表の家

つれづれなるままに61-65


65 芋焼酎のお湯割り−焼酎が先か?お湯が先か?

焼酎が先か?お湯が先か?
昔はそんな事気にせず飲んでいたけれど、昨今焼酎のお湯割りを作る際はお湯を先に入れる方が良いと言われ。半ば常識化している。
水割りの場合はその逆で焼酎の方を先に入れてから水を入れる方が良いのだそうだ。
理由を聞くと比重が原因で、お湯と焼酎を比べると焼酎の方が比重が大きい為、大きい焼酎を後から入れた方が対流が起こりやすく、良く混ざるのだそうだ。逆に水と焼酎を比べると水の方が比重が大きいので焼酎を先に水を後から入れた方が良く対流する……という事らしい。
ところが、これをネットで調べてみると80度程度のお湯であると焼酎と比重は同じ0.97なのだそうで、お湯が冷めて水に近くなるほどむしろ焼酎よりもお湯の方が比重が大きくなる。という事は少なくともお湯割りについての「お湯が先で焼酎が後」という定説の根拠が見つからないし、水割りの場合でも、たった比重が0.03違う程度で活発な対流が起きるとも思えない。この議論どうやら眉唾ではなかろうかと思えてくる。
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   先日、飲み友達のアミモノコさんとセンセーと某ショットバーで合流した。その後、カラオケに行こうという事になり三人で市内の某スナックに行った。私の焼酎キープがあったからだ。何処のスナックでも同じだがこの店でも水割りは女将さんが作ってくれる。
私はすでに三軒ハシゴをしてきた為かやけに酔いの廻るのが早かった。私が飲むとせっせと女将さんが次から次へと焼酎の水割りを作ってくれる。帰る間際は妙に濃い水割りになっているように思ったが、かなり酔っているので、分からないまま飲んでしまう。いつの間にかボトルは空になり、目の前に新しいボトルが鎮座している。う〜ん!やられたかぁ〜!
然し、これは何処のスナックでもこんなものである。
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   又、ある日東口に最近開店した某居酒屋で芋焼酎のお湯割りを飲んでいた。いつだったかコガラちゃんが焼酎のお湯割りはやはりお湯を先に入れた方が良いという話しをしていたのを思い出し、実践してみた。
「先ず、お湯を先に入れる」と声を出しながら入れた。「あ!」
つい、お湯を入れすぎてしまったのだ。
「私のお湯割り、下手やなあ〜」とブツブツ言いながら湯9:焼酎1くらいの薄い比率の焼酎お湯割りを飲んだ。
   飲んでみたらこれがいけるのだよ。芋焼酎は薄くても充分美味しく頂ける事に気がついた。これがお湯を先に入れることの妙技なのか?と思った。
ところが道草亭ペンペン草は天の邪鬼でして素直にこの言い伝えを信じられない。そこで、何故?と自問自答を繰り返す。

   今度は逆に焼酎を先に入れて試してみることにした。
「今度は焼酎を先に入れる」と言いながら焼酎を入れた。そこで再び「あ!」
焼酎を入れすぎてしまった。ああ〜と思いつつ、湯7:焼酎3ほどのお湯割りを飲んでみたらこれも同様に美味しい。何だ味はあまり変わらないじゃないか?
この時、私は「はっ!」となった。
ある事に気がついた。
多分お湯を先に入れる理由は比重ではなく、別の理由からではないだろうか?という事を……

   お湯割りでも水割りでも、コップに最初に入れる液体はどうしてもたくさんになりがちである。つまり焼酎を先に入れると焼酎が多く入りがちになるのに比べ、お湯を先に入れればお湯がたくさん入りがちになり、焼酎の量は少なくて済むのだ。ところが薄くても芋焼酎のお湯割りは充分美味しい。
つまり焼酎を先に入れるよりも、お湯を先に入れて飲んだ方が、焼酎の節約になるのだ。

   「湯7:焼酎3」でも「湯9:焼酎1」でも味が大して変わらないのなら、スナックならば「湯7:焼酎3」でお客さんに出したいのは人情だ。何故ならお客さんにお金を落としてもらいたいからだ。
「湯9:焼酎1」であればボトルを空けるのに三〜四回来店が必要だとすれば、「湯7:焼酎3」であればその日の内に飲みきってしまうか、次に来た時にすぐ空けてしまう事になる。

以上です。
   私はお湯を先に入れる極意とは「焼酎を節約しつつ、美味しく飲む方法」と結論づけますが、あなたはどのようにお考えになりますか?

64 カンペイは続くよ何処までも〜山東省某都市


中国の山東省の某都市に二泊三日で訪れた。行った先の宿泊場所でオーナーの友達だという台湾人王さんに会った。この人が、ものすごくおちゃらけた人で昼間から夜の雰囲気を持っている。もっとも私自身も昼と夜の顔に区別が無くて「昼から酔っているんじゃないか?」と云われる事もあるが、本人はとても真面目だったりする。従って、このように似た人に出会うと、たとえ初対面でも何故か急激に引き合ってしまう。

夕飯時我々のグループだけでひっそりと食事をしていると、他の宴会個室から台湾人の王さん我々の部屋になだれ込むようにしてやってきた。王さんは英語を話せるが、私は中国語で話し掛けた。

私の中国語は元々台湾訛りの強い台湾人(本省人)から習った為に、台湾訛りの発音がベースになっている。ただ、台湾プロジェクトが無くなり大陸のプロジェクトがメインになって以来、発音を矯正し何とか大陸の普通語風に話すようにしていた。ところが台湾人と話しをするとつい言葉の端々に台湾訛りが出てしまう(ただしそれは本省人相手の場合に限る)。
一体あれは何なんだろうか?多分、地方の人がお国訛りを東京では使わないように標準語で話しても、ある日実家に戻り故郷の友達に会うと元のお国訛りに戻るという感覚に近いかもしれない。

この日も私の台湾訛りが出てしまった。台湾人の前で台湾訛りの中国語が出ると、彼らは急速に私に対する親近感を覚えてしまうらしい。台湾人王さんがみるみる嬉しそうな表情に変わった。こうなると私は止まらない。忘れていたはずの台湾語の単語を会話に入れつつ積極的に話を盛り上げてしまう。それが台湾人王さんの壷にぴったりはまってしまったんだな。

台湾人王さんは「`表の家さん`を他の部屋の宴会に連れて行きたい」と言い始めた。「友達が居るから紹介したい」と云い、私一人だけほぼ強引に連れていかれてしまった。

私は概ね新しい人との出会いは大好きで、日本人だけに限らず相手が中国人でも西洋人でもよろしい。私はこの新しい流れに身を任せた。これから行く部屋には王さんの奥さんもいると言う。
私が「部屋にいるその奥さんも台湾人なのか?」と聞くと
王さん「いいや、台湾人ではない、この土地の人だ。台湾妻は別だ」
何やら微妙な話を、子供がふざけるような顔で冗談めかして私に漏らす。
私は「ああ、分かったよ」と云った。そして「先に聞いといて良かったね」というと王さんは笑った。何処まで本当で、どこまで冗談なのかさっぱり分からない。

王さんが私を連れて行った個室では十人程が円卓を囲んで場が盛り上がっていた。私が到着するや、その部屋にいる全員に紹介された。そして挨拶の乾杯(カンペイ)儀式をほぼ一人一人と重ねていった。実はこれだけで酔ってしまう。私が着席すると何処の誰から聞いたのか「この人は動物の物まねが得意だから何かみんなに披露してくれ」と言う。私は何か芸を披露しなければならなくなった。そこでカラスの鳴き真似をしてみせた。これが結構うけた。

これをきっかけにして宴会の全員が一人一人物まねの披露をする遊びが始まった。こういった言葉不要の遊びは気楽で案外盛り上がるものなのだ。その後、王さんがダイスを二つ出してチンチロリンのような遊びを始めるという。大きなお椀を持ってこさせ、その中にダイスを振る。

王さん曰く「一番数字の多かった人がこの酒を飲むんだぜ」となみなみと赤ワインをついだ大きなワイングラスが円卓に置かれる。みんなハラハラしながらダイスを振る。
数回このゲームを進めるうち「奇数の人はみんな飲むのよ」という女性が現れ、さらにそれが「三を超える人はみんな飲むのよ」に変わると殆ど全員が飲まざるを得なくなった。そして乾杯乾杯(カンペイカンペイ)になっていく。

カンペイは続くよ何処までも〜!

しだいに私も何が何だか分からなくなってしまい、やっと自分の部屋に帰った時はもう酒はこりごりという状態になっていた。

63 中華レストランで箸の使い方悩みませんか?

先ず、一番左を見て下さい。
これはは和食の箸の置き方です。
日本の家庭であれば大抵この様な向きで箸が置かれてますね。居酒屋でも料理屋でも大抵この形です。箸のマナーとして先ず左手で軽く摘み、右手を下から差し入れこの箸を美しくつかみ、左手を離し右手に託す。左手は今度茶碗を持ち支える役目になる。箸は右手の人差し指の上に乗っていて親指で押さえていますが、箸は人差し指の上に乗っていながら、箸の先は掌の方向に向いてます。箸は右手を軸にして箸の先を半円に回転させながら、総菜を掴み口に運ぶという動作を繰り返します。でも基本的に箸の先の方向は左を指しますよね。従って、箸の置き方と持ち方使い方が大体同じ方向を指す。

真ん中は洋食です。
フォークやナイフが縦に置かれている。この配置はこれから肉や魚を切る状況に直ぐに取りかかれる位置にあり自然に両手でそれぞれをムンズと掴み、左手のフォークで肉を押さえ右手のナイフで切り、細かくした肉を左手のフォークで刺して食べる。フォークやナイフは箸同様にそれぞれの手の人差し指の上に乗って親指で押さえているという基本は同じですが、箸と違うのはナイフやフォークの先が手の甲の方向を向いている。

つまり箸は左の写真の様に箸の先が手の平の方向を向いていますが、ナイフは人差し指の上にある事まで同じですが、向きが手の甲の方向になっている。全く逆です。分かりますか?
言い換えれば箸の柄は手の甲の方に出てますが、ナイフの柄は手の平の方に握られてますよね。
つまり箸はどちらかというと絶えず左の方向を向かせやすいのに比べ、フォークとスプーンは縦方向に向きやすい。従って、和食の箸は手元に横に置かれて、フォークやナイフは縦に置かれた方が次の動作へ自然に出来る訳です。

ところが一番最初の図の中華を御覧下さい。
中国大陸でも香港でもこんな形でおかれます。確か日本の中華レストランで食事をする際もこんな状態で箸もスプーンも置かれていませんか?

先ずスプーンはムンズと直接掴むことが出来るので、差し障りは無い。
ところが箸は日本流に左手で摘み上げ、右手を下から差し込み人差し指の上に載せ掴むという動作をしてみてください。この場合、左手を思いっきり右手の方向に延ばして、しかも右手はぐっとひねってあげないと日本流に掴むことが出来ない。とても不自然になる。

そこで他の中国人の箸の掴み方を見ていた訳です。
右手一つで縦置きした箸を乱暴に掴んで人差し指で回転させて、持ち替え箸の先をテーブルの上にトンと当てて先を揃えて食べ始める。箸の掴み方の流儀など何にも無くて、不格好に適当に持ち替えて結構荒っぽく食べ飲んで、最後はゲップまで聞かされる。

ああ、なんだ!アバウトなんだなあ〜と思う。
私だけ箸を横置きしてみるんだけど、丸テーブルで自分の食べる場所の奥行きが案外無くて、どうかすると箸を落としそうになる。う〜ん、どうしようかなあ〜なんて思いながら、結局乾杯乾杯しているうちにいい加減になって箸の使い方などどうでも良くなってしまう。

そんな事を随分長い間繰り返してきたなあ〜と思っている訳です。誰か私と同じ悩みを持った方はいらっしゃいませんかぁ〜?

62 あ〜あ、ネコババした〜い

表面

裏面

バー「C」でビールグラスを傾けていると松戸在住のMさんが現れた。Mさんは矢切の旧家で由緒正しきお家柄だ。表の家も度々見ていただいているそうで、とてもありがたい。酒が進めば松戸の昔話に花が咲く。イセタンE子さんも途中から加わり、Mさんから興味深いお話を伺った。Mさんがある日、御自宅の庭を掘ってみたら茶壺のような容器から写真の様な小判様のものが出てきたそうな……

「さて、一体これは何でしょう?」という事になり、見せて頂いた。
二分と書いてあるので二分金かもしれないが果たして何なのだろうか?コイン収集の趣味はなかったのでこの手は分からない。さて、Mさんはお帰りになるとの事で一旦これをお預かりする事にした。マスターのHちゃんが早速ネットで調べてくれたら、これは二分金である事が分かった。真贋は分からない。

ただ二分金には時代によって分けられて居る。ウィキペディアによれば:

真文二分判:文政元(1818)年頃発行
草文二分判:文政十一(1828)年頃発行
安政二分判:安政三(1856)年頃発行
万延二分判:万延元(1860)年頃発行
貨幣司二分判 :明治元(1868)年頃発行 別名`明治二分金`とも呼ぶ


表面には「光次」の署名と梵字のような花押(かおう)が刻印され、裏面上部に扇枠に五三(ごさん)の桐紋、中央に「二分」という文字、下部に五三(ごさん)の桐紋という構成になっている。預かった二枚の大きさはそれぞれ19.5mm*12mm及び19mm*11.8mmであった。

さて、サイズ的に見て万延二分金か明治二分金かという事になると思われたが、その判別はとても難しいのだそうだ。二分の「分」の文字の部首の`はちがしら`の八の字の最後がはねると万延、はねないで止めると明治という旧定説がある。ところが現在は発行枚数から判別するという新定説に変わりつつあるそうだ。

先ず大凡の発行枚数を比べると下記の様になる。
万延二分金:約9349万枚
明治二分金:約640万枚


つまり万延の方が15倍の発行枚数で圧倒的に多い。実際に流通している二分金の枚数を見ると`はちがしら`が止めの枚数の方が圧倒的に多いらしい。この為、今までの旧定説ではなく`はちがしら`が止めで万延二分金、はねると明治二分金という新定説に変遷しつつあるそうだ。

従って、この写真の二分金を旧定説では明治二分金、新定説では万延二分金という事になる。ただ、一方の二分金の表面「光次」の文字の左上に何らかの模様の刻印がされ、一方には無いというのが若干気になる。これが何を意味するのかは良く分からない。

私は松戸市秋山で出土したという泥メンコを手に入れただけで嬉しいレベルで、我々一般庶民が持ち慣れない二分金とは、有り難すぎるとも言えなくもない。二級品で10000円前後、極美品で15000円前後らしいが、それにしても……
ネコババした〜い!

61 ペットの気持ち

先日のテレビ番組でレッサーパンダの子供を一時的に人間が育て(最終的には親に返す)という企画があった。育てるのはハルナ・アイ。
私がまだ子供だった頃我が家でも実に様々な動物を飼っていた。犬、猫、カナリア、セキセイインコ、九官鳥、鶏、鳩、ウズラ……それぞれ飼っていた時期は異なるが実質的な面倒を見たのは母だった。私はせいぜい、犬の散歩か鳩の餌水やり程度で何もしなかったと言って良い。
ペット、動物に愛着が湧く気持はよく理解できる。動作も可愛く頬摺りしたくなる。いつの間にか家族の一員として、なくてはならない存在になっていく。それを一種の家族愛だと言えばそうなのかもしれない。

現代は核家族化以上に家の中の人数が少なくなっているのだそうで、そういった意味からもペットは大きなウエイトを占めている。ただ、同時に可愛いからというだけの理由、勢いででペットショップで買ってしまい、面倒見切れなくなったり、引越し、結婚などで簡単に捨てたり、保健所や動物愛護センターに預けてしまう人も少なくないと聞く。
野犬を始めその他の動物が堂々と生きられない世の中になってしまった現実の中で、捨てたり、保健所や動物愛護センターに預けるという行為=ペットの死(或いは殺す事)を意味する。
動物好きな人の中には動物愛護センターを恨む人がいるそうだ。そういう投書も多いと聞く。その気持ちもよく理解出来る。しかし、本当に恨むべきはペットを簡単に自分本位に見捨てる人間の方ではないだろうか?

沖縄に滞在していた当時、友人の中に、このように行き場を失ったり、飼い主から虐待を受けてすっかり怯えてしまっている犬を一手に自宅に受け入れて面倒を見ていた人たちが居た。その行為・活動は素晴らしいと思った。とても真似が出来ない。
ただ、家の中が犬だらけでものすごい状態になっていたけど……(^^)

動物は子供のうちは可愛い。でもいつしか老いぼれて、痴呆になったり、体が動かなくなったり、糞小便を垂らすようにだってなる。先ず、十中八、九飼い主よりは動物の方が早くそういう状態になる。そういった全ての面でひっくるめて「動物を飼う」、そして「天命を全うするまで一緒に生きる」という気持ちが大切なのだろうなあ〜!

現代の私にはとてもそこまで出来ないのでペットは飼えないし又、飼わない。死の別れがもっとも悲しいから……という理由もある。
(そういえば2〜3年前、根本の元ビデオシティの前を通ると毎晩犬の面倒を見ている人が居た。その犬はかなりの年齢らしく足腰が立たなくなっていた。それでも犬は外が好きらしく飼い主は連れて出ていたようだ)

最初に戻るが、番組の中でレッサーパンダの子供を親に返す事になり、すっかり愛着を感じてしまったレッサーパンダの子供との別れに、はるな・あいちゃん他出演者は涙を流した。厳しく、たくましく生きなければいけないレッサーパンダに流したその涙とは果たして一体何だったのだろうか?と考えてしまったのだ。