表の家

松戸行脚 消えた踏切バージョンアップ版


消えた踏切のページを作成したのは2004年頃でそれ以来更新していなかったが、元竹ヶ花にお住まいの小倉様のご厚意で昭和40年代前半〜昭和45年撮影の懐かしい写真を提供していただいた。是非、消えた踏切のページに使わせて頂きたいと思う。この度は誠に貴重な写真をありがとうございます。

昭和40年代、踏切の状況

昭和39年発行松戸市地形図1/3000に、昭和40年代の建物の位置を書き込んだ
「開かずの踏切」と言われた元大宝前の踏切から竹ヶ花の第二浜街道踏切までの間に何と4つも踏切があった。
吉祥寺の踏切、金山踏切(金山神社参道の踏切)、小根本踏切、無人踏切-A(仮名)である。

第二浜街道踏切から金山踏切までの配置
これが竹ヶ花の踏切、第二浜街道踏切と呼んだそうです。踏切際には国鉄職員が常駐していた建物が見え、写真中央奥にはヤマザキパンの工場が見えます。
小倉様によれば、踏切には国鉄職員が三名常駐し、踏切西側(写真では左側)の小屋で遮断機の上げ下げ、東側(右側手前)の小屋では仮眠所となっていたとの事です。遮断機の昇降は当初は手作業で行っていたが、後半は電動になっていた様です。
写真提供:小倉様
この写真は竹ヶ花の踏切(第二浜街道踏切)を松北堂書店側から雷電神社方向を見た写真。正面遠方に見える樹木は竹ヶ花の雷電神社。このまま踏切を横断すれば右側には明治屋さん(乾物、食料品店)があった。
写真提供:小倉様
この写真は第二浜街道踏切(竹ヶ花の踏切)から松戸駅方向を見ている写真。右手前の”国鉄コンテナ”と書かれたトラックの後方には松北堂書店が見える。また、踏切の開くのを待つ車の行列がはるか先まで続いているのが分かる。第二浜街道踏切(竹ヶ花の踏切)は常磐線の上下しか無かったが、それでもこれだけの渋滞をしていた。
写真提供:小倉様
これは上の写真の内松北堂書店を拡大してみた。
この写真は第二浜街道踏切(竹ヶ花の踏切)内から線路越しに揚げ物のお店”助六”を見ている。写真提供:小倉様
助六寄りの写真、助六の看板が見える。写真提供:小倉様
助六看板
以上は第二浜街道踏切(竹ヶ花の踏切)周辺の写真である。

貨物引込み線車止め付近にスポットを当ててみたい。
貨物引き込み線の車止めは上図無人踏切A付近にあった。
小根本踏切から第二浜街道踏切方面を見た写真。右一対の線路が常磐線の上下線、左の雑草の中に敷かれているのが貨物の引き込み線でそのエンドの部分が車止めの場所。
写真提供:小倉様
昭和34年頃、貨物引き込み線車止めで撮影した写真。右端に立つ男性は私の叔父、次の少年が私で、その左隣が従兄弟の染谷ミヤコちゃん。左端の二人は近所の高橋さんのご兄弟(だそうです)。この染谷ミヤコちゃんは線路対岸の竹山クリーニングの竹藪付近に一群の家並に住んでいた。どうやらこの引き込み線車止めは子供の遊び場だったらしく、時々線路を越えてここに遊びに来ていたようである。今だったら考えられないが、当時は本数が少なかったからそんな事が出来たのかもしれない。さて、右端の叔父の右側背景を注目下さい。横切るものと白いものが見えませんか?さらにその部分を拡大した写真が下の写真です。
つまり線路を横切って見えるのは無人踏切Aであり、その先に白いトラックが右から左へ走っているのが見える。そのトラックが走っている場所が第二浜街道踏切(つまり竹ヶ花の踏切)という事になる。
同じ場所で撮影した私自身の写真。

次は市場と小根本踏切にスポットを当ててみたい。
地図は丸果市場を挟んで金山踏切と小根本踏切の位置関係(昭和30年代の地図に踏切と市場を表している。
右奥の切り妻屋根が市場で東京中央青果松戸支店(丸果)、正面中央に小根本踏切があり、中央上部にそびえる高層の建物が住宅公団松戸市役所前アパートで、一階の店舗は、”ショッピングセンター・ときわ”→”奈良屋”→”土屋家具センター”と変遷した。
るみちゃんブログのるみちゃんによればショッピングセンター・ときわは常磐重機という会社によって経営していたとの事です。 
写真提供:小倉様
小根本踏切-1
小根本踏切
を市場側から市役所方面を見た写真。
右の鬱蒼とした樹木は金山神社境内。昭和四十年代前半の写真。
写真提供の小倉様によれば、この小根本踏切はミゼット、牛、馬、リヤカーなどに荷物を積んで往来があり、競りは15:00からだったとの事です。
これは丸松市場も同様ですが、夕方から競りが始まる”ゆうす”だったと思われます。夕方に市が立つという事は即ち、地元の野菜を扱った事を意味します。朝収穫した野菜を洗い、車、牛、馬、リヤカーなどで出荷し、これら地元の市場に運び込むとちょうど15:00くらいから競りが始まるという訳です。
松戸の市場を参照下さい
この踏切を渡りまっすぐ進むと市役所に上る坂に出ます。という事は小根本、胡録台、岩瀬方面の農家は混雑する大宝前の開かずの踏切や竹ヶ花の第二浜街道踏切を通らず、この小根本踏切を利用すればショートカットして野菜を運べたからでありましょう。
又、当時この踏切の先、左側には居酒屋があり、自家製キムチもおいていたとの事です。
写真提供:小倉様
小根本踏切写真-2
この写真は踏切閉鎖の為の周辺工事を始めた頃の小根本踏切の様です。正面の信号根元にある擁壁及びその上のフェンスに注目してください。擁壁の上部に鉄管の様な物が見えますが、これは建設現場の仮設足場や仮囲いに使われる単管と呼ばれるパイプの様です。
写真提供:小倉様
小根本踏切写真-3
今や懐かしい栗の木で出来た枕木
小根本踏切写真-4
小根本踏切写真-3, -4は同じアングルの小根本踏切ですが、通行止めになっているほぼ同時期の写真で踏切を解体している状況です。両方の写真とも擁壁の上部に既製コンクリート製の鉄道柵が作られているのが分かる筈です。
写真提供:小倉様
小根本踏切写真-5
小根本踏切を違うアングルから見ている写真。正面は金山神社の森と御輿蔵の建物。人が横断している事が確認出来、又踏切両サイド、擁壁上に単管で仮囲いになっている為、小根本踏切写真-2と同時期の写真の様です。写真提供:小倉様
小根本踏切写真-6
小根本踏切写真-5の写真とほぼ同日と思われる写真で、−5とほぼ同じ場所から松戸駅方面を眺めている写真。まだ、金山神社への跨線橋は出来ていない。写真提供:小倉様
小根本踏切写真-7
対岸の擁壁の存在から、やはり小根本踏切の市場側付近から柏方面を見ている写真。あらたにU字側溝が造られている。
写真提供:小倉様
小根本踏切写真-8
多分、小根本踏切写真-8よりももう少し松戸駅寄りから柏方面を見て撮影したものと思われる。右斜め前の樹木は竹山さんの竹藪に生える樹木と思われる。この竹藪は湧き水もあってザリガニや小魚が捕れた。樹木の線路側の住宅群の線路側は人が行き来できるだけの小道が残されていて、その先の大きな切り妻屋根(東葛土木事務所内の倉庫だったかな?)を抜け楢原建設前付近まで抜ける事が出来た。少なくとも昭和五十年くらいまではこの小道はあって、通勤の際、この道を通って金山神社境内付近まで抜け松戸駅に向かった。今は、この道は無く通れない。写真提供:小倉様
小根本踏切写真-9
小根本踏切写真-8とほぼ同じ場所から線路敷きを見ている写真。線路の敷設工事中で何となく間延びして見える。両側に既製コンクリート製の鉄道柵が並んで中に入りにくくなっているのが分かると思う。写真提供:小倉様
小根本踏切写真-10
金山神社の御輿蔵前付近。線路敷きとして拡張し整地している写真。写真提供:小倉様
小根本踏切写真-11
多分、小根本踏切から数十メートル竹ヶ花踏切寄りの場所だと思う。土中に埋まってしまっている線路が見える。線路幅とクネクネ具合から工事用トロッコの仮設線路であろうか?
写真提供:小倉様

金山踏切写真-1
竹ヶ花方向から金山神社前跨線橋を眺める。現在の快速電車側の線路敷きが広く、まだ線路の工事中。線路敷き工事手順として、先ず既存の線路上に今まで通り、常磐線の上下線を走らせている間、拡幅した線路敷きの部分に複々線の線路を造る。それらが出来た時点で、常磐線の上下線として新たに作った線路上に走らせる。その間に線路敷き西側の部分の工事に入る。ここには貨物船の引き込みなどもあったので、それらを統合して快速電車の上下専用の線路に作り直す。快速電車用の上下線線路が完成させたら、そこで初めて快速電車を西側の線路に走らせ、東側線路敷きに常磐線各駅停車を走らせるというやり方ではなかったのだろうか?(昭和45年4月15日小倉様撮影)
金山踏切写真-2
松戸大宝寄り新京成の無人踏切付近から金山神社の跨線橋方向を眺める
 (昭和45年4月15日小倉様撮影)
金山踏切写真-3
すでに金山神社参道の跨線橋がほぼ完成している写真。写真提供:小倉様
金山踏切写真-4
金山踏切写真-3とほぼ同時期の写真。写真提供:小倉様

根本-岩瀬間の踏切写真-1
松戸大宝際にあった踏切を北松戸方面から松戸駅方面を眺めたショット。所謂開かずの踏切と言われた。当時は常磐線の上り下り、貨物線、新京成電鉄が重なる部分であったため、車の通れるタイミングが中々来なかったようだ。ここに常磐線の複々線(常磐緩行線)、現在の常磐線各駅停車の上下線が加わっては殆ど行き来が難しかった訳だ。
(昭和45年4月15日小倉様撮影)
根本-岩瀬間の踏切写真-2
根本-岩瀬間の踏切写真-1と同じ場所から東口側にあった扇屋及びパチンコ富士方面を見た写真。この部分を拡大してみた写真が下の根本-岩瀬間の踏切写真-3である。
(昭和45年4月15日小倉様撮影)
根本-岩瀬間の踏切写真-3
左端の窓が縦に三つほど見える建物が松戸大宝、その横に富士と大きく書かれた看板があるがそれがパチンコ富士、中央右よりに見える屋上ペントハウスに赤地に白い字が書いてある建物が扇屋。(昭和45年4月15日小倉様撮影)
根本-岩瀬間の踏切写真-4
左端の鬱蒼とした樹木の所が岩山稲荷、その横の二階建てピンク色の建物が角えび、さらにその先の白い建物で7層近くある建物が松戸大宝ビル。新京成の線路は画面左側に三本の白い電柱向こう側、岩山稲荷沿いを走っている為全体に線路が少なく見える。
(昭和45年4月15日小倉様撮影)
根本-岩瀬間の踏切写真-5
樹林が岩山稲荷、ピンク色の建物が角えび、白い建物が松戸大宝。この当時から角えびはピンク色だった事が分かる。
(昭和45年4月15日小倉様撮影)

さて、ここからは2004年頃撮影した写真です。

常磐線は昭和40年前後に複線から復々線になるに伴い、松戸付近では線路敷設の為の拡張工事が行われた。土地の買収等で住居街区がばっさりと無くなり、神社の境内が半分近くになり、御輿蔵の一部がカットされた。複々線になってはもはや交通上支障があると思われた踏切は殆ど廃止にさせられた。 そこで元踏切が存在した場所を歩いてみた。

地図上の無人踏切Aがこの付近にあった筈ですが、その跡形もない
確かこの当たりに無人踏切Aがあり、竹山クリーニング裏の竹藪方面付近まで通じていた。
小根本踏切のあった場所。

元市場側から踏切跡を眺める。背景の森は金山神社その前の白い平屋が御輿蔵

踏切があった当時とは比べものにならないくらい距離感が伸びて、今ここに踏切があっても怖くて渡れない。
小根本踏切跡から金山神社の鳥居及び御輿蔵を見る。
複々線拡張工事の影響で境内は縮小され、御輿倉庫もコーナーカットされた。
参道を見ると旧水戸街道まで駐車場。この駐車場には青果市場(丸果)があった。左側街区には納豆屋さん、内山医院、根本保育園などがあった。その後、テニスコートになった時期もある。現在は左右とも新たなマンションが出来ている。
水戸街道を背に寂しい参道を見る。
複々線になる前は画面左側線路二対分が住宅街区だった。私の同級生のM君もこの無くなった街区に住んでいた。
吉祥寺の境内
ここは吉祥寺の入口付近。この前方には現在駐車場があるが、実は踏切に通じる道があった。吉祥寺の入口付近植え込み(写真左端)には季節になると立派なボタンが見られる。
ここから前方岩山稲荷付近まで踏切があった。

今だったらこんな長い距離の踏切では怖くて渡れませんね。
吉祥寺の対岸、岩山稲荷付近に立つ。踏切跡の面影は殆どない。
吉祥寺と岩山稲荷の間を上から眺めた距離感。もはや踏切としては適切でない長さだったのかもしれない。
ここが元大宝付近から眺めた「開かずの踏切」跡。
以前ココにはパチンコ富士があった。床は土間で椅子が無く末期は殆どお客さんが居なかった。

この写真は昭和50年前後。アマチュア映画の「松戸ウオーズ」からコピーを頂いた。
そのパチンコ屋の道路を挟んで反対側には大宝があり、こんな感じの賑々しい入り口があたった。この大宝の裏には角えびがあり、現存している。大宝は火災をだし、廃業。現在はラブホテルが建っている。



この「消えた踏切」は松戸行脚2004で作成し、2008年9月リメーク、2013年2月及び3月小倉様のご厚意により、昭和40年代前半〜45年当時の踏切写真を提供いただき、ページに加え、さらに私が三歳の頃の近辺の写真も掲載した。