5 月賦で商品を買っていた昭和の時代と月賦百貨店と根本にあった京屋百貨店について

京屋百貨店昔日の松戸
京屋百貨店

月賦で商品を買う事が一般的だった

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家財道具のどれも高価で現在のクレジットカードが存在しなかった時代、月賦というシステムで購入した月賦とは月ごとに返還する割賦販売の事。

「それじゃ~クレジットカードと変わらないじゃないか?」と言われそうだが、ちょっと違う、否かなり違う。口座自動振替というシステムがそもそもなく、店に出向き直接返済していく。京屋百貨店は丸井、緑屋、丸興等と同じ月賦百貨店の一つで自社で月賦システムを持っていた会社(ちなみに緑屋は現在西武系列でクレディセゾン、丸興はダイエー系列でOMCカードになっている)。
自社で月賦システムを持っているという事は客からの支払いが滞った場合、負債が直接自社に及ぶので倒産という危機に陥りやすくなる。

京屋は庶民の味方だった

会社維持運営のため利益をふっかけ高かったのか?といえば決してそんなことなく、庶民的な価格で提供していた。アフターケアもしっかりしていたようで京屋百貨店は結構人気があった。私が物心ついたころ、自宅の流し台は人研ぎ石だった。母は最新式のステンレス製流し台が欲しくなった。ある日一大決心をして京屋百貨店で錆びないステンレス製の流し台を買った。勿論月賦である。

ところがある日錆びないはずの流しに錆びが出た。母は大慌てで京屋に苦情を持ち込んで取り替えてもらった。京屋は不愉快な顔一つせず快く取り替えてくれた。後に母は「あの時の原因は金タワシの様なもので表面をこすり、もらい錆びの様な状態だったかもしれない」と話していたが、やはり当時としては清水の舞台から飛び降りるような気持ちで購入した高価な買い物なので相当慌てたのだろう。

月賦百貨店京屋のあった位置

京屋位置-1

松戸市商店街診断報告書 昭和37年3月より抜粋

上の地図は松戸市商店街診断報告書 昭和37年3月より、根本の商店を抜粋したものです。

赤い点の部分が京屋百貨店。広い通りが旧水戸街道で、この地図は東が上になっているので分かりにくいですが、京屋の道を挟んで島村俊商店ナスよいち漬けがありますが、その辺りが現在のロイヤルホスト付近です。現在でもロイヤルホストの窓際から外を見るとクリーニング桔梗屋さんが見えますね。京屋百貨店は現在で言えばちょうど松の木通りの中央くらいにあたると思います。京屋の前の根本畳店さんは、その後旧水戸街道から一本奥に平行に走っている道がありますが、そこに移りました。右下に消防署と書いてありますが、そこが現在の女性会館ゆうです。杉浦葬儀店さんは変わらずです。

京屋百貨店に話は戻りますが、私の覚えているのは店の中央に二階に上る廻り階段があった店で、綺麗な売り子さんが印象的だった。今となっては松戸に月賦百貨店と呼ばれる場所は影も形もなくなってしまったが良心的な商売をしすぎたが故かもしれない。念の為、現在の地図とその当時の空中写真の比較を下記に記録します。ただ、この地図は上が北です。

北部小の教室で東京五輪(1964)を見られたのは京屋さんのおかげ

 

聖火ランナー

いらすとやさんのイラスト

ある日、根本交差点付近の飲食店で食事中に、こちらから何も聞いてもいないのに、突然「京屋って知っている?」と話しかける人(小浜さんだったかな?)がいた。細身で比較的小柄な人で、私よりも二、三歳は歳上だと思う。その人は立て続けに話した。

「京屋は現在ね、新松戸に貸しビル(京屋ビル)があって、そちらに拠点を移しているんだよ。京屋の社長は偉くてさ、ほら、昭和三九年のオリンピックの年、北部小学校の全教室にテレビを一台ずつ寄付したんだよ。同級生に京屋の娘がいたんだよ」


ああ、記憶がある。オリンピックの年、確かにテレビが教室に置かれていた。そのおかげで私は北部小学校でオリンピックを見たのだ。今でもはっきりと覚えている。確かにそういう事があった。重量挙げの三宅、砲丸投げのタマラプレス、体操のチャフラフスカ、マラソンのアべべと円谷等々、しっかりと覚えている。あんなに記憶がはっきりしているのは京屋の社長が寄付してくれたテレビのおかげだったのだ。写真は住所表示と京屋の広告、古ヶ崎五差路付近の木造住宅の壁に今でも残っている。

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