表の家

松戸行脚 竹ヶ花古墳とお墓引越し


竹ヶ花古墳とお墓引越し

実はとても大変だった

私の住む松戸市竹ヶ花、家からそれほど離れていない場所に「竹ヶ花古墳」という所謂古墳時代に作られた遺跡があった。
元々竹ヶ花五十五であった場所が小根本整地組合による区画整理以降、地名が変わり小根本となっている。
「竹ヶ花古墳」は昭和三十六年に宅地化の為消滅。貴重な竹ヶ花の遺跡を失ったのは残念でならない。その際、この丘のお墓がある一部を残したが、昭和四十一年に残る部分、我が祖先のお墓も余儀なく移動を強いられ、山は消滅マンションになった。

付近の状況
この空中写真(航空写真)は1956に撮影された。国土地理院より使用させて頂いた。当時の樹林地その他の情況がよく分かるのでこの写真の上に道路や古墳など大凡の位置を書き入れた。
この1956年当時は新京成の線路が見え、金山神社の山は分断され、新市役所建設を待っている状態。税務署はまだない。岩瀬と竹ヶ花を結ぶ市道は工事中。辺り一帯は山林だった。お墓の山の部分はこの当時は竹ヶ花であり、区画整理後小根本になった。
池田弁天の周囲の池は水田と使われていたそうだ。また、お墓の山のAの部分は私が物心ついた頃はまだ水田が残っていて、水中生物をとって遊んだ記憶がある。小根本の田畑の部分は所謂谷津に当たる部分で、あまり地盤の良い場所ではない。2011年3月11日の東日本地震で壊れたメクマンの建物もその延長にあった。

取り壊す頃の竹ヶ花古墳(松戸市教育委員会発行「松戸の遺跡」より)
現在の市役所方面から見ている。手前の更地は土屋家具の建物(昔の奈良屋)の土地でこの当時は何もない。

古墳を取り壊した後に出来たマンション
この建物はほぼ上の写真と同じ場所から見ている写真。正面建物はフレール松戸。

現在のお墓
このブロック塀の中にはお墓がある。小高い山にあった竹ヶ花古墳と同時に竹ヶ花地区住民の為のお墓もあった。私の小さい頃の記憶でも山の上のお墓に行った記憶がある。
先ず、昭和三十六年に古墳のあった部分が消滅し、次に昭和四十一年残る山(竹ヶ花地区住民のお墓)を崩して遺骨など諸々を写真のお墓を新たに築造することによって、お墓の移動をしたわけだ。
お墓の移動に関しては、私も微かに思い出があり、お墓の移動で採掘した緑青した古銭が出てきたのを覚えている。所謂、三途の川を渡るための六文銭である。コレクションにするにはあまりにボロボロであった。探せば家のどこかにあるかもしれないが、散逸してしまった。

当時の話を両親に聞くとお墓の移動に関しては本当に時間がなく、慌てるようにして作業をしていったとのこと。区画された墓でなかったため誰の祖先なのか確かめる術もなく兎に角運び出した。我が祖先のお墓は殆どが火葬であったために骨は骨壺に入り小さなものだったが、ご近所は土葬であったため肉付きの骨もあったとか……

移動されたたくさんの墓石

父の作成した記録
父が作成した先祖代々の系図序文にこんな事が書かれている。

昭和四十一年八月二十四日(西暦1966年)竹ヶ花五十五番地、竹ヶ花共有墓地(山の上にあり約200坪)小根本整地組合と話合い末、現在迄の墓地を移転す。新墓地各家、場所選定は旧家、墓石の多い家より坪数順に四段階に分け抽籤、十六番に決定、○○家(注:我が家の事)は竹ヶ花では○○○○(台の家)の次に旧家 家柄先祖代々名主役をつとむ。八月二十七日午后一時御先祖様発掘、祖母、父他、俗名不明遺骨壺五、御先祖様の遺骨数不明、遺骨は納棺の上四ツ木火葬所にて火葬し遺骨壺持ち帰り埋葬す。墓地移転に伴い花島栄松寺におもむき過去帳を調べ年代順に記入す。
…………この後延々と系図が続く…………
その他手記としてこんな事も書かれていた。
小根本整地組合と話合いの結果現在迄の墓地より約二割五分の減歩にて、新京成電鉄際の根本森谷種店(森谷耕平氏)の地所内に換地移転す。

小根本区画整理事業の規模
それでは小根本区画整理事業の規模を見てみよう。先ずは全体図の整理前整理後、全体空中写真の整理前整理後が下記である。これは松戸市土地区画整理組合連合会が発行した「未来への遺産」より写真並びに地図を使用させていただいた。なお、この書籍は松戸市根本にお住まいのYさんより頂いた書籍です。Yさん再び使用させていただきます。ありがとうございます。
小根本区画整理前地図(昭和三十九年頃)

小根本区画整理後地図(昭和五十年頃)

小根本区画整理前(昭和三十九年十一月)

小根本区画整理後(昭和五十年十二月)

北は新京成線路南は小根本の山(花蔵院のあるところ)、西は奈良屋(後の土屋家具センター)前の市道坂道、東は国道六号線に挟まれた凡そ9.8haの広大な土地である。ただ、上の地図であると小さすぎて見にくいので、墓地周辺を拡大してみる
小根本区画整理前地図拡大図(昭和三十九年頃)

地図を御覧になってお分かりになると思うが、フレール松戸付近は元々竹ヶ花拾石であった事が分かる
小根本区画整理後地図拡大(昭和五十年頃)

お墓周辺整理前拡大写真(昭和三十九年十一月)

お墓周辺区画整理後拡大写真(昭和五十年十二月)
「未来への遺産」の中にも「・・・・・当事業の最大の課題であった家屋移転(約50戸)および墓地移転を短期間に完了させた」とある。

周辺の写真

池田弁財天
池田弁財天はこの付近にある。この池田弁天前の市道が出来る前はその近辺は池で囲まれていた。この池田弁財天は平潟のお女郎さんが巳の日に下の病気にならないように、お客さんがたくさん来るように等、御利益の為、参拝したらしい。
市道が出来る前の池田弁財天
この絵葉書は市役所の高台から撮影した写真のようだ。現在の状況とはだいぶ異なる。

市道
市役所坂下の付近から新京成の踏切方面を見ている写真。左のしだれ柳は池田弁天様でその先には土屋家具センターのビルが見える。この市道(坂道)は昭和30年代中頃に出来た。それ以前はこの一帯は池であった。

広報まつど昭和三十六年十月二十五日号の記事
「竹ヶ花古墳が消滅 五世紀の豪族のお墓」
「二年前に市誌編纂委員会によって発見調査されていた竹ヶ花古墳が土取り工事のため消滅しました。幸い工事関係者の協力が得られたため、教育委員会では教育大学考古学研究室の手を借り事前に発掘、調査をすることができました。松戸市内の古墳は西暦五世紀以降のものと考えられているのでこの古墳は約千五百年前の私たちの先祖のお墓であったわけです。遺体を埋葬した主体部は粘土郭という構造によるもので、その面積約一坪余、風呂桶の形に厚さ四十センチの粘土で囲われていました。遺骨は出土しませんでしたが、その床から鉄刀の破片など五点が発見されてました。砂礫を敷きつめた床からは面どりした大きな砂岩が二個出土し、これは教育委員会で保管しています」

竹ヶ花の露頭(松戸市史上巻より)
多分、これは新京成電鉄の線路側から見たお墓の山だと思う。当時はこのような露頭が町のあちこちで見られた。

松戸市教育委員会発行「松戸の遺跡」にはこんな事が書かれている。
竹ヶ花古墳
竹ヶ花古墳は、松戸市役所の北東約200メートルにあたる台地上に存在した古墳であり、その地籍は松戸市竹ヶ花字拾石のうちに含まれていた。また、本古墳は「松戸市史」にも紹介されており、その山林中に望見される姿は、古墳らしからぬゆるやかなスロープを持ち、かえって優美さを示している感がふかかった。しかし、この古墳の北側の裾近くが、新京成電鉄の線路によって切り取られており、市街地に近いという地理的条件と相まって、保存の困難さを予測させる遺跡でもあった。果たせるかな、昭和三十六年十月十日、突然ブルトーザー二台による採土工事が開始され、瞬く間に台地は削り取られていった。
…………中略…………
1. 竹ヶ花古墳は台地鞍部に立地する直径二十二メートル、高さ二〜二・五メートルの円墳である。
2. 内部主体は墳頂中央部地下十一センチメートルという、浅位に始まり、高さ五十センチメートルほどの白色粘土による壁体を有し、その規模は東西、南北二・五メートルほどと推測される。
3. 内部構造にみる壁体は南、北側の幅一メートルの範囲内はみとめられず、これは後世の盗掘などによるものではなく、本来欠けていたものと見る方が妥当で、この点、加賀方面の粘土棺などとも全く異なるものである。
4. 壁体内には相対する一対の凝灰岩が安置してあったが、これらはいずれも敲打によって平坦面がつくりだされたもので、時期的には後出性を示すものと思われる。
5. 東石の表面とほぼ同レベルのあたりに封土としてのロームに若干の砂利を混ずる部分が認められ、この面からわずかながらも遺物が出土した。
6. 出土遺物はすべて鉄片で、時代性を示すものは皆無だった。

参考文献・参考資料:
「松戸の遺跡」(松戸市教育委員会発行)
「松戸市史」上巻(松戸市役所発行)
「未来への遺産」松戸市土地区画整理組合連合会発行 ← 根本在住Yさん提供
「空中写真」国土地理院


この「竹ヶ花古墳とお墓引越し」は2005年作成したページを、2009年2月再編集した。