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松戸飛行場(航空局中央乗員養成所)紹介・募集記事


松戸飛行場(航空局中央乗員養成所)

紹介・募集記事

写真週報 昭和十六年六月十一日号 より

松戸飛行場つまり航空局中央乗員養成所はこの号が発行された前年、昭和十五年に開設されている。現在は陸上自衛隊の松戸駐屯地になっている場所である。この雑誌の内容は乗員養成所の紹介と募集の様な内容になっている。ただし、建物などの写真は一切掲載されていない。

写真週報 昭和十六年六月十一日号
戦前に発行されていた国策グラフ雑誌に写真週報がある。写真週報は内閣情報部(後の情報局)により編集発行され、1938年から1945年まで発行されていた。この中に松戸飛行場つまり航空局中央乗員養成所についての記事があったので全文検索出来る資料・記録として残したい。

写真週報の表紙解説
科学教育を重視する国民学校では石塊までが実験台に載せられます、といつても石塊にはダイヤモンドのやうな美しい結晶はありませんね。これは石塊の目方を測ることによつて重量感に慣れようとの実物訓練です『うんこれは重いぞ、さつきの石が五キロだつたんだからこれは十キロもあるかな』

翼持つ喜び
盲目飛行*1に飛立つ操縦生徒をのせて練習機が軽快な爆音を轟かせてゐる
今日もまた劇しい訓練だ さあ出発 教官が労はるやうに操縦席を振返つてみる

*1盲目飛行:操縦者の視覚に頼らず、計器だけに頼ってする計器飛行(大辞泉)

翼持つ喜び
航空局中央乗員養成所 千葉縣松戸
僕たちが空の推進力になるのだ。開けゆく興亜*2の航空路が僕たちを招いてゐる。
アジアの空を思ひ切り翔びまはるぞ……逞しい希望が若い胸に溢れてゐる。
*2興亜:アジア(亜細亜)諸国の勢力を盛んにすること。第二次大戦前に用いられた語(大辞林)

   ドイツがあの驚異的な戦果を擅(ほしいまま)にしてゐるのも、航空力の充実を目指して早くから国民全体が空への憧れを実践に移してきたからだ。空を征服する民族こそ新しい世代へ大きな飛躍を試みることができる唯一の資格者であることを思ふとき、若人よ!空に伸びよと、心から叫ばざるを得ない
   支那事変及びノモンハンの戦闘に現れた赫々(かくかく)たる戦果で、わが國の軍事航空が遙かに世界の水準を抜くものであることは、はつきりわかつた。だが、或ひは軍航空の母体となり、また、軍航空の予備第二線ともなるべきわが民間航空は世界列強に比してまだまだの感がある。そして東亜共栄圏の確率を前にして、興亜の航空路は、心から若人の進出を待つてゐるのだ
   空だ!男の行くところ そして拓け東亜の航空路−
航空局では、凡ゆる施設を整へて、民間輸送を背負つて立つ若人たちの養成に努力してゐる −読物 十頁参照−

   航空局中央乗員養成所は、地方乗員養成所の修養期間を経て二等操縦士となり陸軍航空予備下士官の教育を終わつた生徒に最後の仕上げを施すところである
   一等操縦士の技倆を充分に保有させるために、まづ練習機による盲目飛行の劇しい訓練が始まる。そして相当な気流の中を二、三時間は編隊のままでも飛行できるだけの技倆に達すると、大型実用機による本格的な盲目飛行の訓練に移る。これと平行して空中航法は推測、無線は勿論、天測もやり大部分の教育はこれに費やされて、航法の技倆は一段と向上する
   このやうに航法の学理と実際を併せ修得して始めて、如何なる航空路も突破し得る立派な航空輸送擔当者が育成されるのである

来れ!大空に!航空機乗員養成所とは?
   国防上航空機が欠くことのできないことは国民の誰でも知らないものはありません。航空機を持たない國が一日も国家としてたつてゆけないことは、支那事変のわが荒鷲の威力や、今度の欧州大戦で独伊空軍の活躍の例をあげるまでもなく誰しも否定するものではないでせう。
   さらにまた政治、経済、文化方面からみても航空機の存在が如何に有効なものかといふことも知らぬものもないと思ひます
   しかし実際にわが国民の航空に対する認識は誠に心細い状態であるといはねばならぬと思ひます
   例へば子供が航空の職就かうとすると親は危険だといつて反対するし、旅行等も飛行機より汽車汽船の方が安全だと思ひこんでゐる。これでは航空機乗員養成所のあることなど、知つてゐる者はまづないといつてよいでせう。こんな有様で、果して航空を認識してゐるといふことができるでせうか。水盃をして飛行機にのつたのは昔の話です。今日では最も安全迅速な交通機関であり国防上絶対にかくことのできない機関が航空機です。しかしわが國の航空界は、陸海軍は別として民間航空は遺憾ながら世界列強に比べてまだまだはるかに遅れてゐるといはねばなりません
   民間航空は陸海空軍の第二線空軍です。戦争の継続には後方に有力な補充員を持つてゐることは絶対必要条件です
   最近各種学校でも航空に関する教育が実施されるやうになり、飛行協会も機構を拡充して航空教育の指導啓発に努力してゐることは非常によろこばしいことといはねばなりません
   逓信省の航空局では国民航空課を新設して大いに民間航空の発達をはからうとしてをりますが、それにはまづ優秀な航空機の乗員たる操縦士、機関士を養成せねばなりません
航空機乗員養成所はそのために設けられた官立の航空学校です。今その内容を説明してみませう
航空機乗員養成所
   中央航空機乗員養成所は千葉縣葛飾郡高木村常磐線松戸驛の東方約二里の地に四十萬余坪の大飛行場、東洋一ともいつてよい四千平方米『ダイアモンド』式鉄骨大格納庫等を備へた壮大なものである
   地方航空乗員養成所は仙臺、新潟、米子、熊本及び印旛(千葉縣下印旛沼付近)の五箇所に設立されてゐる。そこではどんな教育がなされてゐるか、次に述べよう
中央航空機乗員養成所の教育
   中央航空機乗員養成所には操縦科、機関科の二科があり、操縦科は地方養成所を卒業し陸軍または海軍の予備下士官候補者教育を受けて予備役陸軍伍長または海軍三等兵曹になつた二等操縦士、二等航空士の免状保持者を生徒とし、一等操縦士の資格を付与する
   即ち中央養成所生徒は地方養成所卒業者に限られてゐるのであるが、現在は仙臺、米子の臨時養成所卒業者である予備役伍長、三等兵曹を生徒としてゐる。本年三月末、第一期生徒が卒業したが、一部は地方養成所の教官に、大部分は大日本、満洲、中華の欠く航空会社の操縦士として就職している
   機関科生徒も同様地方養成所卒業者の中から銓衡の上採用するのであるが、現在は甲種工業学校卒業者またはこれと同等程度の者から選抜採用している。そして将来機関士として必要な学術科即ち飛行機発動機及びその付属品の取扱に関する学術科を教育するのである。操縦科は二年の課程である
地方航空機乗員養成所の教育
   地方航空機乗員養成所は五年で、国民学校卒業者から選抜採用する。第三学年までは普通学、航空工業に関する基礎学術を修習せしめ、第四学年の中期から飛行機の操縦術を教育し、第五学年をもつて二等操縦士、二等航空士、及び滑空士の免状を付与するもので、その上甲種工業学校卒業者と認定さるるものである
航空機乗員養成所の特徴
   航空機乗員養成所生徒は全く軍隊に入つた兵隊のやうに、被服、食事を貸与または支給されることはもちろん、養成所内の生徒舎即ち寄宿舎に起居し、書籍文具から小遣銭まで給与される。とにかく、褌一本で入所すれば、無一文で一等操縦士、或ひは機関士に、または甲種工業学校卒業資格と二等操縦士の免状をもらふことができるといふ全く他に比類ない官立養成所、官費の航空学校である
生徒の日常生活
   生徒は軍隊の学校と全く同じ要領で養成所内の生徒舎に起居してゐる。寝室は十名内外毎に一室となり、別に同様十名内外毎に自習や手紙を書く自習室がある
   毎朝五時三十分(冬期は六時)サイレンの音で起床すると、日朝点呼、国民体操、乾布摩擦で新鮮な空気を吸つて目を醒し、それから宮城遙拝、父母に対する感謝の例を行ひ、寝室自習室の整頓、掃除を行ふ。六時三十分に朝食。八時まで随意時間で被服、武器等の手入をする
   八時教育開始。操縦性とは飛行服に身を固め、飛行場に整列の上横転逆転、宙返り等大空狭しと乱舞する。また航法計画に基づいて航空法飛行を実施する。雨天の際には操縦関係の学科や、飛行機の整備を格納庫内で実施するのである
   十二時二十分昼食。十三時二十分から午後の課業であるが、操縦士として将来必要な数学、語学、飛行學、発動機學或ひは気象学等々の学科やこれに関係する術科を工場で実施する


   機関生徒は年次によつてもちろん違ひがあるが各種航空工学、工場における各種の術科、取扱法、或ひは各種計測器の取扱、修理法、酸素溶接術、時には飛行機に搭乗して機上作業教育を受ける。二年次には滑空機の操縦、取扱、修理法等の教育も受けるのである。作業服に実を固めてハンマーやスパナを手にして活動してゐる機関生徒の勇姿もまたたのもしいものである
   十六時両生徒共に教育終了。それぞれ勤務生徒の指揮のもとに駆歩で楽しい生徒舎前に引率され『解れ』の号令で一同『御苦労』と叫び解散する
   十七時三十分まで運動時間である。剣道防具を手にして道場に走り込み『お面』『小手』と叫ぶ者、裸体でテニスコートやバスケットボール場に乱舞する者、飛行場付近を隊列を作つて駆歩する者等々元気溌剌たるものである
   かうして十七時三十分夕食であるが、全くうまさうな顔付で飯をかきこむ。十九時まで随意時間で、娯楽室で尺八を奏するもの、ハーモニカを吹くもの、雑誌を耽読するもの、今日の飛行や、作業について語り合ふもの等々全く楽しい時間である。
この間に一日の労を慰める入浴もする
   十九時から二十一時まで自習時間である。一同静粛に自習室の机に向ひ、今日受けた課目の復習や明日のための準備をやる。時々宿直官が巡つて監督する。二十一時日夕点呼である。勤務生徒の指揮で廊下に整列。元気な声で番号を称呼し宿直官の点検を受け、諸注意を聞き、各寝室に入り寝台にもぐり込む、雛鷲の夢はさだめし蒼空を駆けめぐることであらう
給与
   前にも述べたやうに一切官給であるから、褌一本で入所すれば宜しい。被服は冬服、夏服各二着、別に飛行服、それから飛行靴、運動靴等軍隊学校の生徒と変わらない品々が支給される。実際飛行機に飛行眼鏡を着けた時の颯爽たる勇姿は全くわが青少年諸君の憧憬の的である
運動・娯楽・休暇
   起居のところでも述べたやうに運動は盛んである。殊に被後述に最も関係の深い剣道には一入力を入れてゐて、昨年の段級試合は初段、二段の免状を受けた者が十数名ゐた。剣道具は各人に一組宛貸与してある
   遊泳は夏季千葉海岸に毎日バスで往復して実施をするが、これも生徒の極楽日であらう
   日曜・祝祭日の休業はもちろん、年末年始の休暇、学年末休暇、夏季休暇も大体軍隊と同じである。だからこの間に楽しい家庭に帰つて家族に自慢話もできるわけである
養成所の編成
   養成所は大体庶務科、操縦科、機関科生徒隊から成り、庶務科では一般庶務、会計経理医務診療に関する事務を、操縦科は生徒の操縦教育、教育に要する飛行機、発動機の整備及気象観測航空無線に関する現業に、また機関科は生徒の機関工術の教育即ち飛行機、発動機、プロペラ各種計測器類の取扱、修理法から機、鍛工術機械工術等々技術に関する教育をするほか操縦科用の飛行機、発動機の等の修理に任ずる。生徒隊は生徒の教育を主として教育する処となつてゐて、各科とも隊には科長隊長がゐて全般の指導監督をしてゐる
臨時乗員養成
   以上は中央地方を通じて乗員養成の状況を要約してのべたのであるが、地方養成所は本年四月創設せられたばかりであるからこれ等の卒業生をだすまで暫定手段としてこれまで通り臨時乗員の要請を実施してゐる。この臨時養成所入所する資格は中等学校三年終了程度の学科試験と体格検査に合格したものである
   また地方養成所第三学年生徒も募集してゐるが入所資格は中学二年終了程度の学科試験体格検査に合格した者の中から選抜するので入所後第三学年生徒に編入し、第三学年では航空に関する基礎的学術科を教授し、第四学年より飛行機の操縦術を教育し満三年をもつて地方養成所卒業の資格を付与するものである


志願方法

志願なさる方のために次に応募資格を揚げておきませう
  (一)年齢 満十七歳−十九歳の男子
  (二)親権者又は後見人の同意を得た者で身長一・五五米、胸囲〇・七六米、体重四七・〇粁以上の者
  (三)志願手続
願書、戸籍謄本、最近の写真を昭和十六年七月十日到着するやうに航空局(東京市麹町区大手町)に提出をすること
  (四)採用試験
身体検査と学科試験を行ひますが学科は国語(読方、綴方)数学(算術、代数、幾何初歩)で中等学校三年終了程度です
  (五)合格発表 昭和十六年九月中旬
採用者は仙臺、米子、印旛の各地方航空機乗員養成所に配属されて陽性されることになつてゐます
くはしくは(東京都麹町区大手町航空局乗員課)又は(千葉縣
松戸局私書箱第二号中央航空機乗員養成所庶務科)に照会せられたい

むすび
   本年度の航空機乗員養成所、入所志願者は前記各種生徒を通じ役一萬人であつた。しかし航空日本としてこの志願者数は決して多いものではない。このやうな結果も航空に対する認識の不足とこのやうな航空機乗員養成所の存在を知らぬことにも原因してゐることと推察されるものである。宜しく本誌の読者たる青少年諸君よ『空だ男の行く所』の標語の如く奮つて養成所にこられんことを切望して已まないのみならず知人友人にも大いに宣伝して貰ひたいのである『ヒトラー』『ゲーリング』或ひは『ムッソリーニ』といふ世界を掌握せんとするの士たる彼等大空において世界を俯瞰し宇宙を大観せるに依るものである。将来敢へて航空事業といはずどんな事業に関与するにも航空を真に理解せざるの士は人後に落つべきものであらうと思ふ
来れ青少年よ、大空に天女の友とならうではないか
(中央航空機乗員養成所所長 佐藤 進*3

*3この佐藤進という方は宮城県出身の陸軍少将である。民間の航空技術を学ぶ学校という名目でも、実際は陸軍の傘下にあったと言って良い。昭和四十年没。

奥附
編集は情報局とある事に注目されたい。つまり国策雑誌であるという事だ。
(禁転載)とは書いてあるが、戦後六十年以上も経っているのでご勘弁願いたい

おまけ
この雑誌の中の広告が時代を反映して興味深いのでおまけとして掲載したい
支那事変国債 六月二十日ヨリ 七月一日マデ
郵便局売出し 大蔵省・逓信省
支那事変とは昭和十二年に始まり終戦まで続く日中戦争を指す。この雑誌が発行された昭和十六年までは事実上戦争状態に近かったにも関わらず、対外的には日本も蒋介石率いる中華民国も戦争という体裁は取らず、国交関係も維持していた。
昭和十五年フランス領ベトナムへ日本軍が進駐した事により、昭和十六年のこの雑誌が発行された頃、報復措置として日本に対し石油や鉄などの禁輸や日本の資産の凍結などが行われた。この為、状況が苦しくなった日本は同年昭和十六年十二月八日真珠湾攻撃によりアメリカに対し宣戦布告した。
つまりこの雑誌が発行された頃の日本はドロドロの戦争に突入する状況だったと言える。