表の家

つれづれなるままに51-55


55 保健委員のお話


立て続けに中学校時代の話題。
当時、運動部としては陸上部に所属していたが、クラス内では保健委員を任されていた。保健委員はクラスの中で具合の悪い人が居ると保健室に誘導する役目。
又、同時にクラスの男子女子全員の健康保険カードを管理していた。あの健康保険カードというのは身長体重などの情報だけでなく、その他の情報も書かれていた。
‘耳あか汚れ‘なんてのは可愛い情報だけど、ただ女子生徒の記述は本人にとっては一級並みの秘密情報で、私は絶対人には言えないし、言わなかった。
そんな秘密事項を私が少しでも誰かに漏らしたらクラスの女生徒全員から総スカンにあったに違いない。
今から考えるとよくもまあ、男子の私に全て託していたのかよく分からない。私が管理していた事はクラスの女子も知っていた筈だけど、誰も不平不満を言わなかった。私は余程信用されていたのか、安全パイ扱いだったのか、或いはそういう方面に無頓着だったのか?
今なら個人情報何某でとてもそんな役目は任されないと思う。大らかで牧歌的な時代だったのだろう(実は高校に入っても保健委員をやらされて同じような状況だったと付け加えておきたい)。

保健室のN先生(おばあちゃん先生)が好きで良く保健室に遊びに行った。N先生と、ただお話をするだけで楽しくて、とても話しやすかった。あの当時から年輩の人と話をするのが好きだったようだ。
N先生と話をしていると男子、女子生徒が保健室にやってくる。男子生徒は怪我やお腹が痛いという理由が殆ど。ところが女子生徒の時だけは、私は追い出された。追い出される大凡の理由は分かっていたけれどちょっとドキドキした。

一度、私の同級の男女三人で授業が始まる前に保健室に行き、結局授業が終わるまでに帰らなかった事があった。客観的に見れば保健室に籠城していたような状態だったのかもしれない。でも別に悪い事をした訳ではない。ただ、保険室のN先生に会いに行っただけなんだけど、その時間帯はたまたまN先生が居なかった。仕方ないので保健室で三人で話をしていたらあっという間に時間が経ってしまった。それだけだった。あの時ばかりは授業を担当していた先生にこっぴどく叱られた。

ある日N先生がとても大人の話をして下さった事があった。
「今のうちから家族計画というのはしっかり考えなければいけないのよ。いつ結婚していつ子供を産んで何歳くらいまでに育て上げるのか……という事はとても大切な事なの」
私の知識は全く幼稚で「家族計画」という言葉は(当時の広告だったかテレビCMによって)=避妊具という程度のイメージしか持っていなかった。
従って、その「家族計画」という語彙が妙に刺激的で顔を赤らめてしまったが、中村先生が語ったのはとても真面目で重要な話だった。
ただし、この点に関して、現在の私がどう書けば良いのか分からない。この個人情報については筆を伏せておこう。

写真は同じ学年の保健委員、他のクラスにも男子生徒が居たんだなあ〜!上段左端がN先生。こうみると決しておばあちゃんでも無いなあ〜せいぜい40代かもしれない。
下段左端は故人となったミエちゃん。

54 骨折の事−1


私が通っていたのは松戸市立第六中学校(当時六中は風早神社付近にあった)。
受験を控えた中学三年生の12月中旬頃、体育の授業で空中回転を教えてくれた。踏み切り板に写真のようなスポンジマットを使うという。

実は教えられる以前に踏み切り板もスポンジマットも何も無くても空中回転は(勿論地上回転も)出来た。運動をするときに気を抜くというのはとても危険な行為に違いないが、私はその時になめてかかっていたと思う。
走ってくる→踏み切り板で踏み切る→空中回転→スポンジマットに着地となる一連の動作を教えられたが、私は地面で空中回転を行うのと同じ勢いで踏み切り板を踏んだ。踏み切り板があんなに勢いよく回転を補助するとは思わず、廻りすぎてしまった。着地の時にかなり前のめりになり左足くるぶし辺りから妙な形でスポンジマットに着地し、俯せに倒れた。

一瞬「ポキッ!」という音が聞こえた。その瞬間何が起きたのか分からなかった。
足に力が入らず私は起き上がる事が出来なかった。
やっと「ああ、骨折したのかも?」と感じた。
先生に告げた「足が折れたみたいです」

先生は慌てて、車で私を病院に運んでくれた。
行き先は上本郷駅付近にあった奥隅医院だった。診察によれば左足くるぶし上を斜めに単純骨折をしているとの事だった。応急処置をしてその日は帰宅したが、夜痛くて寝られなかった。当日だったか翌日だったか忘れたが、膝上まで石膏を塗りギブスを嵌めた形にされた。膝のお皿の処は穴を開けてくれた。膝のお皿をよくマッサージする為だ。何でもギブスを長期間していると膝が曲がらなくなるのだそうで、それを避けるための準備運動なのだとか……

まだ冬休みまでには日があったが、それらの授業は受けられなくなった。この為、同級生のN君は毎日ノートをとって我が家に持ってきてくれた。あの時の恩は一生忘れない。先生も心配し我がクラスのK先生だけでなく理科のT先生も来てくれた。何故か理科のT先生は演歌が好きで私の枕元で演歌を歌ってくれた。今思えば不思議な光景だったと思う(続く)。

写真は陸上部のメンバーと先生。骨折直前の私が撮ってます。さあ、どの子でしょうか?ただし一番左の先生の右隣は授業をノートにとってくれた恩人N君。

53 定期券の話

松戸市は戦後、東京の衛星都市としての流入人口やベビーブームによって急激に人口が増えていった。同時に松戸市各地で土地区画整理が行われ、田園が次から次へと宅地化された。宅地化され人が住み始めると商店街が必要になり、子供達には身近に通う小中学校が必要になった。
当時金ヶ作地区には高木小学校、高木第二小学校があったが稔台地区の児童まで吸収出来なかったのかもしれない。松戸新田の松が丘小学校、寒風台小学校、上本郷にある上本郷小学校、上本郷第二小学校、稔台の稔台小学校も無かった。
私がまだ小学二年生の頃は小学校が不足する時代で、北部小には稔台・上本郷方面に住む児童も通っていた。彼等はバス通学していた。多分、(今は無き)馬橋ー浅草寿町線や八柱−松戸駅線のバスを使っていたと思う。

バス通学している児童はランドセルの金具に定期入れをぶら下げてやってくる。
北部小学校から歩いて数分の竹ヶ花に住んでいた私は恵まれていたのだと思う。ただ、妙にあの定期券で通学する事に憧れてしまった。どうしてもあの「定期券」というものが欲しくなった。
そこで私は何故か北部小学校の正門前にあった吉岡文具店に行って吉岡のおばあちゃんに聞いた。

「定期券ある?」
吉岡おばあちゃん「定期入れだね。あるよ」
と云って、プラスチックの定期入れと皮革風の定期入れを見せてくれた。
「違うよ、バスの定期券が欲しいんだ」
吉岡おばあちゃん「ああ、定期券はここでは売ってないんだよ。バスのだったら車掌さんに聞いて御覧」
私は当時第一珠算学校でそろばんを習っていた。
殆どが徒歩だったが、度々竹ヶ花のバス停からバスを使って第一珠算学校に行く事があったので車掌さんに定期券の事を聞いた。
車掌さんが色々な事を話してくれたけど、とても子供のお小遣いで買える代物ではなかった事を知った。
車掌さんが優しい人で「回数券だったらもっと安いよ」と云って回数券を見せてくれた。
5円の十枚綴りだったか10円の十枚綴りだったか忘れたけど、それさえ買うお金がその時は無かったので一旦諦めた。諦めて時間が経ったらどうしても定期券が欲しかった気持ちが薄れ、いつしか忘れてしまった。
小学校二年生の私はこんなトンチンカンな少年だった(いまだにトンチンカンなところがあるけれど)。
それだけに高校生になって初めて通学用定期券を持った日は嬉しかった。でもそれは最初だけで、一月も経つとそれほど感激の無い物だという事を知った。それが今ではIC定期券だものなあ〜

52 魚野川の蛍と川(復活バージョン)

このお話は二年前つれづれなるままにに掲載した文章ですが、新潟出身の知人に読んで頂くため文章をかなり修正の上復活させました。少々季節外れですし、又殆ど以前と内容は変わりませんので、すでに読んだことのある方には申し訳ありません。
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大学三年生の夏休み期間中、建築の課外授業として石打セミナーが催され、新潟県の石打まで行った。
石打と言えばスキー場として有名、ところが夏なのでスキーは楽しめない。
一週間前後のツアー。
学生二三十人で民宿のような会場に一週間ほど泊まり込み、入れ替わり立ち替わり先生方の授業を聞き、それを自分の糧とする。

その民宿が石打駅の近くであったかどうかは覚えていない。
ただその民宿は田園風景が広がる場所で、近くに魚野川が流れていた。とても奇麗な川で感激した。
堤防らしい堤防はなく、角の取れた大きな丸石がゴロゴロしていて、我が松戸市の新坂川や江戸川とは全く違った景観を興味深く眺めていたのを覚えている。

夜、他の学生が窓の外を見て騒いでいた。
「何だ何だ」と窓際に行くと、あらビックリ!
魚野川の流れている方向には、まるで天から舞い降りてきた天の川のように、光の集合体が地面すれすれに漂っている。
それはホタルの大群だった。
半端な数じゃない。何万匹なのか何十万匹なのか分からない。とても数えきれない。それぞれが独立した星の様にキラキラ輝き揺らめきながら、しかし全体としては一定の方向に進んでいる。
ほぼ高さ10メートルまで覆うホタルの大群。
幻想的でアメージングストーリーを見ているような素敵な光景。
私は夢を見ているのだと思った。
この魚野川も付近の水田も水質が良いに違いない。

翌々日の休憩時間、同級生とこの魚野川に入った。
流れが速く、岩には苔が生え滑りやすい為、油断していると流れに足を取られ、かなり強い勢いで流されてしまう。
一度転ぶとさあ大変、岩の上をドン、ドン、ド〜ン!とぶつかりながら流されてしまいズボンは苔だらけ…
かなり危ない。

お茶の名産地、川根町家山出身の友人M君がこの石打セミナーに参加していた。
M君は「一緒に魚を捕ろう」と言う。
アイデアは良いけど魚を捕る道具がない。四つ手網、タモ網、釣り竿もなければ私は何も取れない。
松戸から持ってくれば良かったかな〜

M君「まあ、見ていてくれ」
道具も何も無いM君は短パン姿でシャツの袖をたくしあげ、川岸岩陰の草が生えている所にそーっと素手で差し込み暫くじっとしていた。数分はじっとしていたと思う。次の瞬間、
M君「さあ、捕まえたぞ〜!」
捕まえた魚はウグイ(別名:ハヤ)、渓流の素早い魚でとても素手でつかめるような魚とは思えない。
間近に見たウグイの美しさに驚いた。魚捕りの技術も尊敬に値する。

私「どうやって捕まえたの?すごい技術だね」
M君「いや、これは技術じゃない。岩陰に掌を拡げるらぁ〜?そうすると魚が通過する瞬間にギュッと掴む。慣れればそんなに難しい事じゃないら」と静岡弁交じりで答えた。

私もこの技を覚えたくて、やってみた。でも私は何十分掛けても捕まえる事が出来なかった。
後にM君の実家川根町家山に遊びに行った際、近くに大井川が流れているのを知った。この大井川を見た瞬間「ああ、ここでM君はあの技を練習したのだなあ〜」と妙に納得したのだった。

51 パチンコ大好き香港人オバサン、アイヤ〜!

先日松戸にあるこじんまりした某喫茶店に入った。
中には数人のお客さんが居た。
60歳過ぎの男客、やはり60歳前後の女性客が二人それぞれ別々に、合計三人のお客さん。
店のマスターはカウンターでパソコンでトランプゲーム。何となくのんびりした雰囲気のお店だった。

男性客は何も話さなかったので分からないが、女性客同士が活発に何かを話していて、一人は日本人、もう一人はどうやら香港人らしい。香港と云えば何となく話に加わりたいが、香港人だからというだけで話が合うとは限らない。
怪しい人も結構多いのだ。

この二人の女性の話に聞き耳を立てると果たしてそれはパチンコ話だった。
香港人オバサンはパチンコ好きで毎日通っているらしい。

香港人オバサン「パチンコ屋に行くとどうも私は狙われているらしいのよ。アイヤ〜!だから中々勝たせてくれない」
日本人オバサン「そんな事ってあるかしら?」
香港人オバサン「裏の事務所からモニターで見て、私の台を出さないようにされているアルよ」
日本人オバサン「え〜?裏側から台の調整なんて出来ないわ。そんな心配は無いと思うわよ」

香港人オバサン「いや、私が少し出し始めると、必ずとまるよ」
日本人オバサン「それは偶然だわ。裏から監視しているのは確かでしょうけど、それはゴト師対策よ」
香港人オバサン「ゴト師?ゴト師って何アルよ?」
日本人オバサン「ゴト師は不正を働く人達よ。色々と悪い操作をして不正に玉を出すのよ」

日本人オバサンは今まで一般庶民でパチンコはあまりやらない人と思っていたが、すごい単語が出てきた。「ゴト師」なんて言葉は多分、一般の主婦が発する単語ではないと思う……この日本人オバサンもかなり怪しい。

香港人オバサン「今日も5万も負けたヨ、アイヤー」
パソコンでソリティアをしていたマスターが振り返って曰く
「お金賭けないでパソコンでこういうゲームしていれば良いんだよ」
香港人オバサン「ダメダメよ、それじゃ面白くない」
日本人オバサン「だとするとただギャンブルが好きなのね。お金を賭けないと面白くないわけね」

こういう話には少々興味がある。マスターも途中でちらっと「そうだよね」の様な目配せを送ってきたが、私はただ笑うだけ。
私も口を挟もうと思ったけどやめた。
パチンコはやらなくなって久しい。トイレを借りる用事でしか利用しない。
煙草の煙が気になって近づきたくないのだ。

香港人オバサンは「店側の人間が私を覚えている」と云っていたが、それは自意識過剰、被害者意識でしかない。
客が犯罪をしていない限り、店側もその香港人オバサン一人を相手にするほど暇ではない……とだけは断言できる。
一日の客が一店に何百人くるのか分からないが、その一人一人にマークしていては従業員がいくら居ても不足する。
そもそも客一人一人を相手にしたら人件費が掛かって仕方ない。

パチンコ屋はそんな事はしなくても儲かるように出来ている。
例えば、全体の出玉率さえ調整だ。10売り上げて、9の出玉率でも1は儲かる。
一日に貸し玉代が1000万円の売り上げだとして、客への戻し金の合計が900万円にすれば、100万儲かる。そういう商売ではないのかな?
ましてや、全員が換金するとは限らない。景品に替える場合原価を低く抑えれば、10の出玉率にしても商売は成り立つはずだ。
要するに10人のうち2人大勝しても、5人がトントン、3人に大負けしてもらえば良いとも言える。
出玉率を悪くすれば、客は寄り付かない、逆に良すぎると儲からない。多分微妙なところで決めている筈だ。

パチンコ大好き香港人オバサンはさらに話し続けて「他の店に行っても同じアルヨ」と夢中になって話していたが、もはや聞いているのが馬鹿馬鹿しくなり、帰る事にした。