表の家

昔日の松戸101-105


105 紅屋と広告チラシ

先日、国立国会図書館の資料検索をしていたら「商店界」という月刊雑誌を見つけた。出版は誠文堂新光社という会社で、同社のホームページを見ると、この「商店界」という雑誌は大正十一年に発刊された雑誌だそうである(平成5年5月に廃刊)。商店がどの様に工夫をして生き延びていけば良いのか、売上げを伸ばしたらいいのかという様な事がコンセプトらしい。この「商店界」の1956(昭和三十一)年12月号に松戸の洋装洋品店の紅屋(ベニヤ)さんの事が書かれていたので非常に興味をひいた。店主の松本忠男さんが非常に商売熱心で、当時は月賦百貨店などは除いて、松戸の一般商店では頻繁に利用されなかった新聞折込みチラシを懸命に工夫している様が良く感じ取れ、この松本忠男さんの様な方が現在の松戸にもいて欲しいと思う。とても前向きな文章なので、是非表の家に掲載したくなってしまった。

紅屋さんと云えば小さい頃母に連れられて行った記憶がある。松戸駅西口区画整理前の事だ。その後、私は松戸に居ない状況が長く続いたので、千葉銀の横で営業していた紅屋さんのイメージが強く残っていた。
これを八嶋商店の八嶋さんに聞くとどうやら紅屋さんは二軒あった時代があるそうで、一軒は千葉銀の横で男性用洋装店、もう一軒は大多福さんのところで女性用の服地、洋装、洋品などを扱っていた店だったそうだ。前者は廃業してしまったが、後者の女性用洋装店の方は現在、ご子息の方が大多福を経営されているそうである
大多福と云えば妻と結婚する前に昼の定食を食べたり、夜飲みに行った場所で、あそこのキムチ鍋は手頃な値段で食べられるので大好き。私が妻と行って食べたときのメニューはイカシュウマイ、蓮根はさみ揚げ、穴子酢の物、お多福サラダ、キムチ鍋、アジタタキ、手取川二杯、レモン杯二杯ずつ、ムラ焼酎で結構な量になってしまったのを覚えている。
大多福さんはお勧めの店なので、行ったことの無い方は是非お勧めしたお店である。


大多福:千葉県松戸市本町6−10
047-362-2270


この商店界の記事に関し、誠文堂新光社への連絡を行い掲載許可をいただくつもりです。又、八嶋商店の八嶋様には大多福の現ご主人に掲載のご承諾を取って頂いた事に感謝いたします。本当にありがとうございます。

「商店界」 著者:誠文堂新光社 出版社:誠文堂新光社 1956年12月発行

広告未開地に継続したチラシの効果

松戸市一丁目

紅屋(呉服洋装生地) 松本忠男
店の状態と土地柄
いまの店は昭和二十九年開業ですから、日が浅いのですが、親はここから奥に入った馬橋というと
ころで呉服・用品などを扱っていたので、ズブの素人ではありません。この馬橋の立地条件では、い
ま以上の発展を望むには相当の努力が必要だし、婦人の服装も洋装へと大きく変化しているので、
これからは洋装生地でないと呉服店は伸びないと思い、まず松戸駅前の二坪の軒先を借り、洋装生
地を主力に扱ってみました。
昭和二十六年でしたが、売行き打診の意味で始めたのが案外予想外の売行きを示し、お客はふえ
る一方だし、いろいろの品物をきかれます。あれやこれやで二坪の店ではどうにもなりません。こうし
たとき、この二坪の店から二分ぐらい行ったところに間口四間半、奥行四間の空店が出たので、思
い切って手に入れたのがいまの店です。
扱い品は婦人、子供服生地を主力に呉服、洋品ですが、開店当初は駅構内と浴場の出し広告によ
る店名と扱い品の広告をしていました。しかしこれだけでは店も広くなったし、陳列商品も多くなった
ので、新しいお客を開拓しなければならない、と思うようになりました。
千葉県松戸というところは乗換えなしで、東京に四十分ぐらいで行かれるためか(※1)、サラリーガ
ール(※2)を始め若いお客は買い物というと東京にいってしまうのです。
また戦災を受けなかった商店街故、同業店の殆どは保守的で、農家や地元のお客のくるのをまって
いるといったノンビリした商売をしているのです。まあ旧いお得意にたよっているといった売り方で
す。したがって宣伝などというものは中元、年末の連合大売出しぐらいであまりやらないのです。
毎日入ってくる新聞折込チラシも隣接地区の商店や銀行のものや東京のデパートからのものが殆ど
です。
年末など、大増築したデパートが、一週間おきにチラシ広告を新聞に折込んだり、駅前にアドバルー
ンをあげて派手に宣伝しているのを見ている状態です。
地元の新聞折込チラシといえば金融機関か月賦販売店(※3)くらいのものです。
第一回目から成功したチラシ折込み
そこで私どもの店では昨年の十一月に開店一周年記念売出しと銘打って、始めてチラシ広告を新聞
に折込んだ次第です。もちろん経費もかかるし、果たして効果があるものだろうかと、内心ビクビクだ
ったのですが、これが案外アタったわけです。ということは木綿、人絹など裏地や端切れなど割合単
価の低いものを奉仕品として選びこれをお客に買って頂こうとボーナス時をねらって行なったことが
よかったのでしょう。

この第一回目のチラシ広告は、モゾウ五十斤一連で四千枚とれるものを八千枚、新聞に折込んだ
のです。二色刷で一枚一円六十銭と比較的高かったのですが、売り上げの四分献灯の経費で済ん
だのです。
そこで、継続的に行えば東京や隣接地区に流れていたお客をとり戻すことができるのではないか、と
いう見通しがついたのです。
十二月は商店街の共同売出しにぶつかったので、共同広告にまかせ、一月に自店独特な広告の計
画を立てました。
ところが、商店街の同業二十五店で組織している連合会から役員がきて、土地柄あまり派手な広告
をしないようにという申入れがありました。広告するなら共同で同一歩調をとろうではないかというの
です。

しかし他地区からはドンドン広告がくるので、五月に連合会を脱退する腹で春物一掃大売出しの第
一号広告をしました。
期日は二十六〜二十八日の三日間、純毛ジャージ、ヘヤーラインなどを特売品として、呉服もそろ
え、記念振り出しのときにつかった同じ人形を広告面に入れ、更に、毎月一回ないし二回の割合で
今後新聞折込みをします、第一号より第十二号までお集めくださった方には、本年末にプレゼントを
差上げますということと、売出し期間中に正札の一割引をする旨の割引券を印刷しました。この割引
券には住所、氏名を記入させるようになっています。
チラシ広告は記念売出しのときと同じ大きさのものを、記念売出しのときの倍、すなわち一万六千枚
を一里四方の地区にまいたのです。これも予定した売上高をはるかにこし、ストックの一掃に役立
ち、この時の経費は売上の三分で済んでいます。

六月に入ってからは、雨のサービスゲームをフロクにして、服地の祭典売出しをしたのです。期間は
一日から十五日まで、この間に一滴でも雨が降れば、三角くじにより割引をする旨を広告に刷った
のです。
これはお客が品物を買うと三角くじを渡し、黄色が出れば買上高の半値割引、赤は一割引、末等は
黒で五分という仕組です。

梅雨期だったので、雨の日にわざわざ買いにくるお客のサービスのつもりでやったところがテリ入
梅、どうも失敗におわりそうだと思って、八月に盛況御礼期間を二十日まで延期して、晴雨にかかわ
らず三角くじを差上げるという広告で追打ちをかけました。
これがお客に受けたのか十日すぎから毎日売上が伸び、三角くじはどうやらはけたわけです。結果
は期待した程のものではなかったのですが、追打ちをしなければ全然の失敗に終るところを、どうや
らギリギリ一杯のところで、儲けはなかったが、経費は浮いた次第です。
これに引続いて二十日から二十五日までの夏物純毛服地サヨナラセールとつづけて広告をしてきた
のですが、この頃だったと思いますが、連合会より共同で売出しをやらないかと逆に申入れがあった
のです。

自分では連合会から除名を申渡しにきたのだと思っていたところが、一緒に広告しようとの話です。
その内容も雨のサービスゲームと同じ方法の三角くじによる割引販売です。いままで連合会で派手
な広告はよそう、といってきたものが、街の発展のために、少しでも他地区に流れていたお客を喰い
止めようと連合会で話がまとまり、附合って一緒に広告しないかというので喜んで参加したわけで
す。

七月の連合広告後、月遅れのお盆をねらって八月には一日から五日まで、美しい進物箱に包装し
ますという書出しの、夏物プリントの特売広告をしました。これで四号になったのですが、お客から、
地元にこれだけ服地を揃えた店があるとはしらず、買物は東京にいっていたが、広告によってはじ
めて知った。東京に行っても同じなら、地元の方が手数が省け便利だという言葉をもらってます。
失敗を土台にして一段と進歩
かくしてますます広告をしなければならないと、矢つぎ早に追打ち広告を計画し、五号と六号を一緒に印刷して少しでも経費を下げようとしたのですが、これが見事に失敗してしまいました。
もちろん五号はよかったのですが、六号の方は八月一日から五日までの売残品処分をねらった値段入りのものでしたから二週間前の相場では通用しなかったのです。
ちょうどこのチラシを新聞に折込んだときが、プリントの大暴落で、チラシに発表した値段ではお客にしてみれば別に特別奉仕の値段ではなかったのです。少しでも広告費を下げて、その分だけお客にサービスしようと思ったことが逆効果になったのです。
やはり広告はその都度作らないとダメであることを思い知ったわけです。一ぺんにたのめばそれは割安になりますが、移り変わりのはげしい衣料業界はそんなケチなことは通用しないということを経験したのです。

チラシ広告原稿で値段入りのものは特にこの点注意しないと、丸損になります。
この不成績にこりて、再び売残品を一掃するためにアベックセール大売出しを行いました(※4)。これは売台を緑と赤とに布で色分けし、緑台の商品(市価)を買ったお客には、同じヤール数だけ赤の台の生地を一ヤール十円で売るという仕掛けです(※5)。緑台の価格は最低一ヤール百五十円ですから、これとブロードプリントを併せて、一ヤール八十円平均になります。
これと併行して秋物の毛織物がかなり動いたので、シーズン前の売出しと、在庫整理という面では目的を達したといえます。
新客と固定客二通りの宣伝方法
このように足かけ一カ年、宣伝広告をしてみて思ったことは、多量に売れば、売るだけ広告費も下が
りますから、店の経営について絶えず改善するようになります。
アベックセールとか、三角くじ進呈といった催物をつけた売出しは平素よくきてくれるお客はあまり姿
を見せず、殆どが新客です。

逆に広告に値段を入れない流行品の発表売出しとか、シーズンにさきがける新柄をしらせる売出し
などは固定客と思われる方が買物にみえるという傾向があるのです。そこで広告も新客をねらう場
合は、いろいろな附録をつける一方値段なども思いきった割引値段にすることです。
しかし固定客を対象にするときは、他店にない品質、柄行、色調、などの品物を主にしなければなら
ないことを発見したのです。

そのためにはデパートや東京から入ってくる有力小売店の広告はすべて自店の参考資料とし、一方
日刊新聞や業界紙、メーカー、問屋などの機関紙に目を光らせます。
更に問屋などにできるだけ出向いて、自店に有利になるものを仕入れます。ついでにデパートや有
力小売店でよく売れているものを調べたり、陳列方法、サービス振りを見学します。よく売れている品
物、その柄、色調がわかったらこれを広告の中にすぐ様入れて、お客を引くようにしますから、広告
をすることはそれだけ商売に対して真剣さを増すことになります。

広告によって、集まってきたお客に、広告通りの品物がなかったり悪かったらどうでしょう。お客は再
びその店に買いにきません。
つまり広告によって、新客が買物をした際、満足のいく品物でなかったら、広告をすることによって自
店の悪いことをしらすことになります。こんな広告ならしない方がましなくらいです。広告をする以上は
お客に満足のいくように、店舗のサービス、品物のサービス、接客のサービスに留意して経営内容
をハッキリつかんで、計画的に行わないと、自ら墓穴を掘ることになります。
「商店界」 著者:誠文堂新光社 出版社:誠文堂新光社 

1956年12月発行
※1 : 昭和30年代、常磐線が有楽町発着だった事がありました。下記の映像は昭和36年の東京
駅で、常磐線平駅行きの汽車です。

昭和36年の常磐線
※2 : サラリーガールという言葉が案外新鮮
※3 : 月賦販売店、当時は松戸にも京屋百貨店などの月賦販売店がありました。
※4 : アベックという言葉は以前日本で一般的に使われていた現在のカップルを指す言葉。フランス語の前置詞avecから来ているが、フランス語ではカップルの意味では使われない。単なる和製外国語らしい。東京オリンピックの前後くらいからだったと思うが、トニー谷が司会進行するアベック歌合戦というTV番組があった。
※5 : ヤールとは布地の長さの事で約91センチ。Yard(ヤード)を日本では布地に関してヤールと呼ぶらしい。

104 馬橋駅西側の風景

先日、松戸市立北部小学校の同級生からメールがあり「馬橋にある蕎麦屋に来ないか?」とい
う。彼はマッチャン。塾運営している実業家だ。マッチャンとは盃の会で再開した。お互いに酒好きだ
った。

小学校の頃はてっきり同じクラスだとばかり思っていた。良く話をしてみると、マッチャンとはクラスが
違っていたらしい。ところがお互いによく知っている。今、健康の為お酒は控えているので「酒はあま
り飲めないヨ」
という事で目的のそば屋に向かった。場所は馬橋蔵元町の「そばきり うめ吉」
マッチャンによれば、ここは元伝説のラーメン屋「ラーメンひがし」の店舗跡に入ったそば屋さんなん
だそうだ。

目的の時間に早かったので、馬橋駅西口から馬橋蔵元町までの道、その周辺を30分程歩いてみ
た。蔵元町というのは古くからあるのかなあ……と思いつつ、中道公園、ユリノキの並木道を歩き…
…ここでハタと考えた。あれ?こんな町あったか……?馬橋駅付近というのは子供の頃何度も訪れ
ている。ただし、東口の古い商店街の方である。鳩の餌を買いに配合飼料屋さんに同級生のメガネ
ザル君たちと何度も来た。馬橋と言えば東口に行くことを意味した。そもそも西口なんてあったのか
どうかさえ良く覚えていない。

又、栄町や古ヶ崎の住宅街で見かける、住宅の軒と軒の間に流れる狭い不思議な排水路を何本か
見つけた。子供の頃、ここには町なんてなくて、単なる田畑だった場所じゃないか?不思議な排水路
は畦に流れていた用水路跡じゃないか?だから西口のこの風景を覚えていないんじゃないか?と思
いつつ、先日近所にお住まいのYさんから頂いた`未来への遺産`という松戸市土地区画整理組合
連合会が発行した本を早速開いてみた。

思った通りだった。ここは松戸都市計画事業馬橋駅西口土地区画整理事業(松戸市施行)による昭
和四十五年〜昭和五十二年に区画整理された場所だった。写真でもお分かりになると思うが、私が
小学校の頃は集落も何もない田畑(休耕田含む)だった。

子供の頃、横六間(よころっけん)川でよく遊んだ。この横六間川は現在の地図を基準とすると馬橋
駅南の陸橋を西方向、つまり江戸川方面に向かった先にある。この横六間川の周辺は以前、伝兵
衛新田という地名だった。同級生も住んでいた。私の場合は横六間を境いに南側で良く遊んだ。横
六間から流山街道を少し北上し主水池(現「まこも池」)でも遊んだが、そこからわざわざ馬橋駅西方
面に行くという事は先ず無かった。馬橋駅西界隈は自分たちの遊びの範囲では無かったし、そもそ
も不慣れな場所で魚採りのポイントを知らなかった。

昭和四十一〜四十二年頃同級生のメガネザル君から「自転車で新坂川を北上して行けるところまで
行ってみないか?」と誘われ小金城趾駅(だったと思う)付近まで行った事がある。あの時はジャイア
ンやAKさんも一緒だったかもしれない。

当時は北松戸や馬橋に掛かる辺りまで工場地帯は出来ていた頃で、無味乾燥な工場地帯を走り、
北松戸の競輪場が過ぎた辺りから工場が無くなり、今度は延々と田園風景が続く。馬橋駅西側も同
じで、さらに幸谷(現在の新松戸駅付近)に行ってやっと集落が見え、それを過ぎると再び田園地帯
を走る事になる。とにかく新坂川上流というのは目に映るのは工場或いは田畑であり`何にも無い`
という印象で、馬橋駅西側付近をそんなに印象深く覚えている筈がなかった。

西馬橋蔵元町の中を縦横に走っている排水路は一段低い高さ。区画整理に当たり、この一帯の土
地が一メートル強盛土され区画されている記録がある。田畑は水の流れと高さを合わせ作る筈の
で、それだけ低い土地だったのだろう。現在の正確な標高は分からないが隣の中根長津町が四メー
トル前後らしいので、ほぼ近い高さかもしれない。

ところで話がかなり逸れたが
「そばきり うめ吉」は良いおそば屋さんだった。
千葉県松戸市西馬橋蔵元町147
047-347-7837

中道公園の付近。
西馬橋蔵元町に訪れた際はどうぞ御利用下さい。

先日、馬橋在住、元呑み仲間のO氏と馬橋のそば屋について語る機会があった。私は「そばきり 
うめ吉」
の話をおそるおそる出してみたらO氏もよく知っていた。そばも美味しいし人柄も良いし何も
言うことないけれど、場所や商売の仕方をかえればもっと良い店になるという事まで一致した。一般
の人はあの店の良さに中々気がつかないと思う。

写真は「未来への遺産」松戸市土地区画整理組合連合会 昭和五十三年三月三十一日発行より転
載、一部文字を入れた。Yさん!早速使わせていただきました。ありがとう。

103 2Bと吉岡文具店

小学生の頃「2B」という危険な花火があった。長さは手の指、太さは五mm径前の爆竹の様な物。東京オリンピックの年の前後だったと思う。何処の駄菓子屋でも売っていて、勿論松戸市立北部小学校前の吉岡文具店にも売っていた。「2B」の先端には擦るだけで発火する火薬が付いていて(つまり、マッチが無くても火を付けられる)、橋の欄干などに擦ると途端に煙が出てきて後に爆発する。煙が出てからある一定の時間で爆発するので友達と`我慢比べ`をしてギリギリまで手に掴み爆発する寸前に投げる遊びをした。私はどうにも恐ろしくてすぐ離してしまった。

「2B」は勢いがあれば水の中でも爆発する。「2B」をカエルの口の中に入れ爆発させると、上半身は吹っ飛んで木端微塵になり腰から下の脚だけが残る(あれは爆竹だったかな?失念)。いずれにしても、今から思えば可哀相な事をしたものだ。カエルさん、ごめんなさい!

子供というものはズボンのポケットに雑然と他の玩具(例えばロウセキ)とともに「2B」を忍ばせ遊ぶ様な事をするもので、ある時ポケット内のロウセキと接触し、ポケット内爆発をした例もあったと聞く。そんな事故があった為か、当然ながら「2B」は危険視され、ある日、北部小学校で禁止になった。確か、朝礼で「2Bは禁止」と説明があったと思う。

北部小学校の朝礼の後なのか前なのかわからないが「2B」は全国的に禁止になったらしく、吉岡文具店にも無くなり我々の目の前から消えてしまった。「2B」の代わりに登場したのが「クラッカー」だった。「クラッカー」と言ってもパーティーの時にパンパン!とならす「クラッカー」ではなくて「2B」と形状も機能もほぼ同様の花火玩具だった。ただ大きく異なるのはマッチで火を付ける点だったと思う。

「2B」の欠点だったポケットの中でも簡単に発火する危険な特徴を改善した商品だと思うが、いちいちマッチで着火しなければ使えない「クラッカー」は面倒で、擦れば簡単に火のつく「2B」の手軽さは完全に消えた。

102 喫茶ゲート−リバブル@竹ヶ花

松戸は昭和三十年代の衛星都市化によって変わった。山林が切り開かれ多くの田畑が区画整理され、新しい町ができて人口が増えた。北松戸や松飛台への工場誘致によっても変わった。然し物心ついた私にとって一番大きな変化を実感したのは昭和四十年台だったと思う。

複々線の開通及び松戸駅の新駅舎が完成した1971(昭和四十六)年
松戸駅西口の区画整理事業の完成1973(昭和四十八)年
(注:松戸駅西口の区画整理事業の完成と言っても現在のダイエー付近の区画整理はまだ完成してない)

暫くの間は松戸駅西口はビルが建ち揃ってなくすき歯状態で、特にトキワパチンコ屋からダイエー方面に掛けては、青空駐車場や空き地が目立った。数年後の昭和五十三〜五十四年頃、テレビゲームの「スペースインベーダー」が流行し始め、松戸駅付近にゲームセンターが林立し始めた。バラックのような安普請で空き地に建つゲームセンターもあった。とにかく店名にインベーダーと書けば人が集まってきた時代だったと思う。私は天の邪鬼で流行に無頓着なところがあり、残念ながら、あの「スペースインベーダー」には夢中にならなかった。

話が前後する。竹ヶ花のリバブルマンションは1974年(昭和四十九)年に竣工した。東急不動産により鈴木材木屋(スズソウ)さんの土地を等価交換で建設。竣工直後だったか数年後だったか忘れたが、リバブルの一階に喫茶「ゲート」がオープン。鈴木材木屋さんの持ち物件で鈴木材木屋さんの奥様の妹さんが経営していた。私が浜松に常駐していた1982(昭和五十七)年頃に始めて入った。

店主の一族は浜松出身で、私も浜松好き。浜松の話をしたくてお店に行った。喫茶「ゲート」のヤキサンドが人気メニューでよく食べた。近所でも評判で母はそれなら家で作ろうと焼きサンド用の道具を買ってきて良く作ってくれた。喫茶「ゲート」にはテレビゲームが何台か置いてあった。当時すでに下火になっていた「スペースインベーダー」が置いてありその時始めてプレイした。私は実に時代遅れだったと思う。

その他タイトーの「アクロバット」(シーソーに乗ったピエロが空の上を動く風船を割るゲーム)等があり、私はこの風船割りゲームに嵌った。妹を連れてこの「アクロバット」をプレイしに行った事もあったが、結局妹の方が上手になった。

やがて仕事の関係で台湾に行くようになり松戸を離れた。バブルが崩壊し1990(平成二)年頃に松戸に戻ってきた頃はすでに喫茶「ゲート」は無く。テナントで不動産屋(センチュリー21山一ハウス)になっていた。

101 松戸と新坂川と汚染

私が物心ついた昭和三十〜四十年代は日本中が大きく変わる歴史的な時代だった。現在でこそ環境問題、自然志向、街並み保存の考え方は声高に騒がれるが、当時勿論そう言った主張があったにしても、多分少数派であったに違いない。水俣病やイタイタイ病を引き起こした公害問題は起こってはならない事で、非難されこそはすれ、当然肯定されるべき問題ではない。ただ、もっと身近な問題として、例えば新坂川の汚れに対しては、正直な所あきらめに近いものがあって、私一人ではどうにもならないという消極的な考えしか持ってなかった。

綺麗な川の方が勿論良いに決まっている。松戸の古老から「昔新坂川ではシジミが捕れて食べたんだ」、「うなぎが捕れた」、「泳いだ」と聞くと羨ましかった。私の頃はクチボソやドジョウなどは居たけれどとても川に入るような綺麗さは無かった。そして北松戸の工場が出来た頃から工場下流域は完全に生物の住めない川になった。

当初この新坂川汚染の主原因は北松戸工場排水と考えられていたが、徐々に家庭排水が汚染原因に変わりつつあり、市民全員が川を汚す主犯格で、明確に訴える叩くべき敵がいない状態になっていたと思う。河川汚染の原因があいまい(実は自分たちが原因)で市民全員が川の汚れを何とかしようと立ち上がる程、自分自身の問題として深刻に考える人は少なかったのではないか?と考えている(勿論動いていた人は居た)。

高度成長過渡期としての`松戸市発展・繁栄の影のやむを得ない犠牲`に妥協せざるを得ない、否、経済的に豊かになりつつある自分たちにとって、懐古的牧歌的生活だけでは飽き足らない、むしろ、世の中が変わる事に何かワクワクした予感、明るい未来を感じた・・・そういう人も少なくなかったのではないか?勿論、川沿いの住人にとってはかなり迷惑だったと思うけれど・・・

この為淡水生物は大きな犠牲を強いられた。一般にコイ科の魚(フナ、メダカ、ハヤなど)を始めマシジミ、ドジョウは淡水でしか生きられない。つまり海を経て他の川に行く方法を持たない。という事は一度川が汚れると上流でしか棲息できない。上流が汚れればその水域に於いては絶滅しか無くなる。

新坂川は確かに昭和三十〜四十年代よりも確実にBODも下がり汚染も減少した。果たして実質的な生態系環境として戻っていると言えるのだろうか?淡水魚は水質が綺麗になった途端、川に簡単に戻ってこられる訳ではない。昭和五十年代前半に新坂川放流したと言われている鯉は局所的にたくさんいるし、海から上がってくるボラも見かける。以前の様に新坂川にドジョッコ、フナッコは居るんだろうか?今度四つ手網で魚獲りしてみようかな?

そういえば松戸には釣り道具屋さんも激減したし、四つ手網を売っている店を探すのも一苦労だなあ・・・てんぐ屋(魚七の隣)、小西屋釣具店(旧水戸街道沿い)、浮見堂(平潟湯付近の新坂川沿い)もみんな消えた。かなり後発組で現在のツタヤの場所(松戸駅前通り)にあった上州屋釣具店もなくなった。そうそう、本町一平橋手前のヨコカワさんの処では四つ手網売っているかな?

写真は近所にお住まいのYさんからいただいた貴重な新坂川の写真。ちょうど護岸工事中でまだ一本橋の跡がある。
Yさん誠にありがとうございます。