表の家

飲み屋あれこれ松戸は楽しい6-10


10  居酒屋「蕗の家」―樋野口

玉三白玉粉の裏、旧根本橋を渡り大衆割烹「よしの」を横目で見ながら北西に歩き、樋古根川水神
橋を渡る手前に居酒屋「蕗の家」があった。秋田のおばちゃんが一人で営業、カウンターの上には
芋の煮コロバシ、筑前煮、キンピラゴボウなど大皿総菜が所狭しと並べてあった。地味な惣菜及びレ
モンサワーやウーロンハイを数杯注文した程度で、帰りには疑問を感じるくらい安くない料金を請求
される事があり、実に不思議な店だった。割高かも?と思いつつ、この店に行く理由があった。それ
は深夜遅く(朝になっても)ハシゴ酒を繰り返した我々が最後に立ち寄れる唯一の店だったからだ。

深夜営業をしている店として「北の家族」等、大手チェーン店もあった。然し、所謂大きな店にありが
ちなガヤガヤと落ち着かない空虚な雰囲気がイヤで、メジャーな店よりもむしろマイナーな店をわざ
わざ選んで歩いた。

「蕗の家」は確か夜の9時くらいに店を開けた。開店後はお客が飲んでいる限りいつまでも延々と営
業を続け暖簾を下ろさない。気が付くと(土曜日の)朝まで飲んでいて、新鮮な空気を吸いに外に出
ると、通勤者がせわしなく駅方向に歩いていくのが見えた。呆然(ぼうぜん)と立ちつくす我々を通勤
者は唖然(あぜん)たる面持ちで見ていたに違いない。三十代の頃の私は、どうにもこうにも馬鹿な
飲み方をしていたものだ。店をたたんで十年は経つのではないだろうか?噂によればおばちゃんは
秋田の実家に帰ってしまったらしい。

9  韓国居酒屋「かずちゃん」−松戸駅東口

市役所坂を降り松戸駅東口方面に少し歩いた処、雑居ビル(篠崎ビル)の一階に韓国居酒屋「かずちゃん」がある。ここは店主(テナント自体)が良く替わる店で、私が知っている限り三度替わった。一説によればテナント料が高いからだと聞いたことがあるが、実際の所は良くわからない。

店主が変わっても、店名は変わらず「かずちゃん」で三代通している不思議な店。次のテナントに居抜きで受け渡されるらしく、今も昔も内装が大して変わらないところが面白い。店内はウナギの寝床の如く細長く、奥までカウンター席。このカウンターで真露を飲みながら韓国海苔やキムチをつまむ。

私がよく通ったのは1992年頃で女将(当時は二代目かずちゃん)には本当に親切にして頂いた。当時、松戸駅周辺には韓国居酒屋がそれほど多くなかった。「かずちゃん」は狭い店であった反面、何となく落ち着けるアットホームな感じが良かった。その為か、在日の常連が何処からともなく現れ、飲み食いしゃべり帰って行く、そんな店だった。

焼き肉=韓国料理だと思いこんでいた私にとって、ケジャン(蟹肉の辛味合え)、センマイ(胃袋)、マッコリ(韓国風どぶろく)、ビビン冷麺等を覚えたのはこの店のおかげ……!女将は夜の営業にとどまらず、江戸川のバーベキュー大会、水元公園の花見など昼間の催しも行い、お客さん同士の横の交流もあって愉しい店だった。催しの時に集まる在日の若者達の年配者へ対する敬いには一見の価値があり、見習うべき所も多かった。

当時の女将は店が替わり、京葉ビルの二階で「だいこん」という韓国カラオケ店を営業している。「だいこん」には何度か通ったが、元来カラオケがあまり得意でないため、すっかりご無沙汰している。

体の不調から松戸市立病院に通院した際、何故か「だいこん」当時の女将と街中でばったり遭い、心配させてしまった。植物の勉強を始めた頃、植物図鑑片手に松戸市役所のクスノキを観察中「だいこん」の女将が突然現れ「図鑑見ながら木を勉強しても中々覚えられないでしょ?!」と痛いところをつかれた。

「かずちゃん」の歴代店主初代は日本人だったがその後初代店主の消息は知らない。二代目「かずちゃん」店主は京葉ビルで韓国カラオケ「だいこん」を営業、2008(平成二十)年三月廃業、三代目「かずちゃん」店主は和菓子屋ニコニコ堂隣の韓国居酒屋「民俗村」を営業、2007(平成十九)年頃廃業(注1)、四代目「かずちゃん」店主はそのまま現在に至る。

注1:「民俗村」跡には現在行列の出来るラーメン屋「兎に角」になっている。

8  スナック「シャラント」−高砂通り

あの高砂通りのスナック「シャラント」が無くなってから二十年は経つだろうか……(場所は後にショットバー・カラオケ「ルンルン」が出来た場所)蝶ネクタイをした細身で怪しげな老齢バーテンとおばさんホステスが一人。店前には喫茶店前によく見かけたキー(木村)コーヒーの白青の電照看板があった。
何故私がこの店に入ったのか思い出せない。まだ二十五〜六歳の頃で酔った末の勢いかもしれない。突然の思いつきではない。一度は入ってみようと思っていたのは確か。店の扉を開けた瞬間、店内の暗さからここは私のくるべき店ではないと思った。

扉を開けてしまった以上、引っ込みが付かない。バーテンの居るカウンターまで行き、座らず「ビールはいくらですか?」と聞いた。バーテンは「小瓶で二千円」と答えた。
そりゃ高いぜ。今だって二千円の小瓶は高いが当時はもっと高いと感じた。

そこで考えてみた。向こうは二千円だと言ってきた。お金が無いならまだしも二千円なら出せない金ではない。社会勉強のつもりで二千円のビールを飲んでみてはどうか?それに一度入ってみたいと思った店なのだ。ここでひるんだら二度と来られない。そこで「予算は五千円」と告げ飲み始めたと思う。

飲み始めたらバーテンは意外に話し上手だった。その後、この怪しげな老齢バーテンの話の魅力に取り憑かれ何度か通う事になった。確か二度目くらいの時にオーソドックスなカクテル「マンハッタン」を作ってくれた。

バーボンウイスキー(出来ればライウイスキー)45ml、スイートベルモット15ml、アンゴスチュラ・ビターズを1ダッシュ。ミキシンググラスに入れステアする。カクテルグラスに注ぎマラスキーノ・チェリーを添える。これで出来上がり!

「マンハッタン」と言えばショートドリンクであり、一般的にそう何杯も飲む酒ではない。本来はそういうカクテルだが、1980年代或いは90年代にマンハッタン・オンザロックやマティーニ・オンザロック等、今までの常識ではショートカクテルと考えられていた飲み物をロングカクテルとして注文することが流行った時期がある。これはニューヨークでの話しだが、多分、映画「アメリカンジゴロ」の影響だと思う。

リチャードギヤ扮するジュリアンが注文するマンハッタンオンザロック。相手の女性も彼が注文するカクテルに込めた隠れたメッセージを感じるというカクテル文化が発達したアメリカならではの映画で、お酒と言う存在がそれほどまでに生活の中に浸透しているという事の表れであろう。以前常駐していた香港でもその流行は一般常識になっていた。日本でマンハッタン・オンザロックやマティーニ・オンザロックなどが一般的になったのかどうかは私は知らない。話が横道に逸れた。スナック「シャラント」に話を戻す。

スナック「シャラント」で私一人が一人飲んでいる間は落ち着いて飲むことが出来た。ところが当時あの建物の二階は「キャバレーハワイ・松戸店」だった。キャバレーハワイが跳ねるとホステスさんがシャラントに一杯やりに来る。すると途端に賑やかになる。賑やかなのは良いとして、下卑た大声で笑うから品が無くなる。

そういえばこのお店には西口商店街の色々な人が来ていた。南風荘の寺田さんも来ていた。寺田さんとは一緒に卓を囲んだ事もあった。スナック「シャラント」の老齢のバーテンは今でも元気なのだろうか?「ルンルン」のマスター(故関根さん)によれば「シャラントのマスターが時々(ルンルンに)飲みに来ていたヨ」との事だった。その「ルンルン」もすでに無くなってしまった。


7 「開進」−松戸本町

初めてこの「開進」というお店の存在を知ったのは、まだ小学校低学年の頃だった。 当時の松戸は高度成長期の真っ直中で商店も活気があり、街全体に何かうねるような勢いがあった。本町の区画整理前で高砂通りから中通りへかけての道はくねくねして、家に娯楽の無かった夕暮れ時散歩したくなるような界隈性もあった。その反面、よく見えない部分、子供が近づいてはいけない暗闇同然の場所もあった。だからこそ魅力のある街だったのかもしれない。
このお話は松戸駅西口が区画整理されるもっと以前、四十年前の「開進」と思って読んで頂きたい。
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現在の「開進」は「治平鮨」と「な兵衛」に挟まれているが、当時は中通りにあった。中通り(今のふれあい通り)に面し、木造のあまり綺麗ではない建物だった。夕方四時頃開店、九時過ぎに閉店。当時の店名は「開進堂」と呼んだ筈だがはっきりと憶えていない。

店の中で座って飲む人も居れば外で立って飲む人も居る。焼き場が店先にあり夕方六時過ぎには、労働者が焼き場の周りに群がり、コップ酒で一日の疲れを癒す。どちらかと言えば店内よりも店外で飲む人の方が多かったらしい。岩瀬に住む同級生I君のお父さんは「開進」の生レバを塩で食べるのを好んだ。

当時の「開進」の生レバは一度串にさしてあるレバを使っていた。レバ刺しは串付きのまま供される事もあれば串から外して出される事もあった。焼き用でもレバ刺しとしても使える程、新鮮だと自負していたのかもしれない。それにしても大人と一緒とはいえ、何故子供の私が「開進」に行ったのだろうか?

どうやら焼き場のおばさんが知り合いだったらしい。そのおばさんはタバタさんと言って、竹ヶ花の石橋酒店(現在は無い)付近に住んでいた人。さらに竹ヶ花の三笠屋靴店(小笠原さん)の裏に額賀さんという竹串を作る人がいて「開進」に下ろしていたらしい。(実は額賀さんの串は松戸本町の居酒屋「ひよし」でも使っていたらしい)。そんななんやかんやで「知っている人もいるなら一度食べに行ってみようか」という事になった。

一度立ち寄ってみたら気さくな店であることが分かった。白浜出身のFさんも行くようになり、同級生のI君のお母さんやその姉妹、私の母なども一緒に、ワイワイガヤガヤ、開店直後の明るい時間に立ち寄り、店頭で数本食べてさっと帰るという健全な食べ方だった。

そもそも一般の主婦が店内で酒を飲みながら焼き鳥を喰らうなんて行為は平成の現在でこそありえるが(いや、今でも少ないかな?)、昭和四十年代初頭にそんな事が出来る筈がない。加えて肉体労働者の集まる時間帯に一緒になって店頭で食べるなんて、とても出来るはずがなかったと思う。従って、開店直後暫くが狙い目となった。

「開進」では立って食べる人用に小皿の七味が置いてあった。それを皆要領よく付けて食べた。塩焼きの人は勿論、タレの人も小皿の七味をベタベタにする事なく器用に食べた。不覚にもI君のお母さんがその小皿七味を付け過ぎ、あまり辛いので片手でコップ水をガブガブ飲み干した。そこにたまたま通りかかった見知らぬ男性に「すげぇ〜!」と言われてしまった。どうやら「居酒屋で女が立ち飲みしてやがらぁ〜!」と勘違いされたらしく、照れ臭さと自分たちが置かれた状況の滑稽さでクスクス笑ってしまった様だ……

又、店頭で食べていると何処からともなく野良犬がやってきて申し訳なさそうに施しを待っている。そんなお店でもあった。ハツ、シロ、コブクロなんて言葉はこの頃覚えた。子供心に「開進」のレバ塩焼きが印象的で一度食べたら忘れない味だった。ふっくらとしているが噛み応えがあり同時に中は柔らかい。タレでは勿体ない。その為か、以降大人になってから、どんな焼鳥屋に行ってもレバは塩焼きを注文するようになった。何度か持ち帰りで「開進」のレバ塩焼きを食べたことがあったが、時間の経ってしまった串焼きは何故か感心しなかった。やはり焼きたてが良いらしい。

その後、松戸駅西口区画整理事業によって現在の「開進」の位置に店を構え現在に至る。「開進」は月曜日から金曜日までの営業で土日は閉まっている。しかも早く営業終了してしまう。東京に勤務する身としては立ち寄るのが難しい。機会があれば「開進」によってみたい。当時の味覚からどう変化しているか、レバ塩焼きを先ず注文したいと思う。

飲み友達のOさんによれば夜は10時くらいまで営業しているので寄ってみたらとアドバイスいただいた。どうもありがとう。近所の大先輩N氏によれば「開進」は当時子供でも立ち寄れる店であったという。隣の映画館「松竹館」に向かう途中「開進」で串焼きを買って持ち込む気楽さがあったらしい。ちょうどそろばん塾に行く子供がコロッケ屋でコロッケを買うようなものだったのかもしれない。Nさんどうもありがとうございます。

写真は松戸本町のホームページよりご厚意により転載させていただきました。誠にありがとうございます。この写真は区画整理前の中通りより見た松竹館へのアプローチ道路。この写真では見えないが、左の男性の立っている側の建物の一軒先が開進

http://www.honcho-matsudo.com/link205.html#ayumi

6 「クラブレイ」−小根本

小根本という場所は子供の頃から馴染みの場所でもあり、何かにつけ関心の的になる店が出来る。中学生の頃だろうか、小根本の栄久そば屋の近くに「クラブレイ」があった。勿論年齢が年齢だけに入ったことはない。ただとても強く印象に残っている。

当時松戸駅近辺を歩けばそれこそたくさんのクラブ、バーがあった筈だが、それらは全く印象に残っていない。栄久前の交差点は決して遊び人がフラフラする様な場所とは思えない、繁華街の飛び地としても遠すぎる、健全なる全くの昼間の場所だけに目立ったのかもしれない。

小根本は私の遊び場エリアの南端にあたる。家具の「カイズカ」(現在はゲーム「メクマン」になってる)、「モリヤストアー」、「銀寿司」、子供用中古自転車を買った「山田輪業」、「折原氷室」などがあった場所。交差点を越えれば「住吉書店」、豆腐の「埼玉屋」、「埼玉屋」正面の貸本屋「住吉文庫」、「日の出湯」、「新栄電器」、そして相模台の斜面林は緑で鬱蒼としていた。店名に住吉が二度出てきたが、相模台の斜面林下の一帯は岩瀬字住吉町だったところから来ているのではないだろうか?

さて、こんなに健全な商店のある町にこの怪しげな店「クラブレイ」があった。好奇心一杯の私は気になって仕方がなかった。そして「いつか大人になったらこういう店に行くのだろうか?」と妄想していた。やがて私は成人した。「クラブレイ」は依然としてそこにあったがついに呑みに行く事は無かった。成人した私が行くようなタイプのお店ではないと気づいていたからだ。さらに浜松など地方常駐、スリランカ、台湾など海外赴任を経て、帰国した際「クラブレイ」はすでに無くなっていた。

すでに「クラブレイ」は過去の話、化石のような記憶の断片に過ぎなかったある日魚処「吉泉」でふとした事から「クラブレイ」の話になった。魚処「吉泉」のご主人は「クラブレイ」をよく知っていた。ご主人「あの『クラブレイ』は本当に高い店でした。昭和四十〜五十年代の当時、座って飲むだけで五万円はとられたんです。料理なんか無くてピーナッツとか乾き物しかないわけです。私は父から言われました『ホステスに鼻の下を伸ばして高い金出すような真似はするな。富吉に行って5千円の食事して帰って来い。その方がどれだけ為になるか分からない』とね」

続けて
ご主人「今でしたら五千円と言えば驚くほどではありませんが、当時の五千円の食事と言えば相当高かったんです。それから、『クラブレイ』は高い店でしたが、その正面にあった『バー・あおい』はもっと安かったんですよ。その後、店主が替わり『クラブ ニュー・あおい』になった際は、同級生がママをやっていたんです。『クラブレイ』程は高くないけれど、それでも『クラブ ニュー・あおい』は一人一万五千円くらいはとったかな?だからママに『同級生なんだからあまり取るなよ』と言ったんですがねぇ……」

確かに「山田輪業」の隣に「バー・あおい」なる店があった。「クラブ ニュー・あおい」の時期も覚えている。黄色と緑色混じった趣味の悪い看板があったような気がする。確か地下に潜るような作りだったのではないか?

いずれにせよ「クラブレイ」、 「バー・あおい」、「クラブ ニュー・あおい」は幻の店となってしまった。