表の家

従兄弟のバンビさん




母の兄はT伯父さん。すでに他界したが、生前は大変可愛がっていただいた。新小岩の実家にお住まいだった頃は断片的な記憶しかない。はっきり覚えているのは戸塚に越して以降……

戸塚の家の隣地には竹林があった。
「季節になるとタケノコがあっという間に成長して畳を持ち上げてしまうんだ」
T伯父さんは面白可笑しく話した。新小岩の祖父が徳田秋聲から手紙の返事を受け取った事について触れたが、その候文の返事を祖父だけでなく、T伯父さんも空で暗記していた。

ある日、T伯父さんが「おい、囲碁は出来るか?教えてやるから座れ」と言われ全くルールが分からないのに、座布団に座らせられ碁を打ち始めた。私がルールも分からず適当に打っていたので、酔った顔でじ〜っと私の顔を見て「にや」と笑うんだな。勝負は終わり。そういえばT伯父さんは酔っている姿しか知らなかった

このT伯父さんの長女がとても綺麗な方だった。お姉さんのイメージはバンビ(子鹿)だった。美人で、機転が利いて、キビキビしていて、優秀、はっきりして、明るいが、ちょっと冷めている。考え方はボーイッシュで、しかも、きちっと自分自身を持っている。決して今時見かける色気が前面に出ているタイプではない。そんなバンビの様なお姉さんを以降`バンビさん`と書く。

バンビさんと私は従兄弟の関係。確か、私より三歳ほど年長だと思った。バンビさんは実際、聡明、努力家で東京外語大学を卒業した。小さい頃は本当に憧れのお姉さんだった。頭でっかちの私とは大違いだ。

松戸の我家(表の家)にも来たことがあった。昭和三十九年頃だと思う。自営していた「やきそば○○○○」を手伝ってくれた。我が家に宿泊して二泊目だったか、T伯父さんの家族が船橋ヘルスセンターに行くというのでバンビさんは我家を後にした。市川駅まで送った。あの日は実に寂しかった。

バンビさんが外語大学に在学中、度々横浜港に英語の勉強をしに行ったそうだ。港で米国人の子供を見つけ英会話の勉強相手になってもらう。この「子供と話す」というところがポイントなのだそうだ。子供は訛りもなくはっきりした発音で非常に分かりやすい。何度も通って勉強した。こういう実践は自分の力になる。

母は実家だった新小岩の家に私を連れてよく帰った。バンビさんが5歳くらいで私の記憶が殆どない頃だ。母と私が帰る際、バンビさんが新小岩の駅まで一緒に送ってくれた。ところがバンビさんは歌が得意らしく、新小岩駅までの雑踏の中で三橋三智也の「哀愁列車」を大きな声で歌い始めた。

「惚〜れえて、惚〜れえて♪……♪」

母はかなり照れたそうだ。そんなバンビさんもいつしか四国にお嫁に行った。もうすっかり遠い存在になった。三十五年はお会いしてない。

いつか哀愁列車歌ってくれるかな?わざわざ「哀愁列車」を聴くために四国に行けないしね。もっとも四国に行っても、バンビさんが歌ってくれるとは限らない。やはり寂しいね。

(写真はバンビさんが7歳になり、七五三のお祝いをした日。隣は私)