表の家

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 つれづれ話の部屋

海外生活はたまらない イスタンブール編


5 3分間トルコ語教室

先述したが、どんな国に行っても最も大切な事は自分の家や宿泊しているホテルに一人で帰れる事だと思う。難しいことは無い。住所を紙に書いて持っていればいいのだ。慣れない頃はタクシーに乗って住所を書いた紙を見せ行ってもらうが、入国して何ヶ月も経過すると、やはり紙を使わずその国の言葉を使って帰りたくなる。タクシー用語から覚える。
右へ曲がれ−サ−ダン
左へ曲がれ−ソルダン
真っ直ぐ−ドール
此処−ブルダ
OK−タマム
「サーダン、ソルダン、ドール、ブルダ、タマム!」
慣れてくるとこのタクシーが到着した時の「ブルダ・タマ〜ム!(ここで良いよ)」という処に一
層力がこもった発音になる。
あたかも自分は魔法のランプを目の前にしたアラブの魔法使いになったつもりだ。両手を虚空に
ゆっくりとあげ、陶酔しながら力を込め「ブルダ・タマ〜ム!」とやる。不思議と自己満足の境地
に達する。

4 「今、飛び立ちましたよ」


短期(数ヶ月)常駐予定のため長期滞在ヴィザがなかった。仕方なく、滞在ヴィザの切れる時期、一旦海外に出て数日したら戻った。良い気分転換になる。トルコ国の近隣には色々な国がひしめいているので好きな国に行くことが出来る。長期出張していた上司のW氏はこんなアドバイスした。

「イスタンブールの空港に行ってぇ、電光掲示板に色々な行き先の飛行機があるだろ?その中から、適当な飛行機を見つけて、チケット買って行って来いよ」
W氏ならではの独特の言い回しで大胆だが、怯んでしまう。
「旅行手配は旅行社頼り」という人にとって信じられないと思う。

W氏に比べ私は未熟でそこまでアクロバットな行動が出来ないので、前もってチケットを買った。行き先はアテネ。隣国だ。出発前夜、空港までの必要時間を確認し早めに寝た。

翌朝目が覚めると雪が降っていた。想定外だった。慌てて準備をし外に出た。困ったことになかなかタクシーがつかまらない。15分ほどして、やっとタクシーに乗った。私「時間がないので早く行って欲しい」と指示。
運ちゃん「出発は?」
「10時30分」
運ちゃん「……!?雪が降っているから無理だ。でもトライする」

それにしてもトロトロと走っている。雪でスピードが出ないらしい。時間は刻一刻と迫る。空港に着いた時はすっかり出発時間を過ぎていた。雪で運航が遅延することもある。チェックインカウンターに走っていった。「アテネです」とチケットを出した。係員は空を指さし

「今飛び立ちましたよ」

3 水不足


イスタンブール行きの待合ホールにいるといかにもモスリムと行った風情の小太りのおばさんの集団に出遭った。服の柄もカラフルな色が混じって、いかにも外国に来た実感があった。イスタンブール行きに乗り、思ったほど時間も掛からずイスタンブールに到着した。
イスタンブールに到着するとY氏が迎えに来てくれた。納豆作りのY氏だ。Y氏は流ちょうなトルコ語を使ってタクシーに指図していた。ご立派である。

他国に長期滞在する際もっとも大切なことは、どんな場所に行っても最終的に必ずホテルやオフィスに一人で帰れるようになることだ。言葉で通じない国では紙に書いた住所等を大切に懐にしまっておく。取りあえずその紙を持っていれば家までたどり着くことが出来る。これが出来ないと何処へも一人で行けない。

タクシーは町の中心部タキシムからほど近いところを通過。我々の宿舎となるアパートに到着した。Y氏が「何とかかんとか、オルターグラ」と言っていた場所だ。正確な名前は忘れた。落ち着いて見たら随分古くさいアパートだった。このアパートのエレベータは変わっていて扉が片開きなのだ。初めてこういうタイプの扉を見た。

日本のエレベータは大抵自動両引き戸もしくは片引き戸だ。ところがこのエレベータは自動開閉しないので、目的階に到着したら自分で開かないと出ることが出来ない。そういえば、子供の頃見た日本橋高島屋のジャバラの客用エレベータはエレベータガールが全て手動でオペレーションしていたっけ……やっと我が宿舎に入った。

居間、ダイニング、キッチン、お風呂など一渡り見た。キッチンにあるたくさんのミネラルウオーターの空きボトルがたくさんあり雑然としていた。又、浴槽の中にはあまり綺麗でない水が貯めてあり浴室の天井には貯水タンクまであった。聞くとイスタンブールが慢性的な水不足に陥っているというのが理由なのだそうだ。実際、ボスフォラス海峡では黒海から大きなタンカーが水を運んでくるのが見える。

どの位水不足なのか聞くと、一週間殆ど毎日断水で土曜日の朝だけ一時間ほど水が出るらしい。土曜日の朝、水が出始めると仕事はそっちのけで水のゲットをしないとならない。水が足りないと言うことは色々困ってしまうのだ。

料理や洗い物は外食することで何とかなる。困るのはトイレの水やお風呂だ。水がたまっていなければトイレの水洗も出来なくなるので用を足すごとに浴槽の水をタライで汲み上げトイレに流さないとならない。浴槽に貯めた水はトイレや洗濯用なので、浴槽に浸かることが出来ない。体を洗うのは案外大変だった。先ずキッチンでお湯を必要量沸かす。この熱湯をお風呂に持ち運び、水でうめて温度を下げて、体にかけ洗う。これを効率よくやらないといけない。十分に洗うことが出来ない。どちらかと言えば体を洗い流すだけなのだ。到着した晩から水不足の大変さを知った。

2 イスタンブールに渡航


イスタンブールへの常駐が決定したら準備だ。ありったけの日本食を買った。他の荷物は少ない。干物を始め色々な食材を買った。
便はパリ経由のエールフランス。
成田空港のチェックインカウンターにいくと預け荷物の重量オーバーだと言われた。。料金は数万円だったと思う。予想以上だった。距離があるから割高になるのかもしれない。荷物を入れ替え、手荷物の重量を増やし、何とか預け荷物のオーバー料金をゼロさせた。

カウンターの担当者は「これだと結局同じで意味がないんだけど……」と小さな声でぼやいた。結局同じだと言うのだったら、荷物の追加は目をつぶって預け荷物にしてくれた方が楽だったのだが……

当時、ゴルバジョフの時代で米ソの冷戦が集結した後だったが、日本から北回りでヨーロッパに行くにはソビエト上空は通れずアンカレッジ経由だった。以前は北回りと言えばアンカレッジ経由だったが現在は少ないと思う。重量オーバーの荷物を持ってアンカレッジにてtransitしなければならない。

アンカレッジに到着する直前に窓外を見ると地面が凍っていた。外は相当寒いようだ。Transitで空港内を歩き免税店に立ち寄ると日系移民のおばさま達が元気な日本語で応対していた。実質的に日本に一番近いアメリカ本土として日系移民のおばさま達には唯一現代の日本人・日本語に会える場所、故郷に帰ったと夢見る場所であったらしい。暫くして、パリ行きの便に乗り込んだ。再び深い眠りにつくと、いつのまにかパリのシャルルドゴール空港に到着していた。

次の便まで少し時間があるので外に出てみようかと考えた。荷物が重いので一時手荷物預りを探したが何故か無い。テロ防止の為、空港での一時手荷物預けは行われていないと言う。さあ、困った。手荷物を持ったままでは空港の外に行くのは無理だ。仕方ないので空港内を散歩した。ふらふら歩いているうちに出入国管理カウンターを経由せずうっかり空港の外に出てしまった。きつねにつままれた気持ちだ。日本では絶対にあり得ない事だと思う。

どうしようと思いエールフランスのカウンターで訪ねると「このシャルルドゴール空港では良くあることなんです。出てしまったんですね……」やむを得ず入国管理のカウンターに行った。入国のスタンプは「押してくれ」とお願いしてやっと押してくれた。それにしても不思議な空港である。

1 イスタンブールに常駐?


台湾の現場常駐が終了し帰国して間もなくイスタンブールへの常駐の話が持ち上がった。どうやら人手が足りないらしい。数日後の日曜日、イスタンブールに長期出張中のW氏から自宅に電話がかかってきた。

W氏曰く「今日は日曜日だろ……明日月曜日に経理のKさんからお金をもらってさぁ、会社の近くのトルコ航空の事務所でチケットを買って、すぐイスタンブールにおいで!」

これには驚いた。
W氏は海外に対する深い見識と経験があるのに、さらっとこんな事言ってのけてしまう。当事者の私は大変である。W氏ほどの経験は無いしまだまだ未熟だ。私は慌てた。とにかく翌日会社に行ってこの件をT氏に話し、社内調整した。

結局、一週間後に出発することになった。1990年の9月である。この年の8月イラクがクエートを占領し国連安保がイラクに対し経済制裁を始め「湾岸危機」と言われていた時期だ(翌年「湾岸戦争」となる).。

一触即発でいつでも開戦確実だった。トルコとイラクとは隣国同士である。イラクで戦争が起きればトルコが戦争に巻き込まれる可能性は充分考えられるし、または内戦が起きないとも言えない。
テロが頻発するスリランカでの生活経験はある。爆弾の音は聞き飽きるほど聞いた。然し「戦争」は未経験だ。戦争は怖い。それと同時にイスタンブールに対する興味も大いにある。結局私は後者を優先した。