表の家

昔日の松戸36-40


40 札幌ラーメン「えぞふじ」−竹ヶ花踏切付近

はたして私はいつから太ったのだろうか?スリランカから帰国した直後はそれほど太ってはいなかっ
た。スリランカでの食材事情は決して理想的ではなかった。何故なら日本食の食材確保が簡単では
なかったからだ。納豆、漬物、アジの開き…これらは日本食材店に行けばあったが、常備されていな
い。

店主に聞けば「今買い出しに行っているから来週入るよ」と言われる。でもいつになったら入るか
何とも言えない。米はスリランカ米があったが、臭くてとても食べられない。そのため輸入したオース
トラリア米やカルフォルニア米を買った。それさえ市場から欠乏した。そんな状態だったから帰国して
嬉しかった。自由に何でも食べられるのがうれしかった。

松戸駅西口からの帰路、根本の松北堂書店の対面にあった札幌ラーメン屋「えぞふじ」に毎晩のよ
うに通った。餃子等を肴に焼酎を飲み最後に味噌ラーメンを食べる。この生活を毎晩繰り返した。し
かも夜中の12時過ぎ。太るはずだ。

札幌ラーメン屋「えぞふじ」の店主は何度か替わったらしい。私の知る当時の店主はシナリオ作家志
望の三十代〜四十代前半の人だった。歳は重ねたけれど芽が出ず、でも作家になる夢を捨てきれ
ず、思いどおりにならない人生に不安と憤りを感じつつラーメン屋業を営んでいた。そんな人だった。
飲みながら店主と色々な話をした。映画についてはきわめて饒舌になった。お互いどんな映画が好
きかというテーマになった。

作家志望の人間に語るほど映画をたくさん見ていたわけではないが、私の好きな映画を一つ一つあ
げていった。ご主人が話を合わせてくれたのかもしれないが、好みの一致した映画は小栗康平監督
「泥の河」
フェデリコ・フェリーニ監督の「道」
だった。
どちらも大好きな映画で、特に「泥の河」は昭和三十年代の貧しい庶民の生活が描かれ宿船で娼
婦を営んでいた親子と食堂を営んでいた親子、その子供同士の心理描写が素晴らしい。暗い映画
ですが……

「道」はイタリア映画でジュリエッタ・マッシーナ及びアンソニー・クイーンが主演。 決して美人とは言
えない、白痴の女性役ジュリエッタ・マッシーナの演技力がなんとも言えず、アンソニー・クインの心理
変化、描写も興味を惹いた。
(確か、その後ジュリエッタマッシーナは監督のフェデリコ・フェリーニと結婚した)

そしてとめどもなく話は続いた。

数年後・・・正確な時期は忘れたが、店主は真剣に脚本の勉強をする決心を打ち明けた。これが最
後の挑戦のつもりだと言う。その為にはやはりラーメン屋業をやめないとならない。 ラーメンを作りな
がら脚本の勉強とはいかないらしい。
表の家「何処行くの?」
店主「取りあえず御徒町の松坂屋の地下食料品売り場で働きながら勉強するよ」

店主の名前は聞いていなかったので、成功したのか失敗したのかさっぱり分からない。
成功したと信じたい。

後に居酒屋「しぐれ」で飲んでいたら店主と「えぞふじ」の話になり「ああ、確か野田出身だと言っ
ていた。あいつ可愛い女のお客さんが来ると店閉めて何処かのみに行っちゃうんだ。面白い
やつだったなあ……」
だそうで!

39 赤虫とり−松戸市根本向山下

松戸駅東口は現在イトーヨーカ堂やマンションが建ち並び嘗てのイメージはない。イトーヨーカ堂建設前はミカエル教会や山水閣という料亭などがあり緑豊かな場所だった。字で言えば向山下にあたる。

岩瀬にお住いのKさんに聞いた。

「池田弁天や小根本から川が流れてきて石川薬局付近で合流しこれが根本のどぶ板通りに流れていました。どぶと言っても当時水は綺麗で小魚やドジョウがいました。

さて、相模台の林縁、山水閣のあった辺りには綺麗な湧き水があり瀬がありました。ここには何故か赤虫採りを商売にしている人がよく集まってました。赤虫はユスリカの幼虫でワカサギ釣りの釣餌に使われます。竹又は木の柄の先に三角の枠があり、金物でヘラ状のものが何段かについているんです。この道具を水の中に入れ左右に揺らすとその金物の部分に赤虫がたくさん付くんです。これをバケツの上で柄の部分がカンカンと叩くと赤虫がみんなバケツに落ちる。

根本に流れるどぶ川(松の木通り)は決して汚くはなかったのですが、何故かここでは赤虫を採っていませんでした。品質の良い赤虫はやはり向山下の方が採れたのかもしれません」

38 常磐館−本町  2016年5月30日、I女史提供による写真を加え、加筆訂正しました。

すでに閉館(1992年8月28日閉館)している松戸常盤館を背景に閉館直前まで支配人をされていた森本喜芳さん(森本興業、森本吉太郎さんのご子息)、撮影日1993年6月27日、つまりこの写真は閉館して一年近く経った頃に撮影された様だ。この後、この常盤館は取り壊され、後に藤和シティコープ松戸本町(マンション)が建設された。
写真提供はまつど観光大使をされているI女史、ひみつ堂に伺うとお会いできます。

2016年現在、松戸駅付近には映画館がない。
最後に残った映画館と言えば、後発のシネマサンシャインだったが、
2013年1月31日閉館してしまった。

以前には複数の映画館があった。春雨橋の輝竜会館、私は入ったことがなかったが中通り(現ふれあい通り)の松竹館、そして常磐館。馴染みの映画館として怪獣物を多く放映していた輝竜会館。アーバンヒル松戸にはサンリオ劇場、東口の弁天会館には成人向けの映画館もあった。
昭和3,40年の頃、夏休みの間は常磐館で鉄腕アトムを上映する事もあった。当時すでに映画業界は下火になっていたものの、娯楽の王者は映画館である事に変わらなかった。
当時は高度成長期のまっただ中で、父はサラリーマン、母は自営する軽食堂で忙しく、子供を映画に連れて行く精神的な余裕はない。仕方ないので近所の年上のお兄さんに連れて行ってもらった事もある。
常磐館は旧水戸街道に面し奥まって鎮座し、大きな映画館ではなく庶民の映画館だった。アルミパネル様の材料縦貼り外壁で建物の左右両端は何となく局面になり、色の濃い腰板が貼られ、全体としてモダンで柔らかい印象を与えた。そして入り口近くには料金パネルがあった。

客席を後ろからステージ方面(写真提供I女史)
緞帳には松戸自動車教習所の広告が・・・

客席後方を見る(写真提供I女史)
入口ホールと森本さん(写真提供I女史)
映写室(写真提供I女史)


事務所(写真提供I女史)
森本喜芳さん、関宿そば屋座敷にて(写真提供I女史)
森本喜芳さんとI女史、関宿そば屋座敷にて(写真提供I女史)
Iさん若い!この当時の私は、松戸の文化には全く向いていなかった。Iさんは当時から松戸への愛が強かったんだなあ・・・と感じた。

三井良尚氏の松戸今昔物語によれば、「大正時代のこと松戸神社の近くに「松技館」という寄席があって、三丁目の方面は賑やかだが、一丁目にも客足を引くような娯楽設備があったら、こっちももっと賑やかになるだろうというので、地元の商店街の有志が力を合わせ、大正十二年の関東大震災の直後に、ここに活動写真館「常盤館」を建てたそうです」と書かれている。
「松登」をご存じだろうか?大関にまで昇進した松戸出身力士。父から話しだけはよく聞いていたが「松登」は私が物心つく前に他界したので、実際に見ているわけではない。三井良尚氏の松戸今昔物語によればこの常磐館はトーキーが出来る以前、無声映画を放映し活動弁士が活躍していた。その活動弁士の一人が高砂通りにあったカフェー栄楽の親父で、そのカフェー永楽の親父の一人息子が松戸の力士「松登」だった。


(絵は記憶から作成した)

37 ビラ撒き

ヘリコプター又は小型飛行機でビラを捲く広告手段があった。我々は宝物探しに行くような気持ちで、我先にと競って拾いに行った。ビラを拾ったからと言って、何ら面白い事はないのだが、それでも拾いに行った。多分、扇屋やボックスヒルなど大型店のオープンで撒いていたのにちがいない。

当時は住宅街や学校の周辺には空き地も多く撒く場所も十分多かったのではないか?又、車道に落ちたビラを拾っても今ほど危険ではなかった。

昨今ビラ撒きはほとんど見かけなくなった。見かけない理由は、法律で規制されたのか、或いはコストが掛かりすぎたのか?

36 小僧弁天と大都映画−古ヶ崎


昭和10年代の小僧弁天の姿(絵葉書)

この風景は昭和30年代前半まで変わらなかったらしい
父がまだ幼少のころ(昭和十年代)古ヶ崎の小僧弁天で時代劇のロケがあった。映画会社は大都映画。大都映画は所謂戦前のチャンバラその他の低コストのB級娯楽映画を作っていた会社。大都映画は戦前、新興キネマ、日活と企業合併して大日本映画(後の大映、そして角川映画)になった。父が見たのは河童が突然水中から飛び出してくる場面の撮影……撮影としては俳優が水に飛び込むという場面を撮影、編集で逆回しにするというのが種明かし。
それにしても、もしこの映画が現存していれば、当時の小僧弁天付近の動画が見られる。どうしても見たい。居ても立っても居られず大都映画の検索をしてみたが分からなかった。そもそもどうやって調べていいのかも分からない。ある本に戦前のチャンバラ映画は記録という形を取らず、フィルムを細切れにして駄菓子屋のくじの景品になったものが多いという記述を見つけ、残念に思った。

現在の小僧弁天