表の家

昔日の松戸76-80


80  牛乳の`フタ`遊び

小学5年生の頃、通学していた北部小学校では牛乳のフタを使った遊びが流行った。机の上に銘々
が自分の手持ちの牛乳のフタを並べ、息を吹きかけ空気の勢いでフタの抜きや返しをする。言って
みれば牛乳のフタを使ったメンコ遊び。息を吹きかけるのも力がこもる。
「パン!」「プァン!」と大きな音を立てて吹きかける。かなり面白いゲームなのだけれど、ゲーム後
は机の表面が唾だらけになり汚なくなったはずだ。多分女の子には歓迎されないゲームだったと思
う。

当時、テトラパックはあったが、牛乳と言ったら瓶詰め全盛だった。そして牛乳は買いに行くのではな
くて配達されるのが一般的だった。牛乳の販売所と契約すると郵便ポスト等の横に木製の牛乳入れ
を設置してくれる。配達員は朝早くから牛乳瓶の入った木箱を自転車の荷台に載せ、カチャ、カチ
ャ、カチャと瓶の擦れ合う音をさせながらやってくる。家庭で飲み終わった空の瓶を牛乳入れの箱に
入れておくと、早朝配達員が回収すると共に新しい牛乳を入れていく。

松戸には保証乳業の工場があり、我が家は保証牛乳を配達してもらっていた。当時、色々なメーカ
ーがひしめいていて、興真乳業、雪印乳業、明治乳業、グリコ協同乳業は代表的なメーカだったと思
う(森永乳業もあったがヒ素ミルク事件で人気が落ちていたので、あまり見かけなかった)。その他に
もまだたくさんあったと思う。中小色々あった為か、フタを探し松戸の街を歩くだけでもかなりレア物
の牛乳のフタに出遭い驚喜したのを覚えている。

あんなにたくさん集めた牛乳のフタは何処にいってしまったのか・・・
あのコレクションはもうない。

79 堀江食堂−根本

松戸市立北部小学校旧正門付近、居酒屋「一休」隣に現在駐車場になっている場所がある(写真参照)。かつて堀江食堂があった場所だ。旧正門側(左側)及び新坂川側(右側)の両方から入れたと思う。木造二階建て、外壁は羽目板貼りでピンク色の塗装(後に白色に塗り直し)だった。

お店の中央角には今川焼きなどを売る窓があった。今風に言えばテイクアウトカウンターだ。お店は所謂軽食堂で夏にはかき氷も出していたと思う。表の家の掲示板に度々書き込みをしてくださるミスターTさんの松戸ベスト100によれば「堀江食堂は通称「おでん屋」と呼ばれていた。メニューはおでん、やきそば、それぐらいしか覚えていない。北部小学校の運動会の時、お弁当を持ってこない家族はよくここで食べていた。今川焼きも販売していて、会社帰りのサラリーマンもよく買っていた」
ミスターTさん、引用させていただきありがとう。

新坂川に架かる旧登校橋を境に旧水戸街道側は海抜4.5〜4.8M、北部小学校側は海抜3.4Mと1M以上異なる。登校橋工事前はこの一Mの高低差をなんとか吸収しつつバランスが取れていた。多分、川幅が広がった為に勾配のすり付けを無理したように見える。この為、橋が新しくなって以降勾配がきつく、自動車優先の危ない状態になってしまった。堀江食堂跡地を見ると角のテイクアウト窓、北部小側の入り口があった辺りは極端に段差が付いてしまい、かつての堀江食堂への入りやすさ想像出来なくなっている。

堀江のおばさんは気さくな人でいたずらっ子だった私にも温かく接してくれた。新坂川の土手、お店の正面付近で花や野菜を植えていた。当時の坂川は護岸が土で水辺まで簡単に降りられた。

登校橋付近四方には株立ちのケヤキ、トウネズミモチ、オオムラサキツツジが護岸に生え独特の風景を形作っている。

堀江食堂のおばさんには二人の可愛いお嬢さん(私にとってはお姉さん達だが)が居た。マーちゃんとカッちゃん。昭和三十年代の松戸はまだまだ古き良き時代で人と人との触れ合い、おつきあいを大事にしていた。当然ながら堀江食堂との交流も頻繁にあったらしい……母によれば堀江さんの姉妹にムームー風の洋服を作ってあげた事があるらしい。次女のカッちゃんはお隣の吉岡文房具店の次女と仲が良かった。竹ヶ花の私の母が営業していた軽食堂`やきそば○○`(昭和三十八年〜四十二年まで営業していた)に二人で来て下さった事もあった。そんな事もあったからだろうか、吉岡さん、堀江さんは近所の気さくなお姉さんというイメージだった。

一昨年こんなことがあった。根本の居酒屋「しぐれ」で飲んでいると夫婦連れの来客があった。奥様の顔に見覚えがある。何となくカッちゃんに似ている。少なくとも三五年近くはお会いしてない。思い切って声を掛けてみたら間髪を入れず私に「○ちゃんでしょ?」
私の実名を覚えていた。驚いたね〜やはり堀江食堂のカッちゃんだった。あの晩は酒が進んだ。

一方長女のマーちゃんは優秀な才女で評判だった。現在松戸市で最もお堅い所に勤務されている。出勤時松戸駅付近で度々お見かけする。先日、鉢合わせになり会釈したら私の事をしっかりと覚えていて下さった。

堀江食堂は後年九官鳥を飼っていた。名前は「マリちゃん」
低い女性の声で「マァリ〜ちゃん、マァ〜リ〜ちゃん!!」と鳴くのが印象的で、堀江のおばさんの声そのものだった。

先日カッちゃんのご子息の方から温かいメールを頂いた。メールどうもありがとう。

写真は堀江食堂跡地、現在は居酒屋「一休」の駐車場になっている。写真右の建物が一休さん。

78  コーヒー珈保里のカフェオレ−松戸駅東口

学生時代、松戸駅東口駅前にあった「コーヒー珈保里」によく通った。現在はイセウビルという大きな建物になり、地階に「カフェ ド カオリ」という洒落た名前のコーヒーショップになっているが「コーヒー珈保里」はその前身で、まだ古いイセウビルの頃だった。

北国分の農家に下宿していた友人M君が度々松戸に遊びに来た。行きも帰りも市川操作場経由のバスを利用していた。遊びに来たからと言って、特別目的があった訳ではない。お互い暇なので、ただ話をしたり、タバコを吸ったり、パチンコに行ったり、飽きると「コーヒー珈保里」に行った。

当時は一階にあり、中に入ると黒っぽい内装で薄暗い照明だったような気がする。シックな制服の店員がそそくさと動いていた。注文するのはいつもカフェオレ!店員が我々のテーブルにやってくるやテーブルの上に大きめのマグを置く。次にステンレスのポットを両手に持つ。一方には珈琲、もう一方にはホットミルクが入っている。

この二つのポットの細長い注ぎ口から勢いよく、しかも左右の手から同時に珈琲とホットミルクをマグに注ぐ。最初は低い位置から注ぎ始めるが、徐々に注ぐ手を高くして放物線を描いて注ぎ込まれる。この作業をしている間はただジッと見ているだけだ。ドドドド〜ッと華厳の滝のように注ぎ込まれるのが実に面白い。

当然ながらテーブルの上に細かい滴が跳ねるだろうし、場合によってはこちらの服にも跳ねるかもしれないが、それを割り引いてもこのパフォーマンスに魅力があり面白かった。隣のテーブルの客も気になるのかこのパフォーマンスをジッと見ている。自意識過剰かもしれないが、こんな品の無い事を言われているような気がして勝手に赤面する。
「ねえねえ、あれさぁ、ほらね!またやっている」
「うんうん、何だかねぇ馬の……みたいだわ」
「うふふ」

いつも恥ずかしいと思いながら、あの何とも言えないパフォーマンスを見たくて、性懲りもなくカフェオレを注文してしまうのだった。

77 山長−竹ヶ花

最近、山長のおかみさんと松戸駅付近でばったりお会いした。私自身かれこれ三十年は山長には行ってないのに私の事を覚えていてくださっていて、しかも実名で声を掛けられた。気さくな方でニコニコしている。勿論私も会釈する。商売というのは不思議なもので普段あまりこないお客でもちょっとした言葉使い如何で、そのお客が「たまには行ってみようか」という気持ちになったり、悲しいかな逆に遠ざけてしまうことがある。

例えば、久しぶりに訪れた店先で例えば「今、マグロのいいところを入れているんですよ!」というように自然に声を掛けられれば「うん!買ってみようかな」という気持ちにさせられる。反対に「お客さん、最近来ないね」と皮肉を言われると、二度とその店に近づけなくなる。客としてのこの心理変化は微妙だ

山長はまさに前者で、あの笑顔に引きずられるようにしてたまには行ってみようかという気持ちにさせられる。先日若干酔って帰宅中、山長が店じまいの最中だったので、ついフラフラフラと立ち寄った。赤飯を食べたくなったからだ。

私が「赤飯ふたつください」というと懐かしむような憂いのある笑顔で「もう今晩は遅いし終わりだから、おはぎをサービスするわヨ」と言って赤飯の横にガリを置き、さらにその横におはぎを置いた。三十年来変わらないこげ茶のロゴの入った包装紙で包んでくれる。

現在、赤飯を買ってガリを入れてくれるのが常識なのか私は知らない。ただ、このとき何とも言えない新鮮さと嬉しさでいっぱいになったと記しておきたい。

左側がそば屋で右側が和菓子+軽飲食を営業していた。両店舗は壁一枚で仕切られているだけで、壁の一部に四十五センチ角程度の小さな小窓があって、品物の受け渡しが出来た。

松戸ベスト100のミスターTさんはクリームソーダを山長で飲んだ話を書いていた。私は和菓子の山長のメニュー内容はすっかり忘れた。ただ、左のそば屋に居て、あんみつが食べたければ、店主が自動的に例の小窓から隣の和菓子山長に注文する事が出来た。程なくして小窓からアンミツがサービスされてくる。連係プレイになっていたのだ。

昭和三十八年、小学校の入学式の帰りだと思うが、母と山長に行くと同級生の斉藤君とばったり会った。彼もやはり母親に連れられて来ていた。それ以来斉藤君は私の事を「山長君」と呼んでいた。何年前だったか隣のそば屋の親父さんは体が弱くなり廃業した。現在はリフォームして住宅の構えになってしまっている。和菓子山長は現在テーブル席がなく販売のみになっている。

ところでこの界隈で蕎麦屋は「美寿可」が健在だ。私の知り合いでわざわざ遠くから来る人がいるらしい。「美寿可」が古い店舗の頃は店先によくタクシーが停まっていて運ちゃん御用達の店だったらしいが、何故か建物を建て替えてからはタクシーの姿はほとんど見かけなくなった。都鳥という店も山長付近にあった。殆どが出前専門だったようだが、印象に浅い。私が生まれる前、昭和二十年代だろうか、父によれば山長でもなく、都鳥でもなく、美寿可でもない、まったく別なそば屋があの界隈にあったらしい。店名知らず、通称「デレソバ」と呼ばれていたらしい。どんな蕎麦だったか食べてない私には評論できないのでなぜデレソバと呼ばれたのか父にその理由を聞いたがここでは書かない。

写真は二○○一年当時の山長。

76 戦後の竹ヶ花根本南花島一帯とヤマザキパン工場

写真は米軍の占領下にあった昭和二十二年(1947年)における根本、竹ヶ花の空中写真。時代的にヤマザキパンの工場はない。かじ坂(カジサガ:注1)方面から渡るあきら跨線橋及びイチョウ道路はない(注1:竹ヶ花に住む古老はカジサガと発音した)。分かりやすくするため、あきら跨線橋及びイチョウ道路を黄色で線引きした。

雷電神社の樹林をご覧下さい。現在は独立した小高い小さな山の様な状態になっているが、戦後当時はこのように連続した山の形状で雷電神社の山はもっと大きかった。この山の南東は「ある人」によって人手に渡り、吉井町の区画整理と共にずたずたに切り裂かれ変貌した。竹ヶ花の踏切付近から市役所方面に向かう市道はまだこの当時はない。竹ヶ花の島根自動車の横の道は古い道。

竹ヶ花の交差点で南花島の入り口に吉岡材木店があり現在は十字路でしかも跨線橋が二つあり複雑な形となっているが、この当時はY字路で分かりやすい。そのY字路交差点から新坂川にかけての地域は田畑が広がって見える。これは戦後当時、多くは旧笹屋(酒屋)さんの土地。吉岡材木店の付近にあった河合肉屋さんも旧笹屋(酒屋)さんの土地で借地だった。河合肉屋のご子息、ヤエちゃんは私の同級生。現在河合肉屋跡は大きなマンションになっている。ところがこの旧笹屋(酒屋)さんもその後色々とあったようで現在は存在しない。

北部小学校の付近は殆ど田畑で古ヶ崎浄水場の右に綺麗に並んだ住宅群があり、これは現在の竹ヶ花西町。市営分譲地だったと聞いたことがあるが詳しくは知らない。この当時は西町とは言わず、同じ竹ヶ花であったが、あまりに距離が離れた竹ヶ花だった為町会費の徴収が大変だったらしい。その西町の住宅群の右手、いちょう通りまでの間に我らが飲み仲間の所謂「先生」宅やその付近には甘い物好きで、度々ありがたいお叱りやお言葉をいただくあのM夫妻宅もいずれ出来る事になる。

その住宅群の右斜め下のクネクネしたライン(用水路)はその後ほぼ暗渠化し、北側は区画整理で真っ直ぐな道路に、南側はほぼ同じ曲線を残している。現在もこの道路はクネクネしている。北部小の旧正門吉岡文具店付近にはこの当時もう何軒か家が建っている。堀江食堂付近は畑の様に見えるが、ここに牛小屋があり乾物の明治屋さんの土地と聞いた。明治屋さんは以前、竹ヶ花踏切東側に店舗があり、先述した牛小屋のあった土地に大きなビルを建て一階で居酒屋「一休」を営業している。

高津工務店さんも見える。高津工務店の並びにはその後飲み屋街が出来る。松戸グリーンマンションは当然無いが、グリーンマンションと北部小との間には住宅らしき建物が見える。この住宅の中に私の同級生の勝間君が住んでいた!竹ヶ花踏切を根本方向へ渡り、水戸街道沿いには何軒も家があり、近所の大先輩N氏もお住まいになっている。

ヤマザキパンの話しをするつもりが横道にそれてしまった!

(注:空中写真は国土地理院の空中写真閲覧サービス(試験公開)を使用、コメントを入れた)