表の家

昔日の松戸116-120


120「死に金は使うな、生き金を使え」-パチンコ編

曾祖母(母経由で知った)から伝わる座右の銘になっている言葉がある。

死に金は使うな、生き金を使え」

である。
金は使うべき所ではしっかり使う。抑えるところは抑える。しかしながら守銭奴はダメ。”情けは人の為ならず”にも通じる言葉だと思う。でも思った通りにこうはいかない。特に若い頃は本当に出来なかったと思う。死に金で終わってしまった遊びを思い出してみようと思う。

松戸でのパチンコの思い出

考えて見れば、20歳を過ぎた頃からパチンコ屋には随分通った。
今から思えば体中たばこの煙の臭いでいっぱいで不愉快になるし、結局収支はマイナスになった訳だし、第一あの騒音の中で良くも遊んだものだ。今現在
「遊んできても良いからいってらっしゃい」と言われてもとてもその気にはならない。
昭和40年前半の松戸のパチンコ屋

初めて行ったのはいつだったろうか。
多分小学校三年生の頃だったと思う。近所のお兄さんに連れて行ってもらった。当時もパチンコは大人向けの遊びに変わりなかったが、大人同伴であれば入れたし、フィーバーブームの頃に比べれば店内の客数もそうは多くなかったような記憶がある。

当時近所のお兄さんと入ったのは松戸ホールだったと思うが定かではない。パチンコ台毎に椅子が無く、皆立ってプレイをしていた。球が詰まれば台を叩いて「つまったぞ」とか「でないぞ」と言えば従業員が台の裏から顔を出して調整してくれた。機種も地味で一気にたくさん出玉がある訳ではないので、球箱も小さめで紺色の軟質プラスティックのケースだった。
現在はドル箱というのかな?透明色付き硬質プラスティック製で1500球くらいは入ると思うが、当時のは大の箱で800球、小の箱でせいぜい500球くらいだったのではないか?
その為、席を外してトイレに行った瞬間に簡単に持って行かれてしまう事もあったようだ。
一度目撃した事があった。近くでプレイしていた人がトイレに立ったその隙に、知らない人が現れ躊躇いもせずに彼の球箱を持ち去ってしまった。本当に一瞬の出来事だった。プレイしていた人が戻ってきた時は後の祭りで、箱の無くなった自分の台の前でオロオロしていた。あまりに巧みな仕業なので、私は犯人の顔も覚えていないし、どうにも助けることなど出来なかった。
現在は一箱の重さが馬鹿にならないし、床に積み上げているので、どう考えてもそんな被害に遭う心配は少ないと思う。それどころか、台に食事中と書かれたパネルを置いて一時間近く消える人も居る。

子供の頃に戻るが、当時は牧歌的で床に落ちている球を拾って集めて、遊んだ。当時は換金システムなど知らなかったが、お兄さんに戦果のチョコレートをもらうだけで嬉しかった。

また、当時の台は穴に一つ一つ球を入れながら打つ台だったので連続して打つ為にある一定の技術も必要だった様だ。この為、左手に球を掴み親指で球を一つ一つ規則的に入れ右手で弾く。右手の上に左手を被せる独特の姿勢だった。子供の私はそんな事は出来ないので球を三つ四つと一度に入れて打ったりするが、当時の台だとその玉をいくら打っても盤面に球が届かない。にっちもさっちも行かない状態になり店員さんを呼んだりした記憶がある。間違えていたらごめんなさい。
昭和50年頃のパチンコ台進化

1970年代中盤以降、成人となり再びパチンコ屋に行った頃は、すでにトレイが上下で二段になっていた。
左手で一つ一つ入れる台は無くなっていた。進歩し楽だったし、球が三つ四つ連続して打っても下のトレイに球が戻ってくるシステムになっていた。同時に電動パチンコ台も普及し始めていて、手打ちの台を席巻し大半が電動になりつつあったのではないだろうか?知人はこの電動パチンコをゲボッコと言っていたが、あれは何だったんだろうか?

1981年に妹を連れて神戸のポートピアに連れて行った際の話だが、あの時は交通費を節約するため国鉄バスのドリーム号で梅田(大阪)経由で神戸に行ったのだが、到着したのが早い時間だったので大阪の街を二人で散策していた。その際目についたのが、パチンコ屋で流石に妹を連れていたのでプレイはしなかったが、殆どが手打ちの台だったのを覚えている。電動もあったが少数だった。松戸と全く逆だった。


金町の田園写真です
パチンコ屋の周辺

松戸ホールの上には喫茶田園があり、昼飯に食事に行くこともあった。確かとんかつ定食なども出していた記憶があるが定かではない。喫茶田園も以前は常磐線沿線にいくつもあったと思ったが、今は金町駅前に残すだけかな?
正華の上には中華料理レストランがあったが、一度も入ったことが無かった。
そういえばトキワの上にはコンパがあり、飲みに行ったこともあった。その後ゲームセンターなどが出来ていた。
国際の地下には怪しげなナイトクラブの様なものがあり、私は怖くて行けなかった。

余談だが、台湾に常駐していた当時パチンコが流行していた。街を歩くとあちこちにパチンコ屋があった。中国語で柏青哥と書いていた。確か後に禁止されたと思った。10数年前に台湾に訪れたときには無かったのでどうもそうらしい。
パチンコ富士(開かずの踏切、松戸大宝前)
松戸のパチンコ屋さんの事

まだ就職し間も無い頃、松戸駅付近にあったパチンコ屋さんで良く行ったのは西口の松戸ホール、トキワホール、正華、東口の国際だった。松戸大宝前にパチンコ富士があった。珍しく昔のパチンコ屋の雰囲気を残すレトロなパチンコ屋さんだった。
開かずの踏切のあった頃は繁盛していたかもしれないが、私が成人した頃は客も少なく、寂れていた。それに当時としては珍しく土間で椅子無しだった記憶がある。

松戸ホールでは大勝ちが出来なかったが、長く遊べたような記憶がある。その点、正華の方がギャンブル性が高かったような記憶がある。パチンコをしていて、不調になると裏通りの富士ラッキーボールに行ってアレンジボールやスマートボールをして遊んだものだ。富士ラッキーボールのおばさんは最後にお会いしたのは2007年頃ルンルンの前だった。まつど祭りの日だった。その後お会いしていない。噂では他界されたと聞いたが何とも言えない。

東口の国際にはアレンジボールもあり行った。当時国際の景品交換は近くの弁天会館だったと思う。角顔でヒゲに特徴のあるおじさんだった。金山神社の近くでよく見かけた。
西口の交換は確か、正華の裏の角の店だった記憶がある。
そういえば、成人式は松戸市民会館で催されたが、その帰り六中で同級生だった戸張君が「成人式を過ぎたのでパチンコをする」と意気込んでトキワに入っていった記憶がある。ああ、そうですか!という感じではあった。
パチンコ屋のコミュニティ

パチンコ屋という場所は総じて孤独な遊びをイメージする人も多いと思う。実際そういう側面もあるとは思うが、案外コミュニティの様なものに出会う事もある。松戸ホールの地下の常連で、50近い女性、70近い女性などのグループが居た。彼等はお互いに情報交換や荷物の番、玉が不足したときに回す、疲れたときに缶コーヒーを買ってきて配るなどをしていた。たまにそのお裾分けをされる事もあったりして、こりゃ抜けられなくなるかも・・・などと思ったりした。また、常連になると従業員も知り合いになり、良い台が空くと教えてくれたりした。ただ良い台だからと行っても、全く出ないこともあったけれども・・・
私の知人も従業員の顔は良く覚えていて、居酒屋みますに訪れた時に教えてくれた事もあった。

所謂フィーバー台で確変が始まると大抵の人はみな痴呆の表情になる。あの横顔を見ていたら、何となく気持ちが悪くなったものだ。チューリップ台の頃はあそこまで痴呆の表情にはならなかったと思うが、フィーバーや一発台登場以降のパチンコという遊びに不快感というか狂気の印象を持ち始めた。言わば”魂の抜け殻”或いは”生きる屍”
そんなパチンコ屋もこの表の家を作り始めた頃から徐々遠のき、すっかり通わなくなった。今はトイレが必要な時のみ入る事はあるけれど・・・すいません。

いずれにしても散財したものだ・・・

119 切手収集の流行

切手収集
松戸の我が同級生の間で切手収集が流行った事があった。地味な遊びなので隠れ収集家は多いと思う。でも私の同級生の多くに聞くけば大抵「集めていたよ」と答えるのではないかと思う。多くの同級生は多分、小学校高学年、中学生になった頃ではないか?その理由は後で述べる。勿論もっと早くから収集していた同級生も居た事だろう。

私が切手を魅力有るものと感じたのは遙か小学校三年生の頃だったと思う。
その当時から、断続的に私は収集を行い→飽きる→再び収集→飽きるを繰り返した。ざっと下記の様な感じである。現在は全く収集活動をしていないが過去の切手は残っている。

第一期 小学校一二年生の頃:駄菓子屋のクジの切手が発端
第二期 小学校三年生 オリンピック切手でいきなり豊富なコレクション
第三期 小学校六年生−風見君の中国切手コレクション
第四期 中学二年生:少年雑誌と切手収集ブーム、切手通販の時代。
第五期 大学生ー第二次通販に嵌った
第六期 1994年の頃-新中国切手(第一次)や昭和初期の切手に嵌った
第七期 1997-8年の頃-香港切手や中国切手(第二次)に嵌った
第八期 2000年以降-日本の記念切手の現実に直面

という感じであろうか?何処をどの様に話して良いのかとりとめもなく分からないが、第一期から少しずつ思い出し、書いていこうと思う。

第一期ーおまけの切手、使用済みの切手の頃

切手を集めるきっかけは果たして何が最初だったのか、実はあまり良く覚えていない。
当時グリコのキャラメルのおまけ、或いは駄菓子屋のクジで外国の切手を手にした時が起点だったような気がする。外国の切手と言っても共産国が国策の為に発行していた使用済み(或いは注文消し)の価値など全くないような切手だった。それでも、当時は切手の絵柄の虜となり、切手って良い物だなあ・・・と感じた。持っているだけで嬉しかった時代だったと思う。

切手を集めようと思った矢先に目を付けたのは家に送られてくる封書や葉書に貼ってある切手だった。当時は封書に貼ってあった十円桜切手のピンク色の絵柄が綺麗だなあ・・・と思い、母からその封書をもらい切手の部分を水で浸して剥がし、乾かしそれを新たに購入した小さいストックブックに入れていた。どんどん増えるかなあ・・・と思っていたが、そんなにたくさんの封書が届くわけではないし、届くのは主に十円桜切手だけだった。それでも私は嬉しかった。
そんな牧歌的な切手収集ががらっと変わる時がやってきた。
一気に書き上げるのは大変なので何回かに分けて書くことにする。
昭和39年地形図

赤く印した家並みは現在無い。常磐線複々線工事の時に茶色の道路から左側は立ち退きになった。
切手の宝探し:金山神社から松戸駅方面に向かうと住宅街がある。嘗ては現在の線路側のフェンスの向こうにも住宅があった。そこに同級生の三堀君が住んでいた。後に複々線の計画によって南花島に引っ越したが、これはまだ三堀君が根本に住んでいた時の話である。三堀君の家は三人兄弟で、多分二番目のお兄ちゃんか一番目のお兄ちゃんのお誘いだったのだと思う。ある日宝物探しをするから、私も参加しなさいという。私は面白いと思って行った。それは三堀君の家の応接間を使った宝物探しで、実は記念切手を各場所に隠してあるので見つけたら持って行って良いよという非常にありがたいお話だった。
ある切手は、カレンダーの中にある切手はテーブルの灰皿の下に、ある切手はテレビのカバーの下に・・・と言った具合だ。私は結局三枚ぐらいしか見つけられなかったが、中には文通週間の箱根を探し当てた人も居たし、それなりに興奮する遊びだったのを覚えている。

第二期-オリンピックの切手でコレクションが増えた

房総白浜出身の古屋さん。切手収集の救世主。

背景の木造アパートが古屋さんの住んでいたアパート、右が米穀倉庫
遅々として進まない、私の切手収集を哀れに思ったのか、ある日、房総白浜出身の古屋さんが大きなプレゼントをくれた。古屋さんは同じ町内の東葛土木事務所で働く傍ら、大学で勉強をする人だった。古屋さんはその後千葉県庁に勤務、館山の高校の校長、その後松戸の旅券事務所長をされ、現在は引退、故郷の房総白浜に戻った。
古屋さんのプレゼントは主に東京オリンピックの切手、東海道新幹線開通の切手、その他諸々の記念切手、そして黒いストックブックだった。その為、貧弱だった私のコレクションは一気に豊かなコレクションになった。
それはそれは嬉しかった。本当に今でも感謝してます。
ただ、当時の私はそのコレクションを受け継いで、増やしていくだけの経済的なバックアップも器量も無かったので、母が時々根本の郵便局に並んで買ってくれた記念切手を細々と加えていくという程度だった。つまりこの時期は自分のコレクションというよりは周りが見かねて形を作ってくれた時代だったと思う。

第三期-風見君の中国切手コレクション

そんな中で、目にしたのが竹ヶ花の線路沿いに住んでいた風見君のコレクションだった。常磐線が複々線になる前、楢原建設の先で、金山神社の手前の一角に竹藪と住宅郡の一角があったが、その長屋の一軒に住んでいた。当時は親戚(染谷さん)が風見君の家の近くに住んでいたので、年始の時度々行った。
風見君は小学校6年生まで北部小学校だった。彼はたくさんの中国の切手を持っていた。1967年以前の切手で、大きな赤い切手が目立った。全く日本の切手と異なるそのデザインに目を奪われた。すでに文化大革命の始まっていた頃だったので、文革の切手(毛沢東や林彪の切手など)も入っていたと思う。それにしてもどうして彼が、いや、多分彼のお父さんの趣味だと思うが、あの時期に新中国の切手をたくさん持っていたのか今でも疑問に思う。あの時期は殆ど鎖国状態になりつつあった頃で、収集家も集めるのに苦労する時期だったと思う。
ただ言えるのは、私はあの時に赤い切手に魅了されてしまったという事かもしれない。

第四期-漫画雑誌と通販の時代

この時期、少年漫画誌が幅をきかせていた時代だ。
週刊では少年マガジン、少年サンデー、少年キングの三誌、付録の付いていた月刊冒険王、そして少年画報を覚えている。
その中でもっとも良く見たのは巨人の星を連載していた”週刊少年マガジン”、天才バカボンや河童の三平を連載していた”週刊少年サンデー”の両誌だった。当時はどうしても読みたかったので。友達と半々で代金を払いながら読んでみたり、小根本の貸本屋で借りて読んだりしたものだった。
当時は切手収集ブームであった為、漫画雑誌に特集が組まれたり、切手の懸賞があったり、切手商の広告が誌面を賑わしていた。これで子供達が切手を集めない訳がないという状態だったと思う。


当時只でも目立った広告の中で、実際の購入まで心を動かした広告を2点挙げるとすれば”ケネディスタンプクラブ””東京切手センター”だった。
”ケネディスタンプクラブ”
”ケネディスタンプクラブ”という会社は四谷に今でも存続している会社で、新橋スタンプ商会などが主催する切手の催しや、JAPEXで見かける事がある。ケネディスタンプクラブは切手とコインと両刀遣いだった。カタログを請求すると無料の切手一枚と共に白黒の写真カタログが送られてきた。日本切手使用済み25種だとか50種の魅力あるセットを揃えていて、当時ケネディのコインを中心に消費者にこれでもか?という位子供のコレクターを魅了する広告をうっていた。ステーショナリーの品揃えもしっかりしていて、何となく子供の収集欲をかなり刺激するものだった。会員制度があったのかどうかは覚えていないが、何度か買ったことがあった。

”東京切手センター”
”東京切手センター”はすでに廃業した会社であるが、アプローバルという料金後払いのシステムで切手を販売していた(Approval(承認)という英語から来ているんでしょう)。それは、送料分の料金を同社に送るとおまけの切手と共にビニールの袋にパックした切手が8袋ほど届く。1袋は確か300円程度のものだったと思う。その中で自分が欲しい袋を選び出し、その料金と残りの袋を同社に送り返すと精算が完了する。また、BCC(ベストコレクターズクラブ)に加入すると定期的に切手とカタログが送られてくるシステムになっていたと思う。ただ、送られてくる切手はくず切手ばかりで、もしコレクションとして揃える考えがあるとしたら殆ど最初から全部買い直さないと出来ないような代物だった。
それでも当時は先ずコレクションのボリュームを増やしたいと思っていた時期で、そういう欲求を満たしたという意味では分かるが、少々アコギだったんじゃないの?という気がする。
多分、多くの少年少女はあの手法に引っかかったと思うけれど・・・

当時郵便局の簡易保険に加入していた。その為保険の掛け金は郵便局の人が定期的に個別徴収に来ていた。実はその際に発売された記念切手を持参してきた。その際、必要な分購入していた(正確に言えば母に購入して頂いていた)。この時期国宝シリーズが発売されていて、大体揃ってしまった。
このシステムで切手が手に入ると郵便局に一々買いに行かなくても良く便利な反面、一生懸命苦労して収集するという姿勢から離れてしまい。折角親に買って頂いているのに、苦労知らずの私は徐々に切手収集から心が離れてしまっていた。

モンダ書店(松戸駅西口にかつてあった本屋さん、そして切手販売)

写真右側は公衆電話ボックス。現在はここには無い。
知人によれば、松戸駅西口、現在のイセタン近くに八百七があるが、八百七になる前はここはモンダ書店だった。このモンダ書店の二階では切手の販売もやっていたらしい。私はこのモンダ書店には何度も本を買いに行ったことがあったが、切手の売り場が二階にあった事は全く知らなかった。情報ありがとうございます。写真は松戸ウオーズ(アマチュア映画)から拝借しました。ありがとうございます。

第五期-土侯国切手の魅力


アラブ土侯国の美術切手、
コレクションを見ていると何故か再び集めてみようという気がしてくる。
多分、これも東京切手センターだったのかもしれないが、通販で土侯国の切手を集めていた時があった。土侯国の殆どが一体全体地球上の何処にあるのか当時は分からなかった。良く見かけたのは美術切手や宇宙切手、日本の万国博覧会(EXPO70)を記念したものが多かった。しかしながら、モスリム国であった国の筈なのに、裸婦像切手なども発行されていたのが笑える。
同時にあの手の通販業者は広告作りが非常に上手で、見ていると何となく欲しくなってしまうのだった。とは言うものの、アフリカのリベリア発行による万博の記念切手に三波春夫が採用されているのを見て笑ってしまった。しかも農協のマークと共に・・・
アポロ11号が月着陸した事で発行されたアメリカの切手は欲しかったが、1970年頃土侯国を始め色々な国で宇宙切手が出ていた事があった。当時は買わなかったが、後にロシアの宇宙切手など、何となく欲しくなり買ってしまった。
同時にこの時期、何となく切手趣味週間の少し古めの切手も集めてみようかという気持ちになっていた。とは言うものせいぜい、手が出るのはまりつき程度ではあった。海老蔵、見返り美人、ビードロ、月に雁などはこの頃もとても手が出るものではなかった。
1972年に日中国交正常化が結ばれ、その五〜六年後くらいから暫くの間、何年にも亘って、松戸駅の西口や東口で中国物産展が仮テント小屋で催されていた。松戸駅東口は扇屋の近くの駐車場で、西口では現在のサンペトロ(パチンコ屋)付近で催されていた。
この頃、物産展でパンダ切手(1973年発行)が雑然と売られていたのを覚えている。
実はこの切手はその後、中国切手バブルと共に値上がり、非常に高価な切手となった。当時は中国物産には全く興味が無く、後になって「あっ!」となったのであった。普通はああいうテントで骨董品などと一緒に売っている切手が後に高価になることなど99%ないのだが、実はあの切手に関しては最後の1%になってしまった。
第六期-中国切手へ(私のコレクションがもっとも豊富になった時期)
土侯国切手収集から暫くの間は私の切手収集は忘却の彼方へ・・・
それこそ、10年近くストックブックは押入の中で寝ていた事になる。バブル崩壊して間も無い頃、ある人から新中国の年間発行セット(1992年だったか、93年セットだったと思う)を頂いた事があった。実はこれで再び火が付いてしまった。当時、新中国の切手を集めようとして、台湾で発行された新中国の切手アルバムを持っていた。ところがこのアルバムの値付けがめちゃくちゃ高い。その後日本郵趣協会で発行していたJPS外国切手カタログ 新中国切手と出会ったことで、本来の相場を知ることが出来た。この当時は、JAPEXや切手業者の催す切手即売会に積極的に通い購入していた。私が一番買いやすかった業者はケンベーカーのブースだった。ここにハルヨさんが居て「トピックは?」と聞くので「新中国、特に文革前後」とやりとりをしながら買った。当時、ケンベーカーさんの所では独自のオークション誌を作成し自らオークションも催し。メールオークションかと思っていたが、たいていの場合それは、展示会の会場でのオークションとして連続していた。この為、随分とこのハルヨさんから購入していた。

新宿に日本郵趣協会が入っていたビル(郵趣会館)に良く行った。郵趣協会のお店ではこれまたたくさんの新中国の切手を購入していた。
同時に、小岩にあった浅岡スタンプ商会にも何度も通った。この浅岡さんの切手は一級は一級として売る為、ミントの綺麗な切手をどうしても欲しい時はこの浅岡さんに頼んだ。文革2の林彪と毛沢東の入っている切手もセットで浅岡さんから購入した。今でも大事にしている。
田端の切手商も行ったことがあった。おじいちゃんの様な店主であったが、文革ものは結構置いていたので、いくつか買った。選んだ後中々私がお金を払わなかった事を心配したのか「おぜぜを!」と言われてはっとして支払った。奇妙な店主の店だった。店の名前は忘れた。現在の有無をネットで検索したが見つからなかった。
もう一つお花茶屋だったか堀切菖蒲園駅近くの切手商にも行ったことがあった。宵の口から酔っぱらっていたおじいちゃんが店主で奥さんが心配そうに見ているという感じ。袋入り解放区切手セット100円也を三つほど買った。現在この付近で調べてみるとエーススタンプという店が見つかったが、エーススタンプの店主はばりばりのやり手に見えるので、違う店だろうと思う。
通販では極東スタンプの切手を購入していた。この店は京都にあった。二級品という事で随分とたくさんの昭和二十年代ー三十年代の日本切手を買った。カタログを受け取って欲しい物があるとすぐにその場で電話する。先に買った人が居なければ買えるし、そうでない場合は、諦める。電話すると京都弁のご主人が対応し、とても良心的な店だった。その後断続的にこの店で購入した。
北朝鮮切手
郵趣協会に行くと基本的には中国切手を買っていたが、北朝鮮の切手にも興味を持った。
それは初めて中国切手を見た時の印象があったから。北朝鮮の切手は所謂赤い切手を買った。
それ以外にも貝、花、美術品などの切手もあったが、それらには全く興味はひかなかった。多分小さなストックブックに一冊くらいは溜まった。当時北朝鮮危機があって、ジミーカーターが訪問した頃だったので、もしかしてこの切手を購入する事によって、ノドンの一部になるのかと思うと怖くなり、収集を止めてしまった。

その後いつだったか、会社の同僚が北京の精華大学に留学していた頃、北朝鮮から学びに来ていた学生から北朝鮮の切手一式をもらったという。それががストックブックに一冊あるから鑑定してくれない?というので見せて頂いた事があった。一応、一枚一枚Michelのカタログ(だと思った)で調べた。殆どが使用済みの切手で私の鑑定は高く見積もって1500円くらいだった。
私はその同僚に言った「この切手の資産価値は殆どゼロに等しい。でもその友達は多分大変な思いをしてこの切手を集めていたかもしれない。その大事な物をあなたにあげた。その気持ちを大切にした方が良い」
松戸で買った切手の事
松戸駅東口のペデストリアンデッキの上に一人おじさんが座って、チケット、コインなどを売っていた。聞くと我孫子から来ているという。冬だったので鼻水をたらして我孫子から松戸まで来たのかと可哀想に思った物だ。奥さんは我孫子の店を運営し、このおじさんは松戸に来て売っていた。同時にこのおじさんは自分のストックブックを持ってきていて、カタログ価の25%で売っていた。それを知ったのはある人がそのおじさんから切手を買っていたからだった。見せて貰うとあるわあるわ、昔先輩のストックブックを見せて貰い感激した事を思い出させた。特に昭和35年以前の切手が充実していた。私は行くたびにそのおじさんから日本切手を買った。最後には買いたい切手が無くなってしまい、その後近づかなくなった。そうそう、このおじさんと話をすると「路上で売っていると万引きが多くてね・・・」と悩んでいた。路上で売っても万引きがどうやって盗むのか興味をひいたが、非常に気の毒に思った。
この時期が私にとってもっとも切手のコレクションが充実した頃だったと思う。
この後、1996年に私は香港に発つ

第七期-香港と中国切手(切手の真贋について)

香港に常駐になり殆ど香港にいられない程、私は中国を飛び回っていた。
ある日武漢の街の郵便局の周りに切手市が立っていた。覗くとあるよあるよ!切手がたくさんあるよ。
ただ、ざっと見た感じ切手の扱いがぞんざいで、とても売り物とは思えなかった。
同時に切手の相場表みたいな紙が出回っていて、売る際は二級品であろうと三級品であろうとその金額以下では売ろうとしない。私の幼い相場観で見ても仮に1/3の値段だとしても、買う事を躊躇うレベル。また仮に買うレベルまで値下げが成功したとしても、真贋が当てにならない。私は1980年発行の申切手を買おうか買うまいか悩んでいた。申はすでにその当時は高い値がついていたが、あれも結構贋作が多い。ひどいのになるとカラーコピーしたものだったりする。仮に始めてその切手を見た初心者であったら多分分からないだろう。
ルーペで見ても外のこの喧噪の中では、ゆっくり確認出来ない。私は無理して買う必要はないと思い断念した。

この時思ったのが、気温や湿度の問題もあって、良い中国切手を欲しいと思ったら、皮肉にも中国では見つからない事だ。コレクターばかりでなく切手商の保存状態や扱いが非常に悪い。もし買うのなら西洋人が保存していた切手を買うに限る。となるとアメリカで買うか、場合によってはそれを取引をしている日本の業者で買うかだ。
香港の屋外切手屋さん
香港のCauseway Bayには夕方になると街の片隅で切手を売り始める人が居た。
文革切手の使用済みを売っていたので金額を聞いてみたら、随分高いことを言われた。多分値下げ交渉はある程度は対応するだろうが、私の値踏みはどう考えても半額以下。一応聞いては見たが、ダメダメと手を振られてしまった。こういう店では買わない事が大事だと思う。
切手の真贋について
これは浅岡スタンプの浅岡さんから教わった事だが、切手を始め骨董品の真贋について非常に大切なことがあるという。
どういう事かというとつまり出所の不明の品物は信用出来ないという事である。これが真贋を見分ける必要条件になる(十分条件ではない)。つまり、希少価値の切手があるとする。これを例えば誰かが売りに来たとする。買い取りをする人はそうそうは全ての切手について熟知している訳じゃない。
従って、こういう質問を投げかける
「この切手はどこで手に入れた物ですか」
この質問にしっかりと答えられれば、半分合格である。つまり、高額で希少価値のある切手はそんなにたくさん世の中にある訳では無い。従って、大手の切手商や著名収集家が大抵持つことになる。逆に言えば、街のチケットショップやフリマなどには先ず間違えても流れたりはしない。
そうなると、氏素性の分からない人を経過した切手は先ず信用出来ない事になる。
真贋見分けの第一歩-1
真贋を見分けるには先ず切手に馴染むことであるという。そして何度も見て触って見ること。本物を知る内に低レベルのコピー贋作には引っかかる事は無くなる。
ただし、それ以上のレベルになると結構難しいのだそうだ。
実際、浅岡さん自身も過去に孫文のエラー切手(孫文の肖像がが逆さまに描かれている)に騙されてしまった事があるそうだ。その騙されたという切手を見せてくれた。本当に精巧に出来ているが二枚の切手を貼り合わせて贋作としたものらしい。それ一枚で何百万円だと言っていたと思うが、驚いた。
真贋見分けの第一歩-2
中国で贋作切手の見分け方の本を見つけたことがある。これによれば贋作手法のもっともポピュラーな手法としてカラーコピーを挙げていた。少なくともコピーに騙されないためにはルーペで拡大して見る事だと思う。贋作は文字が滲んだり潰れている場合が多く、色が塗られている部分に不自然なドットが見られる。これも何度も本物を見て馴染む事によって、贋作に出遭ったときに判断出来る子とであろう。
真贋見分けの第一歩-3
フリマなどで高額切手に出会えるなんて思ってはいけない。先述したようにああいった場所に掘り出し物はないと考えた方が良い。お金と時間の無駄である。
真贋見分けの第一歩-4
骨董品も同じだが、その切手本来の価値以下の値段では決して売られる事はない。
切手本来の価値の説明が難しいが、カタログ価格ではなく、実勢相場だと思って頂いた方が良い。従って高額切手において掘り出し物というのはあり得ないという事になる。例えば、一年前、ヤフオクで中国切手「全国の山河は赤一色」の所謂不発行の切手が出品されていた。1000円からスタートしていたが、そもそもこの切手がヤフオクで出品される道理が無い。また出品者の出品経歴も非常に少ない。どう考えてもクロだろうなあ・・・と思った。
ただ、模刻品として欲しいとは思う。
ヤフオクでニセ物を掴まないとは限らない。
ニセ物と言っても、模造、変造、参考品、偽造と色々とある。さらに切手経済社という用語が出てきたら本物だと思ってはいけない。そもそも月に雁と見返り美人が交互に入っている小型シートなど本物である筈がない。模造品なので悪質ではないが、冗談として手を出すのだとしたら分からないでもないけれども・・・
真贋見分けの第一歩-5
リパーフについて
穴を開ける事を英語でPerforate(パーフォレート)と言う。目打ちをあける事もPerforate
もう一度目打ちをあける事をRe-Perforateという事になり、名詞形はRePerforation略して Reperf.(リパーフ)
つまり、切手用語で(リパーフ)Reperf.とは人為的に目打ちを打ち直す事(再目打ち)をさし、変造の意味を持つ。
しかしながらこのReperf.は技術が必要らしく簡単ではないらしい。
2CHの切手のコーナーの評価を見ていると、ヤフオクで出品された中に、リパーフの疑いが持たれた切手もあった。
大阪のある会社の社長が経費節減の為、普通切手をコピーして使用し逮捕された事件があった。80円一枚の偽造の為に一時間掛かったというから、全く馬鹿馬鹿しい話だと思う。あまりに効率が悪い為、大阪の社長の事件以外は低額切手のリパーフの話はあまり聞いたことが無い。

ただ、今から7年くらい前に韓国で大がかりな日本の収入印紙と日本切手の偽造が摘発された事があった。グループには元造幣局職員や印刷のプロが居たと言われていて、それは精巧なものだったそうだ。ただ残るは目打ちだが、これも精巧に目打ちを行うための機械も購入したのだとか・・・考えてみればこういう手合いに作られた偽造切手や偽造収入印紙をいつのまにか知らない内に金券ショップで買ってしまい、使用していたという事はあり得る。困ったものだ。

話は横道に逸れたが、ヤフオクなどで高額の切手を落札したいと思った時に、目打ちを見ることがポイントになるという意味です。本物の目打ちはどういう状態で打たれているのか、間隔はどうなのか?例外はあるのか無いのかなどです。また、シーザーカット(鋏で切って)リパーフ(再目打ち)するケースもあるので、その場合は縦横の長さが変わる、つまり目打ちが少なくなる現象が現れます。高額の切手をヤフオクで買うと細かく調べられないのでリスクも大きい。高額切手はなるべくならしっかりした切手商で買う方がベターだと思います。
くれぐれも、欲得に目がくらんで冷静さを失わない事です。
そして出来ればよく知らない物には手を出さない事だと思います。
初版と再版
真贋とは異なるが、中国切手の初版と再版で値段が異なる切手がある。例えば1951年に発行された中国共産党30年記念の毛沢東の肖像画切手(紀9)。これは初版と再版で紙の厚み・堅さが異なる。初版は薄く硬い、再版は厚く柔らかいと言われる。また三色の内赤の再版は赤が濃いと言われる(実は私もまだ良くつかめていない)。これはやはり本物を触って何度も確かめていかないと感覚的に分からないのだろう。

第八期-金券ショップにみる記念切手の価値の現実

香港常駐を終え帰国後、松戸駅付近の金券ショップなどに売られている日本の記念切手の金額に驚いた。完全に額面割れしていたからだ。ブームだった1970年前途とそれ以降の切手は殆ど全滅、よくよく見ていくと1965年以降の切手の殆どは骨董品ではなくなっていて、殆どが買い取りしてもらえない切手。仮に金券ショップなどで買い取るとしたら額面の70-80%くらいでないと買い取ってもらえない感じである。
つまり子供の頃額面50円で買った記念切手が、35円程度でした買ってもらえない事になる。金額的には70%-80%になったと言えるが、当時の物価を考えると価値が半額以下になってしまったと言っても過言では無い。封書に貼って使う用途しかありません・・・という事になる。

友達の間でブームになって将来への投資だと固く信じて買っていたあの切手収集は一体全体何だったのか?
愕然とする。
当時、昭和30年以前の切手に手を出していた同級生が居たとしたら、今でもそれなりの金額は維持している様だが、それでも物価上昇を考えると相当値下がったという感じになると思う。
ただこの傾向はすでに20年前からあった様だけど・・・そういえば、切手業者から切手を買うと何故か封筒に記念切手が貼られて来ていた。それを見た妹は収集心をくすぐるね・・・と言っていた。しかしながら、あれはすでに額面以上の価値が無いと見なされていた事を表していたのかも知れない。

度々、同僚、同級生、友達などから「子供の頃に集めていた記念切手を切手業者に買い取って貰ったらいくらくらいになるかなあ」相談される事があった。私は辛いようだが、それの殆どが額面割れだと思うよと言うと、みんながっかりする。でもそれが現実だから仕方が無い。

第六期の頃JAPEX他の切手ショーを見に行った話を書いた。あのショーはどちらかというと子供相手の印象が強いと思って会場に行ったのだ。ところが行ってみてびっくり、子供の姿は殆ど無くて居るのは爺さんばかりという感じだった。青年の姿も殆ど無い。という事はあの爺さん達が他界したら切手収集をする人自体が希少価値になってしまう。先細りの業界という事になる。何とも寂しい。もはや子供達は切手収集などしないのだ。
もっとも昔のお凹版印刷の切手に比べれば今のドラえもんの切手などストックブックに入れる気持ちにもならない。

もはや日本切手は戦前の切手を除き殆ど投資の対象にはなっていない。
松戸の皆さんも金券ショップに行って、記念切手の現実を見て下さい。

118 物売り、御用聞き

昭和30年代は近所にスーパーが無かった時代で、色々な物売りが来て我々の買い物の手間を省いてくれた。
一番良く覚えているのが豆腐屋さんだった。我が家の近くに来たのは小根本の埼玉屋さんで、木製だったかアルマイトだったか忘れたが、豆腐の入った大きくて四角いお櫃の様な箱を自転車の荷台に載せて来た。ハンチング帽を被ったおじさんがラッパでプープーと二階調で吹きながらやってくる。お得意さんの家の近くに来るとゆっくりになり、場合によっては待っていてくれる。ボールに水を張っていき買うので、ゆっくりいかないといけないし、勿論走れない。子供が買いに行っても十分間に合うタイミングだ。今から思えばノンビリした時代だった。埼玉屋さんは小根本の風呂屋の比較的近い場所にあった。埼玉屋さんの近くには貸本屋もあった。10年くらい前に近くに行ってみたが、様子が変わっていて埼玉屋さんは無くなっていた。
その他納豆売りのおじさんも来ていた。この納豆売りは朝、早い時間にやってくる。確か午前6時頃だったと思う。お椀があればお椀に飯杓子の様なへらですくい入れてくれたが、無い場合は、経木(きょうぎ)に包み入れてくれた。「からしは?」と聞かれるので「はい」と言うと山盛りで入れてくれた。単なる粉からしを練ったものなんだけど、何となく粒が粗くてザラザラして特別の感じがした。この納豆売りの納豆は粘りも強く好みだった。根本の内山医院の隣の納豆工場で作っていた”たまご納豆”は発酵が弱いのか、粘りが出なくてあまり好みではなかった。この工場の納豆は根本のお化け屋(豊田商店)で販売されていた。
また、富山の薬売りも来ていた。置き薬の箱に使った分を補充しその分の料金を払う仕組みになっていた。子供が居ると紙風船をくれた。薬も所謂市販の薬と若干商品名が違うものが入っていた。ケロリンの様でケロリンでない薬や正露丸のようで正露丸でない薬・・・でもどんな名前だったか良く覚えていない。富山の薬売りはネットワークが出来ているのか顧客が重なることはなかったようだ。嘗て、現在のインペリアルマンション(松戸市竹ヶ花)の先に保健所があった。その保健所の手前にFさん宅があるが、そこが富山の薬売りの指定宿泊所のような形で利用されていた。又、栄町に住む友人宅にも富山の薬売りが昭和50-60年代まで来ていたらしいが、置き薬をやってくれる店が一軒また一軒と減り地域で我が友人の家だけになってしまったらしく、効率の問題から薬売りも来ることを断念したという話を聞いたことがあった。
物干し竿の販売もあった。彼等は昭和60年以降に来ていた記憶があるが「竿や青竹・・・・」と良いながらやってくる。
焼き芋売りは以前はリヤカーで来ていたが、ある頃から軽自動車などに乗せてくるようになった。「おいもだよ、おいしいおいしい、おいもだよ」と良いながらやってきた。

車の野菜売りも平成になっても来ていたが、十数年前から来なくなった。あの野菜売りはかけ声が何を言っているのかよく分からなかった記憶があった。ただ、我が家には白井市の農家のおばちゃんが米や野菜を売りに来る。おばちゃんはいまだに来ていたと思う。
酒は雷電神社よりも先の高崎酒店で御用聞きに来ていた。彼等は定期的に酒を運んでくる。ただ彼等にも酒を持ってくるペースがあるらしく、速いペースになると「最近お酒を飲む量が増えていませんか?親爺さん大丈夫ですか?」などと言われたりした。高崎酒店は周辺の土地をかなり持った土地持ちだった。確か河合肉屋さんも高崎さんが家主だったと思う。ところがバブル崩壊後お店が無くなってしまった。風の噂では”不動産で・・・”という話を聞いた。

今から思えば、どのお店も非常に便利だったと思うのだけど、スーパーが出来て以降、我々の買い物の仕方が変わってしまった。物売りの人達が居なくなったことを寂しいとは思うが、それは自分たちがそうしてしまったと思うと残念でならない。今の時代になると必ずしもスーパー全盛ともいえない時代になってきているように思う。というのは老人の比率が増えて、彼等はネット販売を利用する事も出来ないので、御用聞きの助けを必要としている。理容院、美容院も御用聞きが必要な時代になってきている。


松戸に住む知人からコメントがあり、我が家にはこんな物売りが来ていたよとの事です

「玄米パンの焼〜きたて〜
石焼芋のほっかほか〜、あつくておいしい焼き芋はいかがですか〜
焼き芋とう〜もろこし さあ、いらっしゃい、おいしいですよ〜
網戸の修理はいかがですか〜 1枚1400円から、見積もり無料〜」


又この知人が東京にお住まいだった頃、ロバのパン屋というのがあったらしい。珍しいですね!
「ロバのパンが来た。ロバの人形が車に乗っていたかなー、玄米に粒アンが入っていてこおばしかった」

コメントありがとうございます。

117 伝書鳩の流行

小学6年生の頃、松戸で伝書鳩を飼うことが流行した。いや、世間としては勿論もっと以前から流行していたとは思うが、少なくとも私の友人関係では6年生くらいからだったと思う。当時は、本当に多くの人が鳩を飼っていて、空を眺めると鳩が何十羽も群れを為し飛んでいた。あれは訓練目的だったはずだが、見ると本当にワクワクしたものだった。
群れと群れが合流しないものかとか訳が分からなくなってしまわないものなのか?とか色々な事を思い巡らせながら空を見上げていた物だ。上本郷や松戸新田などに行くと鳩小屋とは思えないくらい大きな鳩小屋を造っている人が居て、それはそれは大層立派なものだった。多分かなり出費もしたのではないだろうか?

私の友人の中では、南花島に住んでいた野々下君、三堀君が先行して飼っていて非常に立派な鳩小屋を持っていた。
古ヶ崎のジャイアンも立派な鳩小屋を持っていたが、それは三堀君や野々下君よりはかなり後に作られたものだったと思う。古ヶ崎のジャイアン君は大工を入れて作ったらしいという話は聞いたことがある。お金のある人は違うね。

みんな楽しそうに鳩を飼っている、言わばかなり刺激ある状況の中で私も強く鳩を飼ってみたくなった。だからと言って、鳩小屋を造るお金も材料も無い。となるとタダの材料をどこかに調達しにいかないとならない。
当時は、電気製品の梱包材を段ボールではなく、木枠を使って梱包していたものだった。それが案外空き地などに無造作に捨てられている事も多かった。今ではまず見つからないけれど・・・

ある日比較的しっかりした直方体のちょうど良い木箱が見つかった。これだったら広い面に金網を張れば大方格好が付く理想的な箱だった。とはいえ、屋根も作らないといけないし、鳩小屋内にアプローチする為の扉や鳩が出入りをするパタンコという吊り金物の付いた出入り口そして、パタンコから中に入るときのお立ち台も作らないといけない。
パタンコは外から中に入れるが、中からは外に出られない構造になっている丸鋼をぶら下げてあるものだ。
これは中々私には無理だという事で父に手伝って貰い(というよりは殆どが父主導で)鳩小屋が完成した。
これを裏庭の庇の上にセットした。
      伝書鳩こぼれ話(鳩小屋のサイズ):結局、我が家の鳩小屋のサイズは家電製品の梱包木材を使った関係で、家電製品の大きさを超えないサイズで、最終的にはもう一つ庭の片隅に作った。合計二つだ。ちょうど現在の実家の台所がある辺りだった。風早神社付近を歩くと本当に大きな鳩小屋を造っている人が居た。あそこまで行けば小屋とは言えず鳩舎という事になると思う。
サイズにして二畳くらいの広さはあり、それが二段構えになっていたと思う。中がどうなっているのか一度見たかったがそういう機会は無かった。そうそう、竹の根商店会の調査をしていた頃、八百屋さん跡だったか魚屋さん跡であったか忘れたが、鳩を飼っている家があった。鳩を飼っている家を見るとほっとするし、何だかほのぼのするものだ。妻の実家に度々訪れるがその実家の隣にも鳩を飼っている家があった。
上図はパタンコの構造で鳩は外から中に入れるが、中から外には出られない構造。

ただしこういう構造が故にパタンコにロックが無いと

ネコ、ネズミ、イタチ、テンなどに入られてしまったら、鳩は逃げようが無い。

さて、殆ど父親が作ってくれたものの、やっと鳩小屋が完成した。ところがまだ鳩が居ない。
つまり単なる”小屋”でしかない。
そこで鳩を飼っている友達にもらいに行く事になる。鳩は繁殖力が旺盛で、あっという間に増えるせいか案外みんな快くくれるものだ(と言っても鳩にも優秀なのとそうでないのがいる訳で、良い鳩をもらえるという訳にはいかないが、そんな贅沢を言ってはいけない。ありがたく頂戴するのが礼儀である)。
私は南花島の三堀君に「頂戴!」をしに行った。彼は快く「いいよ!」と言って、黒ごまの雄鳩をくれた。
黒ごまは全体が黒色基調で白いゴマ模様が入っている。これにニビキと言われる翼に二本線が入ったものと混ざる場合もある。
似たもので灰ゴマというのもある。
とにかく私の記念すべき一番最初の鳩はこの黒ゴマとなった。
      伝書鳩こぼれ話(給水器):水飲み用の便利な道具に給水器がある。飲み場に水の入った瓶が逆さに挿してあって、サイホン式で飲んで水が減るとその分水が注がれる様になっている。この様子を見ると鳩の水飲みの生態が分かる。普通の小鳥などは水をすくい上げて飲むが、鳩は頭を水飲みに下げたまま水をごくごくと飲む。

雄一匹の鳩小屋も良いが何となく寂しい。
目指すは何十羽で大空を飛んで貰いたい状態だ。でもそれを実現するには鳩に子供を産んで貰って増えていかないとならない。そこで雌が必要。雌をくれる友達は流石にいなかたので、自分で買わざるを得なかった。そこで私は近所の浅間鳥獣店に行って買う事にした。ここで買ったのは栗色の栗ゴマだった。
黒ゴマと栗のつがいが巣を作るためのボールも買った。ボールは白い石膏で出来た鉢である。
鳩小屋はとかく糞で床が汚くなるのでなるべくこまめに掃除しないとならない。
床を上段を網、下段を引き出し式にしておけば良かったのだろうが、そうもいかず、掃除が中々大変だった。
また、鳩はきれい好きで、同時に羽虫もたかるからか水浴びが好きだった。
この写真は我が鳩小屋の中を見た記念すべき写真。上には雄が、下には雌がヒナを抱えている。

最初の黒ゴマは何故か栗とつがいにならなかったが、次の雄でつがいになった。
そしていつの日か卵を産む日が来た。雌が卵を産んだときは本当に嬉しかった。
いつかえるのか、いつかえるのか毎日のように見に行った。
そしてヒナが産まれた。ヒナが産まれた時は本当に嬉しかった。
脚環(あしかん):ヒナが生まれるとしなければならないことがある。
それは脚環(あしかん)を嵌める作業だ。脚環(あしかん)は鳩を売っている店であれば大抵売っていた。浅間鳥獣店でも売っていた。
実はこのタイミングが大切。黄色い産毛が生えている頃では脚に嵌めても取れてしまう。黄色い産毛から徐々に黒い羽のようなものが出始めた一週間経った頃に嵌める。早すぎると外れてしまうし、あまり成長しすぎると脚に入らない。鳩の前指三本を掴んで脚環に通し、残る後指を引っ張り出す。まだ若い内は後指は柔軟で柔らかいので問題が無いが、成長すると段々硬くなる。成長してしまうと入らなくなる。脚環が無くて、迷い鳩になるとドバトにならざるを得ない。

脚環(あしかん)を通したら、一緒に添付されていた番号が書いてある所有者証に住所名前等を書き、伝書鳩の協会に送り登録する。
これは伝書鳩を飼う立場としてどうしても通らなければいけない道だと当時は考えていたが、実は将来レースを希望する場合や鳩が迷子になった場合に識別する為に必要なもので、後者の場合は果たして戻ってくるのか疑問だ。勿論、伝書鳩の協会に迷い鳩を届けてくれる人がいれば、飼い主にその鳩が戻ってくるかもしれないが、そこまでする人が居たのか居るのか何とも言えない。
そもそも迷い鳩になるような鳩はあまり頭の良くない鳩なので、伝書鳩としては今一な鳩なのだけれど、やはり持ち頭数が少ないと困ってしまうと言う事はあった。
      伝書鳩こぼれ話(脚環とドバト):浅草の浅草寺やその他の寺に行くと鳩が多い。鳩が居るとどうしても脚を見てしまう。伝書鳩が流行していた頃はそれらの鳩の中に脚環を付けた鳩が混じっていたものだ。多分迷い鳩で、この寺の群れの中に紛れ込んだのだろう。現在、寺の鳩を見ても脚環をしている鳩は先ずいない。迷い鳩になるような鳩は基本的にはレース鳩にはなれないと考えられるが、飼っている数も少なく、愛着のある鳩だと、優秀か出来が悪いかという事は度外視して、自分の元に返ってきて欲しいと願う。多分親が子を思う気持ちに近く、客観性は無いと思う。

馬橋のお店の単なるイメージです。店名は忘れました。
鳩の餌:6年生の頃は浅間鳥獣店で餌を買っていた。すでに配合してある餌でコーン、菜種など色々な物がビニールにパック詰めされている。あれは中学一年生の頃だったろうか、古ヶ崎のメガネザル君が「鳩の餌だったら、馬橋に良い店がありますぜ」と言うので、自転車で馬橋まで行った。確かあの時はAKさんも一緒だったと思う。AKさんも鳩を飼って居た。
お店に行くとそれは驚いた。それぞれの豆類がすべて別々になっていて、自分の好みで配合の比率を変えることが出来る、言わば鳩の餌のプロ仕様のお店・・・と言った感じだった。圧倒された。正直な話、何をどのくらいの比率と言われても私にはさっぱり分からなかった。その後一度二度はその店に行ったと思うが、結局浅間鳥獣店に戻り鳩餌を買っていた。
馬橋のお店は現在訪れても何処だったのかさっぱり分からない。AKさんと一緒に普通の農家の様な家の前歩いて、この辺ではないか?と言いながら歩いたがどうも分からなかった。私の記憶では馬橋の駅前通りの途中だた様な気がするが、曖昧で分からない。多分、メガネザル君だったら覚えているが、彼は今は古ヶ崎に居ない。
鳩の訓練:鳩は所謂帰巣本能があり、自分の巣に戻る能力がある。それを利用して伝書鳩としている訳だ。
自分の家で産まれた鳩は飛ばせば我が家の鳩小屋に戻っては来るが、友達からもらった鳩は暫くの間は外に放す事が出来ない。友達の家に戻ってしまうからだ。およそ半年から一年くらいは我慢しなければならない。半年ではやはり短いかなあ・・・
ある時に最初に友達からもらった黒ゴマを訓練の為放す事にした。最初は鳩小屋の周りで様子を見た。そうしたら、特に元の友達の家に行ってしまう風でも無かったので、遠距離訓練に入る事にした。黒ゴマを鳩のバスケットに入れて連れて行く。マニュアルによれば最初は100メートル次は300メートル次は一キロ先と徐々に放す場所を遠くしていくとある。私は先ずは市役所の屋上(だと思う)に行き黒ゴマを放した。我が家で楽しみに待っていた。遅くても数時間で戻ると思った。ところが待てど暮らせど戻ってこない。諦め始めた三日目くらいにやっと黒ゴマは戻ってきた。それにしても300メートル程度で三日もかかるようだと先が思いやられる。そう思った物だ。
      伝書鳩こぼれ話(鳩の飼育禁止) :伝書鳩の流行は我々が中学生の頃がピークだった様だ。知人によると放鳩訓練で自転車遠征していた同級生が不幸にも交通事故に遭った。それ以降、学校で鳩を飼うことが禁止された。ただ、私はこの飼育禁止令が出る前に飼育はやめていたと思う。何故ならあまり記憶がないからだ。この飼育禁止令で同級生の殆どが鳩飼育をやめた。

ネズミとの戦い:結局訓練は中々思うように行かなかったが、鳩を飼う生活は楽しい物だ。
ヒナが産まれ、果たして何羽になった頃だったろうか?小屋も拡張しなければいけないなあと思っていた頃だった。ある日、鳩小屋の下部(上図参照)にネズミの巣が出来ている事に気がついた。この場所は鳩の羽根、糞、餌が落ちてくる場所でゴミだまりになっていたのだが、餌もあるし羽根もあるし巣を作るのには絶好の場所だったに違いない。どうやらネズミの子供も居たらしい。私は鳩がおそわれる事を心配して、ある日ネズミの巣を全て綺麗にはき出してしまった。これで一安心だと思った。
ところがその晩ある事件が起こった。
翌朝、鳩に餌を補給しようと見に行くと、鳩のヒナが首を一噛みされて死んでいた。本当に一噛みという感じだった。それでヒナを食べるというのではない。ただ、殺されたという状態だった。
当初はこれがまさか巣を奪われ、子供を奪われたネズミの復讐だとは夢にも思わなかった。
親鳩の栗に聞いてみたが、栗は鳩が豆鉄砲をくらった様な目をして、ただ、虚空を見つめているのみ。当然ながら何も答えてくれない。変だな?と思いつつもその日は死んだヒナを処理して、学校に行った。
そして翌朝、再び同じくヒナがやられ、そして翌々朝今度は親鳩の栗がやられた。この時になって始めてこれがネズミの復讐だという事が分かった。遅きに失するという状態だ。
とにかく翌日から鳩を全て籠に入れて避難させた。一週間以上経ってから、元の小屋に戻したが流石にそれ以上は何も起きなかった。
ネズミは怖いと思ったがやはりネズミだって自分の子供は可愛い。
自分の城を破壊され、自分の子供を奪われて喜ぶ親が何処の世界にいようか?

ネズミが人から嫌がられようが、親は親。
この頃から動物を飼う事への認識が変わったように思う。
又命ある動物を扱う、飼育するという事がいかにデリケートで難しいのかということを考えるようになった。

      伝書鳩こぼれ話(帰巣本能):知人が鳩飼育をやめるため、松戸駅東口の扇屋屋上にあったペットショップに鳩を売りに行ったそうだ。その後、彼は鳩小屋を処分した。鳩小屋が無くなって暫くして、売った筈の鳩が全て知人宅に戻ってきたらしい。帰ってきたのに入る小屋が無い。知人はこの姿に涙が出たそうだ。その内、近所で鳩の被害があったらしく、鳩の駆除が始まっていた。その内に鳩も居なくなった。
      伝書鳩こぼれ話(農薬) :すでに伝書鳩が下火になった頃だと思うが、古ヶ崎のメガネザル君が「大変だ大変だ!大変な事が起きた。一緒に行こう」という。何だと思って付いていくと、多分古ヶ崎か栄町の農家だったと思うが、鳩が大量死して地面に転がっていた。20-30羽は居たと思う。「どうしたの?」と聞くと「どうやら鳩が農薬を食べてしまったらしい」という。それまで農薬の危険性は聞いては居たが、ここまで恐ろしいとは思わなかった。
      伝書鳩こぼれ話(新聞と伝書鳩) :通信社、新聞会社における伝書鳩の利用は第一次世界大戦の頃、陸軍から借りた軍用鳩を使うことから始まっているらしい。通信手段の発達と共に1960年代まで伝書鳩は使われたらしい。共同通信社では共同331号と呼ばれ今でも剥製として玄関近くに飾られているらしい。
いつだったか通信社が使った伝書鳩の裏話を聞いたことがあった。静岡方面から放鳩をし東京の鳩舎に戻る場合の難関があって、箱根の山だったそうだ。それは高さの問題ではなく、大鷹などの鳥に襲われてしまう事があったそうだ。五羽のうち一羽くらい戻ってこないのが居たという話があった。
      伝書鳩こぼれ話(磁気嵐) :地上の磁気嵐の影響で鳩が戻れないことがあるらしい。
ウィキペディアによれば1970年以降帰巣率が非常に落ちていると書かれている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/伝書鳩
「原因は主に猛禽類の大増殖説・携帯電話の電磁波影響説(1990年代後半からいわれるようになってきた)・育種上外来種偏重かつスピード重視の改良が横行した結果の3つが言われている」だそうである。
もしかするとカラスが増えた事が原因しているような気がする。
      伝書鳩こぼれ話(流行の開始) :東京オリンピック開会式における平和の象徴、放鳩セレモニーはその後映画東京オリンピックで見ても感動的な場面だったが、どうやら戦後の伝書鳩飼育の流行はそのタイミングに端を発しているらしい。ウィキペディアによれば1969年をピーク(年間脚環登録羽数は400万羽弱)に減少傾向にあるらしい。私もこのピークの頃に伝書鳩をやめたことになる。
      伝書鳩こぼれ話(鳩の手づかみ) :同僚のバンバンさんが幼少の頃、群馬県に住んでいたそうだ、ある日渋谷のハチ公広場付近にハトが多いことを知ったバンバンさんはバスケットを持って鳩を捕まえに行ったそうだ。手掴みで捕獲するらしいが大したものだ。ただ、それを見ていたおじさんから「そんなことをしちゃいけないよ」と叱られたらしい。
      伝書鳩こぼれ話(河川敷で活動する人の話) :
河川敷は釣り人が捨てていった針、釣り糸などがよく落ちているものだ。実はこの針を飲み込んでしまったり脚などに糸が巻き付いてしまったハトが多いと言う。この鳩を捕まえ飲み込んだ針や絡まった糸から解放させてあげようという人がいる。どうやって捕まえるのか見ていると素手で手掴みだった。素早く目がけた鳩にパッと腕を振り下ろす。この方法を見た時、バンバンさんの事を思い出した。

116栄町の商店街は人がごった返していた

同級生のAKさんと栄町商店街の衰退について憂慮し、どうしてこうなったのか?どうしたらいいのか?色々と議論を重ねている。
AKさんは非常に熱心に街の事を考え、何とかならないだろうか知恵を絞っている。
こんな話をし始めてから早7年は経つだろうか?

最初は栄町の街を歩きながら、在りし日の姿をイメージしながら聞いた。
当時、AKさんは”栄町の商店街が非常に混雑していて、まっすぐ歩けなかった”といった。テレビの朝番組でも放送されたらしい。
その話を聞いてから、どこかにそんな資料が無いか随分探し、昔の住宅地図も調べた。
昔の住宅地図を見ると栄町商店街にはたくさんのお店が所狭しと集まっていたのには驚いた。
活気のある商店街は魚屋八百屋が軒を並べていても商売になる。
むしろ競争し、お客さんも増えるらしい。
朝市の始まる合図に花火も上がったという話も聞いたことがある。
そういえば母もわざわざ栄町に買いに行ったことがあるといっていた。

ある日、図書館で過去のまつど広報を見ていたら、上の写真を見つけた。昭和59年頃(3月)の記事だ。
売っているおじさんが栄町三丁目と書かれた半天を来ている。三丁目とは具体的に何通りの商店街なのだろうか?
3月だけに寒そうだ。確かに写真を見ると人でごった返していて、これではまっすぐ歩いていけないわな・・・

根本、竹ヶ花、竹の根商店街は寂れてしまって久しいが、旧水戸街道沿いは現在マンションが林立し、嘗て商店街があった事を忘れそうになる。
こんな写真を見て思う。
何とか商店街が復活するきっかけはないのだろうか?・・・と
今でもそう思う。

スーパーが次々に出来たから商店街が衰退したという考え方がある。栄町もマルエツまでは良かったが、ベルクスが出来て以降はかなり商店街が寂れたらしい。その考え方は良く分かる。そして至極もっともらしいと思うのだが、果たしてそれだけだろうか?他の原因は無かったのか?

昭和59年という事は昭和20年生まれの人は39歳、昭和30年生まれの人は29歳という事になる。
多分この栄町商店街で活発に買っていた人達は、昭和10年生まれの49歳から昭和35年生まれの24歳くらいまでの層ではないだろうか?
この写真(昭和59年)から10年後には昭和10年生まれの人は59歳に、20年後には69歳となり、戦前生まれの人から順繰りに徐々に活発な買い物をする人ではなくなっていくだろう。

そして次々の新しい人が生まれいく・・・でその人達は果たして商店街で買い物をしたのだろうか?
もしかしてスーパーマーケットを買い物のメインにした厚い年齢層が徐々に生まれたのかもしれない。
つまり、昭和30年生まれ或いは昭和40年生まれ以降の人は、商店街での店主とのやりとりよりも、スーパーの方が気楽でいいやという人が増えていったのかもしれない。

戦前生まれから昭和30年生まれくらいまでの人が、商店街を支えていたが、その人達が高齢になり買い物の主役でなくなり始めた頃から、商店街が衰退し始めた・・・という一面もあったのではないか?と思うのだが・・・

Kマート栄町店
商業会の発刊した”食品商業”という雑誌1974年9月号に

”目で見る日本のコンビニエンス・ストア”という特集があり、その中に

「北松戸に進出するKマート栄町店、●近くの小売り店に一台衝撃与える」という記事が見つけられる。
それぞれ写真の寸評が面白く感じたので転載させていただきた。

(出版社の方へ、もし著作権上の問題がありましたら、ご連絡いただけましたら削除致しますのでよろしくお願い申し上げます)
Kマート栄町店写真1
記事内寸評 ”青果商出身のCVS(コンビニエンス・ストアの事)はすぐ分かる。なんといっても店頭のバラ売りは改められない(Kマート)”
Kマート栄町店写真2
記事内寸評 ”店頭のバラ売りは基本的に廃止すべきだが、ローカルCVSの場合は当分はやむを得ない(Kマート)”
Kマート栄町店写真3
記事内寸評 ”1日来店客1100人、月商2000万円の店は、たそがれ時、3台のレジが大をふく勢いだ(Kマート)”
Kマート栄町店写真4
記事内寸評 ”雑貨部門はなかなか充実している。だが、どうしてセブンイレブンの感じが出ないのであろう(Kマート)”
Kマート栄町店写真5
記事内寸評”このチェーンの生鮮はなかなか充実してきた。

ランマに美しいサービスサインが出ているのだから、吊りさげ式の売り場案内はやめてもよろしいようだ(Kマート)”

それぞれの寸評を読むと店頭のバラ売り、吊りさげ広告、雑貨の陳列方法は古くさいと酷評している。もっとセブンイレブンの様な近代的なコンビニエンスストアーにした方が良い・・・という方向性が書かれている。
これを見るとNHK連続ドラマ”おしん”でおしんの生魚店を長男がセルフサービス式のスーパーにしようと言って、おしんはスーパーを新装開店したが、レイアウトや店の運営で長男とおしんがぶつかる場面を思い出した。おしんは店頭のバラ売りを継続して商売しようとしたが、理想主義の長男はそういうのはやめて欲しいとぶつかった。
そういう店だったが、人気は上々、売上げも伸びて近所の既存小売店から苦情も来ていた。
このKマートの記事にも”近くの小売り店に一大衝撃与える”とあるが、すでに1974年の頃から小売店に影響を与えるスーパーが栄町に存在していた事になる。とは言うものの、この当時は小売店の自らの努力で何とかしつつ、繁栄の時代を迎えていたように見えた。

2015年現在、松戸駅周辺にあるコンビニエンス・ストアは近代的な店内になっている所ばかりになってきた。むしろ寂しいくらいである。同時に栄町周辺の小売商店は殆ど壊滅的で衰退してしまっているのが寂しい。