表の家

松戸行脚 松戸の市場



松戸の市場 小山・丸松市場


松戸角町の交差点を市川方面に左折し直ぐの場所に青果市場がある。市が立つ時間ではないが訪れてみた。

廃墟のような不思議な建物


常磐線線路側の景色:一見廃墟と思える建物。常磐線乗車内から見ても不思議な建物といった感じ。

建物内部


中はガラーンとして、業務用車があり市場は開かれているようだ。

水戸街道側外観


市場事務所


松戸の青果市場について

松戸は学校では歴史上水戸街道の宿場町であり、鮮魚などの物流の拠点でありました。同時に街道から外れる所は殆どが山であり、田畑だった。つまり松戸は戦後昭和30年代までは農業用地が大半だったと言える。

現在松戸駅付近にある市場は、この丸松市場及び松戸新田に大規模な南部市場がある。
南部市場はアーバンヒル松戸の建設などをした松久総合開発が経営していたが、会社更生法適用を受け現在は別の会社が経営。神谷社長は週刊誌や書籍などで今をときめく経営者として、知られていたが今はどうなったか?
(写真は朝日新聞社発行アサヒグラフ昭和五十二年十月二十九日号 森みどりの千葉県探訪記より)

松戸にあった昭和三十年代青果市場

「松戸市史」によれば松戸には昭和三十年代青果市場が本分場合わせて十五あった。
丸松青果市場(小山、馬橋、日暮、六実)このうち小山は現在でも残っている。上の写真は小山の写真。
丸新青果市場(松戸一丁目及び竹ヶ花) これは松戸大宝前の踏切から斜めに水戸街道方面に入った場所(現在のDマート前の公園辺り)、そして南花島の吉岡材木店から上本郷まで至る道沿い、吉野燃料店の少し先
丸果市場 根本の金山神社前の踏切付近にあった
農協馬橋市場
東印青果市場
(五香、初富)、小金青果市場、六実市場、紙敷市場、秋山市場

出荷手段と出荷先

集荷物の市場への搬入は初期的にはリヤカーで運んでいたものの、昭和30年代の初期にはすでにオート三輪や小型四輪車を所有する農家が激増し、その日の相場によっては東京都内の市場に出荷していたようだ。戦後昭和二十四年くらいまでは農作物の不足で作れば飛ぶように売れた野菜だったが、蔬菜、芋類、食肉の統制が撤廃、雑穀類の統制が解除、麦が間接統制と次々に変わっていき状況が変わった。
農地改革によってGHQのバックアップもあり小作農家に土地が安く与えられた事も手伝い、生産性が飛躍的に伸びた。昭和二十年代までは出荷はリヤカーの時代で、昭和三十年代の前半から徐々にオート三輪による出荷が増えていった。移動手段の自由度が増した事から出荷場所も、相場によって松戸でなく東京に出荷する人も現れてきた。

松戸市東部地区の農家五十六戸を対象とした昭和三十四年の調査があって、これによれば東京都内市場へは実に68%が出荷されているのに対し、地元市場へは29%と言うように変わってきます。しかしながら出荷の方法には個人で行うとどうしても売りたたかれるのは止むを得ないので共同出荷という方法で農作物の価格安定を目指そうとしたわけだ。
(以上、松戸市史からの抜粋)

岩瀬在住MKさんのお話
`ゆうす`と`なげし`

岩瀬にお住まいのMKさんに興味深いお話をお伺いした。MKさんは古く先祖代々岩瀬にお住いで昭和三十年代までは農業を経営、出荷されていた。現在は全く違う職業をされていらっしゃる。

「(松戸駅近くの)丸新市場には小さい頃、親父の手伝いで何度も行ったものです。夕方に市が立ちます。これを`ゆうす`と言いました。何故夕方の市なのか?と申しますと、丸新は地元の野菜を扱っている小規模の市場でした。農家が朝収穫をして、午前中野菜を洗い、午後にワラ縄をよって野菜を縛るわけです。例えば、ほうれん草の場合、まずワラを引きます。その上にほうれん草を二段に重ねます。ほうれん草の端でワラをひね固定する。正面ではほうれん草が傷んでしまうからです。そしてリヤカーで最寄りの市場に行きます。到着する頃には午後3時頃になる。そして午後3時半くらいから市場が開かれます。これが`ゆうす`です」

「神田の青果市場のように大きな市場では全国的に荷物が集まりますのでどうしても翌朝の市場になりますが、そういう理由で丸新のような地元産野菜中心の市場は夕方がメインなわけです。丸新市場(松戸駅近く)に集まる農家は岩瀬、胡録台、古ヶ崎の農家が多かったようです。丸果市場(金山神社近く)に集まる農家は伝兵衛新田などからが多かったのじゃないでしょうか?夏になると日塩道路(日光と塩原を結ぶ道路)の方面から「松貫」という(屋号)の`なげし`が高原野菜などを売りに来ていることもありました。`なげし`というのは農家から直接安く買った野菜をトラックなどで遠方の市場に運び差益を得る人の事です。多分、松戸の市場で買った物を神田青果市場に卸している`なげし`も居たと思います。丸新(松戸駅近く)は案外広く、場内には食堂もありました」

MKさんありがとうございます。

松戸市発展ともに転校してきた同級生


矢切のネギはブランド品として高級料理屋で重宝されるらしいし、まだまだ農業は健在とは言うものの、昭和三十年代から比較すると相当農地面積は減っている。石橋市長の時代からの悲願であった松戸の発展、工業化、東京のベッドタウン化進める事は、同時に第一次産業である農地を犠牲にせざるを得なかった。

他の土地から転校してきた私の多くの同級生は新しく開発された古ヶ崎、栄町に住んだ。あの一帯は住宅開発化以前、殆どが田畑だったわけです。小学生の頃、古ヶ崎二丁目在住の友人宅に行くとまだまだ区画整理が完璧に終わっていなかった為か、田んぼの中に建つ新興住宅というイメージだった。今同じ場所に立ってみても農地であった面影は殆ど感じない。

ただし、流山街道を境にして江戸川側(古ヶ崎一丁目)、栄町の坂川を境にして流山街道側に向かうと今でも充分農地はある。栄町在住の同級生AK氏によれば転校してきた小学生の頃は自宅周辺の側溝はまだ綺麗な水が流れていて、畦道の水路のように魚も採れ面白かったという話を聞いた。ある時期から生活排水で汚れ、U字溝化され単なるどぶ川に変わったらしい。

大正四年発行「松戸案内」で記述されている青物市場

大正時代の記録となっている松戸案内にはこのように書かれている。多分これは丸松市場の事を指していると思われる。

「青物市場:青物商有志の合資組織で出来ていて、場所は松戸神社の南にある。毎朝地方の商人は未明より群集して青物商人と共に茲(ここ)に市場を開くので、その喧々騒々たる糶買の有様は実に耳を聾する許りである。由来本町附近は野菜蔬菜果物の名産地として有名なもので、東都二百万市民の口にする青物類の大半は本件殊に本町地方より供給するもので、其輸出額も蓋し尠少ではないのである。故にこれら仲買商も甚だ多いので、就中吉野屋、中田屋等の如きは甘藷、らつきやう、切干等を遠く信越東北地方に迄盛に取引されるのである。」
松戸案内 松戸案内大正四年より
注:糶買(ちょうばい、つまりセリの事)、聾(ろう、つまり耳が不自由な事)、尠少(せんしょう、つまり極めて少ないこと)



この「松戸の市場」は松戸行脚2005において作成、2008年10月リメークした。