表の家

昔日の松戸81-85


85  消えた竹の湯

2005(平成十七)年八月三十一日付を以て竹の湯が閉店した。ほぼ四十五年間の営業だった。運
営していたのは土井さん一家で長男(以下土井君)は私より一歳下、同じ北部小学校だったのでよく
知っている。土井君は当時まだ五年生だった。以前昔日の松戸にも登場したジャイアン(在古ヶ崎の
元代議士の長男)が乱暴者で、回旋塔で一級下の土井君に怪我をさせた。私もジャイアンの乱暴で
怪我をさせられた経験があるが、ジャイアンはとんでもない子供だった(実は大人になってもあの性
格は変わらなかったようだが……)。

中央柱に片腕を掛け、輪の端をつかんで勢いよく回旋塔を回すと子供の遊び道具とは思えない勢い
で廻るのをご存じだろうか?大抵はふっ飛ばされてしまうが、着地さえ気をつければ致命的な怪我す
る事にはならない。しかし危険な遊びである事に変わりない。ジャイアンは土井君を回旋塔の輪に捕
まらせ、この遊びを面白半分に実行した。

普通は手加減するので怪我はないのだけれど、ジャイアンは度が過ぎた。土井君が力尽きて手が
離れるまで容赦なく廻した。ひどい奴だ。結果、遠心力に耐え切れずふっ飛ばされ地面に叩き付け
られ、脚に複雑骨折をしてしまった。大変気の毒な事故だった。

ジャイアンのお父さんは市会議員経験者でPTA会長を勤める有名な人だっただけに先生も手に負え
なかったと思う。(私がジャイアンに怪我をさせられた時、ジャイアンのお母さんが謝罪に見え恐縮そ
うにしていた姿を見ると可哀相になってしまった。でもジャイアンは来なかったけどね……)

当時は竹の湯の裏に回ると薪や材木のチップ積んであり、材木チップの中で遊んだ事がある。とこ
ろが体中にチップがついてしまいD君のお母さんに「お風呂で躰を流して行きなさい」と言われ、無料
で銭湯に入れていただいた事もあった。遅ればせながら「ありがとうございます」

昭和三十年代は家風呂の普及はまだまだで、銭湯に行くことが一般的だったと思う。私は小学校一
年生までは母に連れられ女湯だった。ところが1963(昭和三十八)年、母が自宅の庭を利用してか
き氷屋さんを始めてしまった事から私は一人で銭湯に通わざるを得なくなった。一人で行くようになっ
たら女湯に入る理由はないので私は男湯に切り替えた。

84  バタークリームのデコレーションケーキ

クリスマスの日にケーキを食べる習慣は一体いつから我が家に取り入れられたのだろうか?いずれにしても、サンタクロースがプレゼントを持ってくる伝説、ツリーを飾る事、ケーキを食べる事は待ち遠しい日であることには変わりなかった。当時、クリスマス用デコレーションケーキと言えば、隣の横尾商店(竹ヶ花)に二三週間前に予約注文した。当時のデコレーションケーキは基本的に予約販売で数週間以上前から作り始め、保存性の悪い生クリームは使えなかった。

さらに完成したデコレーションケーキは工場から各店舗に数日前から運び始め、冷蔵保存ではない状態で積んでおかれ、お客さんが取りに来るのを待つため、どうしても保存性の良いバタークリームで作成せざるを得なかったようだ。スポンジの周囲上部にこのバタークリームとともにサンタクロースの飾りロウソク、プラスティック製のモミの木、板状チョコレートに Merry X`mas  と書かれワクワクした。後年、生クリームで作られたショートケーキを知ってしまうと、バタークリームケーキはとても食べられなくなった……

1960年代後半、アイスクリームのデコレーションケーキが流行った。当時は冬にアイスクリームを食べるという習慣が無かったので非常に斬新だった。隣の横尾商店さんは冬のアイスクリーム販売は見込みが期待できなかった為か、販売用冷蔵庫を冬の間中、店舗外部、建物横の犬走りに置いていたのを覚えている。そういう時代だった。1970年代、松戸駅東口に何軒かケーキ屋さんが出来た。苺のショートケーキは勿論、モンブラン、サバラン等、バラエティに富ぶ初めて食べるケーキの味に虜になり、すっかり舌が肥えてしまった。

冷蔵設備が普及し生クリームを使ったデコレーションケーキが一般的になると、予約注文のスタイルから店で直接購入の形に変わった。その為、あのバタークリームケーキには見向きもしなくなった。

83  カキ氷の時代と缶ジュースの時代−竹ヶ花”やきそば○○○○”

「かき氷は缶ジュースの出現ではなく、冷房設備と冷蔵庫の出現によって衰退した」
今現在、松戸を歩いていて喉が渇けば、どんな場所でも缶ジュースの自動販売機が一つや二つ必ずある。或いはコンビニだってある。好きな時に好きなように飲み物を手に入れて喉を潤す事が出来る。これは現在日常の風景になっている。

昭和四十年代前半までは缶ジュースは存在したが、自動販売機はまず見かけなかった。缶ジュースとして明治製菓のオレンジジュースを覚えている(瓶ジュースでバヤリース、プラッシー、ミリンダなどもあった)。

現在のような便利な缶フタではなく、缶の穴開け付きで売られていた。穴開けで二箇所穴を開けて飲む。片方が飲む穴、片方が空気が入り込む穴だ。当時の商店には必ずしも冷蔵庫があったわけではないので、缶ジュースにしても瓶ジュースにしても、常温の状態で棚に並べられている事も珍しくなかった。

缶ジュースは自動販売機と出会い、冷やされ売られる事によって初めて普及したのではないかと思う。缶ジュースがまだまだマイナーだった時代、夏の清涼を取るためには軽食堂やそば屋のような場所に行くのが一般的。

表の家は“やきそば○○○○”という店名で(ジュースは勿論のこと)冬はおでん、夏はかき氷他色々な飲料、あんみつ等を売り繁盛していた。当時は電気冷蔵庫自体がまだまだ高価で、表の家の“やきそば○○○○”は電気ではなく氷で冷やすタイプの冷蔵庫を使用していた。映画「三丁目の夕日」に登場したあの氷式冷蔵庫だ。木製で上下二つの扉があり、上の扉に氷を一貫目を入れて下の扉の食品を冷やす。かき氷が売れるときは次から次へと売れるので、かき氷用の氷も保存する冷蔵庫が必要になる。そこで父がカキ氷用の氷保冷庫を自宅庭地面下に作った。土は自然の断熱材であることを利用した簡単なもの。

現在は冷たい飲み物を飲むという事は当然の事になっているが、当時冷たい飲み物を飲むという事はお金も掛かるし簡単ではなかった。

又、松戸駅の付近には松戸製氷そして小根本の交差点付近(モリヤ米店付近)には折原氷店があったが、店から近い折原氷店に度々行かされた。かき氷の売れる季節は私も夏休みの間だったので手伝わされたのだと思う。

氷を買うときの単位は貫目。当時一貫目は二十五円。確か一貫目で14〜5杯くらいはとれた。これを一杯二十五円で売る。

歩いて数十秒の所に竹の湯があり、大人料金が二十五円だった。「五十円を持って銭湯に行けば帰りにはおつりでかき氷が食べられる」という便利さから重宝されたようだ。ただ、当時は缶ジュース時代の到来は近いと見られていて、保健所から営業許可をとる際、担当官から「カキ氷はあと数年の命だよ」とアドバイスされた。

あれから数十年、すっかりかき氷は廃れ缶ジュース、缶コーヒーの時代になった。現在フラッペと称しかき氷が提供される店はある。然し、かき氷という食べ物は団扇や扇風機で涼を取り、汗かきながら食べるものであって、冷房のきっちり効いた店舗内で果たしてかき氷を食べたくなるだろうか……

冒頭に「かき氷は缶ジュースの出現ではなく、冷房設備と冷蔵庫の出現によって衰退した」と先述した。私はかき氷は缶ジュースにその座を取られたのではなく、クーラーという冷房設備と冷蔵庫にその存在価値を奪われたのではないか?と思っているからだ。

10年前に東京新橋付近で製氷屋を見つけた。店外に作られた作業台で水割り用などのロック氷を手作りで作っていた。どうにも懐かしくなって話しかけてしまった。

「今、一貫目いくらぐらいですか?」
「六百円だよ」
「私の子供の頃は二十五円でした」
「あんた、いつの時代のこと言っているの?」

82  おでん屋さんー樋野口の谷口、根本の堀江食堂、表の家

現在`おでん`を食べたくなったら、居酒屋を探すかコンビニにいけば用が足せる。スーパーに行けばレトルトパックのおでんもあるし、秋葉原名物おでん缶なんてのもある。おでんは冬というイメージはあるが、他にいくらでも魅力的な食べ物、お菓子がある昨今、子供がおでんに群がる光景はすでに過去の話かもしれない。

かつて表の家では軽食堂を営業していた。
店名は“やきそば○○○○”

夏はかき氷がメイン、冬になると焼きそば、おでんを提供した。当時、おでんの顧客は大人だけでなく子供も大切な対象だった。子供が立ち寄るおでん屋さんで有名なのは、北部小学校旧正門付近の堀江食堂のおでん、そして根本の川光物産裏手川向こうにある谷口さんの食堂(昔日の松戸を読んでくださる読者の方から平潟の千壇家旅館付近にもおでん屋さんがあったとのお話を伺ったが、残念ながら私は行った事がなかった)。このふたつは比較的味が似ていて、濃い口醤油で甘い味付けだった。子供には味噌田楽が人気だったと思う。

甘いおでんが主流だった当時、表の家の軽食堂“やきそば○○○○”のおでんは今にしてみれば大人向けの味で昆布ベースの塩味でさっぱり系、べとべとしていない。当時は珍しい味だったのではないかと思う。実際、塩味のおでんを覚えたくて母は東京のおでん屋さんに何度も通って食べたそうだ。今では塩味おでんの方が一般的で珍しくなくなった。塩味だから子供への人気は無かったかと言えば、そうでもなく小学校下校時間になるとたくさん児童が集まってきた。近所の初田さんの次男さんは白ちくわが好きだったらしい。残念ながら私は白ちくわは駄目・・・

当時はチクロ入り人口着色した駄菓子屋の粉ジュースに夢中になったと同時に、塩味のおでんも好んで食べたと言うことは好奇心旺盛と同時に案外おませだったのかもしれない。或いは単なる食欲旺盛だったという事か・・・?

81  餃子の味華−松戸駅東口

大学を卒業し就職する際、両親がお祝いという事でネクタイを一本買ってくれた。東口の伊藤楽器の並び若しくはもう少し扇屋寄りに小さなネクタイ屋があり(確か「寿屋」)ネクタイを買ってくれた。狭い店内で、ネクタイ選びに悩んでいる母に店員がこんな事を言ったそうだ。

「最初のネクタイは地味な方が良い。最初から派手にすると、その後センスが悪くなる」

本当に派手なネクタイから始めると本当にまずいのかどうか私は分からない。

このネクタイ屋はいつしかなくなった。そして、1975年(昭和五十)年松戸駅東口伊藤楽器付近に「味華」が開店した。スナック「純」が入っていたビルの一階だ。社長は飯田さん。ラーメンの常識を破るような価格設定と独特のニンニク抜きのジャンボ餃子が人気。ニンニク臭くない理由から市役所の女性職員にも好まれた様だ。

母によればネクタイ屋「寿屋」でネクタイ選びのアドバイスをくれた人が、この「味華」に転職し調理人として働いていたとのことだった(「味華」が閉店する寸前までこの人は働いていた)。ネクタイ屋がうまくいかなくなって転職したのか?或いはネクタイ屋も「味華」も同系列だったのか(元々社長は味華を開店する前、アクセサリー屋を営業していた)いまとなっては分からない。「味華」は華々しくデビューし、数年後長谷川不動産の右隣に移動し新装開店してその場所で何十年と続いた。

学生ラーメン二百五十円、華ラーメン二百八十円など、とにかく安かった。妹も度々ジャンボ餃子を買ってきた。食事をするとサービス券がもらえる。これを何枚か集めるとジャンボ餃子?と交換出来た。

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1996年頃、松戸駅西口ラーメン激戦区に「味華」系列のラーメン「無」が出来た。出来た当初は系列店とは知らず、餃子がジャンボ餃子だった事と、壁に貼ってあった保健所の営業許可証が「味華」と書かれていた事から気づいた。中央の調理場を囲みU字型のカウンター席になっていて二十席あった。店長は小泉元首相にちょい似の上野さん。洋食レストランのシェフの様な出で立ちで、背が高く、ダンディでラーメン屋の店長には見えなかった。

いつもテーブルの上に置いてあった生ニンニク、ニンニクつぶし、ニラの辛子味噌和え等があって、好きなだけ入れる事が出来た。「無」のチャーシュー麺の大盛りにジャンボ餃子を注文すると、とても最後まで食べきれなかった。

「めん組」と競り合っていた頃までは混雑していたが「ラーメン二郎」「花月嵐」の出現以降、思ったほど混雑しなくなった。店内から遠目に「ラーメン二郎」の行列を見ている店長の姿が印象的だった。ラーメン「無」のラーメンスープは、トンコツ、醤油、味噌の3種類。

うまかラーメン(博多ラーメン風味)五百五十円、うまいラーメン(醤油味)五百五十円、味噌ラーメン五百五十円、特製味噌ラーメン六百円、無ラーメン二百八十円、支那そば四百八十円といったメニュー構成だった。八年間続いたこのラーメン「無」は健康上の理由で2004(平成十六)年七月三十一日閉店した。

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松戸駅東口の味華が小火(ぼや)を出したという噂を2CHで目にした。朝通勤時味華の前を通るとシャッターが閉まったままで、何日経ってもその状態がずっと続いた。その後、改装が始まったかと思うと結局味華ではなく日高屋が開店する事になった。店舗改装時、鉄骨の耐火被覆が剥き出しで、果たしてどこまでアスベスト処理したのか非常に気がかりで見ていた。
飯田社長!味華どうしちゃったの?