表の家

松戸行脚 元平潟遊廓街と中央司法会計研究室


松戸女郎衆はいかりか網か、登り下りの船とめる

松戸駅西口駅前通りから旧水戸街道、一平橋を超え江戸川方面に歩くと、堤防の手前右側に樹木に囲まれ鬱蒼、こじんまりとした鎮守の杜がある。平潟神社(水神宮)である。
松戸市松戸2000番台の住所は元々平潟と言われていて、一平橋とは一丁目と平潟を結ぶ橋(松戸本町は住所変更前は松戸一丁目)という事から命名されたらしい。遠州屋薬局の平野氏によれば、現在の一平橋は平潟地区の住宅開発の為に付け替えられた橋らしく、一平橋は当初は現在の場所ではなく十数メートル北側、現在の一友会館沿いにあったらしい。

平潟神社の西側の一角は平潟遊郭と呼ばれていた。私が物心ついた頃、平潟遊郭としては営業をしていなかったが、一連の建物群として残っていて、弁護士を目指す学生達が勉強する施設として使われていたらしい。そこの学生さん達は平潟湯に通っていたと思われるが、お風呂が休みの時などは竹の湯に来ることもあったらしく、母が高下駄を履いた学生さんが竹の湯に向かう為に我が自宅前を通過すると「平潟の学生さん」と言っていた。母が経営していた軽食堂のお客さんでもあったのだろうか?今度母に聞いてみよう。
父と江戸川散策の際は、必ず、松戸の宿千檀家(せんだんや)側から旧平潟遊郭の大きく弧を描いた道を通過した。父はその場所について多くを語らなかった。
その道には古い日本風木造家屋や木造モルタル作りの建物が並んでいたが、所謂伝統的な日本のデザインというよりは、随所に粋なデザインが象られている遊郭らしい風情が伝わってくる建物群であった。それは街並みに一種独特の雰囲気を与え、一般住宅街とは異なる、いわば子供を寄せ付けない不思議な空気のようなものが漂っていた。
残念ながら現在は昔の面影を感じる建物は何も無い。あるのはシダレヤナギや平潟神社の天水桶・道標を初めとした一部の点景であろうか?

上は昭和30年代前半に作成されたと思われる松戸市商工会議所 観光協会が発行している絵葉書セットの入れ物の一部に書かれた松戸市付近略図である。
このマップの中の江戸川付近の記述をご覧下さい(下記拡大参照)
逆さクラゲ夢の里という文字が見えるだろうか?

これは平潟遊郭の事を指しているであろう。

平潟遊郭内の 第二花若楼から発行された年賀状 July 5, 2014差し替え
千葉県松戸町平潟第二新花若楼内章昇寄贈
この絵入り年賀状で第二花若楼があった事を知った。

それにしても看護婦姿の女性をあらわしている。

当時の人々はこういう絵を見てゾクゾクとしていたのだろうか?

言ってみれば制服フェチみたいなものかな?

ホテル千壇家旅館
入口向かって左に道標がある。
千壇家旅館前の道標には
「右 流山 野田道
左 平潟遊廓 小向渡道
根本川岸組合」

上の道標は千壇家旅館前にあるものだが、これと同種(多分同時期)の道標が根本にもある。それが下の写真である。
根本の道標には
「右 流山 野田道
左 平潟 遊廓道
根本川岸組合」


となっており小向渡という文字が無い。

平潟の寮に住んでいたNさんの話

友人AK氏の友人N氏は平潟にあった中央大学の寮(旧遊廓)に住んでいた事があり、食事をしながら伺った。
N氏は実家が千駄堀、中央大学法学部卒業、現在は上野在住でビルオーナー。
AK氏は松戸在住。中央大学法学部卒業でN氏の寮に何度も遊びに行った。
ペンペン草(道草亭ペンペン草)は筆者。
樋古根川
ペンペン草「早速、平潟の事をお伺いしたいのですがどういう情況で住んでいたのか話していただけますか?」
N氏「この平潟遊郭の中のいくつかの建物は売春禁止法後、寮として利用されていました。独特の日本家屋でした。そして私はそこで司法試験の勉強をしてました」

ペンペン草「どうしてその寮に入るようになったわけですか?」
N氏「元中央大学教授の柳沢義男氏が中央大学司法会計研究室として学生の為に寮を開放していました。司法試験は本腰を入れて勉強しなければならないので仕事をしながらというのは無理なわけです。従って、私も法律事務所を数年勤めた後この寮に入って勉強したわけです」
AK氏「当時、`酒に溺れれば合格が一年遅れ、女と付き合うと三年遅れ、結婚しても三年遅れる`なんて言われましたね」
N氏「ええ、そのくらい司法試験は頑張らないと合格しなかったわけです。司法試験を受験すると言うことは片手間では無理です。一年に数百人という枠がありいくら良い点を取っても枠外ですと落ちます」
平潟神社(水神社)
AK氏「寮の卒業生が講習の先生になるのが伝統みたいになってましたね」
N氏「そうでしたね」
AK氏「元々弁護士時代の蓄えと矢切の私財を投げ売ってここを学生の為の寮にしたと聞いてますね」
ペンペン草「その家屋は先生の持ち物だったという事でしょうか?」
N氏「いえ、土地建物の所有が柳沢先生のものかどうかは分かりません」

ペンペン草「Nさんはいつこの寮に入っていたのでしょうか?」
N氏「昭和63年の正確には3月から同年8月までの半年です」
ペンペン草「家賃や食事はどうなってましたか?」
N氏「家賃は朝夕食付きで3万円/月でした」
AK氏「格安でしたね」
N氏「寮に賄いのおばさんが居て、ご飯にみそ汁漬け物程度の食事なんです。納豆やその他のおかずは自分で揃えるという事は勿論認められていました。私の場合朝は食事を食べられますが、夜帰宅が遅かった。でもおばさんがご飯を取り置きしておいてくれたので随分と助かりました」
平潟の家並みも現在はすっかり住宅街
ペンペン草「お風呂はどこにありましたか?」N氏「寮の中にお風呂はあったのですが、事実上使えない物で近くの銭湯に行ってました。確か二軒ほどあったと記憶してます。千壇家の先に確か銭湯があったような気がします。`平潟湯`だったかなあ?今はもありませんが……」
N氏「ええ、そこに行きました。もう一軒あったんですが、何処だったかなあ・・・?」
AK氏「ところで建物の中に地下階があったよね」
N氏「あった、あった。でも私は入ったか入ってないかどうも記憶がないなあ・・・」
AK氏「確か洗濯機があったような気がする」
N氏「そういえばそうだったね」
ペンペン草「トイレはやはりくみ取りですよね?」
N氏「トイレは確か裏の樋古根川に流していたんじゃないかなあ?はっきり覚えてませんが・・・」
ペンペン草「それはどうなんでしょうねぇ・・・??」
すでに住所表記としては平潟という名称は使われていない
ペンペン草「ところで部屋の大きさはいかがでしたか?」N氏「狭かった。確か4畳半だったなあ。今でも思い出しますが建物全体が何となくジメジメとしてカビくさかったんです」
AK氏「そうそうまるでお化け屋敷みたいだったね。お化けが出たという話を聞いたことがあるけれど、Nさんは見た?」
N氏「それは流石に見てませんでした・・・笑」
AK氏「夜になると暗くてねえ・・・確か柳の木が何本もあったような気がします。少なくても三本はあったかなあ・・・」
ペンペン草「現在、大きいのが一本残ってますよ」(下写真参照)
AK氏「うむ。夜、歩くと電灯は殆ど点いてない状態で真っ暗なんです。それで柳はザワザワ・・・本当に怖かった。それで寮に帰ってくるとあのかび臭さですからね・・・笑」
ペンペン草「寮の施設は住んでいたところだけなのでしょうか?」
N氏「いえ、いくつかの建物が共用して使っていまして、図書や資料のある棟などいくつかに分かれてましたね」
今は無い鳥居

バブル時代(1987〜1990頃)の平潟写真
下の三枚はK.Y.氏から提供いただいた貴重な写真

August22,2010追加

(K.Y氏提供 Webサイト http://www.ichikawa-midori.com/ )
現在の東葛朝鮮会館から江戸川堤防方面を見ている写真
三台の車のうち先頭の車の横の青いトタン塀の所にはお稲荷様らしき鳥居のあった場所

(K.Y氏提供 Webサイト http://www.ichikawa-midori.com/ )
マンションのポルタビアンカ付近から江戸川方面を見ている写真
建築的装飾のあり方にアールデコ様式の臭いを感じるが、丸窓がある事によって単なるデコではない意味深な雰囲気を醸し出している

(K.Y氏提供 Webサイト http://www.ichikawa-midori.com/ )
マンションのスチューデントプラザ或いはポルタ・キアラ付近を江戸川を背に撮影
シダレヤナギとシュロに隠れた和風建築が何とも言えない。最初この写真を見たときに、現在のテニスコート付近にある柳ではないか?と思ったがどうやら違うらしい。
(K.Y様、貴重な写真の提供をありがとうございます)


下記の写真(上表題も同様)は毎日グラフ昭和29年9月1日号「学生寮に生れ変った特飲街」と題されたページ(28〜29ページ)から転載したものです。これは昭和29年の松戸市平潟の現状として掲載されている貴重な記事です。毎日新聞社様には平潟の当時を知る貴重な写真を残して頂き誠に感謝いたします。
昭和29年は売春禁止法が施行される前で、この記事が作られた時点でも特飲街として営業している店と学生寮が同じ地区に同居していた様です。
記事の著作権に関して:50年以上経過しておりますので、掲載させて頂いて問題は無いかと思いますが、もしも毎日新聞社様が削除してほしい等、クレームが付きましたら、削除いたします。よろしくお願い致します。
 Feb23,2013追加

(写真:毎日グラフ昭和29年9月1日号)
現在学生の宿泊に使われている「元特殊旅館」は6軒 約600名が宿泊できるが、改修後には1000名以上の収用が可能になる。 修学旅行や講習会のほか 常時250名くらいの学生を下宿させ ここの施設を利用して勉強してもらう計画がある毎日グラフ昭和29年9月1日号)。

(写真:毎日グラフ昭和29年9月1日号)
柳仙育英センターのアーチがある入り口のすぐ前では真っ昼間からしどけない姿の女たちが客を呼んでいる”廃業を強制するわけにもゆきませんし”と 育英協会にとってもこれが一番の頭痛のタネらしい毎日グラフ昭和29年9月1日号)。

柳仙育英センター 大学体育館改造予定建物(写真:毎日グラフ昭和29年9月1日号)
なかには平手造酒 新門辰五郎が泊まったという古い建物もある 3年後には改修 新築あわせて13の建物が完備される毎日グラフ昭和29年9月1日号)
注釈:平手造酒(ひらて みき:江戸時代幕末の剣客)
注釈:新門辰五郎(しんもん たつごろう:江戸時代後期の町火消、鳶頭、香具師、侠客、浅草浅草寺門番)娘の芳は15代将軍・徳川慶喜の妾となる。

(写真:毎日グラフ昭和29年9月1日号)
午前7時 かつては安佐がえりの客が草の露をわけながら通った小道を学生たちがそろって登校する 付近の人たちもこの180度の転換を心から歓迎 まだ残っている6軒の業者にも一日も早く転業してほしいと望んでいる毎日グラフ昭和29年9月1日号)

(写真:毎日グラフ昭和29年9月1日号)
はじめてやってきた学生が まだ事務所に残った逆さクラゲのネオンに一驚するのもここらしい光景である毎日グラフ昭和29年9月1日号)

(写真:毎日グラフ昭和29年9月1日号)
まだ設備が整わないので 夜具 机などみな学生持参だが 黒光りする立派な床柱を背にみな真剣に勉強している ”大学の教室にゴロ寝したこれまでの夏期講習会とくらべたらまるで天国のようだ”と語った学生もいた毎日グラフ昭和29年9月1日号)

(写真:毎日グラフ昭和29年9月1日号)
目下大食堂が建築中なので 食事は各館ごとに行われている 一日に二食付き150円也の安い宿泊費も御自慢のひとつ毎日グラフ昭和29年9月1日号)
遊郭から学生の育英センターへと、百八十度の転換で話題を呼んだ千葉県松戸市の元「平潟特殊旅館組合」は、その名も新しく「柳仙育英センター」と看板をぬりかえ、去る七月一日からいよいよ発足した。
ここは宿場色街として吉原よりも古い伝統をもち最盛時の大正十二、三年ごろには、十二軒約百六十名のお女郎たちがコビを売っていたというが、戦後東京などの赤線区域の繁盛とともに秋風が吹きはじめ、転換前には十五軒約六十名の女給が細々と営業をつづけていただけ。だからこんど転業を決意した九軒の業者の意気ごみも鋭く、センター運営にあたる財団法人育英事業協会に協力三年計画で約一千万円を投資して学生のためのホール、大浴場、図書館、体育館、保健施設などの建設にのり出している。将来は修学旅行に上京する学生たちを安い費用で泊め、スライド、映画などで予備知識をあたえ、専用のバスを連ね 東京見物をさせたり、、裏を流れる江戸川、坂川に遊泳場やボート場、釣り堀などをつくって学生のレクリエーションもはかろうと、その理想はなかなか大きい。現在すでに中央、芸術大学などの通信学部夏期講習会の宿舎に利用され、約二百五十名の学生が宿泊している。ただ問題は、この事業の将来に不安を感じて廃業の決心がつかなかった残り六軒の特飲店が、いまなおセンターのすぐお隣りでドウドウと営業をつづけていることで、ここを利用している通信学部の学生たちも、口をそろえて「一日も早く環境をよくしてもらいたい」と語っていた。
毎日グラフ昭和29年9月1日号)
The Hirakata red-light quarters Matsudo City, Chiba Prefecture, have been turned into the Ryusen Education Center forstudents. The hotel association is planning to build a library, gymnasium, recreation hall, bath room in three years. This will beone of the biggest recreation and education centers for students in Japan.毎日グラフ昭和29年9月1日号)
以上毎日グラフ昭和29年9月1日号−終わり

中央大学司法会計研究室のその後

中央大学司法会計研究室の在った場所は現在いくつかの建物になっている。それはスチューデントプラザ1,2でありクリオ松戸参番館という建物になっている。
千葉県のホームページに
千葉県知事所管公益法人一覧表がある。
ここに 昭和21年5月20日設立の(財)日本厚生事業協会があり、主な目的事業が「国家試験受験生に対する宿泊施設の供与等」となっており、会長は柳沢義男氏である。
これはクリオ参番館の一部が同財団の事務所となっており現在は「中央司法会計研究室」という名称が看板に見られる。
ただ平成17年4月29日現在、人気はなく活動はしていないように見受けられた。この財団が戦後直ぐに平潟で設立したと言うこと、売春禁止法との関連、弁護士としての柳沢先生……これらの関連と平潟の流れは何らかの関連があるように思うが今ひとつ分からない。もう少し調べてみたい。
付近の状況−1(日本大学歯学部松戸校舎跡)
付近の状況−2(平潟公園昭和三十四年十二月開園)

「松戸案内」大正四年十一月十日米井丁月氏発行

表紙
折り込まれている地図
(馬場、つまり松戸競馬場などの記述が見られる)
平潟遊廓に関する記述
大正四年十一月十日米井丁月氏によって発行された「松戸案内」には下記のことが書かれていた。
「市街の西北隅の別天地は即ち平潟町の遊郭で、大門をくぐれば左右に若松楼、宝来楼、叫楼、福田楼、花若楼の娼楼が軒を並べて幾多の遊君は茲に矯艶を競うて居る。廓内には射的場、玉突場の娯楽場もあって、共に遊客を吸収して居る。又、来迎寺堂内に呑竜上人の霊像が安置されてあって、毎月九日の縁日には賽客も多く廓内は一層賑やかになるのである」「松戸案内」大正四年十一月十日発行より)

 昭和五年、日本遊覧社発行の「全国遊廓案内」に松戸町の平潟遊廓についてこのように書かれている。

松戸町遊廓は千葉縣東葛飾郡松戸町字平潟に在つて、常磐線松戸驛へ下車して西北へ約五丁の處に在る。
東京府と千葉縣との境に在る町で、江戸川の川岸に臨んだ濱街道の要路に成つて居り、水陸の便が善い。松戸の相模臺には競馬場があり、縣農事試験場があり、又日本唯一の園藝學校もある。川岸は魚釣りには善い場所がある。寛永年間には澤山の飯盛女が居たものだつたが、今日の遊廓は其の後身である。目下貸座敷が十三軒あつて、娼妓は百十五人居るが、秋田縣、山形縣の女が多い。店は全部寫眞式で陰店は張つて無い。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は廻し制で通し花は取らない。費用は一泊甲五圓、乙四圓、丙三圓で各臺の物が附く。短時間遊びは二圓でも出来る。娼樓には、喜楽樓、第一鶴寶来樓、第二鶴寶来樓、
蓬莱樓、若松、濱名家、叶家、福田屋、百年、鈴金、三井家、第二九十九、一元等がある。
「松戸女郎衆はいかりか網か、登り下りの船とめる」藝妓は二時間二圓六十銭。
今は使われない言葉使いなので少々説明
陰店:陰見世とも書く。遊女が往来に面してでなく、家の中で見えるように並んでいること(広辞苑第五版より)
全部寫眞式で陰店は張つて無い:女郎さん一覧は写真でディスプレイされており奥で並んでいる訳ではないという事であろう。
居稼ぎ制で送り込みはやらない:女郎さんは常駐はしているが、デリバリーは無いという事であろう。
遊興は廻し制で通し花は取らない:廻すとは一夜のうちに順次、たくさんの客を取る事で、一人の客のために通し(つまり貸切)はしないという事だと思う。
臺の物:台屋から大きな台にのせて運ぶ料理品。松竹梅などの飾りをつける(広辞苑第五版より)

松戸平潟関連(その他)
平潟神社の秘密
平潟神社案内マップ
新京成と平潟



この「平潟と司法研究室」は松戸行脚2005で作成した「平潟の事」を2008年9月リメーク、2010年及び2013年に資料を追加補足した。