表の家

松戸行脚 新坂川と登校橋


松戸市立北部小学校の付近には新坂川が流れている。この新坂川は馴染み深い川。この新坂川について触れてみたい。

沿革
(昭和初期の新坂川の絵葉書)
1929年(昭和4年)ニューヨークに端を発した世界大恐慌が起き、アメリカではルーズベルト大統領によりニューディール政策が行われた。この恐慌は長く続き、その波及により日本では1930〜1931(昭和5〜6)年に昭和恐慌が始まった。アメリカ同様公共投資を拡大しデフレから脱却するケインズ的財政政策が日本でも行われたようだ。我々の新坂川開削もそのケインズ理論の一環だったらしく、水田地帯の洪水被害軽減と失業対策、農民救済を目的としたようだ。そして新坂川はほぼ1933〜1936(昭和8〜12)年に作られた。
(現在の坂川同箇所)

:大日本帝国陸地測量部による地形図 大正六年測量
:地理調査所による地形図
昭和12年測量、昭和19年部分測量、昭和27年行政区画及び鉄道の修正

上の二つの地図をご覧ください。(両地図は国立国会図書館の複写サービスでコピー加筆した)
には新坂川は描かれていない。
には新坂川はすでに完成された形になっている。

両地形図から読み取れる事:
現北松戸工業団地付近、にはただ田が広がっているだけだが、にははっきりとした道或いは畦道(或いは区画整理のライン)が出来ている。
                                       
にはまだ北部小学校がない。には北部小学校(北部尋常高等小学校)があり、小学校の南西部の根本地区の区画が整理されている。

(洪水対策としての効果)
坂川に比べ新坂川の流れる位置に注目する。この新坂川は下総台地の端付近に沿ってほぼ200メートルくらいの位置に流れている。地形図全体を眺めると実は根本橋付近から大谷口新田までは下総台地に沿って流れている。
この下総台地端部は場所にもよるが、下谷地区に比べ僅かに地盤面の高い自然堤防もしくはそれに近いところだと考えられる。仮にこの川が洪水対策だったとして、こんなに高めの位置に洪水被害対策の川を作る事は果たして有効だったのだろうか?
(用水路としての機能)
次に用水路の役目が大きかったと見た場合、あまりに下総台地側に寄りすぎてはいないだろうか?都市計画的に効率的な用水路を設計する場合、むしろ坂川と下総台地の中間付近に計画する筈だ。
上の地形図で言えば現栄町と現北松戸工業団地の間に見える水路付近が新坂川開削にはもっとも適当な場所だったのではないか?(現在栄町のバス路線になっている場所)当時、この場所にはすでに水路があったわけで、その水路を伸ばした方が経済的、効率的でしかも洪水被害対策にも有効だったのではないか?と思う。
(桜並木の看板から)
ところで新坂川の馬橋付近の桜並木の看板に書いてある新坂川の桜並木の由来の中にこんな一説があります。「……前略……川底の落差が大きくとれなかったため思いどおりに水は流れてくれず、当時の人々にとってはあまり評判がよくありませんでした」とある。
(果たして)
水利としても洪水対策としても効果が上がらず、果たして当時の公共事業として良く練り込まれたプランだったのか疑問の残る所です。実は、昭和27年地形図の全体を見ると新坂川という名前がなく「用排水路」と書かれていた。
その後の新坂川上流の宅地化による生活排水、工業団地排水による水質汚染等、結局この新坂川は排水路としての末路を見たのかもしれない。

一本橋の件でお酒を飲みつつ近所の大先輩のN氏のお話を伺うと「一本橋と登校橋の間に下総台地側から新坂川に流れ込む水路があり、そこに堰のようなものがあった」との事で根本橋付近からヤマザキパン工場先一帯まで新坂川沿いを歩いてみたところ……下総台地側から流れ込む水路の排水口などが大小いくつもあった。それに比べ反対側つまり江戸川サイドは殆ど排水口などは少ない。これは何故か?
竹ヶ花の我が家は新坂川よりもう少し高台で拾石台坂道の途中にある。台風やスコールの日、外を眺めると小さな排水溝で流れきらない雨水排水が、道路上をまるで川の流れの如く流れてくる。本来この雨水排水は新坂川に流れ込むべく地下暗渠があるが、その暗渠のサイズが小さすぎるらしく、旧水戸街道に水が溜まってしまい泥池のようになった。

考察

(考察1)
新坂川の役目の一つとしてこの下総台地から流れ込んでくる大量の雨水排水を新坂川を作ることによって一度トラップする事が考えられる。とすれば国鉄の線路付近に作る方が便利であったろう。新坂川完成以前、台風など大雨の際、下総台地から流れ込む雨水排水が怒濤のごとく坂川一帯まで延々と流れ、結果水難に見舞われることが多かったのではないだろうか?
(考察2)
水難は必ずしも下総台地ばかりではなく、坂川の上流や利根川・江戸川の氾濫も少なくなかったと思われる。従って、馬橋付近新坂川堤防桜並木に書かれている「……前略……川底の落差が大きくとれなかったため思いどおりに水は流れてくれず、当時の人々にとってはあまり評判がよくありませんでした」となったのではないか?洪水時、江戸川の水位は坂川、新坂川の水位を凌駕する。堤防が切れれば陸地側に流れ込む。坂川、新坂川に逆流してくる。逆流しないためには堰を閉じなければならない。
(考察3)
用水路兼水難対策の川は機能としては相反する(注1参照)。
新坂川が用水路として使用していたとして、水が流れ出てしまわない為、水を必要とする時期は堰を閉める。
然し、洪水などで江戸川から洪水で逆流しそうになったときは樋古根川の排水口や赤入水門は閉めた。
仮に赤入水門で閉めて江戸川からの逆流を阻止したとしても、同時に新坂川や坂川上流からおびただしいまでの量の水流が襲ってきたとしたら、江戸川に流すしかない。ところがその際江戸川の水位が高くなってしまう事がある。
となると水門は閉じたまま江戸川に流さなければならないので、排水機を設置ざるを得ない。
(考察4)
観察によって新坂川堤防の江戸川側には案外、水門、排水口などが少なかった。という事は新坂川の江戸川側からの水利用は少なかったという事か?台地側に比べ江戸川側の方が田畑の面積は遙かに広い。それなのに広い側からの利水が少ないというのはどういう事なのか?
農業の用水路としての役目はそれほど大きくなかったのだろうか?
「いやいや宅地化、工業団地化が早くから進んだから水路をつぶしたから現在見られないじゃないか?」という御意見もあるかもしれない。
ところがそんなに簡単に水路はつぶせない。土地の開発行為を行う際、新しい水路は造れても、水路を中止するのは簡単ではないのだ。中止は難しくても造り付け替えはあり得る。
水路を簡単につぶせないとしたら、古い水路は基本的にそのまま残すか、暗渠にして区画整理という事に相成る。
古ヶ崎や栄町の住宅街で軒と軒との間など、妙な場所で水路を見つける事が出来る。それは水田当時の用水路跡であろう。

とここまで
考察1から4までいくつかの可能性を書いたが、果たしてどれが理由なのかは分からない。

注1:堰(せき)と水門、樋門の定義
は主に用水路の目的で作られる。通常は閉め、洪水など水位が増えすぎたときは開ける。水門・樋門はおもに堤防の役目として作られる。通常は開き、洪水などで逆流しそうになった場合閉じる。水門・樋門は同じ機能だが水門は上部が開放され、樋門は暗渠になっている違い。つまり状況に応じて堰が開く時は水門は閉じて、水門が開く時は堰は閉じる事になるわけだ。

登校橋・一本橋界隈のお話

(登校橋)
堀江食堂付近から根本橋にかけて、登校橋、一本橋、さかね橋、平根橋とあった。このうち登校橋、一本橋が子供の頃最も馴染みの深い橋だった。
登校橋も一本橋も川幅拡張工事、護岸コンクリート化工事の際、作り替えられ位置も形も変わり昔の面影はない。旧登校橋はその名の通り北部小学校の旧正門(堀江食堂、吉岡文具の側)へ通ずる橋で幅が狭かった。車で古ヶ崎や竹ヶ花西町方面から市役所側に出るには旧登校橋が近道で、他のルートとしては平根橋まで下るか、若しくは延々と北松戸の方面に向かわないといけない。となるとこの旧登校橋に車が集中する。旧登校橋は「危ない橋」だった。その為か北部小学校の正門は南側に移動し堀江食堂側の門は旧正門になった。現在、一本橋、さかね橋を渡る小学生の姿が多く見られるが、そちらが実質的な登校橋になっているらしい。
現在の登校橋は歩道も設置され歩行者も通りやすくなっている。旧登校橋欄干には「とうかうはし」と書かれていた。

(堤防の利用)
旧登校橋の頃は川幅が狭く、現在のように切り立ったコンクリート護岸もなく、なだらかな土の堤防だったので畑代わりに利用している家があった。堀江食堂のおばさんもその一人で旧登校橋の付近に野菜や花を植えていた。
堀江食堂付近の堤防に露天商が`魔法の屏風`おもちゃを売っていることもあった。(正式名称は知らないが)`魔法の屏風`とは「拡げると30センチ幅程度の綺麗な絵柄の屏風!その絵柄の中に十円玉を一枚置いて一旦閉じる。さあ、再び開くとあら不思議!先程のコインが無くなっている」という子供だましのおもちゃだ。
登校橋付近には紙芝居が来ていた事もある。確か南花島に住んでいた方だったらしい。近所の大先輩のN氏によれば「登校橋から少し先の川に直角に当たる道(沢田さんの家の横の道)の中頃に空き地のような場所があって、紙芝居のおじさんよく来ていたよ」情報ありがとうございます。
上写真は根本在住のYさんより頂いた護岸工事中の写真。一本橋の袂の様子が分かりやすいと思う。Yさん写真をどうもありがとうございます。

(旧一本橋)
(近所の大先輩N氏が昔を思い浮かべイメージ図として書いて頂いた)
(左写真は根本在住のYさんより頂いた一本橋の袂の写真)
現在、一本橋と言えば森栄堂工場跡廃墟付近に架かっているが旧一本橋はもう少し登校橋よりにあった。旧一本橋と言っても橋ではなく取水堰(つまり水が流れるのをおさえ、川の水位を保ちながら、農業・工業用水を取るために使われた)だった。そもそも取水堰なので欄干・手摺が無く怖い。幅が60センチメートル程度しかないので子供達は度胸試しで渡る。旧一本橋はコンクリート製だったが半世紀に亘る経年変化の結果、表面が砂利の洗い出しのようにごつごつした表面になっていた。図のように橋のエンドはコンクリートで「コ」の字のような形になり、型屋のおじさんが商売をしていた。

この旧一本橋のイメージや材質感を知りたい方は、根本橋の付近に坂川と新坂川を繋ぐ間川が流れ込んでくる場所に行くと良い(ホテル「LaSee」の裏側)。この間川の橋は歩道付きで旧登校橋より幅広で車一台が通れる。構造的には堰であり旧一本橋と同じような造りになっている。


この「新坂川登校橋」は松戸行脚2005で作成し、2008年9月リメークした。