2009年06月 の投稿ログ


883.三沢光晴選手の死  
名前:ふじ    日付:6月17日(水) 9時38分
道草亭ペンペン草様、おはようございます。

日曜の朝ニュースをみて驚きました。
まさか受身の上手い三沢がたった一発のバックドロップで亡くなってしまうなんて、今でも信じられません。
私が初めてプロレスを生で観戦したのが全日本プロレス、松戸市運動公園体育館で,第一試合が、三沢VS越中の試合でした。
今から思えばとても懐かしいです。

おそらく近いうちに日本武道館などで、お別れ会があると思いますので行きたいと思います。



885.Re: 三沢光晴選手の死
名前:道草亭ペンペン草    日付:6月19日(金) 18時8分
ふじ様へ
やはり初めて見る生の試合は迫力が違いますし、思い出深いものですよね。そういえば運動公園にプロレスが来るポスターは見たことがあります。それが三沢さんの試合だったのかどうかは覚えてませんが……

お別れ会、開かれるでしょうね。
いつになるのかなあ〜
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886.Re: 三沢光晴選手の死
名前:らーめん77    日付:6月27日(土) 4時36分
>当時、体育の授業で相撲を取り入れた日があった。相手は古ヶ崎の○○寺の臼○君だった。私はどうしてもプロレスの技になってしまって、相撲でありながらバックドロップで相手を地面に叩き付けた事があった。

高校の柔道の授業の時、私はジャイアント馬場のファンで、段取りの相手もジャイアント馬場のファンで。。。二人とももの凄いのんびりした挙動で、なぜか真面目な生徒がいてにらまれました。


887.Re: 三沢光晴選手の死
名前:道草亭ペンペン草    日付:6月27日(土) 7時3分
うむ!
そういう時は「アポゥ〜!」とショルダーチョップですなあ〜
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888.Re: 三沢光晴選手の死
名前:Mieton    日付:7月4日(土) 12時17分
6月13日の夜、ホタルの観察会の指導を終えて23時頃帰宅。テレビを付
けたら試合中に三沢が倒れ病院に運ばれたというニュースが流れ目が点にな
りました。数分後には病院で亡くなったという続報が流れ、三沢はバックド
ロップを受けた後、動くことが出来なくなり意識を失ったと知って、数年前
に馳浩が後藤達俊のバックドロップを受けたあと危険な状態になったこと、
猪木がホーガンのアックスボンバーを受けて場外に転落して意識を失い病院
送りになったことを思い出してしまいました。

今日、ノアの聖地「ディファ有明」で「三沢光晴お別れ会」が開かれるそう
です。一般受付は14:00〜18:00と報道されています。


若手が技を受け損なってケガをするならともかく、まさか団体のエースがリ
ングで死んでしまうなんて信じられません。考えてみると旧全日本プロレス
は、馬場、鶴田、三沢とエースが3代続いて現役中に亡くなってしまいまし
た。新日本はエースやベテランが現役中に亡くなったことはないのに、どう
してなのでしょうね。ファイトスタイルからしても、王道よりストロングス
タイルの方がスリリングで、ドキドキさせられた印象があるし、猪木・藤
波・初代タイガーマスクの試合は印象的だったと思います。

そういえば、猪木や馬場が現役を引退してから、リング上での事故が増えて
いるような気がします。団体やプロダクションが増えて、プロらしくない選
手が増えていることも原因の1つなのでしょうが、このまま派手な技が増え
たら、いつか取り返しのつかないことになると闘魂三銃士の橋本真也が危惧
していたことを思い出しました。(橋本は新日本を辞めたあとの病死でした
ね。)

私は少年時代の金曜8時にプロレスが放送されていた頃、プロレスファン
で、完全な猪木派でした。全日本もテレビを見てたけど、それはマスカラス
などの外国人スター選手を見たいからで、馬場や鶴田を見るためではありま
せんでした。旧全日本が出来た経緯や、リング上での勝負ではなく政治的に
画策する馬場のやり方が大嫌いだったのです。大人になって思えば経営者に
は色々な都合があるわけで、ときには政治的な手法も必要ということは分る
のですが、純粋な少年時代にはそれが理解出来ず、常にハングリーな状況か
ら立ち上がる猪木に魅せられていました。

私も中学時代に体育の授業で相撲をやったことがあります。私は小柄だった
ため真っ向勝負では勝ち目がないので、猪木が大きな外人と戦うときのスタ
イル(風車の理論)を真似て勝負していましたよ。
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889.Re: 三沢光晴選手の死
名前:道草亭ペンペン草    日付:7月6日(月) 17時24分
書き込みありがとうございます。
この所個人的別件で忙しくなってしまい、中々表の家に集中出来ません。暫くの間申し訳ありません。
ミートンさんの書き込みを読んでいて、純粋なプロレス好きな少年だった姿が目に浮かぶようです。
私も馬場か猪木かと言われれば勿論猪木派でして、ゴングの付録だったボボ・ブラジルに卍固めをかけたときのポスターは部屋にしばらく飾ってました。猪木と言えば師匠のカールゴッチ(ジャーマンスープレックス)を思い出しますし、ミルマスカラスの華麗さ、ドリーファンクジュニアの足技などやはり軽業師が好きでした。鉄人ルーテーズは私がプロレスに夢中になっていた頃はすでに50才過ぎの選手で、当時放映していた12チャンネルのプロレスの中継(と言っても実況生放送ではなくて記録フィルム)などを見ておりましても、すでに弱いルーテーズという印象しかありませんでした。それでも永久王者と申しますか何とも魅力のある選手で尊敬してました。やはり外人選手、とりわけ正統派のテクニックの素早い選手が好きでしたね。
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882.幻のジャズ喫茶「DO」  
名前:    日付:6月16日(火) 18時14分
こんにちは獏です。海外ネタで脱線してしまったので松戸ネタに戻って書き込みさせていただきます。
(でも、人っていろんなとこで繋がってますね、ほんとに)
そこで、前回話に出ていた道草亭ペンペン草さんが行ったことがないと言っていた幻の?ジャズ喫茶「DO」について。
私が松戸に来たのは1981年だったと思いますが、その当時は東口出てイトーヨーカ堂に向かって真っすぐ行って、二つ目の通りを左に折れて少し行くと右手の雑居ビルの2Fにあったかと思います。ほんとに小さな店で二人用のテーブルが4、5個、後はカウンター。店の中にはアップライトのピアノとウッドベースを置いてあり、マランツのアンプでJBLを鳴らしてましたね。レコードはそんなに多くなかったですけどまあ、有名どころはだいたい揃ってました。マスターはビルエバンスを好んで聴いていましたね。ピアノメインのバップをよく掛けていたように記憶しています。新鋭のジャズメンがいると良く新譜を買ってきて掛けていましたね。店の中は落ち着いた感じでマスターとジャズのことやらいろいろと話をしながらゆっくり音楽を楽しみことができました。常連さんも結構いてアットホームな時間を過ごせましたね。
当時はマスターが一人で店を切り盛りしていてコーヒーだけではなく食事もできました。私はまだ知り合いも少なかったのでアパートから近いこともあって学校帰りや休みの日はほとんどDOに入り浸って食事もDOでしていましたね(笑)。
DOのマスターは不思議な人でした。物腰が柔らかく、常に穏やかでしゃべり口調もゆっくりとした、ほんとに温厚そうで方でした。いろんなことに造詣が深くインテリジェンスな方でしたね。昔かなり学生運動に傾倒して活動をしていたらしく、店を出した当初は公安がよく店の周りをウロウロしてたとか(笑)。そんなことを言っておられました。確かに店の中には「状況と主体」など左翼系雑誌がありましたね(笑)。そうこうしてる内にマスターの方から土日に店を手伝ってくれないかと言う話があって。私もOKしました。店をやってると他の用事がなかなかこなせないと。でも、毎日行ってるとこの店の儲けがいくらぐらいあるかなんて直ぐにわかります(笑)。悪くてお金なんて貰えないんで、私がお店にいる時はお金をもらう代わりに昼飯と晩飯を好きに作って食べていいと言う条件で引き受けました(笑)。お客がいなくなると自分のアパートではできないんで自分で持ってきたロックとかフージョンとか好きなレコードを大音響でかけてましたね(笑)。阿比留でバイトし始めるまでの続けていましたか。
この店ではもう一つ楽しみがありました。それは土日はどちらか必ずライブをやっていたことです。あんな小さな店でです(笑)。テーブルを片側に集めてスペースを作って、10人入れば満員になる感じでしたね(笑)。それも松戸市内のミュージシャンではなく、都内から呼んでいましたね。どういう伝手で呼んでいるのか分かりませんでしたが、いろんなミュージシャンが来られて熱いライブを繰り広げていました。
良く覚えてるのは今もバリバリ活躍されてる安部マリアさん(Vo)ですかね。何度もいらしてあのパワフルの歌声を聴かせてくれてました。阿比留の現ママのお兄さんのY重さんもマリアさんのファンでよくライブ見に来られてました。彼女はネットで拝見しましたが今も当時と変わらずパワフルに活躍されているみたいです。
それと今でも忘れられないのがベーシストの中山英二さんとギターリストの宮野弘紀さんですかね。中山英二さんは同郷北海道札幌出身と言うことで鮮明に今でも覚えています。
バンドはドラムも入ってカルテットで来てました。あんな狭い店に(笑)。
ガーシュインのサマータイムをハードバップ調にアレンジしてガツガツ弾いてました。
その後エルビンジョーンのツアーに参加したりして、今ではニューヨークなんかでも活躍される日本を代表するベーシストになっておられますね。
一番びっくりしたのが宮野弘紀さんです。中山英二さんのサポートで来たのですが、私はこの人を当時から知っていました。私が松戸に来た1981年にニューヨークでマーカスミラーや川崎遼さんを迎えてレコーディングしたマンハッタンスカイラインと言うアルバムが話題になっていたからです。プロデューサーはマイルスのプロデュースで有名なテオマセロ。そのテオマセロが宮野弘紀は天才だ〜〜と言ったもんだから、当時は音楽業界で凄く話題になってましたね。私もそのアルバムを買って聞いていました。オベイションのギターでメロディアスなフレーズを超早弾きするバカテクのアコースティックギターリストです。
その中山英二さんのライブでも自分の曲もやってましたね。アルバムの中にテオマセロのために作ったテオズダンスって言う曲が入ってるんですけど、お願いしてやってもらいました。まさか、松戸のDOでそれも1mも離れてない至近距離で見れるとは思ってもいませんでしたので、ものすごく興奮したのを覚えています。
その後、病気で少し休養してたみたいですが、今は元気に活動されてますね。東洋のボサノバって呼ばれて国内外で活躍されております。

阿比留でバイトするようになってもDOには暇を見つけてちょくちょく行ってましたね。DOのマスターも亀屋からの付き合いなので店が終わってからよく阿比留にお酒を飲みにいらしてました。私が大学を卒業してから少し店は続けてたみたいですが、その後店を畳んで探偵会社みたいなのを作ったってとこまでは人伝いに聞いたんですが、その後は前回教えていただきました。
いやほんと、もう一度会って当時のことを話しながら酒でも飲んでみたいですね。松戸にはいろんな思い出が残ってますよ。たった4年間でしたが、私にはタイムカプセルみたいな街です(笑)。



884.Re: 幻のジャズ喫茶「DO」
名前:道草亭ペンペン草    日付:6月19日(金) 17時3分
漠様、
ここにきて、本業が本格的に多忙になりつつあり、お返事ができず申し訳ありません。
さて、DOについての詳細なる記述誠にありがとうございます。松戸にあったお店についての記述は貴重なので、どこかにまとめておける場所を作っておいた方がいいのでしょうね。
漠さんの書き込みにはマスターの好みミュージシャンの事などとても詳しく書かれていますね。
マスターもさる事ながら漠さんもジャズにかなり造詣が深くていらっしゃるようですね。漠さんの書き込みの後、DOに行ったことのある、或いは知っている人に正確な場所を聞いてみました。街の風景も変わってしまった為、皆さんの意見が一致しなかったのですが、多分これで間違いないだろうと思います。聞いたのは:
阿比留の現ママ、バークリームのハナちゃん、バーパナシェのネモトさんです。

>東口出てイトーヨーカ堂に向かって真っすぐ行って、
>二つ目の通りを左に折れて少し行くと右手の雑居ビルの2F

皆さんの話をまとめますと松戸駅東口を降りて、まっすぐ歩きイトーヨーカ堂通りを左に折れて少し歩いた所に現在メガネストアーがあります(昔はここにガソリンスタンドがありました)。このメガネストアの裏に斜め鋭角に入る道があり、途中右側のナポレオンというケーキ屋(現存しない)の二階だったようです。
現在ここは空き部屋で、下の階は韓国居酒屋のようになってます。

1981年という年は、まだアーバンヒル松戸が完成して翌年、あのビルもまだまだ元気だった頃で、ミュージシャンもきてましたね。翌年(1982年)から私は浜松に常駐しました。浜松では富士通のFM8が出た頃で、知人が持っていた事もあって、毎日いじってました。就職後の私は先述しましたように、松戸にいない事が多くて、残念ながら松戸イズムの欠片も無かった。
飛び飛びで松戸で飲む事はありましたが(せいぜい、西口のダイム、リド、シャラント、ドンキ、鳥孝、東口では扇屋横の駐車場の屋台おでん屋他)。松戸新田にカレーハウスリエという同級生の営業していたカレーライス屋さんはよく行きました。

魚力の奥様がよくみえるという事から、阿比留の存在は知ってましたが、入ったことは無かった。今ほど飲酒習慣もなくて、飲酒以外のレジャーに夢中になっていたのかもしれません。
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867.本当に懐かしいです。松戸  
名前:    日付:6月1日(月) 17時47分
こんにちは初めて書き込みさせていただきます。
ベトナム、ハノイ在住の獏と申します。
ネットで日本のこと色々見てましたら、このブログ見つけました。
私は今から25,6年前、大学生だったころ、松戸に住んでおりました。実家が北海道で関東の大学を受けて初めて関東で住んだのがこの松戸でした。学校が運河にあったので、大学にも東京にも比較的アクセスが良かったためです。
松戸に来た当初は東口出て少し行った岩瀬のアパートに住んでいました確か。
最初の1年は東口に「DO」って言うジャズ喫茶があって、そこでアルバイトしてましたね。マスターにはほんとによくしていただきましたね。
ブログの中で根本にある「阿比留」のことが紹介されていてとても懐かしく思いました。
読んで行くうちに当時の「阿比留」がまだ続いているんだと分かってとても驚いたのと同時に当時のことを思い出してあまりに懐かしく思わず書き込みをしてる次第です。
当時そこのジャズ喫茶に先代の「亀屋」のママが買い物帰りによく来てて、今度「阿比留」って言う店を始めるんで、手伝ってくれないかと。そうして「阿比留」でバイトをしだして2年間ぐらい働いていましたかね。
日大歯学部の学生さん、司法浪人されてる方、御近所の方々、魚力の奥さんも来てましたよ。何度かお宅までお送りしたことがありました。いろんな方がいらっしゃって、お酒を飲んでカラオケしてました。ママの人柄ですかね。本当に気さくなお店でしたね。今は娘さんが女将やられてて、当時の雰囲気そのままみたいですね。
私も家族同様にいろいろと面倒を見てもらっていました。本当に懐かしいです。
「蕗の家」もです。よくバイト帰りに朝まで飲んでましたね。きりたんぽの鍋を「だまっこ汁」とか呼んでて、おいしかったのを記憶しています。秋田のおばちゃんはほんとに働き者でした。
20代の一ページを記した街です。当時の記憶は鮮明に残っていますね。
本当に懐かしいです。社会人になって二十数年経ちますが、忙しさに感けて大学卒業以来訪れたことはありません。今度日本に帰ることあれば一度街をぶらついてみたいですね。



868.Re: 本当に懐かしいです。松戸
名前:道草亭ペンペン草    日付:6月2日(火) 8時1分
漠様、
ご意見箱への書き込み誠に感謝いたします。
又、インターネットで情報発信していて良かったなあ〜と思う瞬間ですし、こういう事ってあるんですね。
このお便りを戴いて、昨晩阿比留に行ってしまいました。現在阿比留はお嬢様のT子さんがママ(以下、現在のママで現ママと書きます)として引き継いで営業されております。僭越ながら現ママに漠様の書き込みをお見せしましたら、大層驚いていておられましたが、とても良く漠様の事をご存じのようでした。当時現ママは学生だったそうですね。
ジャズ喫茶DOのマスターと亀屋の元ママ(先代のママで元ママと書きます)はそれぞれのお店に交流があったそうですね。
ご存じかもしれませんが、T子さんのご主人は漠様と同じ頃にバイトをしていたタ○○様です。現在は設備関連の会社にお勤めだったと思います。
私にとっての25〜6年前は就職後地方(浜松)への設計監理の常駐が始まった時期で、松戸の住民でありながら松戸から離れ始めた頃でして、DOというジャズ喫茶は行ってないのが残念です。その後、海外常駐が頻繁になりコロンボ→台北→イスタンブール→香港という状況で一層松戸から離れてしまい、2000年頃やっと海外常駐は終わりましたが、すぐに沖縄常駐をして、松戸に落ち着いたのは2003年の頃です。
蕗の家については、
現ママ曰く「ダマッコ鍋、ちょろぎ(赤い漬け物)、とんぶりなどは蕗の家で覚えたのよ」との事です。
昨晩ちょうど隣に秋田出身のお客さんがおりまして「ダマッコ鍋というのはきりたんぽ鍋ではありますが、小さく団子状にまとめた物を使う」との事でした。

付け加えますと、すでに魚力は廃業し、嘗ての建物はありません。
又、DOのマスターは商売替えをされ、お姉様?と御一緒に浜松町界隈で猫のキャラクターグッズのお店を営業されていたとのお話を伺いました。現在の状況は分かりません。
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869.Re: 本当に懐かしいです。松戸
名前:    日付:6月2日(火) 15時44分
早々のレスありがとうございます。
阿比留に行かれたんですか。現ママに話されたんですか。そうですか。なんか照れくさいですね。長いこと不義理をしてますので敷居がちょっと高いです。
また行くことあればその節はいろいろとありがとうございましたと私が言っていたとよろしくお伝え下さい。
90年代にいろいろと海外を廻られてたようですね。今と違って大変でしたでしょう。
御苦労お察し申し上げます。
私は道草亭ペンペン草さん同様、建設関係ですね。環境プラントの設計を生業にしています。
海外はそう長くはありません。最初はアジアをちょこちょこ回っておりましたが、2007年からここベトナムに赴任になりました。昨年は上海に長期滞在してましたが、今年の4月からまたハノイに舞い戻ってまいりましてこれからはここに数年は居を構えることになりそうです。
ベトナムは現在まだ戦後の日本ですかね。ハノイは建物こそ日本と違いますが、なんとなく雑然とした感じが昭和の匂いを漂わせている街です。なかなかノスタルジックな気分にさせてくれますね。
昨日は阿比留瑠比さんのブログを見てて、そう言えば学生の時バイトしてた店が同じ字だったなと。阿比留 松戸で検索したら、貴兄のブログにたどりついた次第です。
松戸ではほんとにバイトに明け暮れた生活をしていたような気がします。でもいろんな方と触れ合うことができました。田舎から出てきた青二才にみんな本当に良くしてくれましたね。私の中では庶民的な街と言うイメージが強いです。
この街でいろんな方にいただいた親切はこの街で報いれなかったけど、時が過ぎ、処が変わって、そこで触れ合ってきた人達に少しづつですが返えすことができているような気がします。
でも今更ながらITの力には驚かされますね。ちょっと前だったら私も思い出を日常の折り重ならる記憶の中から引っ張り出すことができなかったでしょうね。それが今やネットを通じて3000キロの時空を超え、リアルタイムでこんなやり取りができる。凄いですね。
私もハノイに赴任になる前に後輩から某有名SNSに招待してもらって、そこの「ハノイの宴」なるコミュニティーに参加して、ベトナムの情報をいろいろと仕入れてから参りました。
今はそのコミュの連中と仕事の合間を縫っていろんなイベント企画したり、バンドでライブやったりと、娯楽の少ないハノイライフを結構楽しんでいます。こちらでの友達もネットがなければ、あり得なかったと思います。
道草亭ペンペン草さんも海外にちょくちょく行かれているみたいなので、ベトナムに来る機会がありましたら、ハノイの宴へアクセスしてみて下さい。初渡越の方は飲み代タダで宴を催してくれます。旅行者の方なんて結構いますね。
これからもいろいろな記事をアップして下さいね。ベトナムから楽しく読ませていただきます。ありがとうございました。


874.Re: 本当に懐かしいです。松戸
名前:道草亭ペンペン草    日付:6月10日(水) 5時58分
頻繁に海外常駐を繰り返したのは1985年から2000年までです。
一番自由が出来たのは最初に行ったスリランカでして、工程的にも余裕があったためでしょうけど、週末は一泊二日のドライブで南部に行くことも多かった。アパートも当初協力会社の人と一緒に住んでましたが、それは束の間で殆どがスリランカ人二人との珍道中。考え方も何もかも日本とは全然違っていて、街自体も近代的ではなく、貧しい人が多かった。貧しいけれども笑顔が素敵な人が多かった。そんなところがスリランカの好きな所。スリランカは私にとっての最初の海外渡航であり、第一印象はとんでもない国に来てしまったなあ〜でした。
漠さんも多分そんな感じをベトナムに持っていらっしゃるかもしれない……と思いつつ読んでおりました。

そのスリランカで大変お世話になった日本のスーパーゼネコンT建設出身のNさんがベトナムで長いこと仕事をされていて、少なくとも去年の春までは居たと思います。強烈な人だったので、もしかすると同じ業界の漠サンともお会いしているかもしれませんね。日本人会は入っていらっしゃいますか?

ベトナムは一度行きたいと思っていて中々いけなかった国です。
不定期ですが勤務先で(一応)全員参加の海外視察があります。
去年はバンコックとチェンマイに行きました。行き先候補として、私はベトナムを推していたのですが、却下されてしまった。
残念です。次回は是非ベトナムに行きたいですね。
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880.Re: 本当に懐かしいです。松戸
名前:    日付:6月11日(木) 18時4分
そうですか、15年もの間海外で。長いですね。でも苦労もあった代わりにいい思い出もたくさんできたのではないでしょうかね。
道草亭ペンペン草さんの海外での話も楽しく読ませていただいてます。
ベトナム。初めて降り立った時はびっくりしましたね。あまりにもバイクが多くて、それでクラクションがうるさく(笑)。とにかくあんなにクラクション鳴らすと日本じゃ喧嘩になりますよね。ハイウェイでも夜に前の車が邪魔だとハイビームでガンガンあおります(笑)。
市内でも最初は道路を横断できませんでした。信号が赤でも誰もバイクも車も止まらない。その流れの中に周り見ないで飛び込んで行くと勝手にバイクが避けてくれる(笑)。分かるまでほんとに道を渡れませんでしたね。
今は大丈夫です。慣れました(笑)。でも日本帰ると逆に怖いです。平気で道路に飛び出しそうで(笑)。
ベトナム人は根本的なところで日本人に気質が似ています。それも古いタイプですね。絶対の年功序列の社会です。年寄りには逆らいません。二人称も年齢によって区別されています。年下、目上、ちょっと年寄り、うんと年寄り、男性か女性かで全て呼び方が変わります。
私ぐらいの年になるとだいたい年下が多いから全てエム(年下の男女の呼称)でことが済みますが、同じくらいの年齢の女性を呼ぶ時はちょっと困りますね。チー(年上の女性)かエムか(笑)。ベトナムは戦争で中年の人がたくさん死んだんでしょうかね、国民の平均年齢が25歳と大変若いです。国土は日本の九州を除いた面積で南北に長く、約8000万人の人口です。日本と似てますね。農耕民族でことのほか米を好んで食べます。何でも米です。有名なフォーもコメの麺です。春巻きの皮も米です。あれは戦争の時に兵隊が米を炊かなくても食べれるように考えられたものらしいです。
ついこないだまで戦争をしていた国ですから、ほんと戦後の日本です。今だに混沌としてますね。そんでお金に対してはほんと小ズルいです(笑)戦後の日本もこうだったんでしょうね。キャッシュバックが当たり前の世界です(アジアは大なり小なりそうですが)
貨幣はUSDとベトナムドンが流通してます。どちらも使えますが、値札に書いていない方の通貨で払おうとすると直ぐにレートを勝手に変えて差額を着服しようとします。コンピュータで管理されているスーパーでも空港でもです(笑)。この国の会計はどうなっているのかって心配になってしまいますね(笑)。WTOに加盟してますが、この国の将来を憂いでしまいすよ(笑)。

>そのスリランカで大変お世話になった日本のスーパーゼネコンT建設出
>身のNさんがベトナムで長いこと仕事をされていて、少なくとも去年の
>春までは居たと思います。強烈な人だったので、もしかすると同じ業界
>の漠サンともお会いしているかもしれませんね。日本人会は入ってい>
>らっしゃいますか?

私が知っているT建設のNさんと言うと去年ハノイからホーチミンに行った大成の野沢さんですかね。ベトナムの建設会社とで合弁会社を作っててそちらにいらっしゃいました。そこでホテルの用排水設備の話で一度お会いしたことがあります。でも私のことは覚えてないでしょうね。後はイニシァルNの方は知ってる方ではいらっしゃいません。
ハノイには日本人の商工会がありますが、日本人会と言うのはないですね。もっと自分に近い人たちで作ってる県人会とかテニスクラブとかそういうのは結構ありますが。私はちなみに北海道人会と言うのに所属してます。ただ酒飲むだけであまりメリットはありませんが(笑)
後はMIXIのコミュの集まりですかね。ハノイは日本人はあまり多くなく、現在3000人位です。日本人少ないので結構みんな顔見知りで仲いいですね。確かに日本にいると知り合いになれないような方もたくさんいらっしゃいます。某商社がやってる工業団地には福田元首相の二男坊が勤務してて良くお会いして話しますね。
ベトナム、一度いらっしゃって見ても面白いかもですね。ほんと昭和の匂いがする街です。特にハノイは古い建物が多くホーチミンに比べて静かな街です。ホーチミンはアメリカが作った街です(もともとはフランスですが)。近代的ではありませんがハノイより活気がありにぎやかですね。
アジアの中でも一風変わった国であることは間違いありません。

でも、タイは面白いですね。食べ物も美味しいし、何かにつけて(笑)
日本人も多いので日本食にも不自由することもありませんし。こないだ行った時はバンコックに、たこ焼きの「銀蛸」がありました(笑)。ラーメンも美味しい店が多いです。次に赴任することあれば絶対にタイに行きたいですね(笑)。

道草亭ペンペン草さんの海外でのお話は本当に面白いし、勉強になりますね。
これからもどんどん紹介して下さいね。楽しみにしています。
そして大先輩としていろいろとご教授お願いいたします。


881.Re: 本当に懐かしいです。松戸
名前:道草亭ペンペン草    日付:6月11日(木) 18時57分
>市内でも最初は道路を横断できませんでした。
>信号が赤でも誰もバイクも車も止まらない。
>その流れの中に周り見ないで飛び込んで行くと勝手にバイクが避けてくれる(笑)。

これはスリランカでも中国でも同じですね。
以前中国について書いた文章の中に「無秩序の中の秩序――中国」というのがあったんですが、ホームページを改装した際に消えてしまったみたいです。今度復活させておきますね。

>去年ハノイからホーチミンに行った大成の野沢さん

その通りです。野沢さんにはコロンボ以来、公私ともにお世話になった方です。
その後タイにいらっしゃる頃、我が妹がお世話になり、又、ベトナムに移られてからは、部下の女の子がお世話になってます。特に部下の女の子は中国からベトナムまで陸路で国境を越えると豪語していましたので、かなり心配いたしまして野沢さんの連絡先を教えた次第です。

漠さんのお話を聞いていると素朴なベトナム人の姿が思い描くことができます。
ベトナムはこれから経済的に急発展する注目すべき国だと思ってます。ただ、経済的に豊かになるに連れて、古き良き時代に培われたであろう素朴さや人間味をどこかに置き忘れる事なく、ベトナムの良さを信じ、そして失わずに発展してほしいと思います。

私が海外生活で得たものといいますとやはり距離感じゃないか?と思います。人と人との距離感。
仲良くなりすぎず、突き放す訳でもない。付かず離れずと申しますか、これは相手にもよるのですが、そういう感性を得たように思います。又、差別するのではなく、区別する感覚……
距離感と区別が分かれば、仕事にも打ち込む事ができて、さらに信頼され、海外生活も楽しくなる。
そんな風に私は思いました。
これは短期出張で中国で仕事をする際にも(多分)役立っているように思います。

松戸のお話からずいぶん飛んでしまいましたね。
http://omotenouchi.jp/

878.こんばんわ!  
名前:エイム    日付:6月10日(水) 18時29分
千代田線のお話。似たような場面がありますね。
高齢者が座れないで居る時、乗車して目の前に立ち、ちょっと
タイミング逃すと、譲りたい気持ちがあるのに寝たふりした経験
あります(苦笑)
気付いたときに「サッ!」と譲ると案外なんでもないのですよね!

今ではそんな悩みもなく、「サッ!」と譲りますけど!

そのお若い方、なかなかですね。
でも隣の先輩、その後座り心地悪かったでしょうね(笑)
http://blog.goo.ne.jp/aim6411kh



879.Re: こんばんわ!
名前:道草亭ペンペン草    日付:6月11日(木) 10時19分
少々本心を書きすぎたきらいが……
一旦削除しますね。
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875.キセルと言えば  
名前:るみるみ    日付:6月10日(水) 11時1分
ご無沙汰です。
キセルではないんですが、以前に神田の駅ナカ蕎麦屋で聞いた話し。
お客さんがよく定期を見せて出て行く・・・と言ってました。

それから切符はその日のうちだったら改札を出られますし、無人駅から無人駅までだったら、今でもキセルは可能ですね。但し途中検札をうまく潜り抜けられればの話し(キセルどころか無賃乗車じゃん)

喫茶店での恐い人に比べれば、小悪党な話題で申し訳ない。



876.Re: キセルと言えば
名前:道草亭ペンペン草    日付:6月10日(水) 12時55分
るみるみ様、
書き込みありがとうございます。

>お客さんがよく定期を見せて出て行く
そのような経験私にもあります。
自動改札になる以前は定期券というのは改札で見せて通るものでしたが、しかし、それはあまりに日常過ぎる行為でした。
なんといっても毎日の事ですから……
改札に近づくと、定期券をスッと出して、数秒そのままにして見せて、そして胸のポケットに仕舞う。
体が反応すると申しますか、自動的に行われまして、この一連の動きを始める瞬間というのは多分無思考でして、自然と体が動いていくものです。
謂わば、パブロフの犬の様なもので、濃紺や黒系統の服を着て、仁王立ちした人がいるとつい定期券を出してしまう。

そんな定期券を使っていた頃、通勤時慌てるようにして勤務先のタイムカードのところに向かおうとすると、扉の所で同僚のNさんが仁王立ちしていました。私は平然として定期券を出して同僚のNさんに見せてしまったんです。
多分、Nさんは泡を食ったと思いますが、次の瞬間笑われまして、私も正気に戻った……という次第でして。
http://omotenouchi.jp/


877.Re: キセルと言えば
名前:道草亭ペンペン草    日付:6月10日(水) 13時2分
もう一つ
「キセル」という行為は以前真剣にその方法論について考えた事がありましたが、見つかったときのリスクが大きすぎてやろうと思ってできるものではありませんでした(ただ、無意識で安い運賃の切符のままうっかり出てしまった事はあります)。

検札は現在ほぼ特急料金或いは指定席料金などが発生する場合行われていますね。だからわざわざ鈍行に乗って来る分には、それこそ仙台から時間を無駄にしてはるばる乗ってきても、まず見つかる事はないかもしれないですね!
ただ、自分の守銭奴本能を満足させる為と申しますか、悪いことをしている精神的な負い目が、楽しい筈の旅を、ハラハラ・ドキドキの旅行にしてしまう。

自然散策の為、東我孫子駅で降りる事があります。
あの駅に行くと今でも何故か方法論を頭に思い浮かべてしまうのですけど、想像だけだったらまさか罪になりませんよね、苦笑!!
http://omotenouchi.jp/


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