表の家

昔日の松戸6-10


10 根本英数塾−松戸駅東口

そもそも小学生の時分遊んでばかりだった。下校、帰宅と同時にランドセルをポ〜ンと家に投げ込み古ヶ崎、伝兵衛新田界隈の用水路に魚採りに行く。暗くなるまで帰ってこない。毎日、自然に親しんでいた。同類の友達が周りにいたから尚更だ。中学生になってもこの生活は大して変わらなかった。

ただ、いつしか同級生は勉強に夢中になっていった。遊び友達が一人消え二人消え、取り残された。この現状に対し、中一の夏休みが終わった頃、松戸駅東口ニコニコ堂隣の根本英数塾にいく決心をした。習うのは英語と数学の二科目、当時は月謝も安かったので親の負担にもならなかったようだ。習い始めて一中の生徒が多い事に気がついた。そもそも一中のエリアなので仕方がないが知らない人ばかり。みんな懸命に勉強している。
先生が厳しかったこともあるが、遊び半分で来ている人は皆無で助かった。数人いる先生のうち一番印象的だったのは三浦先生。恰幅が良く真っ黒い顔、太い黒縁の眼鏡をしていて、怖いオーラが漂っていた。宿題をやってこないと大きな掌を垂直に頭めがけてバ〜ンと叩く。痛いから懸命になって宿題を終えてくる。

先生の住まいは裏の木造の建物でペンペン草が生えるような建物。快活な奥さんがいた。英語は違う先生だがやはり三浦先生。家族経営だったのだろうか?細面で色白、ドジョウひげ、いつも水虫をかいている。授業が一部と二部があり私は二部で遅い時間帯。二部で習う人は少なかったので殆どマンツーマン。先生の目の前に座らざるを得ないため、水虫の匂いが漂ってきて困った。一ヶ月経った。毎日勉強しているのだから成績が伸びない方がおかしい。 この塾に通ってみてこんな事に気が付いた。

1、教科書を中心に教えてくれた。
2、六中と一中の教科書が同じだった。
3、塾で教えている内容は学校で教える内容と対して変わらなかった。
4、塾が教えるタイミングが学校よりも一週間ほど早かった。

つまり私は中学校の授業の前に十分な予習をした事になる。塾で教えている事はそれほど高度ではなかった。中学校と大して変わらない。然し予習をする事がいかに学習力向上に役立つかという事を知った。「予習復習をやりなさい」と耳にたこが出来るくらい聞かされた。その予習がこれほどまでに効果があった事を体験して初めて分かった。

授業内容があらかじめ分かっていれば誰だって授業が楽しくなる。やる気向上に繋がる。塾で習っていたのは数学と英語だけだったが、それは他科目の学力向上に繋がる。その他の教科は独学でも充分いける。これが根本英数塾から得た教訓。

とここまで書くと勉強の虫になったようだが、実際はそれほどガリ勉強せずに何とかなった。相変わらず陸上部で活動していたしマラソン大会でも入賞した。ハゼ釣りも行った。

9 松戸市ハエ取りコンクール−松戸

最近ハエを見かけなくなった。自然観察を始めて以来、自然から教わることは数限りない。ただ、ハエが身の回りに居ないという事はありがたい気持ち同様、複雑な心境でもある。つまりハエも住めない環境に我々が住んでいるのかと……
兼高かおる世界の旅というテレビプログラムが昭和四十年代にあった。兼高かおるさんは色々な国に行った。西洋諸国は安心してみられたが、アフリカの貧しい国に旅行する事もあった。か弱き女性だったらまず食べられないような食材を、彼女はバリバリ食べてしまう。

海外の色々な風俗・生活を見る。それだけでも十分刺激的なのに、あのバリバリ食べる場面にはたいそう驚かされた。又、他のテレビプログラムで高峰美枝子さんがアフリカのある部落に訪れた際、黒人の子供の顔にはハエがたくさん集るのに、彼女には全く集らないという場面も印象的だった。

昭和四十年代まで私の家はポッチャン便所で、溜を覗けばハエの子供がうじゃうじゃ、同様に松戸市立北部小学校北側田畑にも肥溜があった訳で、街中にハエが多くて当然。 昭和三八〜三九年年頃、夢の島でハエが大発生して社会問題となった。森田拳次の漫画「丸出ダメ夫」でもこの問題を取り上げ、ハエをみんなで捕まえるという場面が描かれていた。

私の自宅の天井にハエ取り紙が吊してあった。ハエ取り紙は小さな円筒状カプセルで売られていた。円筒頭部のホックを引っ張るとベッコウ色のベタベタしたテープがするする出てくる。このテープを天井から吊して馬鹿なハエがこのテープにとりつくのを待つ。吊したての時はいいがハエがたくさん捕まると実に見苦しい。

また、ハエ採り器という長い筒状の器具もあった。ガラス筒の先端にはロートのような形になって末端は薬の入った壺になっている。天井にとまったハエを上部ロートで捕獲する。捕獲されたハエは行き場を失いロートから長いガラスの筒を落ちていく。その落ちた先には殺虫剤が待っている。一番良く使ったのはハエ叩きだと思う。当時松戸の小学校ではハエ採りコンクールが催され、競い合った。このコンクールは低学年の時しか参加しなかった。何故かは分からない。

ところで松戸駅西口前にあった松戸金物さんは非常にレアなお店でハエ採り紙が閉店間際まで売っていた。品揃えが面白い店だったが店をたたみ現在はセブンイレブンになってしまった。残念。

(写真は松戸広報昭和三十年代前半の記事から拝借した)


8 型屋−根本一本橋

北部小学校の付近には様々な露天商が来た。手品の道具、カラーヒヨコ等々色々あったがその中でもとりわけ面白かったのは型屋だった。型に粘土を入れて外し色を塗るだけのこの遊びに夢中になった。北部小学校の近く新坂川(新川)沿い、高津工務店の少し先に一本橋があった。

現在、森栄堂工場のところに一本橋と称する橋があるが、あれは全く別物で場所も違う。名前に橋はついているが、実は水門(or堰)でその昔治水或いは利水の用途になっていたらしい。この一本橋は幅が大人の肩幅程度で手摺もない(後年手摺がついた時期がある)。渡ろうと思っても足がすくんでしまう。子供達が度胸試しに渡る……そんな橋だった。この一本橋の堤防側はコの字に広くなっていて型屋がここで商売をしていた。

型屋を知らない人も居るかもしれないので簡単に説明する。鉄腕アトム、動物、般若などなどを形取った焼き物の凹型をその型屋さんから買う。型屋ご指定の粘土や色粉も併せて買う。
買った粘土をその型に入れ型どりをして、これに金色や銀色の粉を塗る。これがきれいに出来ると点数をもらえる。もらった点数を貯めてより大きな型に交換する事が出来る。いい点数をもらうためには大きな型と金銀などの色をしっかり使う必要があった。ところが、当時のお小遣いは小額であり一番小さい型を買うのがやっとだ。小さい型で作成したもので大きな般若を手にするにはどれだけの粘土と塗料を買わなければならないか・・・

お金がある子には敵わなかったがそれにしても、うまく出来た商売だったと思う。点数がたまってきたかなあと思うと何故か型屋は来なくなってしまう。翌年の夏休みに来るかどうかは不明で、仮に型屋が商売をはじめても去年と同じおじさんなのかどうか分からない。去年の点数も有効なのかどうか・・・?

型屋が来ないのに型を持っていても何の役にも立たない。ある日型に鉛を流し込むことを考えた。年長のお兄さんがやっていたのを思い出したからだ。型を洗いきれいになったところでドロドロに溶けた鉛を流し込んだ。濡れている型に鉛を流し込んだらどうなるか次の瞬間直ぐ理解した。

鉛が水に反発して飛んできたのだ。本当に驚いた。幸いにも少しのやけどで済んだ。恐ろしかった。二度とやるまいと思った。

「ねんどの型あそび」
http://www.bekkoame.ne.jp/ha/asobi/kata.html

註:掲載写真は付近にお住まいのYさんから頂いた物です。ありがとうございます。

7 ジョニー洋服店−松戸本町

買い物といえば衣食住、食の次に多いのが衣料品。ベニヤは何度も行ったのに何故かあまり覚えていない。覚えていたのはジョニー。現在の商工会議所の横道を入った先ににジョニー洋服店があった。
水戸街道沿いにも店舗があったらしいが覚えていない。

このジョニー洋服店は既製品背広(吊るし)がメインだった。松戸にまだ大型店舗が無い時代とはいうものの、いわゆる個人商店を超えた薄利多売の商売だったと思う。規模は中型以下で格安販売をモットーとし自社工場で生産をして販売をしていたらしい。奥は工場だった。

近所のお兄さんでFさんという人がいた。このFさんは短気で怖いところがあったが、気持ちは優しく本当によく可愛がってもらった。私の切手収集を突然豊かにしてくれたのもこのFさん。ある日、このFさんがジョニー洋服店から帰ってくるとプンプン憤慨している。相当失礼な事を言われたらしい。何を言われたのはここでは書かない。ただ、いずれにしてもジョニーの販売員は商売上手ではなかったと思う。或いは職人気質の人が多かったのかもしれない。

すでにこのジョニー洋服店は同場所にはない。現在、奥の工場はオンワードの縫製工場になっている(*1)。買収されたのかどうか良く分からない。

松戸市役所の坂を駅方面に下り、高架道路を越えたところにジョニービルがあり、一階がジョニー洋服店になっていた時期がある。私は就職する時ここで背広を買った。私の思い込みと違って比較的親切な店員だった。今現在ジョニービルは風俗営業の店舗がいくつか入っているようだ。

(*1)2008年現在オンワードの縫製工場ではないらしい。

6 京屋百貨店−旧水戸街道沿い根本

根本にあった京屋百貨店に何度か入ったことがある。場所は水戸街道にあって当時の消防署(現在の女性会館ゆう)付近。家財道具のどれも高価で現在のクレジットカードが存在しなかった時代、月賦というシステムで購入した月賦とは月ごとに返還する割賦販売の事。

「それじゃ〜クレジットカードと変わらないじゃないか?」と言われそうだが、ちょっと違う、否かなり違う。口座自動振替というシステムがそもそもなく、店に出向き直接返済していく。京屋百貨店は丸井、緑屋、丸興等と同じ月賦百貨店の一つで自社で月賦システムを持っていた会社(ちなみに緑屋は現在西武系列でクレディセゾン、丸興はダイエー系列でOMCカードになっている)。
自社で月賦システムを持っているという事は客からの支払いが滞った場合、負債が直接自社に及ぶので倒産という危機に陥りやすくなる。

会社維持運営のため利益をふっかけ高かったのか?といえば決してそんなことなく、庶民的な価格で提供していた。アフターケアもしっかりしていたようで京屋百貨店は結構人気があった。私が物心ついたころ、自宅の流し台は人研ぎ石だった。母は最新式のステンレス製流し台が欲しくなった。ある日一大決心をして京屋百貨店で錆びないステンレス製の流し台を買った。勿論月賦である。

ところがある日錆びないはずの流しに錆びが出た。母は大慌てで京屋に苦情を持ち込んで取り替えてもらった。京屋は不愉快な顔一つせず快く取り替えてくれた。後に母は「あの時の原因は金タワシの様なもので表面をこすり、もらい錆びの様な状態だったかもしれない」と話していたが、やはり当時としては清水の舞台から飛び降りるような気持ちで購入した高価な買い物なので相当慌てたのだろう。

古い住宅地図で確認すると旧水戸街道沿いにいくつか京屋百貨店があったようだ。私の覚えているのは店の中央に二階に上る廻り階段があった店で、綺麗な売り子さんが印象的だった。今となっては松戸には影も形もなくなってしまったが良心的な商売をしすぎて負債がたまって潰れたのではないだろうか?

ある日、根本交差点付近の料理屋一兆で呑んでいたら、こちらから何も聞いてもいないのに、突然「京屋って知っている?」と話しかける人がいた。
細身で比較的背が低く、私よりも二、三歳は歳上だと思う。
その人は立て続けに話した。
「京屋は現在ね、新松戸に貸しビル(京屋ビル)があって、そちらに拠点を移しているんだよ。京屋の社長は偉くてさ、ほら、昭和三九年のオリンピックの年、北部小学校の全教室にテレビを一台ずつ寄付したんだよ」
ああ、記憶がある。
オリンピックの年、確かにテレビが教室に置かれていた。そのおかげで私は北部小学校でオリンピックを見たのだ。今でもはっきりと覚えている。確かにそういう事があった。重量挙げの三宅、砲丸投げのタマラプレス、体操のチャフラフスカ、マラソンのアべべと円谷等々、しっかりと覚えている。あんなに記憶がはっきりしているのは京屋の社長が寄付してくれたテレビのおかげだったのだ。写真は住所表示と京屋の広告、古ヶ崎五差路付近の木造住宅の壁に今でも残っている。