表の家

昔日の松戸 1-5


5 続 波場商店−松戸駅前通り

自動販売機を初めて見たのは東京オリンピック開催の一、二年前だったと思う。場所は松戸本町通りから高砂通りへ入る角にあった波場商店。本体頭部の透明容器の中で美味しそうなジュースが噴水のように吹き出すディスプレイだった。思わず飲みたくなってしまう。紙コップに冷えたジュースが出てくる。そもそもジュース自体飲みつけなかった。

至る所にコンビニがある現在と違い、当時冷えたジュースを飲む為には街の飲食店で(あれはバヤリースだったか?)飲むか、或いはパン屋さんの缶ジュースや米屋のプラッシーを買い、家の氷冷冷蔵庫や井戸で冷やして飲む。
話しが脱線するが、母から「バヤリースの瓶を抱え、蓋を勢いよく叩くとビーン!と割れるような音がした。これは中が真空になっている証拠でジュースの保ちが良いんだなんて言っていたわ!」という話しを聞いた。
話しはさらに脱線してジュースと言えば渡辺のジュースの素もあった。
ただ、渡辺のジュースの素は買えなくて北部小学校前の吉岡文具店や北部堂で売っていた製造元不明の怪しげな粉ジュースを買い、掌に粉を乗せ舐め舐めする。

ミカンを搾って飲む手もあったかもしれない。ただジュースはそもそも夏に飲みたくなるわけで、夏にはミカンなど売っていない。否、昭和39年以降であれば、駅前のアリタや遠州屋果物店には夏でも輸入オレンジがあったかもしれない。只相当高価だったに違いない。両親に連れられて日本橋高島屋で生ジュースを飲んだ事があったがあれは全く別世界の飲み物だったと思う。いずれにしても、あの波場商店のジュース自動販売機のイメージを探していたら、やっと見つかった。

機械名:オアシス
製造:ホシザキ電機
(写真は「自動販売機の文化史」集英社新書、著者:鷲巣力さん より)
あんなに大きな機械を波場さんは買ったのか或いはリース契約だったのか、いつ処分したのか、今となっては調べようがないけれど非常に気になる機械だった。

4 波場商店−松戸駅前通り

駅前通りと高砂通りの交差点に波場商店という菓子パン屋があった。
中部小学校に通っていた近所の金子さんの次女が昔を思い出し
「良く波場商店で菓子パンを買ったわ」と言った。
私の住む竹ヶ花は中部小学校に行く生徒と北部小に行く生徒が混在していた。金子さんは殆ど目の前に住んでいるのに中部小学校、私は北部小学校。当時の中部小学校は現在の伊勢丹の場所にあった。幼稚園も併設されていて、松戸町商店のご子息が通っていたのだと思う。
波場商店にジュース販売機があった。噴水型で機械の上部にドーム型のプラスティックの覆いがあって、その中でジュースが噴水のように噴き出してディスプレイしている。昔良く見かけたタイプだ。これを紙コップで飲む。今のように全自動ではなく一部手動だった。先ず紙コップを自分で取り出す→自分で紙コップをトレイの上に置く→お金を入れる→ボタンを押す→ジュースが出るとなる。
この当時の自動販売機は単純で原始的な機構だった。私がジュースを飲みたくて親の同意も得ず、勝手に紙コップを抜き出しトレイに置くと、母が困ったように紙コップをお店の人に返していたのを覚えている。

松戸駅西口区画整理後、マーケット(飲み屋街)先の波場ビルに移り、パン屋さんはやめてしまった。その波場ビルも現在名称が変わり権利関係がよく分からなくなってしまった。お店で菓子パンを売っていた方は元気なのだろうか?

3 太公望−中通り

松戸駅前通りを境に北側に高砂通り、南側の千葉銀のある通りをふれあい通りと言うが、ふれあい通りを以前中通りと称した。中通りには焼き鳥の開進堂、松竹館(映画)、カメラのイマイなどがありさらに歩くと太公望があった。太公望は鯉釣り専門の室内釣り堀。

房総白浜出身で近所に住んでいたF氏が釣り好きで、度々私を太公望に連れて行ってくれた。
店内に入ると中央に腰高の縁を回した堀がある。この堀の周りに暇そうな大人が釣り糸を垂れる。堀を見ると濃紺の水が張ってあり少々薬臭い。水中は殆ど見えない。店で長さ六十センチ程度の専用の簡易竹竿を借りる。然し、私はそもそも飽きっぽい性格でこの地味な遊びを楽しむことが出来なかった。この堀には金魚も入っていた。鯉が本当にいるのかどうか疑わしいと思った事もあるが勿論大きな鯉を釣り上げる人もいた。

江戸川や坂川も近いので、川に釣りに行けば良いと思いがちだが、近所で手軽に三十分間釣りが出来るという便利さは捨てがたいかもしれない。釣り堀だったら重い荷物も要らないし、それが釣り堀の魅力であろう。今と違って娯楽の少なかった時代だ。この太公望は後に金魚屋さんやペットショップを経て駐車場に変わり、現在は再開発マンションがたち太公望は今は無き店となった。

数年前ルンルンのマスター(関根さん)の引き合わせで、太公望の二代目の方(確か中村さん?)とお話しする機会があった。お話の中心はやはり釣堀り太公望だ。鯉は何匹くらい放流していたのか、水の色の事など色々な疑問をぶつけてみた。二代目は
「魚は一応放流していたが、えさをたんまり与えているからそう簡単には釣れないしくみになっていたのだよ」
なんて冗談まじりで気さくに話してくれた。

そういえば陣ヶ前から市川に通じる旧道に太公望という室内釣り堀があるが、あれは系列店だろうか?今度会ったら聞いてみたいが、ルンルン自体も無くなってしまった

2 ウナギ釣り堀−高砂通り

高砂通りで印象に残っている店にウナギの釣り堀があった。場所は現在のマーケット(飲み屋街)の少し先だったと思う。店名は覚えてない。

店内には縁高がせいぜい45センチ程度の堀が設置されていた。堀と行っても大きい生け簀のようなもので決して立派な物ではなかった。水は透き通りうなぎが泳いでいるのが見える。短い竹竿(多分シノダケだと思う)を店主より借りる。釣り糸の先に所謂ギャング針という引掛け専用の針がついている。これでうなぎを要領よく引掛ける。
コツがあり狙うのはエラ。
他の部分は先ず駄目で、特に体はツルツルしてしまい針に掛かる筈がない。ウナギの背中から針を廻しエラの部分にエイとばかり掛ける。
簡単なようで意外に難しい。
上手なおじさんもいた。
「僕もいつか上手になりたい」と思った。

釣り上げたうなぎは店内で捌いてくれた。
店先に調理台があってその場で捌いて、串を打ち、炭で焼く。
蒲焼きの良い香りを漂わせていた。
多分、釣れば釣るほど客が損をする仕組みになっていたと思う。
釣り上げた本数x○円=合計ではなかったか?

通常関東スタイルの蒲焼きはウナギを捌いた後素焼きを行い、次に蒸すという動作が入る筈だ。
この蒸す段階が入る為、関東式は関西式よりもさっぱりした口当たりの蒲焼きだとされる。
ところがこの店は蒸しの行程はなかったと思う。
となると関西式?
長続きしない店だったので今となってはさっぱり分からない。

うなぎ捌きは実に面白い。
独特のつかみ方です〜と首もとを掴み、さっとまな板に乗せ、千枚通しのような道具でトンと首を刺して、包丁でス〜と引いていく。これが要領よく早く行われる。
キモなどの食べられる部位を取り去り、残りは足元のバケツに廃棄。
バケツの中を見ると身も内臓も剥ぎ取られ、頭と骨だけの姿になったウナギがまだ生きている。
口をぱくぱくさせた姿がグロそのものである。

もし何処かにうなぎの引掛け釣り屋があれば行ってみたいが、果たして何処に行けばあるのだろうか?
そういえばバブル崩壊前の台湾台北のある街(もうどこだか忘れた)にウナギの釣り堀があった。中を覗くまではしたが、時間がないため遊べなかった。

1 カドヤ−高砂通り

現在の松戸駅付近は日本のどの地方都市に行ってもあるありふれた駅前風景でしかない。大手のスーパー、銀行、コンビニ、空虚なぺデストリアンデッキがあるだけ・・・ところが区画整理前の松戸駅周辺は全くイメージが異なっていた。
細くくねった道、物陰のある道、界隈性のある場所・・・危険な場所が無かったわけではないが、怪しげな魅力があるからこそ情緒ある活気に溢れた街だったといえるのだろう。
駅前通りは路線バスの通り道であったが道が細く、バス同士がぎりぎりですれ違う。新小岩駅付近は今でもそうだという人がいたが私は確認したわけでない。
松戸駅付近のうち最も馴染みのある場所は高砂通り。
高砂通りは賑やかな商店街、飲食店街の中心であり、お気に入りの通りだった。当時家にはテレビもなかったし、生活の中に娯楽が少なかった。
したがって家に居てもすることがなく家族で松戸駅付近に夕涼みに行くことがあった。

夕涼みのさいは必ず高砂通りを通ったのを覚えている。
子供の私もあの活気を膚で感じた。

高砂通りにカドヤという洋品店があった。
カドヤは(当時の店は一般的にそうだったが)どちらかというと安普請な屋台のような、間口を一面いっぱいに使った店つくりをしていた。
お店の天井から服がたくさん吊してあり奥が見えない。
香港の女人街を彷彿とさせる造り。

ここに眼鏡を掛けた目のクリクリっとした女店員が居た。
あの人は今どうしているだろうか?

現在、カドヤは商売替えをして角屋というせんべい屋さんとなっている。