表の家

つれづれなるままに111-115


115 坂川に生えた月桂樹
松戸の坂川を歩いているとき見つけた。
月桂樹(ローリエ)。
樹高7メートル以上はあった。
実は我が実家にもこの木があるので、ありがたみは感じないが、西洋料理を作る人にとっては宝の山まではいかないが、欲しがるかもしれない。でも知らない人は直ぐ近くのイセタンで買うんだろうなあ・・・と思っていた。
それも2011年の3月以降はどうも恐ろしくて手が出なくなった。考えてみると、里山歩きは野草を摘んだり、木の実を取ったりする楽しみがあったが、以降は気持ちが向かなくなった。

114 石投げ遊び

坂川で子供達が石投げをして遊んでいた。
本当は石を水面に走らせたかったらしいが、この投げ方ではそうならなくて、石を右手の人差し指で支えアンダースローで思いっきり水面と並行になるように投げないと難しい。
この写真は2007年の写真で、この子達はすでに成人していると思う。
坂川の春雨橋付近から撮影。

113 フロッピーディスクの話

それにしてもフロッピーディスクというのは使わなくなった。
いつ頃から使わなくなったのかな・・・少なくとも私は2000年から使っていない。
ドクター中松の発明だと長い間信じていた。最近、ウィキペディアを調べてみたが、どうやらIBMの開発で完成したものらしく、中松氏の発明した物、或いは部分は何だったのか良く分からない。

初めてフロッピーを見たのが1982年で、知り合いがFM8を持っていた為だった。確かこの当時は5.25インチだったと思うが、あまり記憶にない。その人はフロッピーディスクドライブも使っていたが、ソフトウエアをカセットテープの媒体で購入して使っていたりした。

2009年に村木局長が詐欺容疑で起訴された。あの事件ではフロッピーディスクの改ざんが問題になったが、私は2009年にもなって今時フロッピーディスクを使っている人が居るという事実に驚いた。

初めてのコンピューターに触れたのは大学生の頃だった。Facomだったかな?その後知人のもっていたFM8を毎日触らせていただいたのが1982年頃。初めてのパソコンを購入したのは1995年でアップル社のマッキントッシュ。CDドライブ搭載だったが、フロッピーが重要な記憶装置の一つである事に変わりはなかったし、一枚のフロッピーディスクに収まるソフトウエアがいくらでもあった。

同時に、その頃登場したウインドウズ95は何十枚もフロッピーディスクを使いインストール(セットアップ)をしていた。時間もかかるし大変だなあ・・・と思ったが、OEM版ではCDROMだったのでえらく楽だった。フロッピーディスクの時代も長くない・・・と感じた。
1995年当時、勤務先ではNEC,マッキントッシュなどのパソコンもあり文章、表計算ソフトは勿論、一部CADも使われていたと記憶している。時代的に世の中はパソコン一色という状況になりつつあったが、ワープロ専用機もまだまだ現役で使われていた。

ワープロ専用機時代からの名残だと思うけれど、文章の受け渡しに「それフロッピーで頂戴」という言葉のやり取りもあった。
その後、ウインドウズもマックもOSがどんどん大きくなりハードディスクが巨大にならざるを得なくなった。同時にフロッピーディスクの活躍の場も減ってきた。その結果1998年前後以降、人からもらう事はあっても自らフロッピーディスク使う事はなくなった。

今持っているパソコンもすでにフロッピーディスクは使えない。使いたい場合は別途フロッピー専用ドライブを購入しなければならない。
「それフロッピーで頂戴」というフレーズは死語に等しい。
今は「メールで送って!」という言葉を良く聞く。

そんな時代なのに”フロッピーディスクの更新時期のずれ”、”自宅のパソコンにフロッピーディスク改ざん用ソフトがインストールされていた”なんてフレーズが出てくると時代錯誤に陥る。当時、村木さんの部署が余程古いパソコンを使っていたのかと思った物だ。
そういえば友人のAKさんは仕事柄ワープロ専用機を長い間使っていたらしい。
羨ましいと思った。私はワープロ専用機が買えなくて、1987年の頃手動式の英文タイプライター(オリベッティ製)を買った。一番安い機種で一万五千円くらいで買った記憶がある。ワープロ専用機は高くて買えなかった。それと文章を打つだけの為にワープロ専用機を買うというのも自分の中でもっともらしい理由が見つからなかったからかもしれない。

1983年頃,FM7を買おうと思って富士通のショールームに行ったこともあった。でも冷静になって高い金を出して結局ゲームかな?と考えたと同時に買う気が失せてしまった。本当はゲーム好きではあったんだけど・・・

112 夜泣きそば(チャルメラ)の話

母がまだ軽飲食店を経営している頃なので、昭和39年か40年の頃だったろうか、当時は夜泣きそば屋(チャルメラ)が屋台を引いて竹ヶ花までやってきたものだった。これが大好きでよく食べた。

実は当時はお店をやっていた関係で、やきそばなどが残ると夕飯で食べた。やきそばも嫌いじゃないけど毎日続くと飽きる。そんな時に夜泣きそば屋がチャララ〜ララ、チャラララララ〜♪とチャルメラの音を鳴らしながらやってくる。

屋台に近づくとカーバイトランプ独特の香りが鼻をつく。今だったらちっとも良いにおいだと思わないが、当時はこのカーバイトの臭いが=夜泣きそばの臭いと繋がっていた。
ある日を境にこの夜泣きそばも食べなくなってしまった。
そのきっかけは街路灯だ。
当時は街路灯が灯いていると色々な虫が集まってきた。蛾、カナブンその他色々だ。

ある日薄水色の羽の大きな蛾が落ちていたので素手で拾った。どうやら弱っていたらしい。手に一杯の鱗粉を付けたまま割り箸を持って夜泣きそばを食べたら、その鱗粉も一緒に口に入れてしまったらしい。
これが苦いの苦くないの・・・うわ、不味いと思ってはき出した。
それ以降、何故か夜泣きそばの味=蛾の鱗粉のイメージが出来上がってしまい、トラウマ状態になり暫く夜泣きそばが来ても食べたいと言わなくなってしまった。

ところで松戸には最近すっかり屋台のお店が無くなってしまった。
ラーメン、おでん、日本蕎麦高砂通りを復活させる為、夜だけで良いので
松戸屋台村は出来ないだろうか?そうすれば高砂通りは今よりももっと賑わうと思う。

111 1964東京オリンピックの頃

2020年に開催する。
行きたいと思うが多分行けない事になるだろうと思う。仮に松戸に居て、東京に勤務していても・・・
東京オリンピックの年、1964年は今でも覚えている。まだ小学校二年生の時だった。当時すでにカラーテレビの時代と言われたが、一般家庭では白黒テレビさえ無い家も少なくなかったと思う。
我が生家にオリンピックの年、テレビがあったかどうかはあまり覚えていない。
ただ、松戸駅近くの京屋百貨店の社長が北部小学校の教室にテレビを寄付していただいた事で、学校でオリンピックを見る事が出来た。

はっきりとどの競技を見たのかは覚えていないが、開会式は教室で見た記憶がある。聖火台に立つ人、飛行機が空に丸を描きオリンピックの五輪マークを象るなどだ。
全部白黒映像だったが私の想像力には十分役立った。それよりもテレビそのものが嬉しくて、すごいと思った。

当時我が母は自宅の敷地の一部に軽食堂店を建て、営業していた。かき氷、やきそばの他、ペプシコーラも提供していた。
当時ペプシコーラは王冠の裏にオリンピックのフィギャーが当たるくじがあり、その場で当たったのか或いは王冠を送るともらえたのかは定かではないが、そのフィギュアーが(多分見本だったかもしれないが)我がお店にも展示してあった。象牙色のフィギャーで良く出来たものだった。
ネットで調べたら、コレクションとして持っている人がいたので御紹介したい。
昭和ノスタルジー〜懐かしいあの頃〜

また、当時切手収集が流行っていて、私も集めていた。最初の一枚は自宅に届いた封書からはがした使用済みの桜柄の普通切手で、その後も同じような使用済みの切手だけだった。それでも私は嬉しかったが、近所に住んでいた房総白浜出身のお兄さんが私を不憫に思ったのか、自分のコレクションの一部をストックブックも合わせて分けてくれた。ある日を境に突然コレクションが豊富になってしまった訳だ。

この中に東京オリンピックの菱形の競技切手が含まれていて、ストックブックに入れても安定しなかった。私は嬉しくて嬉しくて毎日眺めていたものだった。
そういえば南花島に同級生の網谷君が住んでいた。彼は学校で喧嘩係をしていた。これは喧嘩の仲裁役なのだが、女の子にも人気があり、近所に住む同級生の女のに迫られ、何だと思って聞いたら「網谷君の家に一緒に遊びに行こう」だって・・・!

行ってみれば利用されたって事なんだろうけどね・・・その網谷君はお父さんと一緒に東京オリンピックに行くと言っていた。実際に行ったのかどうかははっきり覚えていないが、実に羨ましいと思った。
後に、市川崑監督の製作した東京オリンピックの映画を見て、五輪の飛行機雲はあんなにも色鮮やかな青空に描かれていた事を知った。