表の家

昔日の松戸96-100


100 貸本屋と理容ヒデ−竹ヶ花

小学校低学年の頃、漫画を読みたいと思えば貸本屋か床屋に行くか友達に借りるしかなかった。勿
論本屋さんで買う手もあったが、そもそも財力が無いに等しく、当時は大田原米店近くの松北堂書店
もまだ無い時代で松戸駅の辰正堂にいかないとならない。当時の辰正堂は小さい店舗で立ち読みを
しずらい雰囲気だったので落ち着いて読めない。当然ながらコンビニも存在しなかった。

当時の私のお小遣いが20円、週刊少年マガジンが確か50円くらいで買えないことはないがやはり割
高感がある。しかし単行本漫画は数百円もしてとても買えるしろものじゃない。そこで貸本屋で借り
る。これを一冊10円で借りる。10円だったら何とかなる。

近所に何軒か貸本屋があった。一つは竹ヶ花の踏切を渡り、現在の居酒屋「しぐれ」の向かい付近
(元神田餃子屋あたり)にあった貸本屋、もう一つはすぐ近所の「関口履物店」(通称関口ゲタ屋)付
近にあった貸本屋。もう一つ比較的後発組だったと思うけど、岩瀬の「住吉書店」裏の「埼玉屋豆腐
店」付近にも一軒あった。
これらの貸本屋さんには勿論少年マガジンやサンデーもあったが、何と言っても多かったのは単行
本サイズの漫画だった。所謂貸本漫画家の描いた漫画だった。

需要がなくたってきたのか何年かすると貸本屋は徐々にその姿を消していった。詳しい理由は知ら
ない。高度成長の波にのり国民全体の所得が上がり、同時に本が安くなったからかもしれない。或
いは図書館が出来て貸本屋にいく必要がなくなったのかもしれない。やはり前者かな?貸本屋で借
りるのは漫画が中心だったけど図書館に漫画はなかったもの……

それでも子供には貸本屋が手頃だったし必要だった。貸本屋が無い場合は床屋に行く。床屋には貸
本漫画の単行本が何冊もあった。小学生時代に私の通った床屋は踏切先の「すいすい床屋(勝手
な私の命名で現在の居酒屋しぐれ付近にあった)」、近所の「理容ヒデ」などだ。
「理容ヒデ」は若夫婦が懸命に頑張って仕事に精を出していたし、近所でも評判は良かったと思う。
ここには貸本漫画の単行本がたくさんあり読んだ。カット無しで漫画だけを読ませてもらったこともあ
る。多くの漫画のうち、一つだけ内容を覚えている漫画がある。それは確か「マネキン」を題材にした
奇妙な漫画で、舞台がデパートの怪談物だ。

マネキンが夜になるとそわそわし始め動き出す。それは朝方まで続き翌朝何もなかったように元の
マネキンに戻る。それが毎晩お祭りの如く繰り返される。ある夜このデパートに泥棒が入る。ところ
がこの泥棒は心臓麻痺で謎の死を遂げ翌朝発見される。警察が調べても原因不明。実はマネキン
の仕業だったという様な筋書きだった。怖い漫画だった。

(補足:理容ヒデさんはその後、人形の町として有名な岩槻市に行ったと聞いた)

99 松戸レジャーセンター 上本郷

松戸市立第六中学校(以下六中)がまだ、上本郷駅の近くにあった頃のお話。六中の北側に市立病院方面への上り坂の途中に高台に登る階段があり、陸上部が足腰練習のため度々利用していた。その階段を登った先には「松戸レジャーセンター」という総合娯楽施設があった。

施設の中には当時大流行していたボーリング場があった。「京葉ボウル」早朝割引きもあったが私は早朝ボーリングに行くほど夢中ではなかった。当時、非行防止のため「ボーリング場やゲームセンターなどの遊戯施設は父兄同伴」という学校の指導があった。

ところが……ある日「松戸レジャーセンター」の早朝割引きボウリングに行った同級生が補導された。後日談によれば、場内をフラフラしている最中にいきなり補導はしなかったらしい。ボーリングを始めた頃合いを見計らい、見知らぬ女性がそれとなく静かに近づいてきて曰く「あなたたちとても上手ね!すご〜い!ところで何処の学校なの?」
本人達は決して不良ではなく、ただボウリングをしたいだけの少年だったので、調子に乗って名前から学年から全て話してしまう。ところが彼らは補導員だった。同級生が話した内容を全て記録→補導→学校に通報→先生の叱責という仕組みだ。巧妙な手口なのですぐに引っかかったという訳・・・

又、松戸レジャーセンターにはターゲットアーチェリー(洋弓)もあった。室内タイプ、否、半屋外だったかもしれないが忘れた。アーチェリーは案外難しくて最初は全く的に当たらない。困って係員に教えてもらうと「矢を射る際、目の高さではなく顎の付近で照準を合わせ、弓を絞る溜め、的の下の方を狙う」と教えられたと思う。慣れると何度か的に当たるようになるが、思った程上達しなかった。

この松戸レジャーセンターの中にはその他ヘルスセンターやアイススケートもあったらしいが、全く覚えていない。後年あの場所に行ってみたが跡形も無く、集合住宅の様な建物が出来ていた。

写真は陸上部が練習に使った階段でこの階段を登ると「松戸レジャーセンター」があった。現在この階段は雑草が生えあまり使われていない様子。
下の写真は北松戸駅を背にして六号線の方向を向いた写真。松戸レジャーセンターの広告があった。1971年版松戸市市勢要覧より。

98 吉井町の台地、小根本の谷津

ご意見箱にRさんから南花島の射撃場他についてコメントがあった。返事を書いてみたら長文になってしまったので、こちらに書かせていただく。

写真は昭和二十一年に米軍の撮影した空中写真。吉井町界隈の戦後区画整理以前の写真。雷電神社の山は、現「東急ドエルアルス松戸(アライ畜産跡)」付近までは斜面林と共に連続し、今よりも広範な山(或いは斜面林?)だった事が分かる。この山の一部は確か竹ヶ花在住のIさんの土地だった筈。

この連峰の一部に「アライ畜産」らしき建物が見える。この建物の廻りは平地で森が切れている。「アライ畜産」を含めその裏側は南花島で、現在の「阪田マンション」のある場所は崖下で一段下になっている。多分射撃場は崖に向かって撃っていたのであろう(ご存じの方がいたらアドバイス願いたい)。現在この崖下の南花島界隈を歩いてもたくさんの住宅が崖際に沿って建ち並び、元々の地形、崖の状態わからなくなっている。

雷電神社の山から南南東方向に向かって畑のような地面が見える。この部分は「くにき商店」付近から「東天紅サンハイム」を超え、新京成線路の対岸「セキネハイツ」、「小根本コンド」方面にかけての場所だと思う(「小根本コンド」は対岸の小根本の中でも地盤が高め)。写真によると吉井町地区は平地に近い畑の様に見えるが、松戸市の地形図から推測すると「くにき商店」付近と線路際の「東天紅サンハイム」付近では標高二〜二・五メートル近い差がある。実際この道を道路沿いの塀下端を見ながら歩くと坂道であることを実感するが、視覚的印象ではせいぜい多くて二メートル以下という印象しかない……

「セキネハイツ」付近の森を抜けて南は字後田で小根本の谷津田があった付近。実際私自身がこの谷津田全体を谷津田として認識して見た記憶はないが、部分的には現在の税務署裏界隈から末広がりの湿田を見て、そして魚採りをして遊んだ記憶はある。この小根本の谷津田付近は現在標高九メートル前後。ちなみに雷電神社北西の旧水戸街道は標高五メートル前後、岩瀬の「栄久そば」前は標高七.六メートル、市役所は標高十二メートル前後。小根本の谷津田が案外高い位置にあった田である事が分かると思う。

ところで吉井町の地名の事、これは区画整理事業後の名前で、大地主を代表する吉岡さんと藤井さんのそれぞれ一字をとって吉井町にしたと聞いたことがある。

97 昭和四十九年の松戸市立北部小学校付近

この写真は1974(昭和四十九)年を記念して撮影された松戸市立北部小学校付近の空中写真。度々ご意見箱で発言をしてくださるご近所にお住まいのY様より頂いた。
誠にありがとうございます。

北部小学校を松戸駅方面から北松戸駅方面(南西から北東方向)に向かって見ている。写真には現れてないが、写真の右外側には新坂川が流れ常磐線の線路がある。又、この写真撮影三年前に完成した「しんはま跨線橋」がこの写真には現われていない。この「しんはま跨線橋」は常磐線複々線(つまり千代田線乗り入れの各駅停車の線路の事)が出来、線路敷き幅が拡張、これにより、竹ヶ花踏切を閉鎖、その代わりに旧水戸街道を南花島付近で「かじ坂(さが)」方面に繋げた。

北部小学校旧正門付近角には堀江食堂の建物が見える。堀江食堂の先の4〜5階建てのビルは千葉相互銀行の寮。千葉相互銀行の寮のさらに先のビルは平林産婦人科。

1967(昭和四十二)年頃、ヤマザキパンとの間の区画(竹ヶ花西町一帯)には殆ど建物がなく更地だった。その僅か7年後、写真の1974(昭和四十九)年には御覧の通り建物が密集し現在の状況と殆ど変わらなくなっている。

北部小学校の校庭を見る。校庭内は新校舎が雁行型に配置され、体育館も完成し、プレハブ教室が五棟見える。Yさんによれば敷地左上の給食室付近に新校舎建設中だったそうだ。

北部小学校に通学していた頃、三年生までは木造旧校舎で勉強。途中で鉄筋コンクリート構造の新校舎建設工事が始まり、小学校四年生の我々はプレハブ校舎で学ぶことになった。当時のプレハブ校舎は校庭南西の現在の正門付近。プレハブ校舎は夏暑く、冬寒い劣悪環境。床もコンパネのような材料なので愛着も湧かない。

あのプレハブ校舎のおかげで暫くの間はプレハブ=安普請という構図で見るようになった。当時は空調設備などなかったがもし木造校舎であれば天井は高く風の通りも良った。木造校舎は少なくともプレハブよりは段違いに環境が良かった。新校舎が小学五年生になった年に完成、新校舎に入る事が出来た。当時の新校舎は北東の角(写真の右上)の柱4スパン分だけ。

新校舎に入った年の12月に北部小学校の火事があり、新校舎以外の木造校舎の大部分が燃えてしまった。写真によればすでに新校舎がZ型に完成して、先述した給食室前新校舎及び、体育館の前にも新校舎が出来現在に至る。

96 東京射撃クラブ−南花島

吉井町の土筆公園先、屠殺場奥の崖下に射撃場があった(ただし私の小さい頃なので実際の姿は見ていない)。上の地図を見ていただきたい。この地図は昭和二十八年松戸市発行の1/3000の地形図。左上の方にあるのが竹ヶ花の雷電神社、一番右の大きな道が国道6号線で、中央に屠殺場(アライ畜産)があり、その右側に射撃場の文字が見えると思う。屠殺場は現在の東急ドエルアルス松戸にとって変わり、あの界隈の環境も随分変わった。射撃場は阪田マンション付近にあたる場所ではないか?と思う。

住所としては南花島に当たるが、この射撃場の名称は東京射撃クラブ。クレー射撃が出来たらしい。終戦後米軍によって占領されると銃砲類禁止令が発令され、事実上銃砲は持てなくなったが、数年後には競技射撃に関しては緩和され、松戸には少なくとも二つの射撃場が出来た。昭和二十四年には下矢切の式場病院隣の化研病院付近の崖下に国際射撃クラブ(クレー射撃+若干の空気銃)が出来、やはりその前後の時期ではなかろうかと思うが先述した南花島の東京射撃クラブ。両方とも松戸クレー射撃協会の重要な活動拠点。

下矢切にあった国際射撃クラブはその後八ヶ崎、沼南と移転し沼南国際射撃場となった(現在は未明)。南花島の東京射撃クラブは東京オリンピックが開かれた昭和三十九年前後に中和倉に移転した(移転後、東京国際になったらしいが未明)。

下矢切の国際射撃クラブの崖上の化研病院の前には水上勉が住んでいたことがある(松戸市下矢切在住は昭和三十二年九月〜昭和三十四年十月)。水上勉の『私版東京図絵』によれば「松戸の家の下に県警の射撃練習場が出来た。私の家は的にあたる崖の上の畑に建っていたので、屋根の樋に散弾がたまるほど、毎日、激しい鉄砲の音がした」とある。東京射撃クラブも国際射撃クラブにしても、松戸中心部の人口増加とともに郊外に追いやられたようだ。
ところでアーバンヒル松戸内にあったターゲット(モデルガン等販売?)が根本橋に移転し、最近は店が開いてない様だがどうなったのか?

余談:子供の頃南花島の屠殺場の出入り口付近に千葉県伝統工芸に指定されている北島和男さんの工場があって、ハサミを研磨し火花が散っているのを見ていた。たくさんの砂鉄が出来るので磁石をもって拾いに行くと、鉄さびの何とも言えない臭いが鼻についた。