表の家

昔日の松戸66-70


70 切手売りの鼻水おじさん−松戸駅東口

平成三〜四年頃、松戸駅東口とイトーヨーカ堂を繋ぐペデストリアンデッキ上で、週末チケット、コイ
ン、商品券などを売るおじさんが現れた。医薬品販売店と三井住友銀行のちょうど中間である。歳に
して67〜8、中背で小太りでジャンパー姿。積雪の日にも見かけた。釣魚用の簡易折り畳み椅子に
座り、寒いのか鼻水をすすりながら売っていた(以下、鼻水おじさん)。
                   
伺えば我孫子で切手商を営んでいるのだとか……
どうやら店は奥さんにまかせ旦那さんは行商らしい。バブル崩壊後、景気も落ち込み切手商も困難
な時代になったのだろう。否、バブル崩壊より遥か何十年も前に切手収集ブームは終了している。そ
の為か切手商の多くは切手だけでなくコイン、チケットと手を拡げないとやっていけなかったと思う。

この鼻水おじさんの周りにはたくさんの人集りができた。万引きも多く、嘆いていた。
「いつの間にか盗まれて、どうしようもないんだなあ」
ある日この鼻水おじさんが記念切手を売っているのを見かけた。当初、どうせほしいと思うような切
手など買えないのだろう……と高をくくっていた。ところがストックブックを見ると案外充実していた。し
かも昭和十年代の切手まである。自分のコレクションを切り売りしているらしい。

ストックブックを一渡り眺めるだけで、その収集家が凡そどのくらいの年季か分かる。さらに収集家
の歴史や生活ぶりが目に浮かんでくる。桜の普通切手の使用済みから始まり、第二次国立公園や
オリンピック切手等を見つけると私と同年代なのだろうと感じる。一世代後になると国宝切手等から
始まり、グラビア印刷の色鮮やかな切手が多くなる。

第一次国立公園や切手趣味週間や文通週間の初期の物などは前の世代だ。切手趣味週間の切手
をいつの時代から買い始めたのか…など話をすると分かることもある。戦前の切手は案外凸版印刷
が多く、戦後は凸版と凹版印刷両方の切手が多くなる。凹版印刷は地味だがきめの細やかな美しい
切手が多く、お札の印刷にも使われている。凹版印刷の美しさに多くの収集家が魅了され、収集を
始めた人も多いし、印刷物の芸術品として価値の高いものだと思う。それに引き替え、現在のドラえ
もんの切手等は味がなく、収集意欲が湧かない。

話しが横道にそれたが、この鼻水おじさんのコレクションは手彫り竜切手こそ無いものの、戦前の凸
版印刷の切手が充実していた。これらをカタログ価の1/4で売ってくれた。カタログ価の1/4という
金額が果たして安いのか月並みなのかは分からなかったが、夢中になって買った。買い続けている
うちに忘れていた収集心に火がついてしまった。気がつくと鼻水おじさんの有限のコレクションは底
がつき始めた。そりゃそうだ、私が買いしめたのだから……

いつしか私の収集対象は日本切手から中国切手に変わった。同時に日本切手しかなかった鼻水お
じさんの店は用無しになった。寄り付かなくなってから一年もしないうちにあの店は無くなった。鼻水
おじさんは果たしてどうしているだろうか?

69 レーシングカー屋さん−根本

昭和四十年前後「スロットカー」という遊びが流行した。当時子供だった私は「スロットカー」という正式名称は知らず、単純にレーシングカーと呼んでいた。これはミニチュアカーをスロット(溝)のついた軌道上を走らせて遊ぶもの。
軌道の台は黒いプラスティック製で中央にスロット(溝)があり、電気が通じている。ミニチュアカーの前面下部に通電端子があり、これをスロット(溝)合わせ通電し走る仕組み。この軌道は直線、曲線タイプ、宙返りなど様々なパーツで構成されミニチュアながら多彩で本物さながらのサーキット場を実現した。

遊び方はミニチュアカーを軌道にセットし、アクセルだけの簡単なコントローラーを右手で握り、コントローラーの押し加減でスピードを調整する。予想以上にスピードが出てコントロールは簡単ではない。カーブが難しく、コースアウトしやすい。コースアウトしたら自分でミニチュアカーを軌道に戻す。この遊びはかなりはまる。

当時、根本の松戸市立北部小学校裏(プールの近く)の交差点角にレーシングカー屋があった。店内を見ると軌道が室内いっぱいにこれでもかと敷き込まれ、魅力的で印象的なサーキット場だった。軌道は決して平面的ではなく立体的に工夫され変化の多いコースになっていた。確か「亀屋」という店名だったと思うが覚えていない。

お客の大半は中学生以上なのに、皆一様に無我夢中。白痴のようにポカンと口をあけ、ゲームに昂じている。その滑稽と言ってもよい客の顔を眺めるのも又面白い。しかし観戦しているだけでは物足りなくなる。自分でもやってみたくなるのは当然だ。親にねだって一台買ってもらった。車はプラモデルであり、自分で組み立てる訳だが、結局白浜出身の近所のF氏に手伝ってもらった。お試しでレンタルミニチュアカーもあったと思う。家庭用の規模の小さい製品としてバンダイからレーシングカーセットという軌道付きセットも販売されていたがそれまでは買ってもらえなかった。

いつしかあの遊びも廃れ、店も無くなってしまった。現在のあの場所には「新鮮野菜・くだもの 長瀬青果店」という看板が出ている。

後にこのページを読んで下さった根本のレーシングカー屋さんの御子息からメールを頂いた。このご子息によれば自分が物心ついた時にはすでに廃業した後でかつてレーシングカー屋さんを自営していた事は何も知らなかったらしい。ただ家に非常に多くのミニチュアカーが存在した事に不審を感じ、親に確かめ初めて知ったというユニークなエピソードを聞かせていただいた。ありがとうございます。

68 松戸の露天商と花売りおじさん−松戸駅付近 

約二十年前、夕暮れ迫る頃になると松戸駅付近にどこからともなく色々な屋台が現れた。それはおでん屋、ラーメン屋、日本そば屋などだ。松戸駅西口パチンコ松戸ホールの前階段の踊り場下のラーメン屋、東口の階段下のおでん屋、扇屋前の更地駐車場のおでん屋など……楽しそうに飲んでいたのを覚えている。

松戸市か、或いは何らかの民間団体の圧力なのか、ある時期から屋台の締め出しがあったらしく激減した。香具師(テキヤ)も同様。所謂露天商の出店を拒んでいるのかもしれない。いずれにせよ半常設のラーメン屋や、おでん屋の類は見かけなくなった。ダイエー前の餃子タイ焼きはつい最近まであったが現在は存在しない。たい焼きに変わりたこ焼き屋が出来ている。Dマート当時店の入り口付近に焼き鳥を売っていたおばさんがいたが、ダイエーになってから出店していない。

松戸まつりでは明らかに香具師(テキヤ)の排除をしている。2年前の松戸まつりでは、香具師(テキヤ)をふれあい通りの駐車場内だけに出店許可を与えた結果、高砂通りやふれあい通りの出店が激減、どうにもこうにも寂しいまつり状態になった。

私は屋台や香具師(テキヤ)やその他の露天商の存在を否定していない。地元の商店さんと彼らが共存共栄出来ればそれでいいと思っている。それが強いては松戸の商店街の未来の繁栄に繋がるのであれば願ってもない事。松戸まつりの間の一時的な利益だけを追わず、未来志向で考えれば香具師(テキヤ)やその他の露天商の存在も悪くないと思うのだがいかがなものか?

あなたがラーメン屋を営業しているとする。ところが隣地に近々同業のラーメン屋ができるらしい。そこで次のように考えるかもしれない。「こりゃ大変だ。自分の店の客が減る」

この気持ちを分数で書いてみよう。あなたのラーメン屋前の通りを一日三千人の人が通るとする。そのうち一日約二十人があなたのラーメン屋に来店する。あなたのラーメン屋の来店者を分数にすれば20人/3000人という訳だ。この分子の20人が15人に減り、さらに10人以下に減る。そう心配している訳だ。

さて、隣のラーメン屋ができて実際どうなったか?幸か不幸かあなたが危惧していたように、果たして隣のラーメン屋は連日行列ができる人気店になった。その結果、あなたのラーメン屋の客は減っただろうか?ところが今まで想像していない事が起こり始めた。あなたのラーメン屋前の通りがにわかに活気づいてきたのだ。つまり人が集まるようになった。人の流れが完全に変わってしまった。

今まで三千人しか通らないと思っていた通りに六千人以上の人が通るようになった。つまり分母三千人から六千人に増えたという事だ。分母が増えれば分子も増える。今までのあなたの店の来店者が20人/3000人から40人/6000に変わり、むしろ忙しくなってしまった。

ここが商売の難しいところだ。
「否、それでもお客が来ない」とすると、客が来ない原因は隣の店ではなく、あなたの店の何らかにあるかもしれないと一度考えてみるべきかもしれない。先の分数の話は逆もまた真である。
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さて、松戸駅東口デッキの幅広階段を降りた辺りに花売りおじさんが来ていた事がある。花売りおじさんは自転車荷台に花束をたくさん積んで売っていた。花束の一つ一つは安い花で構成されているが、何故か高級な花も混じる。この花売りおじさんの商品としては凡そ相応しくない高級な花だ。

価格は安いので皆喜んで買っていく。近所でもこの花売りおじさんはすっかり評判になり、案外多くの方が買っていた。ところが或る日意外な噂を耳にした。
「ねえねえ○○さん、あの東口の花売りおじさん居るでしょ!あの花売りおじさんね、近くの○○会堂のお葬式で生花として使われた花を殆どただ同然で仕入れ売っているそうよ!」
「!!!」

この噂が真実かどうかは確かめていない。ただ、手頃な値段の割に高級な花が混じっていた不思議さも理解できる。自分の身内のお葬式であれば、生花を一部持ち帰る事はあるかもしれない。しかし知人でもなく、全く知らない赤の他人のお葬式で一度使われた花だと思うとやはり気味が悪い。その風説以来近所でこの花売りおじさんの花を買う人は居なくなった。その後、この花売りおじさんも現れなくなった。

67 スーパーボールと東府屋ー春雨橋

子供の頃、おもちゃ屋と言えば、春雨橋の東府屋だった。昭和四十年頃、米国産のスーパーボールなる製品が大流行した。テレビCMでその存在を知ったのだと思う。弾力性が抜群で二三度弾んでいるうちに妙な回転が加わりとんでもない方向に飛ぶ。これがおもしろい。
松戸でこのスーパーボールを扱っていたのは東府屋だった。ワラソウが昭和四十五年前後に開店するまでは松戸のおもちゃ屋と言えば東府屋しかなかったように思うがはっきりとした記憶ではない。

当時のスーパーボールは現在、ガチャガチャや縁日で手に入るような安物ではない。直径五〜六センチと大きく重量感があり立派なスーパーボールだった。紺色だったか黒色だったか地味で濃い色をしていた。中身は単なるゴムの固まりの筈なのに、大きくて立派なところに、あこがれの米国の匂いを感じた。

確か価格は一五〇円だったと思う当時の一日のお小遣いが二十円の私にとって八日程お小遣いを貯めれば、買えた金額だが、やはり高級品だった。同級生のメガネザル君が「スーパーボールは東府屋に売っているから来週買うぞ」と熱っぽく語っていたのを思い出す。もっとも発売当初は品薄で、すぐには手に入らなかった様だ。

メガネザル君は当時としては年齢に見合わないお金を持っていて、必ず取り巻きがいた。駄菓子屋のくじ引きを一つ一つ買うのではなく、一式丸ごと買ってしまう。そして自宅に取巻き連中を集め、駄菓子屋ごっこをする……そんな子だった。子供達はお金が無くてピーピーしていた。お金を持っていた子は目立つし、何かおこぼれは無いかと取り巻く。彼は結局甘やかされて育った。その浪費癖は大人になっても改善する事は無かった。

それが二十代のある日悪さをして新聞沙汰になってしまった。以降彼の姿を見かけていない。人間は一度経済的に満たされた生活に慣れるとそれがスタンダード(つまり当たり前)になってしまい、中々抜け出せない。貧しくても分相応に生活する事が人間にとって一番幸せだという事に中々気がつかないものなのかもしれない。

さて、子供の頃の話に戻す。メガネザル君がやっとスーパーボールを手に入れ学校に持ってくるとスーパーボールはクラス中の話題になった。我々も実物を見たのは初めてだったのだ。いつの間にかクラスから学校中に大流行し私も暫くして買った。

スーパーボールの需要は急上昇し、ニセモノ・スーパーボールが出回った。本物との見分け方を友達から教わった。ニセモノ・スーパーボールは多分駄菓子屋を中心に広まったのではなかったかと思う。

東府屋さんのご主人は今でも御健在で、現在の取扱商品は節句のお人形等季節商品が中心らしい。ある日、日暮商店さんの利き酒会「盃の会」でお会いした。東府屋さんのご主人と同席されていたのが、安藤豆腐屋さんだった。トウフヤ(東府屋)&トウフヤ(豆腐屋)で、「こちらは本当の豆腐屋さん、こちらはおもちゃの東府屋さん」本人たちも面白がっていた。

66 松ヤニ遊び−馬橋,北松戸

皆さんは松ヤニ遊びをご存知だろうか?松の樹皮を削って得られる樹液を貯め揮発させると最後は硬い物質になる。これが松ヤニ。ちなみに松ヤニを化石化したのが琥珀。

さて、松ヤニは滑り止めになりバイオリンなど弦楽器の弦に使われる。松ヤニの塊を指で強く握ると砕け白い粉になり、これを衣服(例えばズボン)などの一部につけて指で擦るとキュキュッと音がする。このキュッキュッが面白くて松ヤニ遊びをする。昭和四十年台前半小学校でかなり流行った遊び。

この松ヤニはクラスの友人からのお裾分けとしてもらっていたが、果たしてどんな場所からどんな風に持ってきたのかは全く知らなかった。多分、神社などの大きな松の樹液が自然に固まったものを持ってきたくらいに思っていた。

みんな持っている松ヤニは小さいものだった。ところがある日、クラスのいたずらっ子で乱暴者、古ヶ崎の某代議士の長男、ジャイアン(以下ジャイアン君)が両手に余る大きさの松ヤニを学校に持ってきた。それはそれは見事だった。ジャイアン君は基本的に目立ちたがり屋。当然この大きい松ヤニをクラスで自慢した。

自分も大きい松ヤニが欲しいと思う連中がジャイアン君案内でその松ヤニが「在る」という場所に行ったそうだ。翌朝、その場所に行った同級生に松ヤニゲット作戦の首尾を聞いた。
私「どうだった?」
同級生「それが大変だった」


話しを聞くと、行き先は北松戸或いは馬橋の工場。工場敷地内に積んであった何らかの原料として使用する松ヤニだった。こぼれた残りカスだけ頂く分には問題化しなかったものを、どうやら派手に袋を破くなどして取り去ろうとしたらしい。そんなところに突然工場の人が現れた。そして叱責、学校に通報。先生や親からも叱られ大変だったのだと……朝礼でも話題に上がった。 その後我々の間ではあの騒ぎを「松ヤニ事件」と密かによび、松ヤニ遊びはすっかり廃れた。