表の家

つれづれなるままに46-50


50 北京の高層ビル火災

先日北京で工事中のTVCCビルが火災になった。燃えている最中のニュース映像を御覧になった方はいらっしゃるだろうか?
まるで木造の火災の様に燃え,そのまま崩れ落ちるのではないかと思わせる程激しい燃え。
実にショッキングでアクション映画さながらだった。

あのビルは今年マンダリンオリエンタルホテル(240室)が入る予定のビルで有名建築家OMA設計による注目建築だった。
火災の原因はまだ特定出来てないらしい。

外壁内側に使用する断熱材は一般的に吹付硬質ウレタンフォームと呼ばれる現場で吹き付けるタイプの断熱材が主流だ。
北京のあの現場でその材料が使われていたかどうか定かではないが、北京の気温から考えて先ず断熱材は必須であり、施工の容易さから多分間違いなくそれが使われていたのではないかと考えている。
通常、ウレタン吹付け工事中は火気厳禁で火災の起きやすい状況になっている。ウレタンフォーム施工箇所の回りの清掃整理整頓、その他の施工者への教育などが行われる必要がある。北京の現場でそこまでしっかり管理されていたかどうかは疑問だ。火元は花火なのか何なのか分からないが、ウレタンフォームが燃えた主体だと思うがいかがであろうか?
数週間も経たないうちにその原因が明らかになるだろう。
ああ火事は怖い。

49 竹ヶ花の露頭ー昔日の松戸


松戸市史(上巻)より
松戸行脚のコンテンツである「竹ヶ花古墳」を「竹ヶ花古墳とお墓引越し」という題名で復活させた。あの記述を書いていて、少し思い出したことがあった。
あの丘は戦後の空中写真から参照出来る事として先ず、昭和三十年代初頭に新京成電鉄がこの地に開通した事で一部が削られたようだ。根本の金山神社と市役所の台地も新京成電鉄によって切り離された。
そして、昭和三十六年宅地化の目的で竹ヶ花古墳遺跡のあった部分が削り取られ、それから暫くの間は丘の露頭が見えていた。あの露頭は関東ローム層独特の色をしていたんだと思うが乾燥した赤土が目立ち、触ると粘土質の部分が多くあった。
露頭は直角に近い急斜面だったので、遊ぶのには非常に危ない場所だったが、懲りずに遊んだ覚えがある。
平地の部分には時々骨董市が開かれ、とても安い値段で茶碗が買えたので、当時もらっていたお小遣いで両親に誕生日プレゼントをした思い出がある。
母は「こちらがあげたお小遣いでプレゼントではね」と苦笑していたが概ね喜んでくれたので私としても嬉しかった。
昭和四十一年にお墓の移動と共に丘も無くなったが、正面の奈良屋の屋外駐車場として使われていたような記憶がある。
フレール松戸はそれからかなり後になって出来たんじゃなかったかなあ!?

又、フレール松戸から見て線路の対岸、元ワンダーマートのあった場所(現在はオーククリニックフォーミズ病院という産婦人科医院)は昭和三十年代はやはり露頭が見えていてそこに防空壕らしき穴があったと魚処「吉泉」のマスターが言っていた。松戸は台地があったので防空壕は横穴式に作る事が多かったという話を聞いたことがある。

48 頑張れ!図書館員

よく松戸市立図書館本館三階で資料調査をしている。ここには様々な人々が来ては帰るを繰り返す。二階と違い三階は大切な資料があるためかカバンの持ち込みは厳禁でロッカーに入れる。知らない人はカバンを下げたまま、つかつか入ってきてしまうので図書館員は慌てたようにロッカーに入れて欲しい旨説明する。三十〜四十分に一人はこういう人がいる。注意を受けた人の半数は云われたとおりに格納するがその他大半の人はただ様子を見たかっただけなのか、或いはカチンと来たのかそのまま帰ってしまう。その他、頭がおかしくなっちゃったのか室内を走り回っている人や大声を出しながら調べ物をしている人も居る。

こういう場合の図書館員は実に物腰低い。彼等に注意はしているようだが、決して怒らない。始終ニコニコした態度だ。冬のある日、臭オジサンもやってきて新聞を読んでいる事もある。市民に公平な図書館員は決してこんな寒い日に「臭いので外に出てほしい」なんて残酷な事は言わないが、私は頭痛がしてくる。

ある日、自称`80歳を超える`男性(軍隊オジサンと名付ける)が受け付けカウンターに現れた。実に声が大きいので聞こえてしまったのだけど、話の様子から市民会館の催しの事を聞いてきたらしい。対応をしていたのは細身の図書館員の女性。始終ニコニコしている細身の人だった。

ところが何故かいつのまにか話が脱線して軍隊の話をし始めた。話に勢いが付いて止まらない。私はうるさくて仕方ない。私の周りの人も実に迷惑がっていた。反面この状況にキレる人が現れないか期待していた気持ちもあって成り行きを見ていた。

軍隊オジサン「私は朝鮮半島の○○に居ましてね。○○で終戦を迎えたんですよ。あははは!」それにしても同じ事とを繰り返し話しているので聞いていて疲れる。ニコニコ細身の女性図書館員はよくこの状況に耐えて話を聞いているものだ。

二十分は話が続いていたと思う。そのうち東京裁判の話になってくるとこの`軍隊オジサン`気持ちが高揚してきたのか言葉にはりが出てきた。
軍隊オジサン「東京裁判の途中でこんなセリフがあるんですよ」
と云ったかと思うと突然大きな声で判事の英語を朗読してみせた。暗誦しているのはご立派だが何も図書館でお披露目はしなくて良い。何よりうるさくてたまらん。

軍隊オジサン「今の大学生はこんな単語誰もわからんでしょ。あははは!」
それは余計なお世話でないかい?私の前に座っていた大学生らしきが実に迷惑そうに調べ物をしていたが、それ以上の状況には発展しなかった。

途中他の図書館員も助け船を出していたようだが、この`軍隊オジサン`の話は止まらなかった。話しているのは自分だけだったから疲れてしまったのか、四十分ほどして軍隊オジサンは御帰還なされた。対応していたニコニコ図書館員はほっと胸をなで下ろして、他の図書館員から苦笑混じりに「ご苦労様」と労いの言葉をもらっていたっけ。
こういう人達も来るのだから図書館員は実に大変だが、とても丁寧な対応をしている。
もしそうしなければこの軍隊オジサンは所謂「暴走老人」一歩手前で、それだけは避けたいというのは多分本音であろう。

頑張れ!図書館員のみなさん!応援してます。

47 松戸にあったアイススケート場−昔日の松戸

松戸に以前あったアイススケート場は知っている限りで、三箇所あったがすでに現存しない。サニーランド、新松戸スターランドアイススケートリンク、ダイエーレジャーランド新松戸アイスアリーナ。サニーランド自体が昭和四十年代に出来て、平成十八年閉館で四十年近い営業をしていた。サニーランドは遊びの施設がこれでもか……というくらいあったので、それぞれの施設がいつからいつまであったという事はよく覚えていない。スケートリンクも同様。

新松戸スターランドアイススケートリンクは大阪万博が開催された昭和四十五年頃の開店だったと思う。まだ、武蔵野線が開通する前で当然ながら新松戸駅も無かった。武蔵野線開通は昭和四十八年。その為施設名の頭に「新松戸」とは冠されていなかったと思うがはっきり覚えていない。オープン当初竹ヶ花に住んでいる私がスターランドに行く場合、馬橋か北小金駅から歩いていった。送迎バスがあったかもしれないけどあまり覚えていない。

昭和四十八年に武蔵野線が開通し新松戸駅が出来たことで、最寄り駅は新松戸駅になったのだと思うが、実は北小金駅から歩いても新松戸駅から歩いてもそんなに距離が違うわけではなかったと思う。スターランドと聞くと何となくボーリング場もありそうだが何故かそれは無くて、夏はプール、冬はアイススケート場という営業だったはずだ。あのスターランドも平成十四年に閉店して、現在はライオンズマンションになった。約三十二年の営業だった。

新松戸駅は昭和四十八年に完成したが、暫くの間新松戸の区画整理エリアは建物が殆ど無かった。四、五年後、パストラルなどの高層住宅が出来てから徐々に様相が変わってきた。そして、やっと昭和五十六、七年あたりにダイエー新松戸店がオープンした。スケートリンクは最初からあったと思う。新松戸アイスアリーナは従ってかなり後発組だった。有名プロスケーターも来てデモをやったらしいが、私は云っていないので分からない。平成七年に閉店。約十四〜五年の営業だった。

小学生の頃は小根本公園の近くに大きな池があって、冬になり氷が張るとよく遊びに行った。
通学用の運動靴で滑る。それでも十分楽しかった。
追記:松戸にあったアイススケート場として上本郷にあった松戸レジャーセンターにもどうやらスケート場があったらしい。当時の電話帳に書かれていた。下写真は北松戸駅を背に六号線を見ると現在のマルエツ辺りのビルの屋上に松戸レジャーセンターの広告があった。松戸市市勢要覧1971年より

46 クサオジサンのお話(千代田線話)

万国博覧会の開催される数年前から、八木治郎司会による「万国びっくりショー」というテレビ番組があった。毎週世界中のびっくり人間が登場した。患者に痛みを与えず掌だけで手術をして患部を除いてしまい、さらに手術跡も残らない全く不思議なそして怪しい心霊手術を始め色々な人が登場した。

そんな中で顎が外れて顔がペチャンコ、クシャクシャになってしまう「クシャオジサン」というオジサンが登場した事があった。「クシャオジサン」は御健在なのかどうかわからないが、今日のお話は「クシャオジサン」ならぬ
「クサオジサン(臭オジサン)」のお話。

ここ数日忙しく帰宅時は出来れば座りたい。
霞が関駅で我孫子方面の千代田線を待っていると混雑した電車がホームに滑り込んできた。「こりゃ座れないな」と諦めモードで乗車したらなんと不思議、私の乗る車両には席が空いている。連結部付近の三人掛けが対であるうち、手前が二人分、その対面が一人分の空席がある。私は手前のシートに座った(上図参照)。

あれ?空気が違うと気が付きつつ、何故そのエリアに空席が三つも出来ていたのかが即座に理解出来た。私のベンチシートの端に座っていた人が原因だったのだ。少なくとも二ヵ月以上は風呂に入っていない臭いが漂ってきた。対面シートの左側の人は酔っているのか爆睡中、右の若者はタオルを鼻にあてて明後日の方を睨んでいる。

そりゃ、分かる。私も頭痛と目まいがしてくる。電車を替えるか?でも疲れているから座りたし、しかし隣は臭し
「そうだ、北千住まで我慢して快速に乗り換えよう!それまで我慢だ。そのうち嗅覚がおかしくなって感じなるかもしれんから……」と考えていた。

駅に着き乗客が入ってくる様子を眺めていた。乗客がこの臭いゾーンに入ると途端に
臭オジサン(クサオジサン)から距離を取り離れていく。中には隣の車両に逃げてこんで行く人もいた。人の流れに興味を感じ臭い事を承知でこの席に座り続ける事にした。

そうこうしているうちに車内はいよいよ混雑してきて、止むを得ずこの臭ゾーンも混み合ってきた。いくら混み合ってきても、
臭オジサンと私の間の空席に座る人はいない。そんな時に小柄な六十歳は超えるオバタリアンが席を取ろうと勢いよくやってきた。
「このオバタリアンは勇気あるなあ」と思いつつ観察していたら、流石に臭かったのか座らず、身を翻す様にして離れて何故か私の前に立った。
欲深オバタリアンだと見えて、空席に未練はあるものの、然し臭オジサン隣は嫌だと言った感じだった。その結果がこの臭ゾーンから極端に離れないといった行動をとったように見えた。

とその瞬間だった。
臭オジサンは臭い腕を伸ばし、この欲深オバタリアンのコートの裾をツンツンと引っ張った。そして隣の空席を指さしてトントンという動作。つまり「ここに座りなさいな」という意味だろう。この瞬間欲深オバタリアンにとって、臭オジサン臭岡真理教の教祖となった。この欲深オバタリアンはその臭いお導きに素直に従うだけの、いわば「蛇に見込まれたカエル」の如く、体がすくんだようになって、臭岡教祖に導かれるまま臭オジサンの隣に座った。多分恐怖で立ち上がれないのかもしれない。

すぐ隣じゃ本当に臭かろうと感心して様子を見ていたが、五ミリでも十ミリでもこの
臭オジサンから離れたいのか、体を固くして私の方にギューっと寄ってくる、私は新聞が読めないヨこれじゃ。とはいうもののこの欲深オバタリアンは千駄木で逃げるようにして下車した。束の間、私の隣は空いたままだったが、西日暮里駅で再び人がドカドカと乗車してきた。別のオバタリアンがその空席を争うようにしてやってきた。座りたそうにして、でも臭そうにして私の前に立った。先程のオバタリアンと全く同じ行動だった。

再び
臭オジサンは臭い腕を伸ばし、このオバタリアンのコートの裾もツンツンと引っ張った。再びココへ座れのポーズ。このオバタリアンも又「蛇に見込まれたカエル」になり素直に従った。女性というのは積極的なアクションに対して、結局そういう行動を取るものなのだろうか?

私も臭かったが、次にどういう展開になるのか楽しみで結局松戸駅までそのまま乗ってしまった。松戸駅に到着した瞬間、この臭ゾーンから離れ乗降口に向かったら、私の隣に座っていた
オバタリアンも脱兎の如く逃げていく様子が見えた。