ドーム状の天井でとても高い。いわば大きなモスクのよ
うな雰囲気。

入って正面にはいくつもの番号のついた窓口があり一番若い番号のところに並ぶ。 そこで確認
のスタンプをもらい「二番の窓口に行け」と言われ二番に行く。二番に行くと再びスタンプをもら
い「三番の窓口に行け」といわれ三番に行く。
これを何度も繰り返す。結果、10箇所くらいの窓口でスタンプを押す事になりとにかく時間が掛
かる。

見渡せば広いホールの中にはたくさんの人達が待っている。
中にはいかにも伝染病らしき風貌の人もいて、早くこんな場所から抜け出したい。
それにそもそも健康体でここに来ているわけではないのだ。
高熱の状態でこんな場所に30分も40分も居られる筈がないし薬を買うために病気が悪化し
てしまう。これじゃ本末転倒だ。

ドライバー「ワサンタ」君に励まされつつ我慢していたがさすがに辛かった。
ふらふらしつつ最後のチェックポイントを通過しドアから外に出ようとしたら、扉のセキュリティの男
が薬の中身と処方箋をチェックしていた。「なんだ君も意味のない仕事をしているのか?」と思っ
たが、とにかく薬を受け取りやっと帰える事が出来た。
後日聞いたらこの薬局は国営で政府としては失業率の高いこの国の雇用を促進しなければ
ならない。
そのため書類のチェックから薬のチェックに至るまでたくさんの人を使う必要があったのだとか……

薬は二種類あった。一つは忘れたが一つは解熱剤だった。
この解熱剤が強烈だった。
二度くらいは平気で一気にドーンと落ちてしまう。
この効き目が体に負担が掛かった。

熱が三十九度を超えているときは食欲など一切ないがこの解熱剤を飲み二度ほど下がり一
気に三十七度台くらいまで下がるとやっと食欲が出てくる。再び熱が上がる前に食べものを掻き
こむ事になる。
ただ、あまりに強烈な解熱剤だったので高熱の状態の時に一度無理矢理、口の中に食べ物
を流し込み、そこで始めて解熱剤を飲んだ。さもなければ胃が荒れる。

一週間ほど家で寝ていた。
T建設のS氏の奥様を始め現場でお世話になっている皆様が心配して、料理を持ってきてくだ
さり大変ありがたかった。
困ったのは強烈な解熱剤を毎日のように使用した事で胃がすっかり荒れてしまい、一時的に
味覚を失ったことだと思う。とにかく何を食べても味がしなかった。

そういえば門番のバンダーが隣の家で雇われているメイドを同伴しお見舞いに来てくれた事があ
った。
まさかこの二人が将来結婚するとは夢にも思っていなかった。

4 無くなったタバコの話(使用人を使うという事)

コロンボの宿舎では門番と運転手を雇っていた話を書いた。いわば使用人を使った生活を送っていた事になる。テレビや映画の中での世界ではあり得ることでも、日本に生まれ育ったこの数十年間使用人など接する機会など一切無かった私にとって、想像より遙かに難しかった。
たった少しだけ自分自身の生活やコミュニケーションのあり方を改造する必要があるが、その`たった少しの改造`さえ思うように出来ない。
当時の私は好奇心旺盛(今でも旺盛だけれども)で、異国人と接すること自体が刺激であり、どうしても使用人としてではなく友達的感覚で接してしまう。日本船舶振興会の笹川良一の「世界は一家、人類皆兄弟」的な感覚で横並びで見てしまう訳だ。実はここに間違いが始まる。

赴任した年の正月休みにインド旅行に行き、帰りに缶入りタバコを買った。
銘柄は忘れた。
一本吸ってみたら自分好みのタバコではなかった為、以降一本も吸わずに自分の部屋の机に置きっぱなしにしていた。
普段吸うタバコはセブンスターだったが、ある晩セブンスターが切れたので仕方なく不味くて`置きっぱなし`にしていたあのタバコに手をのばした。
蓋を開けてみたら、何と驚いたことに中身が殆ど無かった。全部無くなっている訳ではない。数本残っている。

どうやら門番「バンダー」君が吸っていたらしい。
彼らは根こそぎ盗んでしまうことはせず少しずつくすねていく。
その方が罪の意識も薄いらしい。
本人はばれないようにとせっせと1本ずつ吸っていく。「五十本のうち一本、二本無くなっても発覚しにくい」と思って本人は吸う。次の日も又一本吸う。次の日も又一本吸う。缶の中は無限ではないのでいつかなくなるわな。
私もこの不味いタバコを同時に吸っていたら「減り方が早いなあ」くらいには思っても「まさかバンダーが吸った」とは思わなかったかもしれない。バンダーにとって不幸だったのは私がこのタバコを最初の一本以降全く吸っていなかった事だ。
私は叱った。叱りたくなかったけれど叱った。それは今後の宿舎の安全の為もあるし、又彼の将来の為でもある。
「吸わないタバコだったのだから、吸わせたって良いじゃないか」と考える人もいるかもしれない。
ところがそれはとんでもない話で、けじめはきっちりつけないといけない。

「私のものは私のもの、あなたのものじゃない」言い換えれば雇用主と使用人の距離を保つという事で、 大げさなようだがこの距離感覚を意識しないと思わぬ事故に発展しかねない。
つまり一つを許すと「あれが良ければこれも良いだろう」式でエスカレートし金銭やその他大きな盗みに発展させてしまうことになる。使用人に優し過ぎた日本人家庭の主婦が使用人に強姦されたという話も聞く。
日本人同士で「これはけじめだ、外すはずがない」と半ば常識と考えている事が海外では全く通用しない事をしみじみ感じる。

海外で会う日本人は総じて親切で優しい人が多い。少なくとも私の周りではそうだった。親切で優しいという事は美徳であり決して悪いことではない。ところが海外生活における些細な心得を持たずして、たとえ美徳、親切心を持っていたとしてもかえって仇になり、弱点にもなりかねない。

結局使用人とは友達にはなれないと思う。友達的であっても距離を守らないとそれは単に使用人を甘やかし堕落させるだけだ。
私の滞在中思いっきり甘やかしたとしても、多分使用人はむしろ喜んで受け入れ、いつしかそんなご主人像が彼らの標準(スタンダード)になってしまう筈だ。しかし私の帰国後、そんな仮初めのご主人像が染みついてしまった彼らがまともな就職さえ出来なくなるとしたら、果たしてあなたはどう思うだろうか?まともな就職が出来ないという事は乞食になるか、泥棒になるしかない訳だ。それで果たして理想的なご主人(マスター)だったと言えるだろうか? 適度な優しい、親切という事は美徳だと思うが、過ぎたるは及ばざるがごとしで良薬も多すぎれば毒薬になることもある。

日本で言う「躾」と同じかもしれない。
しっかり躾けられていない私が言うと赤面してしまうが、使用人を使うという事は躾の感覚も必要なのではないだろうか?と思う。

実際私は「バンダー」君を甘やかしていたので私の帰国後雇われた家には長続きしなかったと聞いた。
元雇い主としての自分の責任を感じた。

(写真は帰国前に同居させていただいたK先輩の家)

3 宿舎でサランを

Davidson road(デイビッドソンロード)の家はBambalapitiya(バンバラピティヤ)という地区にあった。ゴールロード沿いであり海沿いを走る鉄道の駅としてはBambalapitiya(バンバラピティヤ)バンバラピティヤよりはWellawatta(ウェラワタ)の方がむしろ近かったが鉄道に乗ることは結局一度も無かった。隣の家にはタミール人家族が住んでいて4〜7歳くらいの子供が数人居た。明るい時間は大抵外で遊んでいた。スリランカの女の子は十歳くらいまでは天使のように可愛いが、結婚して太ってしまうと全く別の人種に見える(あ、これは失礼!)。歳をとってもあまり体型の変わらない日本人とはこの点が違うように思う。

スリランカの女性はサリーを着ていたが、男性はみなサランと呼ばれる腰布を巻いていた。サランの上は上半身裸やシャツ等様々。
宿舎のドライバー「ワサンタ」君も門番「バンダー」君もこの腰布サランを巻いていた。このサランは人間の腰周りの約二倍以上の直径の円筒状になっているだけで、ウエストがいくら大きくなっても毎回アジャストできるから体のサイズが変わっても着られる。

このサランの下に下着は穿かない。サラン自体が下着であり同時に上着だから要らないらしい。私はラクマドゥーラで購入した地元臈纈染め(バティック)のサランを履いていた。サランの生地は木綿でこれ以上の下着が無い方がむしろ気持ちの良い穿き方だと知った。
隣のご主人もやはりサランをまいていたが上半身は裸であった。この人のサランのまき方はかっこよく、きちっと結ぶ穿き方で私も良くまねをした。

方法は
1:サランの端を両手に持って腰の高さまで通す
2:持っている右手を思いっきり右に引っ張る
3:手ぶらになった左手を右腰の辺りに当て布がずれないようにぐっと押さえる
4:右端を突っ張りながら回転させ左まで返す
5:返したら最後にきちっと閉めて円筒状の上端を5センチくらいずつ裏側から表に裏返すようにして固定させる。

言葉で説明するのは難しいが、やっていることは簡単なので披露したいところだ。
隣のお宅には何度か招かれスリランカ家庭料理をいただいた事があった。
大変お世話になった。

又、裏の家(我々の寝室のバルコニー側)の家では二人の可愛いメイドがきびきび働いているのが良く見えた。このうちの一人が後に我々の家の門番「バンダー」君の嫁さんになったのだが……

2 パパイアの木のある家

スリランカ入国一日目はホテル現場隣のホテル・ガラダリだったが二日目からは宿舎に住むことになった。宿舎は現場から車で15分くらい、ゴールロードを南に下り数キロ先のDavidson Road(デイビッドソン・ロード)だった。
アフリカ・ボツワナに亡命した元政府高官の住んでいた住宅だった。
二階建てレンガ造の建築で十二畳以上の広さのベッドルームが四部屋、だだっ広いリビングルームにダイニング、セキュリティ(門番)の部屋、こじんまりとした庭という構成で日本の住まいに比べれば大きかったが、建物も古くて設備も貧弱だったので我々日本人が住むには手を加える必要があった。
裏庭は荒れて立ち入る気にはならなかったが、パパイアの木が一本あった。
部屋に入ると壁はペンキ、床はテラゾー、天井には大きな天井扇がゆったり回っていた。
空調がないと居られないということで各日本人の部屋にはクーラーを設置していた。

この宿舎には共同生活する協力事務所の人達が居た。構造設計のI氏、設備設計のT氏らで、門番、運転手も一緒に住んでいた。

門番の名前は「バンダー」目がくりくりとした背の低い人の良さそうな青年(写真左)。
運転手は「ワサンタ」で、痩せ気味で髪の毛が癖毛でひねり上がって分かりにくい性格の男だったが、後に彼は「ユキ・クラブ」に勤めるチャンドリカの弟である事を知った(写真右)。
二人とも貧しい身なりをしていたが、人懐っこい笑顔がまぶしかった。
東京の通勤電車で日常見かける一般サラリーマンの生気のない、暗く、どんよりした表情とは比べものにならない宝石のような表情だった。
「バンダー」はただ人が良いだけだったが、「ワサンタ」は正体の見えない不思議な目つきをする時があり戸惑うことがあった。

二人とも英語はめちゃくちゃだったが、私の貧弱な英語力にはマッチしていたかもしれない。
私の赴任後間もなくして、構造設計のI氏は帰国。私と設備設計のT氏、運転手、門番の珍道中が始まった。

1 初めて海外常駐=初めての海外渡航


1984年9月23日夜、私を乗せたエアランカはスリランカ,コロンボ国際空港に着陸した。機体は所定の位置まで移動した。他の客と共に一斉に立ち上がり期待と不安の気持ちで一杯になりながら乗降口に並んだ。
扉から出ると同時に生暖かい外気に包まれた。思わず一息吸う。カレーと体臭と香水の匂いがクロスオーバーした独特の匂い。これがスリランカの匂いなのだろう。
外はすっかり暗くなっていた。
ステップを一歩一歩降り、ついにスリランカの大地への第一歩を踏みしめた。ジャバラでターミナルに直結するタイプと違い、ステップはリアルに大地に「降り立った」実感、感激が伴う。機体の横には大きなリムジンバスが待機していた。直ぐ乗り込んで運転席の近くに立った。

暫くすると運転手がやって来た。薄汚れた半ズボンに半そでのシャツという姿。しかも裸足だった。裸足でクラッチを踏むのだろうか?その足指は開ききっていて、今まで‘靴‘という存在を全く知らなかったようにその圧迫から解放され、自由奔放に伸び伸びと育った証があった。運転手の強い体臭が車内に充満する。鼻が曲がる。
バスはターミナルビルに到着、下車するとイミグレーションに向かった。胸にバッチのついた制服のスリランカ人審査官がそこに座っていた。

スリランカの入国審査には入国アプリケーションカードのほか、フォームDという持ち込み外貨の申告書が必要で一緒に提出した。英語でいくつかの簡単な質問をされた。最後に彼は妙な事を言った。「そのライターは日本製か?」単なる百円ライターである。欲しいという意思表示か?私は「どうぞ!」とばかりライターを無言で差し出した。彼はパスポートだけを返し、ライターは胸のポケットに入れた。

はたして、こういう国なのだろうか? 最初の外国にしては強烈な体験である。

バゲージクレームに向い荷物を取りに行く。コロンボの空港はこのバゲージクレームから到着ロビーがそのまま見えるようになっている。到着ロビーにはたくさんのスリランカ人、外国人が立ってこちらの方を見ている。その中にアロハ姿で迎えにきて下さった先輩のK氏の姿が見え、ほっとした。

税関を通過し到着ロビーに出る。K氏は日焼けしてすっかり真黒くなっていた。日本人サラリーマンとは異質のオーラが漂い、すっかり背景と馴染んでいた。K氏と二言三言話した後、出口に向かった。外に出るとK氏が大声でドライバーを呼ぶと、車が待ってましたとばかり走ってきて、スーと止まった。

赤いランサーだった。車に乗り込んだ。狭い車内で運転手の体臭に辟易した。頭痛がした。タバコを吸う振りをして窓を少し開ける。

K氏は空港とコロンボ市内との位置関係など簡単に説明してくれた。外は暗かったが、暗闇に浮かぶその風景は私にとって始めての外国だった。目を凝らすと変化のある面白い街並みである事が分かった。街道的田舎道で広々とした田畑が続くと突然、集落が現れ、再び田園風景に戻り、そして又集落に入っていく。これを何度も繰り返した。

車の中でK氏が日本国内の事を質問してようだが、私は殆ど上の空だった。窓外で広がる風景があまりに強烈な印象の連続でその一つ一つを吸収するだけで精一杯だった。初めての海外渡航であり、初めての海外常駐だったのだから……
設備設計の協力事務所のM氏の「シンガポールは都会的なので日本とあまり変わらない印象を持つことがあるけれど、スリランカはいかにも海外という感じがするよ」という言葉をしみじみ思い出した。

9月のスリランカは暑い。夜も暑い。繁華街は正体不明の群れが右往左往している。どうやら彼らは夕涼みをしているのかもしれない。夜の為、彼らの顔は黒くて街全体の暗さの中に溶け込んでしまっているが、何故かぎょろぎょろ目と歯だけははっきりとわかる。

外でドンという鈍い音が聞こえた。後方に力なくキャイン、キャインと泣きながら逃げ去る犬の姿が見えた。我々のランサーは犬をひいてしまったらしい。可哀想だがあの犬は長くないかもしれない。ドライバーはかなり気になったらしく何度もルームミラーで確認していたが、車を止める事まではしなかった。

スリランカは蚊も殺さない敬虔な仏教信者が多いらしいが、ドライバーもかなり気になったに違いない。常駐初日にして幸先の悪いスタートを切った。