表の家

昔日の松戸51-55


55 大木さんの倉庫−竹ヶ花拾石台

自宅の向かいには現在住宅が建ち並んでいるが、つい最近までそこには松戸米穀倉庫があった。
手持ちのアルバムを見ると少なくとも昭和三十年代初期には倉庫が写っている。この松戸米穀倉
を近所では通称「倉庫」と言った。倉庫は二棟あり一棟が300m2くらいの大きさだった。

当初は大木さんご家族が住んで管理していた為、単に「大木さん」或いは「大木さんの倉庫」とも
言った。大木さんは現在北松戸付近に倉庫を運営している。

敷地には倉庫を管理する木造二階建ての建物があった。一階は事務所及び住まいとして使われ、
二階には和室があり間借り出来た。いわば木賃アパートという形か?ヨネノさんが倉庫側に住み、
道路側には田中さん夫妻が住んでいた。田中さんのご主人は確かトラックの運転手をしていた。そ
の後田中さんは引っ越して、道路側の部屋にFさんが住んだ。Fさんは幼い頃私の切手蒐集をいき
なり豊富にしてくださった人だ。Fさんについてはいずれ改めて書きたい。

木賃アパートは風呂無し、共同便所、流しも共同で現在の住環境からすると貧弱だったが、当時とし
ては良くある形だった。昭和四十年代のフォークソングで、南こうせつの「神田川」がある。三帖一
間の下宿に住んで横町の風呂屋に行き、寒い中で赤い手ぬぐいをマフラーにして恋人が風呂から
出てくるのを待っている場面があるが、これは当時としては普通の風景だった。

(写真正面の大きな建物が倉庫。左に一部写っている建物が管理する人の住んでいた木造の建
物。中央で長いタモ網を持っているのは私)

54 古井戸と水の豊かな地区−竹ヶ花拾石台

下総台地の裾野にあたる我が家の周りは水が豊富だった。土を三十センチも掘るとコンコンと水が溢れてきた。庭の土質はジメジメとして、ミミズが多く土が肥えていた。明らかに小動物の住みやすい土壌で小さい頃は土カエルが住み、又、雨の日はどこからともなく雨蛙が現れアオキの影に潜んでいた。

付近にはいくつもの井戸があった。松戸米穀倉庫、竹山クリーニングさん、牛久さん、紺屋(こうや)さんのところをはじめ他にもたくさんあった。父によれば昭和三十年に家を建て替えるまでは我が家にも井戸があったらしい。紺屋さんの井戸は付近にドクダミのたくさん生え、そして雑木に囲まれた谷津のような場所にあり、私の遊び場でもあった。ただし、この井戸は使われず朽ち木の蓋がしてあった。

ある日妹を連れてこの井戸付近で遊んでいた時の事だった。私が井戸の蓋になっている朽ち木の上にのって跳びはねて遊んでいたら、突然視野が変わり……うわぁぁぁ!妹によれば跳びはねた次の瞬間私が`ふっ`と忽然として消えたそうだ。まるで怪獣映画の一シーンの様に・・・

そして「ドボ〜ン!」私は井戸の底にぃ〜!然し、ご安心!実はこの井戸、深さが二メートル程度しかなかった。浅くて良かった。もしもこれが深さ二十メートル以上もある深井戸だったらと考えると今でも恐ろしくなる。

又、この古井戸に関してはこの近所だけにまつわる逸話がある。ただ、この古井戸にまつわる祟りがあった。お稲荷さんに関わる祟りだが、今はまだ書く勇気がない。

53 山田自転車−小根本

子供の頃、どうしても自転車が欲しかった。欲しくて、欲しくて仕方なかった……
当時に比べ現在は自転車が信じられないくらい安くなった。中国産の輸入自転車で日本の中小の自転車メーカーは多分苦戦なのだろう。こんな昨今、仮に子供から「自転車を欲しい」と言われ、安全問題はあるにしても金額の面でためらう親はどの位存在するのだろうか?

有名なイタリア映画で「自転車泥棒」がある。何とも暗く、寂しい映画だった。あの映画に登場する父親の切ないまでの心情描写は、貧しくてしかも自転車が高価な時代でなくては存在し得なかったし、人々への共鳴は無かったに違いない。

私の小さい頃、子供用自転車を持っている子は少なくなかったが、まだまだ高価だった。新品の子供用自転車が何と七千円もした時代なのだ。今の七千円とは大違い。千円札が聖徳太子様の頃の千円だ。当時サラリーマンの正確な平均的給料は分からないが、少なくとも父親の給料は三万円弱だった。自分たちが生きていくことでいっぱいで、給料の1/4もする自転車を簡単に買ってくれる訳がない。

私は小学校二年生まで自転車を持っていなかった。近所のススムちゃんの自転車を借りて自転車に乗る練習をしていたが上達しない。乗ればバタッと倒れる、再びバタッと倒れるを繰り返していたので、借りる方も貸す方も双方遠慮してしまった。それにしても自転車が欲しかった。親に何度もねだったが相手にしてもらえなかった。

ある日、自宅の焼きそば屋が休業の日(日曜日)に、母が松戸市内の自転車屋を探し回ってくれていたのだった。勿論新品であるはずがない。少しでも安い中古(ちゅうぶる)を探していたらしい。子供用自転車の新品が七千円と書いたが、春雨橋付近にあった自転車屋の中古は四千円前後。他の店に廻っても似たような価格だったようだ。

それでも諦めず、安い子供用自転車を探し周り、やっと小根本の山田自転車にたどり着いた。この山田自転車で「この中古(ちゅうぶる)の子供用自転車だったら、補助輪付きで千五百円で良いよ」という。

勿論即決定。ところが、この中古子供用自転車は実は店主の子供(男の子)の持ち物だったらしい。談が決まり店主がその自転車に補助輪を付けていると、店主の子供が奥から出てきた。

山田子供「お父ちゃん、僕の自転車どうするんだよ」
店主「このお客さんに売るんだよ」
山田子供「子供何で売っちゃうんだよ!」
店主「うるせえ、黙ってろ」
山田子供「わ〜ん!」

52 パンク修理山口さんと火の見櫓−竹ヶ花クラブ横

竹ヶ花の雷電神社付近にタイヤの修理をしていた山口さんというおじいちゃんが居た。この山口さんは交通指導員の制服を着て、毎朝北部小へ登校する少年少女達の道路横断を誘導していた。しかも優しそうな笑顔で!つまり「緑のおじさん」だったわけだ。

この山口さんは同時に地元の消防団に入っていた。竹ヶ花クラブの敷地内に、火の見櫓(ひのみやぐら)があった。山口さんは何処かで火事があれば半鐘(はんしょう)を鳴らす役目だった。半鐘は住民に知らせると同時に避難や消火の出動を促す役目も担っていた。半鐘とは火の見櫓に吊されている釣り鐘の事で、この叩き方によって火災のあった地点の距離を次のように表現している。

……半鐘の鳴らし方……

二つ半(二つ半鐘)-ジャーンジャーンと二度叩くのを繰り返す。一番遠い火災。
三つ半(三つ半鐘)-ジャーンジャーンジャーンと三度叩くのを繰り返す。もう少し近い距離
四つ半(四つ半鐘)-ジャーンジャーンジャーンジャーンと四度叩くのを繰り返す。さらに近い。
擦り半(擦り半鐘)-連続して間断なく叩く。これは直ぐ近くであるという合図。

四つ半は殆ど聴いたことが無った。二つ半或いは三つ半擦り半(すりばん)が多かったと思う。ただ、山口さんの場合、最初二つ半を叩いていても、暫くすると何故か三つ半になってしまう。こちらとしては「間違えたかな?でも三つ半だから遠いのかな?」と思っていると、いつの間にか擦り半に変わってしまいためらう。

ところが山口さんは毎回同様の叩き方だったので、しまいには狼少年と同じで擦り半が鳴っても大して驚かなくなってしまう。山口さんはおじいちゃんだからもうろくしたのかな?と思っていたが、どうやら若い頃からそんな叩き方だったらしい。いつの頃か、火の見櫓も半鐘も竹ヶ花から消えてしまった。

写真は去年六実で見つけた火の見櫓。六実でも現在は使用してないが、街の記念として残しているらしい。

51 松戸のレコード屋−松戸駅周辺

小学生の頃は漫画のソノシートを良く買った。中学生になり初めてレコードらしいレコードを買った。買ったのは長崎屋の新星堂。ビートルズの「Let it be」のEP盤だった。中を見ると赤いレコード盤であることに気が付く。一緒にいた同級生の松岡君が解説してくれた。
「赤いのは限定版。ラッキーだね」と……私はすっかりその気になり買ってしまった。

当時レコードを買う際レコード屋さんに「これ掛けてもらえますか?」とお願いをした。数フレーズ試聴するわけだ。初めて買ったビートルズの曲をそうやってドキドキしながら試聴した。試聴という行為はレコードを確かめるために欠かせない大切な行為。ただ店中に聞こえるくらいとても大きな音で流すものだから、プライバシーをさらけ出すようで、恥ずかしい。

松戸でレコード屋さんというと東口のイマイレコード(小根本の神明神社参道入り口付近)や西口では長崎屋、西口の中通りのせんべい屋「わたてつ」付近に小さいお店が一軒あったように思う。

いつ頃だろうか?東口の伊藤楽器店がレコード屋を開店し、さらに数年経つと西口のワラソウ(アリタの横の)とコラボレーションして販売を始めた。つまり東口と西口で店舗をそれぞれに二分し、一軒の店舗の中にレコード売り場とおもちゃ売り場が存在するような売り方になった。長くそういう売り方が続いたが、ある時を境にレコードは東口だけ、おもちゃは西口だけになった。そして気がつくとワラソウは無くなっていた。

東口の伊藤楽器は販売促進の為、新人歌手のプロモーションを催す事があった。デビュー直後の片平なぎさが歌手として東口の伊藤楽器に来たことがある。体格は小さかったが、なんと美少女だろうと思った。片平なぎさはその後歌手としてはパッとせず大成しなかったが、女優業として才能を発揮したと思う。「新婚さんいらっしゃい」ではマミちゃんに替わるまで、随分長いことアシスタントを務めていた。

(写真は松戸駅東口の現在の伊藤楽器)