表の家

昔日の松戸46-50


50 新坂川の思い出−根本付近

新坂川に釣りに行ったのは昭和三十五年くらいから覚えている。無論、父と一緒だった。当時はコン
クリート護岸などなく、なだらかな土手で簡単に川面に寄ることが出来た。

葦やジュズなどが生えて鬱蒼としている場所もあり、又、市で雑草を刈っていたのかもしれないが、
座ってのんびりと釣りを楽しめる場所もあった。水はすでに汚れていたが、後の「魚も住めないどぶ
川、新坂川」
というほどでもなく新坂川独特の川らしい匂いがあった。子供の頃、そんな新坂川で釣
り糸を垂れた。
父は「メソッコが採れる」と言っていた。
メソッコとはウナギの稚魚だ。
竿をあげたときに釣り針が頬に引っかかって痛い思いをした事もあった。

以降、次第に汚れ始め、極めつけはやはり北松戸の工業団地から流れ出た未処理の廃液排水だと
思う。あれは昭和四十年代だろうか、川の水はコーラ色になってしまった。本来の新坂川の匂いも失
われていた。それはドブの臭いだった。しかも質の悪い排水臭が伴う。川沿いの住民は大変な思い
をしたのではないだろうか?ただ、単に生活排水で汚れていた頃はクチボソも見かけたが、廃液排
水で汚れ始めてからは徐々に生物の気配がなくなった。

嘗ての牧歌的な新坂川は消え、そこにあったのは、市民に見捨てられた「どぶ川」でしかなくなった。
そんな新坂川が市民運動、制度の変化、下水道の完備、工場排水の処理等々により最近は極めて
綺麗になりつつある。写真の様に自然堤防風に変えた場所もあり、釣り人も戻ってきた。この新坂川
に現在棲息する魚は鯉を始めとしてボラとオイカワ(ヤマベ)のようだ。以前の新坂川に居たドジョウ
や鮒などの気配は感じない。

希望として言えば、流れの速い場所ばかりでなく入り江のような場所をさらに作り、浅瀬を増やしてあ
げればカエルも卵を産むことが出来、生態系が豊かになるように思うが

49 工場見学と雪印−南花島

現在、工場見学が一部で流行しているらしい。今までのような工場見学と違い内容をもう少し深く詳しく見るのがポイントだそうだ。ビール工場で発酵の過程について踏み込んで見せる、お茶工場のブレンドの方法を見せる等中々興味深い。製造現場を見るのは好奇心を刺激する。町工場でも大きな工場でもどちらでも良い。大人が汗水流して懸命に働いている姿に感動する。

ところで北松戸の工業団地と言えば新坂川の右岸側、つまり競輪場側を指すが、左岸側(線路側)にも大きな工場があった。雪印(乳業だったか食品だったかは覚えてない)だ。同級生のお父さんもそこで働いていたと聞いた。単なる瓶詰工場だったと思う。工場が出来た時期は、北部小学校の給食で出していた脱脂粉乳が瓶詰めの牛乳に変わった頃ではないか。

我々の世代は第一次と第二次ベビーブームの谷間の世代で、同時に松戸市は東京の衛星都市としての発展し、田畑や台地を区画整理し大規模な団地や住宅群が出来急速に人口が増えていった。その為、市内の小学校が圧倒的に不足し学校数を増やし始めていた頃だ。その過程で、東葛地区の中でも衛星都市の中核である松戸市に給食用ミルクの需要に合わせ雪印が工場を造ったと考えるのは当然と言えば当然かもしれない。

北部小学校からこの雪印の工場は近い。ある日別のクラスで社会課授業の一環でこの雪印の工場見学に行ったという。見学のお土産に牛乳までもらったそうだ。羨ましい。
「我がクラスもいつかは!」と思って心待ちにしていたが結局そのチャンスは訪れなかった。
当時のくすぶる気持ちは今でも良く覚えている。

現在同敷地はアクティ松戸という住宅公団の建物が建設され久しい。

48 市道開通と森谷耕平先生−竹ヶ花

表の家の東側には小根本・岩瀬と竹ヶ花を結ぶ道路がある。東葛土木事務所に面し昭和三十年代に完成した市道。幼い頃の微かな記憶だが道路工事の思い出だけはしっかり残っている。

この市道完成以前、竹ヶ花から池田弁天付近にアクセスする為には一度旧水戸街道に出て、竹ヶ花の踏切を西に渡り、竹ヶ花一番地、つまり洋服の林屋前の細い道を東に入り、金山神社の林縁を通過し細い道をクネクネっと歩きやっと到達出来る場所だったと聞いた。

又、表の家前は行き止まりの空間でデッドエンドの場所。バスの車庫もあり、砂採山(すなとりやま)もあった。この道路を造るために沿道の家は土地を売る。大抵の人はその代償としてお金を受け取る。表の家も例外では無かった。そして土地を減らす。

ところが全く違う人が居た。それが森谷耕平先生。森谷先生はお金で受け取らず、代替地で受け取っていた。それが結果的にバブルの時期に花が咲いたと言える。結果的に見れば人はうまくやったと思うかもしれない。ただ、今後どうなるか分からない、価値が出るのかどうか分からない代替地を三十数年近く固定資産税を払い続けて保っていくというのはそう簡単に出来ることではないと思う。

尊敬する渡辺幸三郎先生の「昭和の松戸誌」に森谷先生の事が書いてある。初版では勢い余った記述もあったが再版では記述訂正されていた。本を出版するのも大変。森谷先生は父が北部尋常高等小学校(現在の北部小)在学時の恩師で、近所でお会いすることも多く、何故か私も良く知っている人だった。

農作業ですっかり曲がった腰に手ぬぐいをぶら下げ、完全な農作業の服装で、すっかり土方焼けして、肩には鍬を担いで歩いている。太陽の下で懸命働いている農家の一老人という印象でした。私の通勤路の途中金山神社の付近にマイライフ根本という白いアパートがある。ここは三十年以上前までは畑だった。

初夏、この畑を通り過ぎる際、農作業をしている森谷先生がいた。
畑には45センチ程の植物が植えられている。
作業をしている先生に「それは何の植物ですか?」と聞くと「人参だよ」と教えてくれた。
先生が生徒に教えるように・・・とても優しい表情だった。

現在その畑はアパートに変わり、庭には印象的なスオウバナがある。青紫色の綺麗な花が咲き、通勤時の楽しみの一つだ。ところが、今春根こそぎ伐採されてしまった。寂しいものだ。

写真は市道工事の様子(昭和三十四年頃)。右側の建物は松戸米穀倉庫、左は松戸米穀倉庫の事務所兼木賃アパート。中央の作業夫に抱かれているのは私。作業夫は全くの知らない人。

47 豊田商店と八百伊の間の小道は−根本商店街

根本商店街、宇田川たばこ店(元宇田川呉服店)の松戸駅寄りに八百伊(八百屋)、八百伊のさらに先には豊田商店(乾物食料品店)があった。豊田商店は内山医院横の納豆工場の製品、卵納豆も扱っていた事はすでに書いた。
渡邉幸三郎先生の著書では豊田商店は乾魚や塩魚の他はんぺん・薩摩揚げ製造販売をしている五十集屋(いさばや)であったとしている。

さて、私の住む界隈でこの豊田商店は通称「おばけ屋」と呼ばれていた。全く変な名前だ。それにしても、何故「おばけ屋」と呼ばれていたか?

これには二つ説がありどれが正しいかよく分からない。

一つは常磐線の線路で人が轢(ひ)かれた事からお化けが豊田商店付近に出たというもの。常磐線の踏切については、以前松戸行脚にも書いた。昭和三〇〜四〇年年代に複々線(現在の千代田線の事)を引くために線路敷地の拡張が行われた。拡張前は竹ヶ花の元踏切から松戸駅までの間にはたくさんの無人踏切があった。今のような快速+各駅のダイアでは無理だが当時は踏切でなんとか対応出来た訳だ。ところが金山神社付近の夜は暗い。現在でもあれだけ暗いのだから、当時踏切付近も含めもっと暗かったに違いない。事故があっても不思議は無かったと思う。

もう一つの説は私の曾祖母から伝え聞く話で相当古い話。豊田商店のさらに松戸駅よりに東葛家具センターがあった。今はすでに取り壊されマンションが建っている。あの土地に罪人の斬首場があったそうだ。豊田商店と八百伊の間の小道に馬繋ぎ場があり、そこに罪人を運んできた馬を繋ぐ。そういう場所だったそうだ。そんな事から人魂(ひとだま)を始め、お化けが豊田商店付近に出たという人が現れ、それから豊田商店がおばけ屋になったというお話である。多分江戸時代の頃の話かもしれない。

写真は八百伊と豊田商店に挟まれた小道。右の建物が元八百伊で建物は昔の形をとどめている。左のマンションは元豊田商店。元八百伊側の樹木はアオギリで、その奥にこの界隈では珍しい樹木、ハグマノキ(白熊の木)がある。

46 ジーンズ・ファースト−根本商店街

根本の魚力と山室肉店の間にジーンズ・ファーストというお店があった。私はまだ二十歳代後半。ジーパンと言えば必ずここで買っていた。店主は歳にして四十歳代後半、髪の毛は洗いざらし、醤油顔、手入れ不足のヒゲ、服装はウエスタン調といういでたち。近寄りがたい強くて細い目をしていたが、話せば概ね人が良さそうで、安物のセールばかり手を出していた私は勢いで二着ほど買わざるをえなくなってしまう事もあった。

ただ、この店はいつ通りかかっても人気が無く、果たしてこのままやっていけるのだろうか?と心配の種でもあった。ある日、この店は転居した。転居先は松戸駅の方向だったと思うが、正確な場所はすっかり忘れてしまった。その後私はスリランカに常駐し、帰国以降はこのジーンズ・ファーストの行方はさっぱり分からなくなってしまった。