表の家

松戸行脚 松戸競輪(メッセンジャーと松戸競輪)
「お〜い!メッセンジャーのお姉さん」


松戸競輪(メッセンジャーと松戸競輪)

松戸競輪場敷地のミニ概要

北松戸駅西口を降り、新坂川を渡ると松戸競輪の入り口が見える。この松戸競輪の土地には曰く因縁があり、三井良尚氏の松戸今昔物語(崙書房刊)によれば、小山にあった東洋化学調味株式会社(「味の海」−化学調味料の会社)が工場拡張の為、購入した土地だったそうだ。
ところが「工場が出来て公害は困る」と地元住民から猛反対され、工場建設は暗礁に乗り上げた。
結局この土地での建設は断念、市が買い上げた形になった(その後、松戸で大反対にあった東洋化学調味株式会社「味の海」は極秘裏に千葉県知事から設立許可を得て、行徳町分工場建設を画策、昭和15年5月行徳に土地を購入した。ところが、ここでも地元の大反対を受け断念した)。

自転車競技法が昭和23年8月公布。
これは戦災を受けた地区の戦後復興を目的とした内容で実は戦災都市ではない松戸市はその骨子にふさわしいわけでは無かった。
とは云うもののこの自転車競技法を受け、この土地に競輪場を建設すべく、市会議員の川井輝吉氏(川井市長のお父さん)、片岡貢氏、山本政蔵氏(輝建設代表)の三氏連名で市議会に議案を提出し全員一致で通った。
これを知った平潟遊郭の弁護士で有名な柳沢義男氏は反対、当時県議員の倉田保氏も農地が潰れるという理由で大反対。
千葉県議会の議長勝田友三郎は成田に競輪場建設を強硬に主張、市川市市長浮谷竹次郎氏&元千葉県知事川村秀文氏は市川に建設を主張……と云った状況下での松戸競輪設置。
また、昭和23年は終戦後3年経過してはいるものの、畑地を潰して競輪場を建設するとは何事か?という意見も当然ながらあった訳だ。紆余曲折があったものの、この元味の海工場建設予定用地(5000坪)にさらに周りの土地(5000坪)を加え、松戸競輪場を建設する事になり、1950(昭和25)年4月19日に開設された(松戸公産50年のあゆみ(2000(平成12)年 発行 松戸公産株式会社 社史編纂委員会 編)参照)。

メッセンジャーについて

さて、この松戸競輪にはメッセンジャーと呼ばれる職業があった。お客さんに代わり車券を買ってくる松戸競輪に正規に雇われた人々。このメッセンジャーをされていたC子さんにお話をお伺いする機会に巡り会い、貴重な資料も一部いただき、記録として残すことにする。先ずは定期的に開催される競輪に対しパートタイム的労働として採用される。下はその採用通知:

採用通知



昭和二十九年度第八回県営松戸競輪を先日程により開催しますので貴殿を従業員として採用いたします
一、開催日三月十九日から三月二十四日まで
二、予習日がありますから三月十八日午前九時までに本状持参の上松戸競輪場へ御出で下さい 但予習日半日当です
三、執務部署       所
四、代理人、無断欠勤、遅刻、早退した場合は執務をお断りします
五、日傭労働被保険者手帳所持者は初日に必ず持参、各部署責任者に提出願います
六、なお県に於ては御執務願えるものとして人員中に加えてありますが出欠について編成の都合がありますので三月十五日必着をもつてご返信願います
七、三月十五日までに返信無き場合は採用を取消しいたします

昭和三十年三月  日
千葉市栄町100番地
千葉県公営競技事務所長 松崎健


採用通知と言っても
採用通知と言ってもこの当時は牧歌的だった。上にも書かれている開催日前日の予習日に松戸競輪場で従業員募集の列が出来るので、そこに並べば殆ど誰でも働けた。中には子供を背におぶってくる女性の姿もあったそうだ。
採用に当たっては一応の面接はあるが、履歴書など殆ど不要でこんなやり取りで好きな部署に行けた。
面接官「経験はありますか?」
労働者「経験はある。メッセンジャーで働きたい」
面接官「分かりました。それではメッセンジャーで採用します」
不祥事を起こさず一度誠実に働いた実績を作れば十分で、次の開催から上の葉書が送られてくる。
採用通知の文章はすでに従業員は決まっているかのような印象を与えるが、当日の従業員総数が減っては困るだけで、実際は予習日に従業員数が決まる。
次の開催における葉書の持参は必須ではなく、お知らせのような意味合いだった。

当時のレース風景:
「どぶ」(新藤兼人監督 近代映画協会 1954(昭和29)年作品)より

元メッセンジャーC子さんのお話

表の家「こんにちは!ええと、C子さんの松戸競輪との出会いをお話願えますか、時期なども含めてお願いします」
C子さん「知人からアドバイスを頂いて勤めました。時期は昭和34年から昭和38年くらいまで、指定席でメッセンジャーをしてました」
表の家「指定席はどういう場所にあったのですか?今のようなガラス張りの部屋なのでしょうか?」
C子さん「いえいえ、ガラス張りの部屋なんてありません。全くの外部でジャンが鳴る場所、つまりゴールを正面、目の前で見られる席です。中央に記者席があって、その両側に第一指定席、第二指定席がありました。私はそこの第一でした」
表の家「うむ、今と随分違いますね。今は特別観覧席やロイヤル席など空調がしっかり効いてますが……」
C子さん「確かに近代的になったと思いますけれど、ガラスに囲まれた部屋では、レースを観戦する楽しみは半減するのではないでしょうか?面白くないと思いますよ。ゴール直前のワァ〜という叫び声、熱気に包まれる場所、一番視線が集まる場所、それが指定席の魅力なのです」
表の家「なるほど……分かるような気が致します」


メッセンジャー用車券購入券

メッセンジャーは客の注文を聞きこの車券購入券に必要事項を書き込み、確認の上、車券を購入に行く。


元メッセンジャーC子さんのお話-2

表の家「さて、メッセンジャーとはどんなお仕事ですか?」
C子さん「メッセンジャーはお客さんからの注文を聞き、お客様の代わりに車券を買いに行くお仕事です。メッセンジャーは競輪場から正規で雇われた職種で、当時総勢で確か30人くらいは居ました。最初の頃は普通のお客さんと同じ車券売り場(穴場)で買ってましたが、途中から指定席に付属した車券売り場が出来ました」
表の家「何人くらいのお客さんの注文を受けるのですか?」
C子さん「上の写真の紙に書き込んで紙を何枚も持って買いに行きます。慣れてきたら6〜7人の注文を受ける事が出来るようになりましたが、最初の頃はせいぜい2人くらいしか受ける事が出来ませんでした。お客さんごとに買いますから手間が掛かります。注文を受けてから買い切るまで時間がありませんので、本当に大変でした」

松戸競輪のポスター
バックの壁の松戸競輪のポスターに注目、左から二番目は殿山泰司さん
「どぶ」(新藤兼人監督 近代映画協会 1954(昭和29)年作品)より

元メッセンジャーC子さんのお話-3

表の家「トラブルはありませんでしたか?」
C子さん「間違えや時間切れで買えなくなる事もありました」
表の家「時間切れというのは?ぎりぎりで注文を受けるからですか?」
C子さん「車券を買う窓口を私たちは窓口と言ってましたが、お客さん達は通称“穴場”と言ってました。現在の競輪場では一つの穴場で全ての種類の車券を買うことが出来ますが、当時は1-3なら1-3の穴場、3-1なら3-1の穴場にいかないと買えなかったんです。一点買い、三点買いのお客さんは良いのですが、中には1枠で流してというお客さんや、悩んだあげく殆ど全部の車券を注文するお客さんもいました」
表の家「集中すると何が大変なのでしょうか?
C子さん「当時は連勝複式はなくて連勝単式ですので1枠から6枠までで全部買うと33種類もあるんです(上の車券購入券を参照)。そんな注文になると、33カ所の穴場に回らなくてはならなくなるので、最後の穴場では時間切れという事もあるんです。その後、暫くしてから指定席付近に新たに増設された穴場では例えば`1枠の流し`という買い方が出来るようになり、大分楽になりました」

古いタイプの車券(穿孔)
ただし、昭和五十年のもの。

元メッセンジャーC子さんのお話-4

表の家「買えなかった場合どうするんですか?」
C子さん「他のお客さんの注文もありますので、手に余る時は他のメッセンジャーに回します。或いは注文を受ける時、前もって『間に合わないかもしれませんがそれでも良いですか?』と伺ってから買いに行きます。そして、穴場が閉まった後、レースが始まる前に一刻も早く買った全ての車券と残金をお渡しして、事情を説明して平謝りに『ごめんなさい』するしかありません。前もって話しておきますし、又、指定席に座るような方は大物の方が多かったせいか、もめる事はありませんでした。」
表の家「当たり車券の換金はメッセンジャーの仕事なんですか?」
C子さん「お客様自身で換金する事もありましたが、我々も換金も致しました。当たればご祝儀も下さいます。それが副収入になりました。ただ、場内にはスリもいますから気をつけなくてはいけません。一度、勝ち金をお客様にお渡しした後、そのお客様のお金がスられてしまった事があり、すでに渡した後なのに、警察の事情聴取を受けた事もありましたね」



給料袋
慰労感謝金支給明細表と書かれ、感謝を赤で消してある。
支払者は松戸競輪施行者競技会。
給料袋の部署を見るとメッセンジャーとなっている。

元メッセンジャーC子さんのお話-5

表の家「メッセンジャーの給料はどのくらいでしたか?」
C子さん「車券売り場の窓口が日給170円でしたが、メッセンジャーは日給280円で高給なんです(上写真、給料明細参照)。この職場の紹介をしてくださった知人から『メッセンジャーをやったほうが給料が良い』と勧められましたが、メッセンジャーという職業は競輪を何も知らない女の子が手を出す職業ではなかったのです。今から思えば無謀としか思えません。神経を使いますし簡単そうに見えて難しい仕事なんです。幸いにも何事もなく勤める事が出来ました。良く自分が出来た物だと思ってます。きっと若かったからでしょうね」
表の家「メッセンジャーの食事はどうされていましたか?」
C子さん「大抵皆さんお弁当を持参してました。松戸新田や上本郷、新作などの農家の娘さんが働きに来てまして、農家だけにみなさんお米のご飯なんです。私は姑との関係上、競輪場で働いている事は言えませんでしたので、あからさまにお弁当を持参出来ず、根本の森栄堂でパンを買っていきました。今でこそパンはどこでも買えますが、パンはその当時珍しくて、農家のお嬢さん達に人気があり『交換してぇ!』と言われ、ご飯のお弁当と交換して食べたことがありましたね。和気藹々で楽しかったですね」
表の家「どうもありがとうございました」
C子さん「どういたしまして」

資料

労働組合の団交結果
      告!!
昭和三十七年十一月六日越冬資金及び被服支給の件について団交の結果左記の様な回答がありました。
      記
一、支給額、 日給の十五日分
一、プラスアルファー三千円及び被服の支給については次回の団交に決定する。
                   以上
尚次回の団交は十二月十四日松戸競輪場に於て行ふ。

昭和三十七年十一月六日
千葉縣公営競技労働組合
組合長 児玉実

松戸競輪のマッチ

さて、このマッチはいつのマッチだろうか?多分1953(昭和28)年に配布されたマッチであろうと考えている。
松戸競輪場が1950(昭和25)年4月20日 千葉県 第一回目開催が行われて以降、7月12日が日曜日なのは下記の通り:
1953(昭和28)年 1959(昭和34)年 1964(昭和39)年 1970(昭和45)年
1981(昭和56)年 1987(昭和62)年 1992(平成4)年 1998(平成10)年

1959(昭和34)年6月23日騒擾事件があった。千葉県営第一回松戸競輪五日目第11レースに本命の選手が着外になった事から「八百長レース!」と大騒ぎになり、騒いだ一部の観客に車代と称して一人千円を渡したことから、全国に波及して同様の事件が起きてしまった。
この事件から:
1.千葉県は三ヶ月業務停止、千葉県自転車振興会は三ヶ月間松戸競輪での業務停止
2.昭和35年に競輪の自粛開催が通告され、a:一日の開催は午後のみ4時間, b:土日祭日開催とし平日開催の縮減、c:過度の観客誘致として宣伝マッチの廃止
先ず、マッチのロゴが昭和三十年前後を感じさせる。当時のポスターを確認するとデザインが近い。宣伝マッチ配布が昭和三十五年から暫くの間廃止された事、発送11時と書いてある事から多分、1953(昭和28)年または1959(昭和34)年だと考えているが、まさか昭和34年6月の騒擾事件の後営業を停止しているのに、7月に開催もされないだろうと思われる事から、1953(昭和28)年に配布されたマッチであろうと考えている。

「どぶ」(新藤兼人監督 近代映画協会 1954(昭和29)年作品)より

(参考絵葉書)千葉市営競輪場及び陸上競技場
これは千葉競輪の写真。多分昭和二十年代〜三十年代後半
当時は陸上競技場と併設になっていたらしい。
現在はテニスコートとミニ・サッカーグラウンドとして利用されているらしい。

昔の競馬出走表(松戸競輪:1954年 昭和29年1月15日(金曜日)第三日目出走表) 2016年1月更新

この出走表を見ていて面白いのは、北松戸の電車の時刻表が出ている事と懸賞でしょうか?

一等 1本 純毛シャツ(上下)

二等 3本 革製手袋

三等 20本 財布

四等  70本 煙草(ピース)二ヶ

五等 906本 キャラメル

純毛シャツ、革製手袋、財布が商品なんて、何となく時代を感じませんか?

今日の競輪(予想紙) 1955(昭和30)年1月29日

この予想紙(今日の競輪)は現在見た事がない。現在松戸競輪で発売されているのは青競、赤競であろうか?黒競もあったが、すでに廃刊になったらしい。
それにしても、このわら半紙にガリ版印刷したような予想紙が時代を表しているように思う。



「メッセンジャーと松戸競輪」は松戸行脚2007で作成し、2008年9月リメークした。