表の家

松戸行脚 相模台と陸軍工兵学校


平成22年4月〜5月3日にかけて、資料を補充、追加した。追加したのは松戸競馬の広告、陸軍工兵学校の地図

相模台。
松戸駅東口正面はイトーヨーカ堂完成以前、ミカエル幼稚園の瀟洒な建物と緑豊かな斜面林が遠望出来た。この斜面林には故山本政蔵氏の「山水閣」があった。松戸駅東口で料亭・割烹と言えば「山水閣」だけで、何らかの催しの際、母に連れられこの「山水閣」を訪れた事がある。イトーヨーカ堂完成以降、斜面林は見えなくなり全くその景観は変わったが、この相模台に登り一旦中央公園に入れば樹林があり、その中に引き込まれていく。
この相模台には古い歴史があり鎌倉時代まで遡れば「北条相模守長時が築城して住んだことから相模台と言われた事」や「小田原の北条氏と安房の里見氏が戦った激戦地」等興味深い土地であることは言うまでもないが、このコーナーでは明治時代以降について記述する。決して多いとは言えないが明治時代以降の相模台の資料があり、これを記録として残したい。

明治以降千葉大工学部火災までの相模台関連の歴史

1904-1905(明治37-38)年 日露戦争(一部騎馬にて戦う)
1907(明治40)年 総武競馬倶楽部松戸競馬場創立
1910(明治43)年 松戸競馬倶楽部に名称変更
1914-1918年     第一次世界大戦にて機関銃が使用される
1918-1919(大正7-8)年 松戸競馬倶楽部の土地の買収
1919(大正8)年 陸軍工兵学校 開校式
1945(昭和20)年 陸軍の解体とともに陸軍工兵学校閉校
1945(昭和20)年 10月 東京工業専門学校が戦災のため相模台に移転。旧陸軍工兵学校校舎を使用する。
1949(昭和24)年 千葉大学工芸学部創立
1951(昭和26)年 千葉大学工学部と名称変更
1964(昭和39)年 千葉大学工学部が西千葉に移転したが、一部の研究施設は残る
1965(昭和40)年 不審火により建物全焼

松戸競馬場

大正四年に発行された「松戸案内」の松戸市街地図
地図上部に見える馬場が松戸競馬場。

松戸冬季競馬 必勝馬予報
(東京競馬新報社)

出走表

松戸競馬場がまだ総武競馬倶楽部松戸競馬場だったころの予報冊子。この翌々年の明治四十三年に松戸競馬倶楽部と名称が変わった。第3日目必勝馬予報と書かれた予想もある。ただし、◎○×●△などの記号は無い。
松戸に競馬場があった。
競馬場は江戸時代末期開国以降、在日本イギリス人社会を中心にすでに存在していたらしい。日露戦争までは歩兵、騎兵が戦力のメインという考えが支配的で、騎兵を極める=富国強兵という考え方から競馬が奨励され、明治以降競馬場を日本各地につくるようになったらしい。つまり戦争(騎兵)の為の競馬。
その延長で相模台に松戸競馬場が作られたのであろう。
ところが、世界の戦争形態の変化はめざましく、第一次大戦において機関銃が使用されて以降、戦争における騎兵隊の地位は徐々に低くなっていった。
「騎兵は砲兵の飯炊きにしかならない」と言った欧米の実力者も現れた。
これに伴い、馬の重要性は徐々に薄れていく。
第一次世界大戦終結以降は砲兵輓馬(ばんば)に成り下がった。
つまり格好良い騎兵隊の馬から単なる肉体労働の馬になってしまったのだ。
第一次世界大戦の終了した1918(大正七)年から松戸競馬場の土地が陸軍による買収の対象になり翌年の1919(大正八)年には買収完了した。松戸競馬場の土地を陸軍が買い上げたという事実にはこういった時代背景があったようだ。
1919(大正八)年には陸軍工兵学校の開校式が行われ、松戸町でも大いに歓迎された。

1908年(明治41)1月7日(火曜日)都新聞における広告
「冬季競馬
一月十一日、十二日、
十八日、十九日開催
千葉縣松戸町常設馬場
於て晴雨も拘らず開催す
社団法人総武競馬會
追而開催当日 上野停車場より数回臨時列車を発す」

都新聞

陸軍工兵学校

工兵学校位置
(大正六年に測量、昭和三年及び七年に修正をし
大日本帝国陸地測量部より発行された地形図)
地図の中央右側の「工兵校」と書かれているところを頂点に下総台地から若干切り離され独立性が高い自然要塞的な地形であることが分かる。地獄坂も表現されている。西口駅前の密集度と平潟農地との広さ対比が印象的。水戸街道に沿って発展してきた宿場町的な様子も分かる。

陸軍工兵学校一覧図(May3,2010追加)
絵葉書に描かれた陸軍工兵学校の地図である。

註記
周辺地図
相模台練兵場位置
地図左上
ここに揮発油庫というのがあるが、これがページ下で書いてある謎の建造物じゃないかと思っている。
地図左下
地図右中央
地図右下
右下の門をくぐると相模台練兵場に行けるようである。

陸軍工兵学校入学案内
これは陸軍工兵学校入学案内の葉書
(60年以上前とはいえ、個人情報となる為名前の一部を伏せた)

拝啓愈々入校も迫り心身共々御準備に忙殺され居る事と存じ居り候
扨(さて)入校に関しては先般の通知に基き夫々(おのおの、それぞれ)の
処置行ひ居られる事と推察致し候へども此度貴君所属は当隊に決定仕り候
就いては当隊として携行品物に急遽品先の如く追加致候間
可然御処置相戌度

一、 携行品    学用品 (硯 墨 筆二本 ノート五冊以上)
         日用品 (手拭二〜三本及 ハンケチ 褌(猿股)三)
                    貯金帖 (所持者ノミ)
二、 急送品 (当隊宛)本人写真(最近撮影セル脱帽ノモノ)

右 取々要用のみ如斯(かくのごとし)御度候 

千葉県松戸市 陸軍工兵学校ム隊

秘 戦術参考 通信隊ノ運用ニ就テ
これは大正十四年三月に発行されたマル秘文書。通信に関する記述がガリ版印刷されており何十ページもの文書になっている。終戦直後、陸軍工兵学校にあった資料は米軍進駐前に全て焼却されたと聞くが、幸いにしてこの文書は奇跡的に残った。
大正十四年 陸軍工兵学校戦術参考
通信隊ノ運用ニ就テ

前言
通信隊の運用ハ其編成装備ノ問題ト関聨シ大小幾多ノ研究問題ヲ保留ス 特ニ現編成ハ有線ニ関シテハ昔時ニ比較シ多少ノ改変ヲ加ヘラレタルモ要スルニ彌縫的ニシテ又無線ニ関シテハ目下尚暫定的ニシテ研究ノ余地大ナルモノアリト思考セラルルモ本編ニ於テハ現編成ニ基キ研究シタルモノヲ記録セリ
大正十四年三月
陸軍工兵学校教官
陸軍工兵大尉 川崎辰雄
陸軍工兵中尉 小西貞治

第二中隊の分遺記念のアルバム
陸軍工兵学校 第二中隊
分遺記念 大正十一年

以下は分遺記念アルバムの写真

陸軍工兵学校正門
第三回入校式
校長古賀少将閣下
実に凛々しい
中隊幹部
幹部の写真よりもバックの背景が気になる。

下見張りの外壁、木製の窓、遠景にヒノキ或いはヒマラヤスギの高木
舟橋架設 野砲第十六連隊連合演習
舟橋架設の一部拡大写真
納屋川岸の建物群及び川から登るスロープ
築城(対壕)
耐重橋大列柱打入
応用縦列混合架設(野砲第十六連隊連合演習)
爆破(地雷)
水中爆破
アルバムの最後には千葉県松戸町 原写真館調整とある。
大正四年発行「松戸案内」によれば松戸三丁目に「原泉」という写真館の記述があった。

陸軍工兵学校絵葉書

軍用鳩の運動(陸軍工兵学校)(July2,2011追加)

陸軍工兵学校正門−1(May28,2011追加)

陸軍工兵学校正門−2(August31,2011追加)
歩哨舎
上記正門−1では歩哨舎がコンクリート或いは組石造の様な構造に見受けられるが、正門−2では木造の歩哨舎となっており、時期的に正門−2の方が古い絵葉書であるようだ。

次は年賀状、

これは絵葉書とは言えないけれど掲載します。
宛名面(April 22,2012追加)
通信面

どうやらこの岡部さんは先生だったらしい。

同じ姓なので郷里の子供か甥っ子にでも送ったのか?

陸軍工兵学校遠望(May3,2010追加)
手前に見えるのは蓮畑の様だ。これが岩瀬の方向から見ているのか向山下の方から見ているのかは良く分からない。

築城
  鉄条網の爆薬による破壊及び掩覆通過
浮襄舟及一斉漕渡
渡河
右:将校集会所
左:荒木大尉銅像
左:教導隊(兵舎)
右:大講堂及び候補者隊
架橋
右:学校本部
左:陸軍工兵学校正門
左:水雷
右:地雷
右:野戦建築作業
左:自動車行軍

現況

旧正門&歩哨哨舎
工兵学校の痕跡はこの正門。正門の右に見えるのが歩哨哨舎。正門をくぐると中にはヒマラヤスギ、クロマツに加え多くのアカマツが植えられている事に気が付く。その他ユリノキ(ハンテンボク)、イヌシデ、ケヤキ、正門前のイチョウの大木等が印象的。

地獄坂
通称「地獄坂」陸軍工兵学校の生徒達が江戸川渡河等外訓練から戻りこの坂を見るとほっとしたそうだ。しかしその束の間、教官から「全速力で駆け上がれ」の号令が出る。将に「地獄坂」の命名に相応しい訓練があったそうだ。この「地獄坂」に面した斜面林は単なる雑草ばかりに見えるが、よく見るとカジイチゴ(キイチゴ)がたくさんある。陸軍工兵学校の生徒達も練習帰りにこのカジイチゴを食べ、疲れを癒したかもしれない。

工兵学校跡記念碑
「陸軍工兵学校は主として工兵の技術を研究錬磨し、その成果を全国各工兵隊の将兵に普及する使命をもって大正八年十ニ月一日景勝の地ここ相模台上に創立せられ逐年その実績を挙げ大正十五年十月二十八日摂政宮殿下の台臨を始めとして幾多の栄誉に浴せしが昭和二十年戦争の終結とともに光輝ある二十七年の歴史をとじたり、いま台上往年の面影を留めずよつて縁故者あい謀り記念碑を建立して攻勢に遺す。

昭和四十二年四月工友会」

(注:摂政宮殿下とはつまり後の昭和天皇)

陸軍用地の標石

謎の建造物
小学生の頃相模台の市営プールに行く際、松戸駅東口向山下の東山観音の先、現在のメガネストア前面にある古い階段を使った。現在でも聖徳短大への入り口として看板が出ているが、あまりにひっそりとしている階段の為か、そもそも小根本方面から来る短大生が少ないためか、あの階段を使う短大生の姿は先ず見かけない。さて、その古い階段を登り頂上の関東財務局の団地までたどり着く手前、写真のような不思議な建造物があり、子供の頃から不思議に思っていた。
これは果たして陸軍工兵学校の何らかの施設なのだろうか?
扉上部に通気口がある事が気になるが、上空から見分けにくい林の中にあり防空壕或いは弾薬庫ではないのか?と思うが、実際は何だか分からない。

陸軍工兵学校関連(その他も↓にありますので御覧下さい)
 陸軍工兵学校訓練風景 (戦前の雑誌より)
 陸軍工兵学校絵葉書その1 校舎等
 陸軍工兵学校絵葉書その2 一般演習の繪葉書
 陸軍工兵学校絵葉書その3 水上演習の繪葉書
 陸軍工兵学校昭和十七年卒業アルバム



この「相模台と陸軍工兵学校」は松戸行脚2007で作成し、2008年9月リメークした。