表の家

昔日の松戸106-110


110 古ヶ崎以北の風景とメガネザル君−5

あれは昭和42年だったか、43年の頃だったか、同級生のAKさんと共にメガネザル君と一緒にとても興味深い場所に行った。その名も”ライギョの銀座”。メガネザル君が教室で自慢げに話していたので是非行きたくなった。ライギョは餌としてクチボソなどの雑魚を使う。それを針にちょん掛けして泳がせる。それをライギョが狙う。
メガネザル君とAKさんと一緒に行ったその日はライギョが捕獲出来たわけではなかったが、後日一人で行ったときに大きいのを捕獲した。それを自宅の水槽に入れておいたが、ライギョは動きも少なく鑑賞に値する魚ではなかった。次第に興味も情も薄れ、情けない自分とやせ細ったライギョの姿があった。餌はあげていたはずだが、狭い環境ではストレスも溜まったのだと思う。いつしか死んだ。考えてみれば可哀想な事をしたものだ。

その数十年後、AKさんにあのライギョの銀座は何処だったっけ?と聞いたことがあった。AKさんも正確には答えず、大体あの辺ではないか?という程度だった。とはいうものの多分、旭町か伝兵衛新田のあの辺りかという感じは覚えてはいるが・・・

現在の旭町に行くと冬にはコサギ、アオサギなどが優雅な飛翔を見せている。
我々が、大学を卒業した頃だったろうか、メガネザル君とAKさんと一緒に居酒屋で飲み交わした事があった。場所は、根本の谷口おでん屋の前の元駄菓子屋があった場所。
その当時のメガネザル君は貧弱な体型という我々の固定観念を見事に打ち破る立派な体格をしていた。確かボディビルのジムに通っていたと思う。見違えるような血色の良い顔で、あのメガネザル君とは思えなかった。飲みながらAkさんと三人である政治的な話になった。メガネザル君は体格は良くなったが、あまり理屈っぽい話は好きではなくて、厭世的な基本的性格は今も昔も変わらない。その為か、「いいんじゃねえかあ・・・」を連発していた。
ある日は、メガネザル君はバイクに乗っている姿を見せてくれた。私もAKさんも原付50CC一本槍だったが(というより自動二輪の免許が無かった)、メガネザル君はスズキの4気筒の250ccに乗っていた。すごいな・・・と思った。一度、江戸川の河川敷で乗せて貰ったことがあった。確か、AKさんも一緒だったと思う。あの時はエンジンの音が静かな割に意外な程、力があって、流石に大きなバイクは違うな・・・と思った。

109 古ヶ崎以北の風景とメガネザル君−4

現在の横六間川(坂川との接点付近)
どぶ川と化した一級河川の坂川、新坂川での魚捕りに魅力は無くなっても、江戸川や伝兵衛新田付近の水田地帯ではまだまだ獲物の棲息する環境が残っていた。特に面白いポイントは横六間川付近だったと思う。横六間川とは六間川と接続する川で、六間川は古ヶ崎五叉路付近で坂川から分岐し江戸川方面に流れ堤防手前で、北上し江戸川と並行に流れる川。伝兵衛新田付近でT字型に直角合流する川がある。その川が横六間川。横六間川の近くには同級生のW君(通称タケス君)が住んでいた。同級生のAKさんによれば、タケスの家に遊びに行くと、お母さんが「タケスはいねか・・・」と言っていたそうだ。

あの界隈は今日現在も田畑が健在な場所で松戸で残された田園風景を感じる。当時、用水路に四つ手網を仕掛ければ大抵何らかの獲物が掛かった。馬橋高校方面から横六間に注いでいる用水路の水門がいまでもあるが、その水門の付近はマブナの稚魚の宝庫だった。このポイントもメガネザル君の誘導により知った場所だった。ただ、昭和40年頃北部小で破傷風に気をつけるように言われていた。破傷風の菌は土の中に居るので、転んで怪我をしても軽視してはいけない・・・と。千駄堀に住む知人のおばあちゃんが転んで怪我をして破傷風で他界した話も聞いたことがあり、怖かった。怖いとは思うが、遊びの方が優先していたので、四つ手網を用水路の中に仕掛け、上流から素足で魚を追い込むなんて事は平気でやっていた。用水路には大抵、葦が生えていて、その葦の葉で擦り傷を負った事は一度や二度ではなかった。

そして、メガネザル君に連れて行った貰った極めつけは主水池だと思う。主水池は現在はまこも池と命名されている池で元々はその土地の地主の池で、タナゴの宝庫だった。多分タイリクバラタナゴだったと思う。
ただ、あの池のマナーとして四つ手網は使わなかった。ヘラブナ師のおじさんに怒られたからかもしれない。せいぜい、ビンドウを使うのが関の山だった。タナゴを釣る人も居て、専用のハリスもある。タナゴは口が小さいので極細と呼ばれる針を使う。その極細に赤虫をちょん掛けして釣るのだが、正直難しい。
ヘラブナを専門に釣るヘラブナ師と呼ばれる人達は独特の行李の様なものを背負ってやってくる。餌は練り餌で浮子は細長いへら浮子を使う。ヘラブナ師のおじさんの持つ竿もいかにも高級な感じの竿だった。多分、当時の松戸の釣り道具屋でも数万円はしたのではないか?と思う。憧れて私もいつかヘラブナ師の様な人になりたいと思ったこともあったが、所詮四つ手網出身の私には高嶺の花だった。

108 古ヶ崎以北の風景とメガネザル君−3

松戸は町中がビオトープの様なもので、水のあるところに獲物が居た。道路に出来た水たまりにどこからともなく現れたアメンボウが水上をスイスイと走っていたものだ。
古ヶ崎浄水場の付近でも小さな瀬があるとそこにはメダカを始めとした魚が見つけられた。
私はそういう場所に敏感に反応した。
古ヶ崎浄水場は現在入りにくい雰囲気になっているが、私が小さい頃はセキュリティが甘かったのか自由に入って遊ぶことが出来た。
浄水場の中には貯水槽もあって、必ずしも安全では無かったかもしれない。その古ヶ崎浄水場にメガネザル君とジャイアン君と一緒に遊びに行ったことがあった。

ところがジャイアン君が私に向かって石を投げ始めた。カメレオンのメガネザル君も一緒になって投げ始めた。彼は太鼓持ちみたいな人でその場で強い人間になびく。投げられた石の一つが私の頭を直撃し当然ながら怪我をした。その夜ジャイアン君のお母さんがお詫びをしに我が家に来た。お父さんは市で要職付く有名な人だったのでジャイアンの悪戯にはかなり手を焼いていたらしく、またその悪事による醜聞の火消しに(絶えず)廻っていた様子だった。

ある日、メガネザル君に誘われて坂川沿いを歩いた時だった。古ケ崎浄水場の並びにもいくつか商店があり、駄菓子屋もあった。
そしてその駄菓子屋から少し先に古い平屋の家屋で八百屋らしきもあった。あの八百屋は何処にあったのか・・・ジャイアンの家の先だたと思うけど、はっきりとは覚えていない。
多分そこで買ったサツマイモを、その近所の悪戯好きな男の子達と一緒に石油の一斗缶で、たき火をして焼き芋を作ったのを覚えている。
寒い日でとても美味しかった。

今は焚き火さえ制限されて妙な世の中になってしまったが、当時は家庭で出たゴミは焚き火で処理するのが一般的だった。今はゴミの中にプラスティックトレイも多く含まれるだろうし、そうそうは燃やしていられないとは思うが・・・

107 古ヶ崎以北の風景とメガネザル君−2

昭和39年当時の地形図
1964(昭和39)年当時の古ヶ崎の河川の状況が分かる上の地形図をご覧下さい。
東京オリンピックが開催された当時の古ヶ崎浄水場付近はこの様なイメージで先の小僧弁天の絵葉書とも一致する。
坂川と並行した水路がある事やため池があった事が分かると思う。

私がメガネザル君と会った当時は坂川と並行した水路は埋められ、あの一帯は土管や埋土で一変していた。そして水郷から一転して長く続く単なる空き地の様な場所になっていた。
後にそこは舗装され道路になった。現在のセブンイレブン、すでに廃業したビリヤード場(キューバンズクラブ)の前の道だ。その新道を100メートルくらい北上した所にはぎの家給食センターやうどん屋のある橋がある。その橋の手前に乾いた開渠が坂川に繋がっているところがあるが、あの開渠は並行したもう一方の水路の名のこりだ。
又、その新道の北部小学校側にクネクネと大きくS字を描いた道がある。これも元あった水路の跡で、現在は暗渠になっている。あの道を歩くと何となく在りし昔の姿を想像する事が出来る。

メガネザル君は古ケ崎五叉路付近の水門があった辺りのポイントも教えてくれた。
この昭和39年当時はまだ五叉路ではなく、単なる三叉路であった事が分かる筈だ。そして新道としての流山街道もまだ接続されてなく、途中まで完成していてもうすぐ到達する事が分かる状態だと思う。

後の古ヶ崎五叉路のあの周りは高木に囲まれ鬱蒼とした雰囲気があった。河岸にはバラックがあり河川生活者の住む家があった。そこには大きな四つ手網が立てかけてあり、真っ赤な顔をしたおじさんがはちまきをして魚捕りをしていた。子だくさんで5〜6人くらい子供がいたのを覚えている。私と同い年と思える子もいた。いつだったか古ヶ崎五叉路から小僧弁天の横を通って北松戸まで続く新道(上述した新道)が完成した。
それと共にあの界隈の雰囲気も一変した。

勿論大きな四つ手網のあったあのバラックも無くなった。
数年前、大きく成長したあの少年を松戸駅で見かけた。私の事は覚えていない様子だった。
実はこの節はもう少し鮮明な描写が可能で一つの章になる内容を含んでいるが、諸般の事情もありこの程度の表現にとどめる事をお許し下さい。

坂川は私が魚捕りに夢中になっていた頃は生活排水などですでに汚染していた。後の古ケ崎五叉路の界隈もメタンガスと思しき泡が川底からブクッと立ち上っていた。同時にドジョウらしきが呼吸をしに水面に現れていた。それでも、獲物は居た。いつ頃からだろうか?そういう魅力さえなく汚れてしまったのは・・・その証拠に殆ど坂川、新坂川で釣り人を見かけなくなった事があげられる。続く

106 古ヶ崎以北の風景とメガネザル君−1

上のクリップアートは「リコージャパン」にてダウンロードしてま
学校三年生のクラス替えで初めてメガネザルのA君と同じクラスになった。乱暴者のジャイアンことK君も一緒だった。このジャイアン君は本当に乱暴者で後に私も怪我をさせられたが、メガネザル君はコバンザメの如くジャイアン君の子分の様な形でいつも一緒に居た。とはいえ彼も何らかの被害にはあっていただろうと思う。
三年の担任は乾先生で非常に怖いおじいさん先生だった。頭は坊主で鬼という印象だったのを覚えている。
ただ、私の貧弱な通信簿に図工だけは良い評価をくれたのが乾先生で、そういう意味で感謝している。
その乾先生不在の時、それを良いことにメガネザル君とジャイアン君は教壇の演台の上に乗って、下品な悪戯をしていた。
どれだけ下品だったかという事をここでは書けないけど・・・
メガネザル君は付き合う友達で七色に変わった。
言わば保護色のカメレオンみたいな人だった。
痩せて病気がちな弱々しい少年だったので、文字通り保護色にして自分を守っていたのかもしれない。
そんなメガネザル君と私との接点は魚捕りだった。四つ手網で小魚を捕る。メガネザル君は案外知識人で、自分の興味有る分野であれば色々な事をよく知っていた。魚捕りのポイントやコツなどを熟知していたので勉強になったものだった。
例えば、メダカの学校の下にはクチボソが居る・・・とか

メガネザル君の家は坂川沿いで弁天橋の近くだった。

家は古いタイプの木造の平家で建て付けが悪いのか扉が閉めた姿を見たことがなかった。

確か向かって右側が土間で台所、左側が八畳間並みの広さで広縁側があり、庭に面していた。

遊びに行くと兄さんと姉さんがその畳の部屋に居た。同級生のAKさんはそのお兄さんと良く将棋を指したと言っていた。

庭は雑然とした手入れをしていない庭で井戸があった。何となく元々湿地帯にあった事を思わせるジトジトとした苔むした庭だった。


坂川も魚捕りには絶好の場所で、近くに住んでいるメガネザル君が羨ましい限りであった。

魚捕りに嵌った私は毎日の様にメガネザル君と一緒に魚捕りに出かけた。ただ、学校帰りにランドセルを家に置いて、即座に四つ手網とバケツをもって出かける。これが毎日となると流石に母の手前怒られる。メガネザル君の家近くにあった”わら屋”というパンを始めとした食料や雑貨を売っていたお店があった。メガネザル君の口利きで、ここのおばさんにお願いして、倉庫の一部に四つ手網とバケツを置かせてもらう事になり、私は本腰を入れて魚捕りの毎日になっていった。
古ヶ崎小僧弁天の絵葉書(現在と雰囲気が全然違う)

方向的に見て川の先方にあるのが弁天橋で見ているのは坂川
現在の小僧弁天
元々メガネザル君の家の土地は坂川ともう一本の川に挟まれた中州の様な場所にあった。と言っても私の物心が付く前のお話で、水郷の名にふさわしい場所だったらしい。写真上は小僧弁天の葉書で、坂川側から見た小僧弁天の風景。写真下は現在の小僧弁天を坂川から見た風景。

いかに開発され、護岸工事をして、人の近づきがたい川になってしまったのかが良く分かる筈だ。どちらの風景だったら見に行きたいでしょうか?