表の家

昔日の松戸61-65


65  小茄子のへた取りと島村俊商店−平潟

松戸の名産品に茄子のよいち漬けがある。松の木橋を渡った先に本社があり、現在はビルになって
しまっているが、元々ここには工場があり、茄子のよいち漬けを生産していた。

根本橋付近、旧商家(風呂桶業)出身の女性Haさんから伺ったお話。
「今はねえ、立派な建物になってしまいましたけれど、以前は平屋だったかしら?茄子のよい
ち漬けさんは普通の工場でした。私が小さい頃だからもう五十年くらい前(昭和三十一年前
後)ですね。季節になると工場に小茄子が届くんですよ。あれは確か山形産だったかしらね
え?

そうすると、工場では茄子の仕込みに人手が必要だと言うので、近所の私らも手伝いに行くん
です。手伝いというのはね、小茄子のヘタを取る作業なんです。小さな包丁の様なものを持っ
て、一つ一つ綺麗に取らないといけなくて、これが案外難しい。茄子のヘタはぴったり茄子にく
っついているでしょ?
そして小茄子だけに小さいから、傷つけないように丁寧に取らないといけないから、それなり
に技術が必要なのよ。そうやって、茄子のヘタを取ったらかごの中に入れていく。出来高は個
数じゃなくて目方でいくらという形でお駄賃をもらうの・・・中には子供なのに上手な子もいたけ
ど、ベテランのおばさんがねえ、それは上手に取っていたわ」

Haさんありがとうございます。

故島村俊さんは松戸法人会の会長を勤めつつ、国税庁長官表彰を受けたり、大蔵大臣表彰を受け
たり、勲五等瑞宝章受賞(納税功労)を受けたり、何かと表彰された方。
それでは雲の上の存在でふんぞり返っているような人かというと決してそんなことはなかったそうだ。
案外気さくな人だったらしく、高砂通りの飲み屋街の綱ちゃんによれば「あの方は私とすれ違って
も、わざわざ戻ってきて挨拶をする腰の低い方だったんだよなあ……立派な方だなあ」
との事
だった。

松戸には名物男は多い。

会社の沿革や製品については島村俊商店のホームページをご覧いただきたい。

写真:茄子のよいち漬けの工場を見ている写真です。Shinさんという方が撮影されたもので、大変貴
重なものです。この項目で使用させていただきます。
Shinさんありがとう!

64  Beeと土屋リラックス−根本、小根本

1996(平成八)年から四年間滞在していた香港。香港で私は足マッサージを覚えた。そのお店は銅鑼湾(コーズウエイベイ)のマクドナルドの入っている雑居ビルにあり、度々通った。初めて施術された時は甚だ痛いだけで「二度と通うものか!」と思ったが、慣れると週に二三回通うことも珍しくなくなった。

2000(平成十二)年四月に香港赴任終了し帰国。
さて!「松戸で手頃にいける足裏マッサージはないものか……」と探したら、Dマート横の学習塾の入っているビル(ここの一階は以前ミスターTが紹介していたジーンズのお店のあった場所)の二階にBee(ビー)があった。

一階から直通階段を登り店舗内に入る。いかにも、にわか仕込みで勉強したのに本日即戦力といった感じの女性が施術する。友人のAKさんを連れて行ったことがある。彼は異常に痛がっていた。このBee(ビー)はその後松戸駅東口の旧ポンテビルにと一体になっているニュートーキョーセブンビルの五階(だったと思う)に引っ越した。案内の葉書も来たが、私は沖縄常駐が決まり、しばらく松戸に不在となったため、すっかり疎遠になった。たった一年弱だったのに、沖縄から戻った時にはBee(ビー)は無かった。廃業したらしい。

2003(平成十五)年の夏、小根本(市役所付近)の土屋家具センター地下に「土屋リラックスセンター」が出来た。全身及び足裏マッサージの両方を扱う。この地下店舗は奈良屋があった当時、中華料理「松苑」があった場所で、一度入ったことがある。中華料理「松苑」廃業後テナントが何度か変転したらしいが詳しくは知らない。ただ、「土屋リラックスセンター」になる前は撞球場(ビリヤード)だったらしい。

さて、写真の地下に繋がる長い鉄砲階段を降りていくと「土屋リラックスセンター」に入る。中に入ると天井が必要以上に高いのに加え、部屋が必要以上にだだっ広い事に驚く。天井が貼っていない事もあったが、多分階高五・〇Mくらいでは無かったか?部屋の随所に、だだっ広さを隠す為、天井から床まで覆う長い白カーテンが吊され、空間が仕切られている。

この白カーテン裏に垣間見る正体分からぬ暗闇が一層この店の広さを強調していた。壁の仕上げは肌色の塗壁コテ仕上げ風で、所々に以前ビリヤードのキューを立て掛けてあったと思わしきボードが残っている。数人で運営しているには不釣り合いに大きいL型でしかも長い接客カウンターがあった。

いかにも「元ビリヤード場を居抜きで使ってしまいました」と言わんばかりの安普請風情で、何とも隠しようがない間抜けな感じが、個人的に好きで良く通った。

名前は忘れたが、北海道出身の男性が店を仕切っていて施術士は女性二人に体格の良い男性が一人。施術が終わると例の長いL型カウンターでお茶を飲む。その際、北海道出身の男性が話し相手になる。とても楽しい人で話し上手だった。確か向島に住んでいると語っていたが今はどうされていらっしゃるか?

この時、聞き覚えたのが北海道のキュウリという魚だった。キュウリはシシャモに似ている魚だが若干長い。生け捕りにすると野菜のキュウリの臭いがするのでキュウリと言うそうだ。キュウリは北海道の庶民の食べ物で、先ず松戸では食べられる類の魚ではないが、何故か東口の季節料理「マザーグース」ではこのキュウリを出していた。昼の定食でもキュウリ定食があったと思う。今はあるかどうかは分からないが興味のある人は松戸駅東口の「マザーグース」に聞いて欲しい。

「土屋リラックスセンター」の空調機の排水が悪かったのか、ある日蚊が大発生した事があった。あの時は大騒ぎしていた……空調機の修理は大変だったのか、それとも何も手を付けなかったのか、大して変わらない状態が続いていたと思う。「土屋リラックスセンター」はいつ予約しても大抵OKで、殆ど満員という事なく安心して行くことが出来た。つまり暇だった訳で、客としては良かったが、店としては大変だったと思う。常連客が何人も居たようだが、そもそも活気が無くて2004(平成十六)年の二月頃廃業した。

気がつくと屋台骨である「土屋家具センター」自体の具合が悪くなってしまった様だった。「土屋家具センター」の本部である株式会社土屋家具店は2004(平成十六)年九月に京葉銀行に対し二度目の不渡りを出したと聞いた。京葉銀行だけで約七十二億円の債務だったらしい。その後オンラインショッピングのページも閉鎖してしまった。

市川の「土屋家具センター」は閉鎖後駐車場なったが、小根本の「土屋家具センター」はいまだに販売を続けているがいよいよ2008年(平成二十)九月にはいよいよ本当の閉店らしい。

それにしてもこの場所は商売が難しい場所なのだろうか?

63  小根本谷津の原風景(昭和三十年代)

小根本の山に入り、住宅街をさまよう。小根本公園の中央に立つと北は新京成の線路、東は国道六号線、南は小根本の山に囲まれているのが分かる。典型的な谷津の形状であり、この谷津は末を岩瀬の谷津と米のモリアストアー付近で合流し、大宝前付近を経過、旧松の木通りを通って、坂川に注いで居たらしい。

現在の小根本は全くの住宅街になってしまいかつての田園風景はすっかり陰を潜めた。少なくとも私が小学生の頃は田畑が目立つ場所で税務署の裏手には水田が広がり小魚を採ったものだ。小根本公園は私が小学校四年生の頃完成。

小根本公園の南側に小高く広がる台地がある(標高二十七メートル前後)。この緑豊かな台地の裾野に瀬があり、途中小さな池があった。小さいと言っても十五メートルx二十メートルはあった。この瀬は台地の北側であり日も当たらず葦やジュズゴの類が生える湿地帯で、生態系の育生には都合の良い場所だったようだ。メダカやザリガニなどが生息し子供達がつかまえにきていた。ザリガニを狙う場合、最初はシノダケ(アズマネザサ)で作った簡単な竿に凧糸でスルメを繋いでザリガニを釣り、二匹目からはザリガニの尾を裂いて使った。

冬、池には氷が張った。アイススケートが出来るほど厚い氷が張った。スケートと言っても専用の靴などないので普通の運動靴で滑る。大抵は同級生同士で連れ添いスケート遊びに行った。ある早朝何を思ったか、一人でこの池に行き、スケート場を占領し遊んでいた。滑っていると目の前に氷の色の違う場所があるいのを見つけた。よけようが無い。「あ、まずい」と思った時はすでに遅かった。次の瞬間池に落ちてしまった。私は暴れたが、ただひたすら冷たかった。

必死に這い上がろうとしても、ズボンのベルトが氷の端に絡まって簡単に上がれない。悪戦苦闘の末やっと氷の上に這い上がった時はすっかり躰が冷えていた。寒かったし、冷たかった。濡れてすっかり水を吸った運動靴がジュッジュッっと音を立て泡を噴き出しながら、情けない姿でとぼとぼ家に帰った。現在小根本に、池もその痕跡もない。多分現在マンションが建っている辺りだと思う。

小根本公園を歩くと植え込みの土が客土とは云え、肥えた良い土である事が分かる。今年の正月、あの土に霜柱は立たなかった。又、小根本に建つ家々には軒先に氷柱が見られたものだが、それも現在は見られない。温暖化現象だろうか?

写真は小根本公園。ブランコで遊ぶ少年たち。

62  雪印種苗−根本大道下

北部幼稚園と富永商店の間の道を南西に少し進んだ場所に雪印種苗の工場があった。松戸市根本一五三。この付近を歩くと家畜用飼料のカビ臭いような臭いが辺り一面に漂っていた。松戸商工会議所工業部会の資料によれば……

受注加工に応じる設備として配合飼料月産三千トン、種子年間二千トンとなっている。資本金は四億三二〇〇万円で、これは雪印種苗社全体なのか良く分からないが、取引銀行が今は無き北海道拓殖銀行というところが雪印らしいと思う。

従業員数三三名と書かれており、これは殆ど機械化された工場だったのだろう。道を挟んで対岸には空き地又は駐車場のような空き地があった。多分あの空き地も雪印種苗の土地だったと思う。雪印種苗が立ち退く寸前だったと思うが、江戸川花火大会の日に友達数人と車数台で出かけた事がある。江戸川付近には駐車する適当な場所が無いので、この雪印種苗の対岸の空き地に駐車し、そこからみんなで花火を見た記憶がある。

昭和五十年代、付近一帯は造成されてかなり住宅等が建っていたが、北部幼稚園、グリーンコーポ、北部小学校の付近にはところどころ田畑が残っていた・・・それが昭和三〇年代の頃は畦道があり、昆虫、メダカ、フナを捕まえるポイントもあちこちにあった。延々と続く北部小の北側の田畑にはコサギもやって来ていた。自然環境といった意味では現在は見る影も無い。

雪印種苗は1956(昭和三一)年、この根本の地に操業開始したが、ほぼ1980年代前半に移転。暫くの間、飛島建設の作業場になっていた。そして1986(昭和六一)年三月この跡地に東レ建設による開発、建設によるマンション「シャルマンコーポ松戸」が竣工した。飛島もジョイントしていたのかどうかは分からない。鉄筋コンクリート造地上七階建て、総戸数五十八戸、部屋サイズ57.03m2〜74.52m2、分譲タイプ。

昭和三十一年の都市計画図にはあの一帯は準工業地域に指定されていた。大規模な川光物産があったためそういう指定があったのかもしれない。興洋、金沢縫製などの縫製関係の工場、東京精機製作所などの比較的小さな工場が付近にあった場所だ。ところがこの一帯の工場は思ったほど成長せず、気がつくと殆どが住宅に取って代わった。そして、いつの間にか都市計画上の用途も書き換えられ第一種住居地域になっている。

このマンションには飲み仲間が二組住んでいる。彼らは昭和三十年代の大道下のほのぼのとした景観については知るよしも無いと思う。

道を挟んであった空き地には現在大道公園が出来ている。この界隈の字名は松戸市根本字大道下でそこから名付けられたのであろう。又、何故大道下と言う字名があったのかは調べる必要がある。ただ地形的に見ると下総台地に立った場合、この土地は水戸街道よりも江戸川方向に下っていて標高も低い。洪水などで悩ましい時代もあった。そんな処から来ているのかもしれない。今あの場所に行っても花火が見られるかどうかは未明。

(写真は大道公園)

61  串揚げ「味」−根本交差点付近

根本の交差点付近、中銀マンションの一階。すでに2006(平成十八)年三月に店を閉じてしまった串揚げ屋さん。いつ行っても満員で予約しないと入れない店だった。中に入るとメインはカウンター席。テーブルもあったが、16人程で満員。

お店の間取りは真四角ではなく台形のように一部斜めにの妙な形をしていた。その店の形状から店内のカウンターは「く」の字に配置されていた。「く」の尖端が入り口側、広い側は厨房側。

カウンターの中には娘さんなのか従業員なのか女性が揚げていた。その女性は串揚げを次から次に揚げて目の前の皿に置いていく。もう食べられなくなったら「とめてください」と言い食事を終わる。料金は出した串の本数によって決まる。

元々このお店は串の坊というお店のチェーンで、アーバンヒル松戸に入っていた。松久グループの経営悪化で数年後アーバンヒルは廃墟への道を歩む事になる。ご主人はこの時点でお店はやめようと思ったが多くの常連のお客さんからの強い要望もあり、中銀マンションの下に店を移した。中銀マンションに移動してから二十余年。年齢的にも店の維持が大変になり閉店。

次男の方が金沢でやはり串揚げ屋を開業している。名前も同じ串揚げ「味」。金沢方面に旅行される方はどうぞ御利用下さい!