表の家

昔日の松戸71-75


75  ヤマザキパン工場−南花島

この写真は昭和40年代前半、第二浜街道踏切、通称”竹ヶ花の踏切”の写真です。

正面の職員常駐建物の遙か後方に見える高層建物はヤマザキパンの建物です。

☆この写真はご近所にお住まいだった小倉様からいただいたものです。

ありがとうございます。2013/03/30更新
竹ヶ花踏切を西に渡り、旧水戸街道を越えると根本。北部小学校は根本に位置し、北部小学校の
北東、ヤマザキパンの工場までは竹ヶ花西町(元々は竹ヶ花)。ヤマザキパンから先は南花島、上
本郷、新作と続く。近所の大先輩N氏によれば、昭和三十年代北部小学校の周りは殆ど田畑で、北
東の方向は松戸競輪場があるだけで、あとは延々と田畑だったと聞いた。確かに、私の小さい頃北
部小学校の北東の田畑(現竹ヶ花西町)には鷺類(コサギ、ダイサギ、アオサギなど)が舞ってきて
はエサを啄んでいた。給食場の付近には肥だめもあって、ここに落ちた友達もいた(否、落としてあ
げた……)。

昭和四十一年春、北部小学校の北東、竹ヶ花に接する南花島字五反田の土地にヤマザキパン工
場が出来た。ヤマザキパン工場によって出来て急に見通しが悪くなり、同時に竹ヶ花西町の宅地造
成が行われた。中学生の頃、六中の校舎の中に昼飯用パンの販売所(ヤマザキパン専門)があっ
た。六中入学以来、もっぱら弁当派だったが、友人が売店で買ってくる菓子パンが実に美味しそう
で、ある時から私もパン派に変わった。

一番好きだったのが「ビックロール」。長さが三十五センチ以上、幅十二センチ、高さ七センチくらい
のロールパンに溶かした砂糖が塗りたくってある。次に「バナナフリップ」成長盛りだったので糖分が
必要だったのかもしれない。これら菓子パンの影響によってパン食に目覚めた。食パンを何故食パ
ンというのか知らない。他に比べようもなかった為、ヤマザキパンの食パンの味がパンの味だと思っ
て育った。

冠番組(かんむりばんぐみ)という言葉がある。これは提供するスポンサー、主演の俳優名が番組名
の一部になったものを指す。冠スポンサー番組の代表格は
「キューピーの3分クッキング」
「日清ちびっ子のど自慢」
「ミユキ野球教室」


冠俳優番組としては
「巨泉・前武のゲバゲバ90分!!」
「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」

などがある。

この冠番組に自分の名前が使われるようになると一流……だそうだ。
ピンクレディーも冠番組を持ったことがある。
「ザ・ヒット!ピンク百発百中」
ヤマザキパン提供。
多分、ヤマザキパンも関東地方だけでなく全国規模で拡大していた時期だと思う。

ある頃から手作りパンが静かなブームになった。十数年前、自然酵母で作った手作りパン屋の食パ
ンとヤマザキパンの食パンを食べ比べたことがある。味は歴然と違っていて、これが同じパンなの
か?と驚いた。どのように違っていたのか、どんな味がしたのかここでは問題にしない。ただ、それ
以降パンだけでなくその他の食料品一般、酒や飲料を含め、大量生産をするという事がどういう事な
のか、遠隔地相手の商売とはどういう事なのか、しみじみ考えるようになった。

74  給食のパン−根本、竹ヶ花  

小学校の給食と言えば森栄堂のコッペパン、のマーガリン、牛乳、これに加え日替わりのおかずでカレーシチューなど。これらがアルマイトの容器を使って配られる。箸はなくいわゆる給食スプーンと呼ばれた先端が小さなフォークになったスプーンを使って食べた。牛乳は小学校三年から牛乳瓶に変わったが、それまでは脱脂粉乳で重くて大きなバケツを教室に持ってきてヒシャクで分配する。おかずの分配も児童が行う。

コッペパンは不味くてとても食えた代物ではなく、すっかりパン嫌いにさせられてしまった(ただし、他の児童達は食べていたので不味いと思ったのは少数派かもしれない)。その為、森栄堂のパンに良いイメージを持っていない。根本の森栄堂の店舗で販売していたパンを食べたことは無かったので公平の為、多分きちっとしたパンだったかもしれない……と記述しておく。ただし運動会の日の甘食パンだけは食べた。

どうしても給食のコッペパンが食べられず食べ残す、ところが「勿体ない」「食べ物を大切に」の言葉が頭にちらついて、あからさまに捨てられない。鞄に入れて持ち帰ったり、机の中に隠した。リスが冬越しに蓄えたドングリを置き忘れるように、私も机や鞄に隠していたパンを忘れた。時間がたちコチコチに固まっているパンに気がつくのは良いとしても、湿度の高い季節に青カビが生えおぞましい姿にぞっとする。あの給食用マーガリンは何と不味い物かと思ったが、同級生にはマーガリンをまるごと含んで自慢する輩もいて驚いた。

今あの給食をもう一度食べたいとは思わない。懐かしいとも思わない。あのアルマイトの容器も勘弁して欲しい。給食には悲しい思い出しかない。

73  松戸第一珠算学校−根本

小学一年生の頃、松戸第一珠算学校で習字と珠算を習った。習字と言っても珠算用の奥行きの無いテーブルで習字を書くので実際習得は難しかったかもしれない。やはりここは珠算で有名、吉泉のママも小さい頃、松戸第一珠算学校に通ったと聞いた。多くの人が通っていたと思う。

習字はあっという間に飽きた。珠算は一年半くらい続いたが途中で飽きてやめた。小学五年生になって、近所の友達(ススムちゃん)が珠算を習っていることを知り、再び珠算を習い始めた。

松戸第一珠算学校!

校長先生は田中先生で恰幅の良い先生だった。高砂通りから道を曲がってクネクネと入った小道にあった。道が曲がりくねっていたので説明が難しい。旧水戸街道沿いの根本薬局の正面、若干松戸寄りから常磐線線路方向に細い道を入っていく。この道は夕方になると暗く、生け垣に囲まれ緑多い場所だったが詳しくは覚えていない。

そろばんは

「将来キット役立つ!」
「就職に役立つ!」


この第一珠算学校のキャッチフレーズだった。当時の珠算塾は本当に活気があり生徒さんでいっぱいだった。私は勉強より遊びに夢中だったが、珠算だけは毎日通っていたので徐々に上達した。

小学五年生の算数の授業でそろばんを教えることがあった。普段は遊んでばかりなのにその時だけ指導者側に立てた。同級生のウキタさん(女子)は私より遙かに珠算の上級者で勿論教える側だった。「先生と乞食は一度やったら止められない」というがそういう気持ちはよく分かる。

珠算は面白いもので練習を重ねれば重ねるほど、計算の感覚が良くなる。感覚を鍛えると数字を間違えるというケアレスミスが少なくなる。その後十数年経ってから電卓しか使えなくなったが、計算ミスは電卓のほうが多かった。無意識に押し間違えてしまう。然し、珠算は知らないうちに押し間違えるということはあり得ない。

松戸第一珠算学校は松戸駅付近の区画整理事業によって場所が変わった。木造で増築を重ねた旅館の様な造りだったが鉄筋コンクリートのビルになった。流山街道沿いやその他たくさんの支店が現在どうなったのかは分からない。根本の本店には生徒の姿は見えないし、かつてのような活気は感じない。

二○○○年頃、東口駅前某医院で田中先生にお会いし挨拶をした。私のことなど覚えている筈はないのに「君のこと覚えているヨ」という顔をしている。単なる社交辞令としても嬉しかった。現在は視力も落ちたらしくあまり外出もせず、街でも見かけなくなった。早く元気になってほしいと思う。

72  松戸競輪とデンスケ賭博

北松戸に松戸競輪がある。今でこそナイターが導入され土日祝祭日もレースが行われ一般人やOLも入りやすい環境になったが(ただしOLが多いかどうかは別)、そもそも競輪はウィークデー開催であって、普通のサラリーマンや一般のOLが立ち寄る性質の公営レースではなかったと思う。ましてや子供の立ち寄る場所ではない。どういう経緯があったのか覚えていないが、父と開催日の競輪場付近を一緒に歩いた事がある。

一般のサラリーマンが少ない為か独特の景観がそこにあった。開催中の北松戸駅周辺は人も多く活気に溢れていたが、印象としてはドヤ街に一歩踏み込んでしまった様な錯覚を伴った。荒んでいる大人がたくさん居た。薄汚れたジャンパー、埃っぽく、どす黒い顔でキャップ帽子を被り、耳にプラスティックの水色栓のついた赤鉛筆、左手には新聞といった独特の風体。

誰が決めたという訳ではないだろうが皆一様な格好をしていた。俯き加減に新聞を凝視して盛んに独り言を言いながら何か書き込んでいる。焦点が定まらない死んだような目をしている大多数の人達、いかにも目つきの悪い人達、色々な思惑の人々が入り混じり殺伐な雰囲気は免れなかった。オケラ橋オケラ街道には殆ど常設に近い屋台が軒を連ねて土方焼けした労働者風の人々が真っ赤な顔をして酒を飲んでいる。

どう考えても子供の行く場所ではなかったと思う。北松戸駅階段直下付近に賭将棋やデンスケ賭博をしている人達がいた。デンスケ賭博は所謂キャラメルの箱やピースの箱を三つ並べ印のついた一つを当てる賭博。ただし賭博と名が付いていても実は巧妙に仕組まれた詐欺なのだそうだ。素人には絶対に当らないらしい。

仮に素人客が当たりの箱を指してしまった場合、サクラが他の二つに掛けるので、三つ掛けの流れになってしまい結局勝つことが出来ない。或いは簡単に答えが分かる場合はサクラが即座に当たりに賭けてしまう。さらにそこに賭けようとすると「一人賭けたから駄目だよ」と言われ本当の当たりに賭ける事が出来ない。あの手この手をつかって客には勝たせない仕組みになっている。

先日同場所に行ってみたがそういう人はいなかった。少なくとも三十年前まではデンスケ賭博の人達を見かけたと思う。彼らは果たして何処に行ってしまったのだろうか?

71  カレーハウスリエ−松戸新田

二十歳代の頃、松戸新田にカレーハウス・リエがあった。六中の同級生で名前をリエさんという。そのリエさんがお母さんと一緒に営業していたカレー屋さんで、東京會舘仕込みだった。味は「日本の洋食屋さんの本格的なカレーライス」で、当今流行っているエスニック風ではなくオーソドックスで伝統的なカレー。ニンニクをたくさん使っていたので仕込みの時間に行くと店内に何とも言えない美味しそうな香りが漂っていた。私はカレーハウス・リエのカレーライスが大好きだった。固定客も多かった。

就職して間もない頃週末帰宅時に度々立ち寄った。ビールを飲んでカレーライスを食べる。
週末は顔見知りの常連が多く集まった。年輩のナガさん(単なるニックネームしか知らなかった)、ビートルズ好きなジョンソン(外人さんみたいにハンサムだったから)、保母をしていたホボさん(若くて可愛かった)、鳶職人のシンプさん(何となく神々しくて神父さんのようだったから)

AK氏やニックネームを忘れてしまったが山形出身の好青年がいた。私のニックネームはゼロハン。50CCのバイクで通ったから……その他色々な方がいた。お互い顔見知りなのに、名前知らずの人が多かった。それは常連客をニックネームで呼び合っていたからだ。プライベートな情報は敢えて公開しないというママ(リエさんのお母さん)の方針だった。その為、自分自身についてあまり多くを語る必要が無く気楽だった反面、同時に現在消息を知りたくても、お客さんの姓名、住所、勤務先の一切が分からなくなってしまった。

土曜日の夜はお店で家庭麻雀をした。レベルは低いが和気藹々で楽しい麻雀。ナガさんやAKさんが上手だった。ママは熟考タイプで実に嬉しそうに打牌する。国士無双や四暗刻など大物好き。ふっと眠くなりボケ〜としていると、うっかりママの役満に振り込んでしまう事もあった。半チャンが二時間以上になる事はざら、基本的にのんびり麻雀なので回数はあまり出来なかった。

お店を早めに終え、みんなで外に飲みに行くこともあった。山形県出身の好青年が日本酒好きでデロデロになるまで一緒に飲んだ……ある日、好青年が山形の酒だと言って二級酒を持ってきた事があった。大手の酒造メーカの酒が日本酒だと思っていた私にとって、この酒は目から鱗。

ああ世の中にこんなに良い酒があったのだと感心した。名も知らない酒蔵でしかも二級酒なのにこんなに良い酒。今まで飲んでいた酒は一体何だったのか?八柱霊園へのドライブや江戸川の花火をみんなで見に行ったこともある。ところが私が建築現場の常駐で地方廻り、続いて海外廻りが多くなって以降すっかりご無沙汰になってしまった。

数年後、私の自宅の改築で訪れた鳶職人が何とシンプさんだったので驚いた。
「ああ、ここがゼロハンさんの家だったんだね……」
この時初めてシンプさんの職業を知った。シンプさんとはあれっきりだったが、実に爽やかな関係だった。ホボさんもジョンソンも皆元気だろうか?当時はみんな若かったね!カレーハウス・リエは今はもう無い。

写真は嘗てのカレーハウスリエ店内、作業しているのはリエさん。