表の家

昔日の松戸121-124


124高砂通り

昭和36年頃の高砂通り

(松戸市商店街診断報告書昭和37年3月発行 松戸商工会議所より)
この写真を見て懐かしいと感じる方は昭和30年代以前に生まれた方かもしれません。
これを見て大体どの辺からどちらの方向を見ているか分るでしょうか?
とりあえず謎解きにしておきます。

123ペリカン(上本郷)

何十年前の事だが、松戸駅東口にシャンテリともう一軒ケーキ屋さんが二つほどあった。私はそこのサラバンというケーキが好きだった。ラム酒がかかってペチャペチャとしているんだが、それが何とも言えない。どちらかというとラム酒がしたたっている位の方が美味しいと思った。もう一つ、新京成上本郷駅前の下り坂を下りて、カジ坂に突き当たった辺りにペリカンというケーキ屋さんがあった。外観が白い雰囲気で、ガラスが多い建物だったような記憶があるが定かではない。一度入ったことがあったと思うのだが良く覚えていない。人に聞くとチョコレートケーキやミルフィーユが美味しかったと聞くが果たしてどうだったのか?覚えている人は居ないだろうか?

122 ハゼ釣り


昭和30〜40年代 松戸市民の多くは季節になれば浦安、行徳方面にハゼ釣りに行ったのではないか?
勿論、松戸駅近辺の江戸川でも釣れるには釣れた。しかしながら釣果が全く異なる。浦安付近には釣り糸をたれる人でぎっしり埋まり、自分の場所を確保するのも一苦労だった。
そして皆少なくとも百尾、多い人は何百尾と釣り上げていた。ビクでは足りなくて、バケツに入れっぱなしにした。
考えて見ればすごい時代だった。

私が初めてハゼ釣りをしたのは船釣りで、父に連れて行って貰った。多分、小一前後だったと思う。深川か浅草橋辺りの船宿から出発したと思うが記憶が曖昧。今となっては船釣りとは贅沢と思うが、当時は船釣りをするには私が幼すぎた。
その後、小学校高学年になって磯釣りをするようになってからあの面白さが分かった。行徳か浦安付近だった。
東西線が開通する前だった。多分、総武線の最寄りの駅からバスに乗り、目的の停留所に到着。その後、磯へ延々と歩いて海岸線まで到達する。かなりの距離を歩いた。
途中で川にぶつかったら、左折して河口に向かう。周りの景色は殆ど田んぼだらけで、ガマの穂がたくさんあった。ガマの穂があるという事は多分ネチャネチャの底なし沼みたいな状態だったという事になる。ガマの穂が生えるような場所にはなるべくなら建物を建てない方が良い。
東日本大地震で浦安地区で流動化現象が起きた時に、ふと昭和30〜40年代の浦安行徳の状況を思い出してしまった。ディズニーランド開業以降は、都下の高級リゾートマンションというイメージになったけど、だって、あの地盤じゃね・・・と思っていた。
また、昭和30年代以降、浦安は地盤沈下に悩まされていた。
江東区の工場用水で地下水くみ上げと千葉県の天然ガスの採取が原因だったらしい。ひどいときには年間20センチ沈下だったというから驚く。
(海と浦安、江戸から今へ 郷土史研究家・前田 智幸  
http://www.ichiyomi.co.jp/umi/index1.html
ただ、東日本大震災で流動化現象を起こした以前までは、地盤が悪いから・・・という話をすると、何となく嫉妬で意地悪で言っているように取られそうで、とても言えるものではなかった。そう言った意味で、松戸市の地盤の悪い所もあるのだが・・・
これはあまり具体的には書けないのだが、要するに言える事は江戸時代から大正にかけて人が住んでいなかった場所というのはそれなりの理由があると考えた方が良いとだけ書いておく。
父が持っていた竿がミャク釣り用の竿だった。この為、私はハゼといえばミャク釣りになった。ミャク釣り用の竿とはせいぜい長さが三尺以内の短い竿で、銅が硬く穂先が若干柔らかい先調子のロッドで当たりを感じやすい。手元に糸巻きがあり、穂先に金筒が付いており、糸を中通しする。途中で糸が竿の中を通り穂先からでる。竿穂先には金属のリングがついていて、当たりがあるとその金属の輪でブルブルと震え、手に当たりの感触が伝わる。このブルブルに魅せられて、ハゼ釣りに嵌る人も多いようだ。

当時はハゼの餌としてゴカイを使っていた。イソメが輸入されるようになってからは、アオイソメを使う事も多いらしい。針にゴカイをかけるのも暴れて嫌がるので慣れないと手惑うこともある。また、ゴカイは同じ入れ物に大量に入れておくと絡み合って死んでしまうので、大抵は籾殻のような木の削りくずのようなものと一緒に入っていた。
ゴカイは死ぬと臭かった。餌は途中で調達してきたが、実は河口付近でゴカイが取れ、餌は買う必要がないのだが、松戸から来る我々は、釣る時間も限定されているので買ってくるしかない。
ミャク釣りをしていた当時、ハゼはどうしても餌も針もそのまま飲み込んでしまうので、針外しが必需品だった。ハゼを掴むときはなるべく上の写真の様にエラのところに指を入れて固定させて取りやすい。そういえば8年前に松戸の吉泉の常連と浦安にハゼ釣りにいった。浮子釣りで、仕掛けが違っていて、何故かハゼがそうそうは飲み込まなかった。
私は、昭和三十-四十年代の釣りのイメージで同行したが、あまりに釣れないのには驚いた。
小学校の頃の浦安は入れ食いで、極端に言えば餌が無くても食いついてくるのがハゼだったので、ハゼが釣れない”ハゼ釣り”は経験したことが無かったので、にわかに信じがたかった。どうも、ハゼの餌場が減った事が原因ではないか?と言われた。私には何ともよく分からないが・・・
ハゼは取れないのに蟹が捕れたのには辟易した
私が釣り上げた蟹、

何だか蟹にからかわれている様な気になった。
左上がスピニング式のリール、右下がタイコ式のリール
当時はそう何度も浦安、行徳にいける訳でもなかったので、友人達と度々江戸川でハゼ釣りをした。
大抵は古ヶ崎のメガネザル君、ジャイアン君、AKさんも居たと思う。
江戸川では大抵リールによる投げ釣りか延べ竿で浮子を使って釣った。
江戸川で釣れるハゼは大抵、ダボハゼだった記憶がある。ダボハゼは小型のハゼの総称らしが、関東では実はチチブという別名を持つ魚らしい。ただ、当時はダボハゼという名称の魚がいるのだと思っていた。
メガネザル君から
「それダボハゼですぜ」と言われがっかりする。
ダボハゼが取れると大抵キャッチ&リリースで川に返した。

ただ、メガネザル君は一緒に釣りに行ってもやる気があるのか無いのか分からないところがあり、釣りを真剣にはやらなくて、遊んで邪魔をしにきたようなものだった。反面、道具への執着は強く、盛んに
「リールはやはりオリムピックが良いですぜ」みたいな事を何度も言われた。
私が持っていたリールはスピニング式のリールだったが、メガネザル君は
「買うならオリムピックのタイコリールがいいですぜ」と言われた。
オーディオの話になると
「テープデッキならカセットよりもオープンリールですぜ」と言われた。
どうも彼は金の掛かる事ばかり考えていたような節がある。ただ、強引に押しつける様な事まではしないので、メガネザル君はある意味安心な存在だった。
そういえば、同級生のAKさん、メガネザル君、ジャイアン、ツルちゃんなどで自転車でツーリングしながら行徳まで遠征してハゼ釣りに行っていたらしい(私も一度同行したことがあった)。AKさんによれば、メガネザル君はリールを投げ込んでばかりで、全然やる気があるのか無いのか分からなかったと言っていた。どうやらメガネザル君はいつもあのスタンスだったようだ。
海の中を見ると熱帯魚(エンジェルフィッシュの様な魚)が泳いでいて、非常に興味深かった。
それを見て、川とは泳ぐ魚も随分と違う物だと思った。
当時はまだ湾岸線が出来る前で、埋め立て地も海に向けて空がすっきりと抜けていた。ただ、左前面の京葉工業地帯で煙突からモクモクと煙を出している眺めを見るというのは、あまり気持ちの良いものではなかった。
昭和四十年代は大気汚染・水質汚染による公害が深刻になってきた時代で、どちらかというと末期に近かったのじゃないかと思う。
当時、ラルフ・ネーダーというアメリカの弁護士であり社会運動家が、読売新聞のコラムに毎日のように公害の実態を訴え、警鐘をならしていた頃だった。我々にとって一番身近だったのは、新坂川や坂川の水質汚染だった。
昭和45年前後には新坂川には魚の住めるような状態でなく、なによりも水が臭かった。当時は何もかも北松戸の工業地帯の排水が原因だと思っていたが、衛星都市化による人口増加と生活排水の直接放流での汚染がバカにならなかった。
話がラルフ・ネーダーに戻るが、彼は光化学スモッグ、四日市喘息、田子の浦のヘドロ、水俣病など、ありとあらゆる公害について述べていた。
それはただ、現実を受け入れるしか無いのだと思っていた。そしてそれは、将来もっと海や川や空が綺麗になっていくなんて・・・想像も出来なかった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ラルフ・ネーダー
そして、奇形ハゼが新聞で話題になった。調べるとすでに昭和三十年代から奇形ハゼは出ていたらしい。勿論それを深刻に受け止めていた人達も多くいたとは思うが、大きな社会問題として、私にまでは伝わったのは昭和44-45年頃だったと思う。あの奇形ハゼのニュース以降、ハゼを食べる事はやめた。そして、食用という意味でのハゼに関して、背を向け封印したまま何十年と経った。

121 「死に金は使うな、生き金を使え」-メダルゲーム編

初めてメダルゲームに触れたのはいつの事だったのか・・・
正確には覚えていないが、伊東のハトヤに家族でいった時だったと思う。妹が居たので多分中学生の頃かな?
所謂メダル落とし。ゲーム機の中にはたくさんのメダルが置かれていて、それに手持ちのメダルを投入する事によってメダルを押し出すゲームで、正式一般名称は”プッシャー”
家族で遊んで結構楽しかったのを覚えている。
その後暫くはメダルゲームはしていなかったと思う。
大学生の頃同級生に誘われて新宿に行き、新宿のミラノ座横にあったゲーム・ファンタジアに入った。友達がスロットマシーンで遊ぶのをただ隣で見ていた。当時シグマ社が経営するゲーム・ファンタジアはメダルの貸し出し料金も高額で、確か最低が300円で10枚だったので、私はプレイせず友達がいくらかプレイをし、あっという間に無くなった。店内は綺麗で、従業員も赤と黒のチェックの制服を着用、高級志向で、どのゲーム機も魅力的に作られ非常に刺激的な印象を受けたのは間違いない。
この時はゲームをしなかったが、メダルゲームに嵌った原点を問われれば、この時だったような気がする。多分私はその時にかなりゲームをしたかったのだと思う。
抑圧された欲求が心の中で無意識な澱として暫くは静かに横たわっていたが、いつしかそれが隆起し活火山の様に爆発してしまった・・・のかもしれない。ただ、その大学生の時にいくらかでもプレイしていたら気持ちが収まっていたかどうかは、今となっては何とも言えない。

ある日、家族で(大学生の頃)松戸サニーランドのメダルゲームをしにいった事があった。プッシャーもあったが、競馬ゲームのステーションがあった。多分、記憶をたどると”任天堂レジャーシステムEVRレース”ではなかったか?と思う。
この競馬ゲームは非常に簡素な作りで、モニターに展開するアニメにパターンがあり、プレイしている子供達が事前に「あ、2−3だ」とか「これは1−5」と呟いていた。何らかの攻略法があった様だ。
これはどういう事なのか調べていたら
”やましんのメダゲー&パチスロ懐古厨ブログ”に書かれていた。
http://ameblo.jp/yamasyn/entry-11741348711.html
これによると当時はオープンリールによるビデオでレース展開を作っていたらしく、次のレースの際巻き戻す訳だが、その時のランプで次のレースが分かるのだとか・・・うーん!こんな裏技があったとは。
ただ、当時は退屈な競馬ゲームだな・・・と思っていた。

それから暫くして、1981年にセガから発売されたセガのNew Grand Derbyという機種に出遭った。これは松戸駅西口の交番前、マクドナルドの上。馬は画面上のアニメがレース展開を表現するシステムなのだが、毎回パターンが違ってい、かなり工夫の跡が見られた。ベット終了後にダークホースになると払い戻しが二倍になった。レースが始まるまでのBGMは草競馬でノンビリとしていた。馬名もユニークで殆ど忘れてしまったが、一頭だけ覚えていたのがマコトママリン。楳図かずお作のマコトちゃんからもじったらしきこの馬名に微笑んだ。
このNew Grand Derbyという機種は当たりメダルを物理的にクレジットしていく機能が無かったので、次のゲームが始まるまでに次のプレイの為のメダルをいち早く投入しなければならず、考える暇の無い状態になる。
また、ジャックポットとなり当たりメダルが吐き出されている間、次のレースのベットが出来ない。勝負はツラ目が大切なので、次のレースを何もせず待っている状態という訳にはいかない。この為、隣のテーブルにメダルを入れて次のレースをする猛者も居た。
この話を聞いて、予めたくさん入れておけばいいじゃないか?と思われる方も居るかもしれないが、その考え方は現実的ではない。
理由はあるが、それは詳しくは述べない。
あの欠点の為に訓練され、皮肉にも早くメダルを投入できる様になった人も多いのでは?とほくそ笑む。
これを解決する方法は程なくして知った。それは、大当たりがあった際、メダルの吐き出しが出来ない状態にすれば、自動的にクレジットへの加算に切り替わる。そして、それ以降のレースは全て、当たりメダルがクレジット加算される。

メダルゲームに慣れていない人は、どうしてもジャックポットを出している人に目を奪われがちだ。羨望の目で見ることもあるかもしれない。
しかしながら、それはちっとも格好良いものでもなんでもない。
高額の授業料無くして、あの賭け方に達しない。むしろ”可哀想な人””実生活大丈夫かしら?”と疑ってみた方が、実態に近いのではないか?そしてそれは彼等にとって、いまだ現在進行形である点が悲壮感を呼ぶ。あの場で使ったお金は間違いなく死に金でしょうね・・・